闇に半分溶けたような、その漆黒の服の男は、小さな電子キーに手を伸ばす。
男の手は三度、同じ数字を押す。
毎日のように繰り返しているような、慣れた手つきだ。
男の手が少し、真直ぐ下に動く。
一つ、そこにあるキーを押す。
小さな音を立てて、扉が開いた。

[ooos]


何時もなら、特に意識もしないその動作だが、ラキストはふと手を止めた。
押した数字は、今日という日を四桁の数字配列にしたものだ。

―――それは、その日付は、既に遠く過ぎ去った日の、

その日は朝から空は重く曇っていた。
昨日までの暖かさが嘘のように肌寒く、細い雨が降ったり、止んだりを繰り返す暗い日だった。
ラキストは澱んだ空を仰いだ。
相変わらず、降るとも止むともつかぬ雨だけが地面を濡らしていた。
と、そこに彼を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ラキスト神父様、あの……」
困ったような、泣き出しそうな目で一人の若い男が声をかけてきた。
彼もまた、ラキストと同じく教会を兼ねた孤児院に勤める職員である。
こんなときは間違いなく、一つしかない。
ラキストは諦めたように息を吐いた。
「幾つくらいの子だ?まさかまた乳児じゃないだろうな……」
「いえ、それが……買出しの帰りにですね、街の……」
その瞬間、凛とした、冷たいとすら言えるボーイソプラノが若い男の声を遮った。
「失礼します」
現れたのは、真直ぐに立った少年だった。
いや、正確には少年とすらまだ呼べないだろう小さな子供だった。
ただあまりにも、大人びて見えたのだ。
よく見れば年のころは、六つか七つくらいだろうか。
滅多に見られないような、色素の薄い見事な金糸の髪。
正面から見るのを躊躇う程澄んだ、ガラス球のような碧い瞳。
思わず、ラキストは息を呑んだ。
その瞳はまるで刺すように、ラキストの姿を捉えていたからだ。
彼は唇を一文字に結んで、じっとこちらを見ている。
ラキストは口を開きかけて、止めた。
今言おうとしていた言葉が、陳腐な口説き文句にもならない単純な言葉だったからだ。
聖画に出てくる天使の様だ、など。
二人は無言で見つめあう。
張り詰めたような空気が流れ、このまま時が止まってしまうのではないかとさえ思えた。
それを破るように、若い職員がおどおどと声を上げる。
空気に耐えられなかったのだろう。
「いや、その……一人でいたんですよ……」
彼が口にしたのは、治安の悪いことで有名なとある路地の、その裏の名だった。
こんな子供が一人でいるような場所ではない。
ラキストは眉間にやや皺を寄せ、静かに立っているその子供に声をかけた。
「……そうなのか?」
「はい」
子供は、小さく頷いた。
「で、では僕は……仕事に戻らないと……」
この子への対応に困っているのだろう、若い職員はラキストに子供を引き渡してほっとしたように、
そそくさと部屋を出て行った。
ラキストと、そして子供だけが残された。
子供は若い職員の去ったドアを振り返る。
「優しい方ですね。私が一人でいるのを見逃さなかった」
その言葉は丁寧ではあったが、どこか冷たく感じられた。
「君は……どうしてあんな所にいたんだ?」
聞かなくても大体の事情は察せられるが、あえてラキストは彼に尋ねた。
普段なら、こんなことはしない。
食事などを用意し、できるかぎり怖がらせないよう、温かく迎えるようにするのであるが、
この子にはそれではいけないだろうと何故か思った。
それでは、この子はずっとこのまま冷たいのだという考えが過る。
「父は知りません。母は……そうですね、恐らく今日も仕事で路地のさらに奥にいるのではないかと思います」
その子供は、静かに述べた。
あの路地の、さらに奥……少なくとも、まともな仕事だけでないことはラキストには容易に察せられた。
ラキストが黙っていると、少年は続けた。
「ここ数日、帰ってきていないので判らないのですが……」
やはりこの子もか、とラキストは思う。ここにはそんな子供たちが集められている。
しかし、彼の態度はそんな子供たちの中にいて、一度も見たことのないものだった。
ラキストは、こういった子供たちを見慣れているつもりだった。
だが彼からは子供らしい無邪気さも、素直さも、子供ゆえの我儘も、ストレートな感情も。
そういったものが一つも、感じられなかったのだった。
「成程。分かった。……名前は、なんと言うんだ?」
あるかどうかも疑わしかったが、とりあえず聞いてみた。
だが意外なことに、彼はある聖人の名を口にした。
「……マルコ、です」
それは新約聖書の中の、ある福音を記したといわれる聖人の名だった。
その名を口にするときの彼は、とても気高く見えた。
(シンボルは確か……ライオン、だったかな?)
あまり似合うイメージではないな、と思ったが、ふと白い羽根は似合うかもしれないなどと余計な事を考えた。
「マルコ、か。いい名だな」
素直に、そう思った。
「ええ、特に母は名をつけていなかった様なので、呼ばれたことは無かったのですが」
そう言いながらほんの僅か、マルコの口元が緩んだ気がした。
しかしラキストは、その発言に違和感を覚え聞き返さずにはいられなかった。
「と、言うと?」
「拾った聖書から自分で。だから、名前を呼んだのは、貴方がはじめてです」
マルコの表情が、先ほどより和らいだ。
それとともに彼を包む雰囲気が信じられないほど美しいものになる。
先程までのガラスのような、美しいが冷たい印象とは比べ物にならないほど綺麗で、輝いているとさえ思えた。
「そうか……。では、大体いくつくらいだ?六つか七つと言った所だろうが」
この問いに、彼は少し考えるように首を傾げた。
金の髪が僅かな光を受けて、きらきらと光る。
一瞬、それ自身が光っているのではと錯覚する程に。
「……はっきりとは自信が無いのですが、たぶん七つではないかと思うのですが」
ラキストは改めてマルコを見る。
落ち着いて、賢そうな子供である。
あの環境にあって何故かは分からないが、字も読めるらしい。
しかしその雰囲気は、どう見ても七つの子供が持つものではない。
ましてや大人でもこんな落ち着いた人間はあまりいない、とさえ思う。
だからもっと年がいっていても驚かないのだが……それに反して身体は七つというにはやや小柄である。
おそらく、栄養事情が良くなかったのではないか、とラキストは推測した。
「生まれた日は、分からないのか」
しばらくマルコは黙って、やがて抑揚のない声で、静かに述べた。
「……貴方は明日生きることができるか分からない者が、今日の日を数えていると思いますか?」
一瞬、ラキストは面食らう。
その響きには欠片も悲しそうな様子は見当たらなかったが、代わりに僅かな哀れみを感じた。
それは母へ向けたものだろうか、とラキストは考えた。
恐らく彼の母に、彼を産んだ日を覚えておくような余裕は無かったのだろう。
むしろ、父親の分からない子など邪魔でしかなかったのではないかとも思う。
「……君は賢いな、マルコ。それに強い」
「そうでなければ、生きていけませんから。ただ、私を『作った』人々はそうではなかったようですが……」
ふっと、マルコは吐き出すように呟いた。
それはやはり、とても七つの子供のものではなかった。
「大丈夫だ、これからは例えそうでなくても、」
そこで一度、ラキストは息を吸った。
「私が、君と生きていこう」
それはラキストが他の子供達にいつも見せる、包み込むような父性の優しさではなく、
真直ぐな強さを持った、そんな意思を持った言葉だった。
マルコはやや面食らったような表情を見せた。
「生きていく、ですか」
「ああ、そうだな」
だから大丈夫だ、とラキストはもう一度言った。
そう心の底から思ったから、そのままを口にした。
あの冷たい美しさなのか、和らいだ輝きなのか、あるいはその両方か。
それは一瞬でラキストにとって、かけがえの無いほど光る一つのものになっていた。
細くて白い手が、ゆっくりとラキストに伸びる。
ラキストはそっとその手を取った。
驚くほど脆そうで、折れそうなそれをラキストは恐々と、しかしずっと握っていた。
「私は……私はきっと、今、本当に生まれたんです」
マルコは目を閉じで、よく通る声でそう囁いた。
雲間からわずかにのぞいた光が差し込んで輝いたその瞬間。
声は、まるで祝福の鐘の音のように響く。
それがマルコにとって、家、いやそれ以上の場所ができた瞬間で、
そしてそれはラキストにとっても、同じだった。

そんな出来事だったと、思う―――

そこで一度、記憶は暗転する。
そこから多くの出来事がまるで途切れたフィルムを繋ぎ合わせ写したように、
断続的に、しかし鮮明に廻っていく。
その中で彼は部屋の隅で蹲っているような小さな子供だったり、
美しい声で歌う少年だったり、懸命にタクトを振る青年だったりする。
こんなことが連綿と続くのは、幾つ年が廻っても「今日」には変わらずあることだ。
年毎に、思い出す出来事は異なっている気がする。
彼と離れて、彼のことが思い出になって何年経つかは忘れたが、毎年異なっているとなると、
一体自分の記憶には幾つの「彼」の日々があるのだろうか。

しかし、その回想の始まりと終わりだけはいつも決まっている。
始まりはそう、あの刺すようなソプラノの声を初めて聞いた瞬間。
そして終わりは総てを焼き尽くす、紅蓮の炎。
そこで燃え尽きたように、思い出は何もかも消える。

三百六十四日、君の事を忘れていたとする。
しかし、たった一日だけは、君の事を思い出す。
さながら小さな針が、私を刺すように。
さながら小さな手が、私を導くように。


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