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 俺の、このがらくたのような人生に意味を見出すのならば、あの少女との出会いこそがそうだと思う。

 そのひたむきさが、関わった人間に力を与える。少なくとも俺はそう思う。なぜなら、俺が彼女に救われたからだ。

 無味乾燥な人生に飽き、主体を失った時間の流れに絶望し、毎日をただ惰性に任せて生きていた。

 そんな時に、彼女に出会った。




 彼女のまわりに降る光





 招かれざる客。

 そんな言葉が、俺にはぴったりだった。

「お早うございます」

 掛けられる言葉に適当に挨拶を返し、日差しの届かない廊下を歩く。すれ違った生徒たちの足音は軽く響くのに、抜け殻のような俺の足音は自分の耳にさえ届かない。

 なりたくてなったわけではない「教師」という職業。

 かといって他にやりたい事が見つけらなかった俺は、父親の敷いたそのレールに乗って走るしかなかった。

 毎日をただ、無気力に過ごす。生徒など、知った事ではない。

 そう思っていた。

 働き出して何ヶ月か経った頃だろうか。うだるような暑さもすでになく、そろそろ空が高くなってくるそんな季節。

 俺の他にも、招かれざる客がいるという事を知った。

 いや、正確には話に聞いてはいたのだが、準備室と職員室、そして教室の往復だった単調な生活では、遭遇する事はなかっただけだった。そしてとにかくその日その場所で、俺はその小さなお客さんに出会ったのだ。

「こらーーー!! 待ちなさーーい!!」

 向こうから教頭の怒鳴り声が聞こえたかと思うと、いきなり膝の辺りに軽い衝撃を感じた。

「なんだ…?」

 そこには、少女がへたりこんで、ぼうっと俺の方を見上げていた。小柄な体型から見るに小学校低学年くらいだろうか。

「どこ行ったーー!?」

 曲がり角の向こうから、教頭のダミ声が近づいてくる。どうやらこの少女はあいつに追われて走りながら角を曲がったところで、すぐそこにいた俺にぶつかったらしい。

 なんの義務感に囚われたわけではないが、気がつけば俺は少女の小さな体を持ち上げて、すぐ横の、たったいま自分が出てきた部屋の中に押し込んでいた。あるいはそれは、どうにもならない自分のしがらみに対するささやかな抵抗だったのかもしれない。

「あ、先生! この辺りで小さな女の子を見かけませんでしたか!?」

「ああ、その子ならあの階段を上って行きましたよ」

 すでに少女はドアの向こう。完全に彼女を見失ったヒマな教頭に、内心で舌を出しながら、見当違いの方向を指差した。

「ありがとうございます! こらー! 出てきなさーい!!」

 教頭は全身を振るわせながら、勢い勇んで階段を上り出した。

 その後姿に「がんばれよ、マヌケー」と呟きながら、ひらひらと手を振る。胸を過ぎるのは久々の清涼感。思いの外うまく運んだ気分転換に満足し、俺は引き戸に手をかけた。





「おい、お前名前は」

 問うが、目の前の少女はどうやらテーブルの上のお菓子を口の中に詰め込むのに必死らしい。

 スチール椅子に足を組んで腰掛け、対面で冬眠前のツキノワグマよろしく食い貯めに勤しんでいる彼女に視線を向けた。

「………(バクバクバクバク)」

 向かいの椅子にちょこんと腰掛けた少女は相変わらず無言。一体この小さな体のどこにあれだけの物が入るのか。常識どころか物理法則すら凌駕するその所業に、なんだか世界の神秘を垣間見たような気分だった。そうこうしている間にもなんだかペースがアップしているような気がしないでもない。

「……うまそうに食うよな、お前」

「………(バクバクバクバク)」

 ご相伴に預かろうと伸ばした手を、少女はやんわりと押しのけた。……どうやら目の前の食料全てを胃に収めないと気が済まないらしい。俺は大人しく手を引っ込めて、その子がお菓子を頬張る様をぼけっと眺めていた。

 見ればそれは、以前生徒から没収したお菓子のようだ。ポテチは少ししけっているし、チョコレートの袋はすでに開封され、輪ゴムで縛られていた。棚の中に巧妙に隠していたそれを目ざとく見つけ、人が教頭を追っ払っている隙に何の疑問も抱かずに手を出したのだとしたら…。なるほど、かなり根性が座ったガキだ。

「ここは関係者以外立ち入り禁止なんだぞ? お前みたいなお子様が来ていい場所じゃないんだ。いいか? それ食ったら帰れよ」

 初めて顔を上げ、クッキーを食べながら、こちらをじーっと見つめている。

 チャンスとばかりに威圧を含めた瞳で睨み付けるが、怯えるどころか反応すらしない。黙って小首を傾げながら、それでも右手は新しいクッキーを拾い上げていた。

 つくづくワケの分からないガキだと思っていると、始業のチャイムが聞こえてくる。休み時間は終わり。また面倒な授業かとこぼしながら、乱雑に置かれた教科書に手を伸ばした。

「分かったな?」

 それまでの流れから当然返事など期待していなったが、

「うん」

 と聞こえた。意外に思ったが、とにかく初めて満足のいく反応を引き出し、俺は意気揚々と部屋を出――

「また明日も来るよ〜」

 ――た所でずっこけた。





「先生はなんの先生?」

 その日は珍しく何も食べていなかった。整理整頓などという言葉とは対極に位置するような惨状の部屋を歩きまわり、少女はあれやこれやと取りとめもない事を聞いてくる。

「ん? 見て分かんねぇか。社会科だ」

 面倒くさい小テストの採点からわざわざ視線を上げて答えてやると、

「ふ〜ん」

 と生返事をしながら、地球儀を回して遊び出す。

「すごーい。回るよー♪」

(こいつ、聞いてねえ…!)

 思わず握った拳を震えながら押し戻し、ゆっくりと深呼吸。

 一つ。二つ。三つ。……ふぅ。落ち着いた。

「先生、おなかすいた」

「アホ! お前の空腹まで面倒見切れるか! ここにかくまってやってるだけでもありがたいと思え!」

 落ち着きは2秒ともたなかった。

 少女の方は「う〜」と不満そうに唸りながら、我が物顔で棚の中を漁り始める。しかし思った通りの収穫を得られない事に、唸り声は「う〜、う〜、う〜」とさらに加速し始めた。

「あれー? お菓子はどこー?」

 ちょこまかちょこまかと動き回り、小さな背丈で届く場所を片っ端から開けて回る女の子。が、残念ながら彼女の手に食料が渡る事はないのである。

(ふっふ。毎度毎度荒らされてはこの部屋の主としての面目が立たんのでな。せいぜいがんばって探し回って…)

「おいしいね」

「ああ、そうだろ、そ――どこから持ってきた」

 スナック菓子をかじりながら「あそこ」と差し出された指は、かなり頑張って考えた隠し場所をピンポイントで指していた。

「いい匂いがしたからね〜」

「く…! 動物かこいつ…!」

 あの出会いから数日。少女は小学校が終わってから、その部屋に入り浸るようになっていた。適当に会話したり、俺が授業でいない時は一人で部屋を物色したり。前のように廊下を走り回ったり、運動部の練習に混じってボールを追っかけまわす事が減ったわけではないが、何かいたずらして怒られた時の隠れ場所ができた事に、彼女は少なからず満足しているように見えた。

 その時は考えもしなかったが、俺の方も少女との掛け合いを楽しんでいたのかもしれない。初めて――ではないが、それでも彼女のように俺に真正面から関わってくる人間は少ない。少女を困らせようと、新しい隠し場所を考えたり、没収したお菓子がなくなる頃に新たにわざわざ調達したり。

 俺はまるで子どものような対抗心を燃やし、そして少女も幼い感情をそのままぶつけてくる。俺はいつの間にか、少女の来訪を心のどこかで待ちわびるようになっていたのかもしれない。





 変わったと言われた。

 それは同僚の教師だったり、質問に来た生徒だったり、あまり関係がいいとは言えない家族だったり。

 これまで他人の人生になんぞ興味を抱かなかった俺が、ここ最近はあの少女一人にかき回されている。

 あの少女の影響だとは思いたくはなかったが、自分でも、その変化には薄々気付いていた。

「今日はまた、あんな廊下で何やってたんだ?」

 その日は廊下で壁に向かって何かに勤しんでいるこいつを見つけ、問答無用で首根っこ掴まえてこの部屋に連れてきたのだ。

 ぶらーんと手足を投げ出して無抵抗で運ばれるこいつは平気な顔をして「楽しいよー」とか言って笑っていた。悪い事をして怒られているという自覚がないだけ、なおの事始末が悪い。

「ほら、はやく答えろよ」

「えっとねー、らくがき」

「………」

 俺は無言で頭を抱えた。

「あのな。最近は他の先生も寛容に…というか諦めてきたからいいけどな。教頭は未だに怒ってるんだ。そんなあからさまないたずら見つかったら、さすがに庇いきれないぞ」

「う〜ん、分かったよ」

「わ・か・り・ま・し・た、だ!」

 一文字ずつ、計7回のデコピンをお見舞いする。

「いたい、いたい、いたい、いたい。う〜。分かりました〜」

 額を両手で押さえ、少女の瞳に涙が滲んだ。

「で、何書いたんだ?」

「うん。こーこーせーが書いたと思わせなきゃいけないから、高レベルならくがきをしたんだよ」

 人差し指を立て、心なしか得意そうに胸を張る少女。そこまで言うからには自信があるのだろう。高校生がらくがきなんぞに精を出すとは思えないが、ごまかせるのならばそれに越した事はない。

「……具体的にはなにを?」

「あいあいがさ」

「ぐあ…」

 今度は呻き声が漏れた。

「高校生で相合傘はないだろ! 偏微分方程式とか有機化学の化学式とか――」

「なにそれ」

「んぬっ!」

(……しまった。私立文系の俺には分かんねー事ばっか言っちまった)

「ど、どうでもいいんだよ、そんな事」

 一瞬だけ言葉に詰まったが、幸いな事に少女がそれ以上突っ込んで聞いてくる事はなかった。

「……はぁ。もういい」

 更衣室から制服を拝借してダボダボの袖とスカートを引きずって授業に出てみたり、新品のチョークをおもちゃにして片っ端から真っ二つにしたり、学食のカレー系メニュー全種類を食い逃げしたり。

 およそ考えつくいたずらのほぼ全てを実行した彼女に、今さららくがきなんかで咎めても仕方がない。意味ありげなな視線を少女に向け、からかうような調子で少女に尋ねた。

「それで? 片方はお前だとして、もう片方は誰だ? クラスの男子か?」

「ちがうよ」

「もしかして男子高生か。渋い趣味だな。だが相手の男が犯罪者にならないように気をつけろよ」

「ちがうよー」

 いつもの口調で少女が首を振る。普通このくらいの年頃の子どもはこの手の会話で恥ずかしがるはずだが…この様子では目の前の少女には通じないようである。俺はせっかく見つけた攻め口を早々に放り投げ、また適当に話を繋ぐ。

「じゃあ一体誰――」

 だが、

「(………せんせー)」

「んあ?」

 少女が呟いた内容までは聞こえなかった。

 窓から差し込む西日は赤く、照らされた少女の顔色は分からなかった。ドアの向こうの喧騒は相変わらずで、もしかしたらそれが彼女の言葉を隠したのかもしれない。

「………えへへ」

「今なん――」

 聞き返そうとした所で、今日最後の授業の開始を告げるチャイムが鳴った。

「っと。やべぇ。ああ、もう…後で俺が消しとくから、らくがきした場所を言え」

「え…?」

 少し強引に場所を聞き出し、ついでにそろそろ帰宅するように告げてから、少女を残して部屋を出た。

 授業が始まっているのにもかかわらずのんびりと廊下を歩く生徒に声をかけながら、早足で2年の教室へと向かった。丁度通り道だったので、その少女のらくがきを少し探してみる。

 丁度新旧の校舎の繋ぎ目になっている場所で、廊下の壁から出っ張った柱が時折通行人の肩を乱暴に叩き、不自然な段差がそそっかしい人間の足元を不意にすくう。

 そんな場所に、それはあった。少し奥まって影になった場所に、まるで宝物を隠すように壁の片隅に小さく描かれていた。子供っぽい稚拙な字で、「なぎさ」と書かれた隣には…

「……よく読めんな」

 急いでいたのだろうか。乱れているが何とか読み取れる左側の文字とは違い、反対側のものは全く分からない。むしろ誰かに読まれるという「文字」の役割を完全に放棄しているように見えた。恥ずかしさからだろう。書き手の、「読まれたくないなぁ」という心理が横槍を入れたのかもしれない。

「ま、俺には関係ないか。しかしサインペンだぞ、これ」

 これは後でシンナーでも買ってこないといけないな。

 そんな事を思いながら、これまで他人の後始末などやった事のない自分が、自然にそんな考えを抱いている事に驚いた。

 もう廊下に人の気配はない。授業が始まって5分ほど。早く教室に向かわないとまた教頭に嫌味を言われてしまう。

 冷たく澄んだ空気の中でため息だけをそこに残し、再び教室へと足を向ける。

 その時だった。

「――?」

 泣き声が、聞こえた。

 締め切った空間に漂う冷たい空気に、小さな泣き声がわずかに響いた。

「これは――」

 間違えるはずがない。あの少女のものだった。

「ったく! …今度はなんだっ!?」

 急いで来た道を引き返し、元いた部屋へと走る。カツカツという硬い足音が、次第に速くなっていくのが分かる。だんだん大きく聞こえてくる少女の鳴き声が、嫌でも足を急がせたのだ。

 なんだろう、この不安は。

 拭っても拭っても上ってくる胸のむかつきは、前に進むほどに大きくなる。階段を過ぎ、誰も見ないようなポスターの並ぶ掲示板の前を駆け抜け、しんと静まり返った教室の並ぶ廊下を走り回り――やがて、あの少女を残してきた部屋の前に辿り付いた。

 胸の中で暴れ回る強烈な感情を跳ね飛ばすように、勢いよく部屋の扉を開け放った。

「おい…っ!」

 赤…。

「せんせい…?」

 赤。赤。赤。

「先生、なの…?」

 くすんだ窓ガラスから差し込む西日に染められた部屋の床に、わずかに広がる赤い液体。部屋全体に広がる「赤」の色が、一瞬だけ俺の意識を奪った。それほどまでにその空間は、奇妙なまでの美しさと危うさで満たされていたのだ。

「見えないよ…。先生なの…?」

 不安で震える少女の声が、俺の意識を現実に引き戻した。部屋の隅にうずくまった彼女が、ゆっくりと身を起こそうとしていた所だった。

「な――何やってんだ、お前!」

 窓の側でうずくまる少女に走りより、しゃがみ込んでその小さな体を抱いてやる。小さな体は不自然なまでに熱く、小刻みに震えていた。

 親の金で買ったブランド物のスーツのパンツが、血溜まりに沈んで粘着質な音を漏らしたが、気にはならなかった。それよりも、得体の知れない強烈な感情が、頭の芯を殴り続けているようだった。

 胸元に抱いた少女の顔から流れ出た熱い血液が、白いシャツに染みとなって広がる。

「ごめんなさい…。ここじゃ暴れちゃいけないって言われてたのに…」

 はっとなって見渡すと、不自然に散らばった椅子の群れ。棚に向かって積み上げられていたのだろうその場所に、粉々に砕け散った地球儀が、赤く染め上げられていた。

 俺のせいだった…。

「ごめんなさい。ごめんなさい、先生」

 俺がもう少し部屋を片付けていれば、俺がもう少し注意していたら、俺がこの子を置いて部屋を出なければ…。

「先生…」

 後悔と、自分自身に対する怒りが怒涛のように押し寄せ、俺は自分の手が震えている事に気がついた。

「何の騒ぎですか一体――これは!?」

 にわかに場が騒がしくなってきた。

 騒ぎを聞いて駆けつけた数人の教師が、部屋の様相に言葉をなくす。

 最初に正気を取り戻した養護教諭が俺たちに駆けより、そして金切り声を上げた。

「早く救急車を! 早く!」

 その声に弾かれたかのように、その場にいた人間が再び声を上げ始めた。騒ぎ立てるその女性に肩を置き、俺はゆっくりと立ち上がった。

「俺が病院に…」

 その行く先を、醜く引きつった顔が遮った。

「何を…! キミは今から授業だろう! さ、早くその子を――」

「俺が行くって言ってんだろ!」

 対応の善悪、自身の保身、責任の所在。うろたえながらも場の主導権を握ろうとする教頭の愚かさに怒鳴りつけ、駐車場へと走った。

 職場の上司、そして恐らくは、自分の逃れられない客体的な人生の象徴であったあの男を突き飛ばしたのは、間違いなく俺の意思だった。

「死ぬな……死なないでくれ……!」

 趣味でもない高級車に少女の体を押し込め、眠っていたエンジンを叩き起こし、道交法を無視してアクセルを力いっぱい踏み込んだ。幸い警官には見咎められなかったが、それだけ焦りが募る。

「くそっ!!」

 病院までの道が、果てしなく長いもののように感じられた。

 俺は多分、生まれて初めて――他人のために祈った。





 親父の権力はなるほど、こういう時には役に立つものだ。

 教育委、PTA、そして同僚の教師。

 それらを何とかなだめすかし、報道にも触れることなく、事なきを得た。

 だが、俺の気持ちはそんな事で慰められるはずがない。考え抜いた挙句、考えうる最も自己中心的で愚かな行為――謝罪という形にしか行きつけなかった。

 親父の制止を振り切って家を出て、職場のすぐ前の少女の自宅のドアを叩いた。その冷たいドアが開く前に、俺は石畳に額をこすりつける。

 やがて現れた人物の、冷たく刺すような視線を感じながら、全てをかけて償うと申し出た。

「それは、あの子に任せます」

 それが、少女の母親の言葉だった。

「これはあの子自身が招いた結果です。でも今は…母親として、正直あなたを許せません」

「……おっしゃる通りです」

 仕方がない。どれだけ理詰めで自己弁護を繰り返そうと、人間には感情があるのだから。何よりもその感情のおかげで、俺はこうして苦しんでいるのだ。

 誰よりも自分よりの立場にいる自分自身でさえ、自らの足に絡みつく鎖をどうしても解けないでいる。事故の原因。それが少女のいたずらではなく、自分の配慮の欠落にあるのだという脅迫にも似た思考を断ち切れないでいる。

「だから、全てはあの子が成長してから。自分の事、自分を取り巻く世界の事をきちんと理解したあの子自身に、あなたを裁いてもらいます」

 周りの人間が何をどう考えても、それは本当の謝罪でも償いでもない。全ては、彼女自身に。それが少女の母親の意思だったのだ。





 「もうお前は教師を辞めろ」

 その親父の言葉に、俺は初めて、頭を下げた。冷たい床に額をこすりつけて懇願した。ずっと無気力に自分の言葉に従ってきた息子の始めての反抗にあった親父は、ただ不機嫌そうに葉巻を灰皿に押し付けただけだった。

 どこでも構わない。田舎だって孤島だって構わない。だから、教師を続けさせてくれ、と。

 俺は、生まれて初めて何かに必死になった。

 生まれて初めて後悔した。

 この気持ちを、こんな中途半端なままで忘れたくはなかった。

 怪我をした少女のために。怪我をさせてしまった自分の過ちのために。そして、芽生えかけた自分自身の「意思」というもののために。

 そして俺は、紆余曲折を経て、とある田舎町の中学校で、教鞭を取る事になった。





「〜〜♪ ――あいたっ!」

 それから数年。

「……おはよう」

 あの時少女に出会ったその場所で、俺は今度は正面から衝撃を感じた。手加減なしでぶつかってきたその人物は、涙目でおでこを押さえながら床にうずくまっていた。その少女を包む制服を見ると、どうやらここの生徒らしい。

「うぅー、いたいよ〜。…あ、もしかして先生ですかー? すみません。不注意で」

 少女を助け起こそうと自然と伸ばした手に、彼女もまっすぐこちらを見つめながら白い手を伸ばす。だが――

「あれ?」

 だがその手は見当違いの方向へと投げ出され

「あは。ごめんなさい」

 焦点の合わない瞳に、俺は映ってはいなかった。

「私、目が見えないんです。だから初めて会った人とは、できるだけ多くお話するようにしてるんですよー」

 再会した少女は、俺に気付かなかった。

「……先生? どうかしました?」

 無理もない。彼女は光を失っていたのだ。差し出された手を気配で感じてもそれを握り返す事ができないように、そこに人の気配を感じても誰なのか分からない。

「よく俺が教師と分かったな」

 『もしかしたら完治しているかも』

 離れていた何年もの間抱いてきたその甘い幻想は、無残にも打ち砕かれた。

「はいっ。ぶつかった時、制服とは違う感触でしたからね」

 だが…

「……。男子の制服を把握する前に、時間割を把握しろ。お前のクラスは次の時間、日本史だろ」

「先生こそ私のクラス、よく分かりましたね。時間割まで。……ひょっとしてストーカーさんかな?」

「アホか。俺は全校生徒の顔とクラス把握してるんだよ。時間割を知ってるのは俺も社会科の教師だからだ。で、その日本史の上坂先生が小テストを作っていたのを見かけたんだが…」

「――ああ!」

 少女は、俺の想像以上に強かった。

「忘れてたよ〜!! 雪ちゃ〜〜ん!!」

 大慌てで走り去る少女の背中は、昔見た女の子の背中よりも、ずっと大きかった。

 乗り越えたのだろうか。それともただの強がりか。どちらにせよ、彼女は俺の想像を超えた生き方をしていた。

 俺の事に気付かないならそれでいい。ただ、俺は自分の罪を胸に抱き、この少女を見守ろう。

 そう決心してからの3年間は、俺にとって地獄のようだった。

 少女の笑顔がこちらに向くたびに、俺はその眩しさに目を背けた。輝きを失った瞳で屈託なく笑う少女は、俺の罪を映し出すには充分すぎる鏡だった。

 この高校を離れていた数年で、人事も変わっていた。

 もう当時を知る人間は、戻ってきた自分と、新入生として再び校舎に戻ってきた彼女。それ以外の人間は、当時の記憶を親父の金で封じ込めた輩が数人しかいなかった。

 誰に咎められるわけでも、誰に謗られるわけでもない。

 だが、意外な物が俺を攻め立てた。――あの部屋だ。

 彼女が光を失い、俺が影を背負ったあの部屋。事件の後に立ち入り禁止とされた資料室。

 そこだけはまるで時の流れから隔絶されたかのように、あの時と同じ景色を俺に見せつける。だが、皮肉な事に、俺の逃避先もまた…その部屋だった。

 自身が背負った罪を意識する事で生きていく。あまりに後ろ向きな生き方しかできない俺の逃避。それは、その部屋で己の罪を再認識する事だけだったのだ。

 まるで普通の生徒と同じように笑う少女。そんな彼女を影から見守る事が何よりも大切な事に思え、そして、何よりも辛かった。





 そして――

「ただいま、先輩」

 場所は卒業式の日の屋上。

「お帰りなさい、浩平くんっ!」

 少女は、支えを見つけたらしい。

 背を預けた冷たい壁の向こう側。こことは違い、柔らかな日差しが降りそそぐ中で、彼女は本当に嬉しそうに微笑んでいた。

 彼女の前に立つその男は、俺自身、世界史を受け持っていた。

 いつもどこかとぼけた男で、お世辞にも真面目な生徒とは言えない。行動に動機や一貫性を持たず、先の行動が読めない。深刻な問題を起こすような生徒ではないが、教師の間ではあまり相手にしない、というのが彼に対する最善の対処とされた。

 なぜか今年一年間のあいつの記憶がないのが少しひっかかるが、他でもない彼女自身が選んだのならば、問題はないだろう。

 あの、全てに懸命な少女は、目は不自由だが人を見る目はある。以前に自分で自慢していた。改めて考えてみると、なぜか俺に懐いていた事を除き、それは的を得ていると言える。

 最初に聞いたときは目の不自由を揶揄した自虐的なブラックジョークかとも思ったが、彼女はそんな事を口にする人間ではない。自らを罪人と貶める俺の卑屈な思いが、そう感じさせたのかもしれない。

 屋上へのドアは開け放たれている。ちょっとその気になれば、俺もあの陽光の中へ身を置き、冷え切った感情を温める事もできるだろう。

 だが、俺はそうしなかった。ドアのすぐ横の壁に身を隠したまま、声すら出さずに立ち尽くしていた。

 あの陽光は、光を感じられず、だが誰よりもそれを愛する彼女に用意されたものなのだ。

「………ここまで、か」

 もう、俺の役目は終わった。もう側に俺や他の人間がいなくても、彼女にはあいつがいる。あとは少女を見守るというその役目をあの坊主に渡して、俺は影だけを背負って生きよう。

 すぐ向こう。温かな大気の下で抱き合う2人の男女に背を向けて、俺は暗い階段に足を踏み出した。





「ごくろうさまでした、先生」

 職員室に戻ると、隣の席の教師に声をかけられた。他に教師は数人しか見当たらない。おそらくは昇降口の辺りで卒業生と写真を撮ったりしているのだろう。

 お気に入りの湯飲みでお茶を飲みながら、背もたれに体重を預けてリラックスしているその教師も、確か3年のクラスは担任していなかったはずだった。

 一瞬、さっき下ろした自分の役目を労われたと思ってびっくりしたが、どうやらそうでもなさそうだ。

 教師のデスクの上に、小さな花束があった。きっと、たった今卒業していった生徒たちにでも思いを馳せているのだろう。担任教師でなくとも、3年の生徒と関わる機会がないというわけでは決してない。授業、委員、部活と、教師の職務は幅が広いのだ。

 彼は、自分と同様にそんな関わりを持っていたはずの俺に、その一言をかけてくれたに違いない。そんな老教師に愛想笑いを見せながら、俺は自分の席に腰を下ろす。

「…ん…?」

 見るとそこには、全然覚えのない封書が置かれていた。色気もくそもない、普通の茶封筒。切手はなく、差出人の名前はおろか、受取人の名前さえない。だが封をしているテープは手垢で汚れていて、何度も貼り直した後が見えた。

「なんだこりゃ?」

「ああ。さっき川名が置いていったんですよ」

「川名……みさきが?」

 笑顔でコックリと頷く老教師。すっかり寂しくなった頭髪とは裏腹に豊かな白髭が、かすかに揺れた。

「お礼の手紙ではないですか? いやはや、彼女も大変な境遇を背負った身だが、立派に成長しているんですなぁ」

 感慨深げに息を吐く教師の横を通り、俺はその封書を持って走り出した。普段は廊下は走るなと生徒に小言を言う自分だが、幸いその不条理を見咎める生徒の姿はあまりなかった。

 ほとんど人の気配のなくなった廊下を走り、ついた先はあの部屋。「立ち入り禁止」の看板をどかし、チョロまかした鍵を鍵穴に差し込む。

 カーテンの締め切られたその部屋は昼間でも暗く、まるで明、暗、明と繰り返す世界の流れから締め出されたかのようだった。

 俺は仕方なく蛍光灯のスイッチに手を伸ばす。天井から降ってくる無機的な光が、むしろ俺の目には馴染んでいた。

 はやる気持ちを抑え、封書から便箋を取り出した。

 ガタガタに折られた便箋の束。そこには、まるで小学生の書いたような汚い字が並んでいる。

 だけどどれも一生懸命で、その一文字一文字に滲んだ書き手の努力がありありと見て取れた。

 それを一つ一つ汲み取りたい。一片の欠片も見落としたくない。

 俺はゆっくりと、その文面に目を這わせた。



『せんせいへ。

 いままでさんねんかん、ありがとうございました。

 せんせいに"てんじ"をおしえてもらったこと。

 せんせいにてをひいてもらったこと。

 そしてなにより、せんせいにはげましてもらったこと。

 わたしはわすれません。

 きょう、たいせつなひとのそつぎょうしきをみとどけて、

 わたしはやっとこのがっこうをそつぎょうできたとおもいます。

 さいごに、ひとつはくじょうします。



 あのらくがきのあいあいがさにかいたもうひとりのなまえは、せんせいでした。



 さようなら。わたしのせんせい

 川名 みさき』



「………」

 気付いていたのだ、彼女は。

「バーローが。相変わらず汚ない字で書きやがって…!」

 あの少女が、気付かないはずがなかったのだ。

「読みにくいったらありゃしない」

 あのらくがきと同じ、稚拙な文字。だが、そこにはらくがきと違い、読み手に気持ちを伝えたいという切実なまでの書き手の気持ちが滲み出ていた。

 盲目の彼女に、ひらがなはひどく難しいものだろう。ほとんどが読みにくく、中には読めないものもあったが、それも含めて彼女らしさが感じられる手紙だった。

「こんなバカでかい字で書くから、こんなに枚数がかさばるんだよ。まったく…」

 そして、その短い手紙の中でさえも、彼女は「ありがとう」を伝えようとしている。

 あの事故を防げなかった教師が誰であるかを知り、その上で彼女は前に進み、出した答えがその手紙だというのならば――俺はこんな場所で立ち止まっていていいのだろうか。

 少女の手を引く役目は、あの小僧に渡した。

 今度は俺が、自身が背負った影――罪の意識を消さなくてはならない。

 そう思った。

「さて、と」

 立ち上がり、胸元の携帯に手を伸ばした。電話帳から目当ての名前を検索し、発信ボタンを押し込む。そこに、ためらいや後悔はなかった。

「――あ、親父か? 俺、学校辞めるから」

 耳元からうるさく聞こえてくる親父の怒鳴り声を、俺は親指一本ではねつけた。

 それはやってみれば、本当に簡単な事だった。

 さて、これから忙しくなる。

 なんとなく清々しい気持ちになって、俺は部屋のカーテンと窓を空けた。

 部屋に吹き込む風が心地よい。

 網膜を焼く太陽の光は、弱々しい蛍光灯の光を簡単に打ち負かした。





「ここ、空いてますか?」

「……彼氏とはうまくいってるのか、川名」

 焦点の合わない瞳が、こちらを覗き込んだ。

「先生…? あ、もしかして私間違えて高校に来ちゃった――?」

「いや、合ってるから」

 どうやらこのボケっぷりは生来のものらしい。

「じゃなんで先生がここに? 点字講読の講義ですよね、ここ」

 と不安げに辺りを見渡す。

 4人掛けの古い講義机が整然と並び、正面には大きな煤けた黒板が掲げられている。壁には思わず座布団を贈呈したくなるものから、意味不明なものまで、いろんならくがきが我が物顔で居座り、無秩序に腰を下ろした学生が講義の間の休憩時間をお喋りで埋めようと躍起になっている。

 彼女のその瞳には何も映っていないだろうが、それでも懸命に雰囲気を感じ取ろうとしていた。

 場所は大学の教室だが、彼女は学生ではない。一般聴講者、しかも全盲の人間が間違った教室に入り込んだとなれば、当人が慌てるのも無理はないだろう。

「先生じゃない。――学生だ」

 落ち着かせるように手を取って、隣に座らせた。本来なら人が座っていなければバネで跳ね上がるはずの板は、壊れているのか下りたままであった。ギシッという音と共に少女の体重を受け止め、何事もなかったかのように椅子としての機能を果たしている。

「……?」

 子どもの頃と同じ仕草で可愛らしく小首を傾げる元教え子に、俺は得意げに宣言した。

「大学に入り直したんだよ。障害児教育の免許を取ろうと思ってな」

 少女に遅れる事、数年。

 俺はやっと自分の意思で、自分の道を歩き出した。

 横の窓から差し込む陽光に半身を焼かれるのを感じながら、隣で顔を綻ばせた少女に、俺はようやく心からの笑顔を向ける事ができた。




あとがきっぽいもの
 

 最近ONEをプレイしたので、ちょっと賞味期限も気にしながらもみさき先輩SSをば。
時間がないので攻略サイトを参考にしてのトルゥーエンドしか見ていないので、私の知らない設定や見落としがあるかもしれませんが、
その辺はカンベンして下さい(^_^;)
 でも一人称視点で主人公に名前がないというのは予想以上に苦労しました。ネタも既出でしょうかね。
多少強引な持っていき方もあったと自覚してますが、みさき先輩と関わる事で幸せになれた人は多いのではないかと思い、形にしてみました。
みさき先輩とその周囲の人々に幸あれw
 
語り部の小部屋
(ま〜くん様)