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DAWN OF THE SPECTER 17

丸々&とおり

「わー、近くにこんな砂浜があったんですね!」

「同じお台場の中で申し訳ないんだけど、さ」

「ううん、ここで十分です。大きな橋も、向こう岸の夜景も、とっても綺麗」

雲の代わりに、空には街の明かりが漂う。
様々な明かりの下には、数え切れないほどの人々が行き交っている。
その対岸のお台場、海浜公園ではおキヌと横島が二人きりで散策していた。

ベイブリッジにほど近くキーTV局や大型商業施設が隣接するこの公園は、普段なら人で賑わっているが、コンサートが開催された事もあって、今日は警備上の都合で閉鎖されている。
二人はパスを使用して公園に入り散策しているが、図らずも貸し切りとなった砂浜に、二人の足跡が浮かび上がる。
この公園は普段、なぜか潮の香りがあまりしないが、今日は南風が潮の香りを運ぶ。
一息する度に、波のさざめく音も繰り返し聞こえてくる。

「……喜んでもらえれば。」

心から喜んでくれているおキヌの姿を見れたので、横島もまんざらではなった。
アリーナは台場の端と正反対の位置にあり、バイクで走れば10分もかからない。
タンデムを楽しんでも良かったのだが、横島はおキヌと話す時間を取った方がよかろうと考えた。
横島は今のおキヌがいったいどうなってしまっているのか、再確認しておきたかった。
自分の目の前をゆるやかに歩く後ろ姿は、自分の記憶の中とあまり変わってはいない。
楽しかった事務所での生活、そこから抜け出てきたかのように。

そう。
まるで時間が止まったかのように、彼女は変わりなく見えた。

「どうしたんです?」

先を歩いていたおキヌが、はたと振り返る。
その顔は何の疑いも抱いてはおらず、純粋な笑顔だけが浮かんでいた。
横島は視線をそらすかのように、浜辺の店先にあった自販機に歩み寄ってコーヒーを買った。

「ほら。」

取り出した缶コーヒーを投げ渡した。
おキヌが胸に構えた手元にすぽんと収まると、彼女は驚きの声を上げる。
珍しくも無いだろうにと横島が思っていると、おキヌは本当に嬉しそうに呟いた。

「うわぁ……。横島さん、覚えてくださってたんですか?」

「え?」

目に付いた物を買っただけだったのだが。
横島は記憶を辿っても、思い出せない。

でも、彼女は何かを覚えているらしい。
シロとタマモの事は忘れているのに?
いぶかしがる横島を、おキヌの嬉しそうな声が遮った。

「これ、昔お食事作りに行ったときに。
お礼だ、って言って渡してくれたのと同じコーヒーですよ。」

「……そうだったっけ?」

「そうですよ。
もう、相変わらず忘れっぽいんですから。」

ロマンチックだと思ったのに、そうおキヌが悪戯っぽく呟く。
横島は苦笑いを返すばかりだが、コーヒーを開け、乾きを覚えた喉を潤す。
海辺のひんやりした空気が、喉を通るコーヒーと一緒になって熱気を冷ましていく。
それはおキヌも同じな様で、潮風を涼しそうに受け、笑っていた。

あまり長くもない砂浜をゆっくりと歩いていると、横島は声を出しそうになるほど驚く。
ニューヨークで壊した自由の女神像があるではないか。
サイズこそ比べものにならないミニチュアだが、間違えようもない。
先ほどの何倍かわからない程の苦笑いを浮かべると、またワイバーンが出てきやしないだろうなと、つい周りを見渡してしまう。

「何をきょときょとしてるんですか?」

「え? あ、いやぁ。
……自由の女神様には、ちょっとした思い出があってね。」

「横島さんも外国にいたんですか?」

いなくなっちゃった後の事を聞かせてくれませんかと、おキヌが問いかける。
少しばかり考えて、横島は砂浜に腰を下ろした。

「じゃ、ちょっと話をしようか。」

「はい、私もお話ししたいことが、たっくさんありますからっ!!」










「――――んでさ、ってあれ? おキヌちゃん?」

肩口には、おキヌの小さな頭が寄りかかっている。
それほど長話でも無かったはずだが、いつの間にかおキヌが寝入ってしまっていた。

「無理もないか。あれだけの規模のコンサートの直後だもんな。」

実際にコンサートを見れた訳ではないが、シルキィの話していた内容から、どういう物であったか大体の想像はつく。
だが、何万人という観客に影響を与えようとすれば、どれほどの霊力の放出が必要なのか。
それは常人を逸脱したレベルだと思われるが、横島自身、あくまでイメージでしかなかった。

そして、いくら特別製のネクロマンサーの笛を触媒にしているとはいえ、それだけの霊力を放出したのだ。体力を消耗しない訳が無い。
そんな状態のおキヌを美神が任せた、というのは信頼されているからなのか、それとも何かを期待しているのか、はたまた別の狙いがあるのか。
逡巡していると、横島の耳に聞こえてきたのは密やかな寝息。
くうすう、安心しきって横島に体を預けている。
先ほどにしてもそうだったが、この無防備さは相変わらずで、横島を可笑しくさせる。

「変わったんだか、変わってないんだか……」

世界各地を巡る中で記憶の殆どをを失ってしまったとしても、やはりこの女性はおキヌその人に違いない。
横島がそう確信出来るほどに、おキヌは昔と変わらぬ姿で、ゆったり静かにもたれかかっていた。

「美神さんが言ってた、誘拐事件ってのがどんなもんだかわからないけど……」

もしかしたら、また昔みたいにやっていけるのかもな。
四年という月日が経ち、もう昔に戻ることは出来ないとはいえ、また新しい形でスタートを切れるのかもしれない。

そうさ。
美神さんがいて、おキヌちゃんがいて、シロもタマモも。

世界各地に散らばってしまっても、お互いどこにいるかさえわかっていれば、いつだって会える。
会えさえすれば、おキヌちゃんだって少しずつ良くなっていくさ。
肩に感じる暖かさは、確かなものなのだから。

「全く、世界に冠たる聖女様がこんなとこでぐーすか寝てるなんてさ。」

おキヌの髪を梳くように、なで上げる。
しとやかな髪も、昔と変わらずにはらと落ちた。










横島はすうすうと静かに寝息を立てるおキヌの横顔を見つめている。
肩にもたれかかる重さは決して不快ではなく、むしろおキヌの存在を実感する事ができた。
吹き抜ける穏やかな風がおキヌの髪を撫で、風に流された艶やかな髪は横島の腕をそっと撫でる。

呼吸のたびに、形の良い唇がまるで誘うように微かに動いている。
周囲に人の気配は無く、今この瞬間、横島とおキヌを遮るものは何も存在しなかった。

(ああ、やばい……おキヌちゃんってば可愛すぎる……!)

後ほんの少し顔を近づけるだけで、仲の良い友人から特別な関係に進めるかもしれない。
今は、昔みたいに経験が無かった少年時代とは違うのだ。キスどころか、そこから先の先まで知り尽くしている。
だが横島は横顔を見つめるだけで、それ以上の事をする素振りさえ見せていない。

美神との約束を破り、寿命の九割を失うのが怖いのか?
現在付き合っているシロを裏切るのが気が引けるのか?
シロを裏切ったとみなされ、タマモから責められるのがイヤなのか?
それとも、記憶を失っているおキヌに手を出すのはフェアではないと思っているのか?

わからない。
横島自身、ハッキリとした理由はわかっていなかった。
だが、今は直接的な接触ではなく、この穏やかで柔らかい時間こそを大切にしたかった。
だからこそ、横島は疲れを癒やす止まり木の役目に甘んじる事にしたのだ。

このまま静かに時が過ぎるのも悪くない。
そう思った時だった。吹き抜ける風に混じる気配に、横島の視線が鋭くなる。
依然、周囲に人の気配は無い。
だが、人以外の気配が二人に近付いていた。




















「――――今後の日程は、8月10日まで東京でコンサートを行い、8月15日に沖縄で慰霊祭を執り行います。」

ひっきりなしにフラッシュがたかれる中、詰め寄せた記者達の前で美神が質問に答えている。
隣に座るおキヌは特に質問に答える訳でもなく、穏やかな笑みを浮かべて記者たちに微笑んでいた。
半透明の薄絹状の羽衣を羽織り、清楚な巫女姿に身を包んだその姿は、記者達の視線を一身に惹きつけていた。

「今回の来日でのコンサート会場は、本日使用されたお台場アリーナのみとの事ですが、地方での公演の予定はないのでしょうか。」

今回のコンサートは今日の会場でしか予定されていなかった。
いくら後一月の間に十回以上開催するとはいえ、地方在住の人間にはなかなか厳しい話だ。

「はい。氷室自身も全国を巡りたいと希望していますが、残念ながら警備の点から、それは断念せざるを得ないと判断しました。」

記者達の間から、残念そうなため息が漏れる。
しかし警備の都合だというなら、それに文句をつけるのは無意味だ。
もっとも、彼らに不満を口にするような権利は無いのだが。

「毎回、コンサートの様子はマスコミに公表されず、特に映像媒介での販売などもされていませんが、慰霊祭についても同様なのでしょうか。」

おキヌのコンサートの内容は公表されていないが、それを体験した人間の口コミによって『魂を癒す』という評判だけが広まっていた。
しかし体験した人間にも、それを具体的に筋道立てて説明することが出来ないため、結局コンサートの内容は明らかにならず、神秘的なイメージだけが世間に伝わっているような状況だった。

美神がコンサートを映像化しないのには理由があった。
出来るなら美神も映像化して、それによる収益を上げたかった。
収益を上げたいといっても、以前のように自分の欲によるものではない。
全ての収益を寄付する際、より高額の金額を寄付したと世界に公表したかったのだ。
何故なら、それによるイメージアップは直接的ではなくても、いつか何らかの形でおキヌの助けになると考えていたからだ。

だが、それには一つ問題があった。
おキヌのネクロマンサーの笛による癒魂は、直接その笛の音を聴かせなければ効果を発揮できないのだ。
以前、コンサートの様子を映像作品として試しに撮ってみた事があったが、出来上がったのは何の変哲も無い演奏風景だった。
幽霊の楽団というのは確かに珍しいが、おキヌのイメージアップになるかと言われれば、正直微妙な所だった。
今のおキヌは『ネクロマンサー』ではなく『現代の聖女』なのだ。幽霊を引き連れての演奏というのは、大衆が望む姿ではなかった。
確かに収益も重要だが、美神は『現代の聖女』という畏怖されるであろうイメージの方を優先する事にしたのだ。

そんな理由があり、コンサートの様子は伏せていたのだが、慰霊祭に関しては別の話だ。
むしろ、過去の大戦による犠牲者の魂を浄化する所を、思う存分世間に知らしめておきたかった。
勝手に作られるイメージも良いが、やはりそれ以上に直接おキヌの力を世間に見せつけてやりたかった。
おキヌがどれだけ高い霊力を持っているかが知れ渡れば、誘拐しようなどという馬鹿は二度と現れないだろうから。
そういう意味では、沖縄での慰霊祭はこれ以上無い好機と言えた。

「いえ、慰霊祭については、その模様を大々的に皆様にお見せできるかと思います。
国側からも、警備の徹底を約束して頂いていますし、慰霊祭にはマスコミの皆様もお招きできる事でしょう。」

期待に満ちた感嘆の声が記者達から漏れた。
今まで謎に包まれていた、聖女の慰霊の姿を、ついにその目で見届ける事が出来るのだ。
マスコミとしては、願ってもない展開だろう。





記者会見が行われているビルの入り口。
入館者を厳重にチェックする警備の姿に、黒い長髪を背に垂らした男がため息をついていた。

「やれやれ。運が良ければ令子ちゃんと話が出来るかと思ったが……またの機会に出直そうかな。」

自分の素性を説明すれば、警備を潜り抜けることは容易だろう。
だがその手の職権濫用的な行いは、男の矜持に反する。
残念そうに一度だけ振り返り、男は車に乗り込むと、その場を後にした。




















「見てわかると思うけどさぁ……邪魔して欲しくないんだよな。
せっかく二人っきりなんだし、気を利かせてくれるとありがたいんだけど。」

静かな寝息を立てるおキヌを起こさぬように、だがハッキリとわかる霊圧を乗せて訪問者を見据える。
低く冷たいその言葉は、向けられた者を追い払うには充分すぎる威圧感を伴っていた。
だが、訪問者はゆらりゆらりと二人に近づいてくる。

ある程度まで距離を詰めた時、横島が小さくため息をつき、その身体から緊張が解けた。

「どうした少年、迷子にでもなったのか。
それとも、もしかしてこのお姉ちゃんの知り合いなのかな?」

そこにいたのは、野球帽をかぶった小さな少年の浮遊霊。
青白い人魂を浮かび上がらせるその姿は一般の人には恐怖かもしれないが、横島にとっては生身の人間よりよほど安全な存在だった。
相手から感じる霊圧に、敵意や悪意は混じっていない。
生身の人間が相手ならこうはいかないが、直接霊圧を放出している浮遊霊なら、すぐに害のある存在か見抜く事が出来た。
昔から浮遊霊達と親しく付き合っていたおキヌの事だ。もしかしたら顔見知りなのかもしれない。
気持ちよさそうに眠っているおキヌを起こすべき思案していた時、少年が口を開いた。

「ねえ……お姉ちゃんを助けてあげて……」

小さな、ともすれば聞き逃してしまいそうな囁き声。
何の事かわからず怪訝な表情の横島に、少年がさらに距離を詰める。

「お兄ちゃんは強い人なんでしょう……?
今夜……これからお姉ちゃんが襲われちゃうんだ……」

「おい、いったい何の話――――?」

問い掛けようとした横島はハッと息を飲んだ。
野球帽の下の少年の瞳は虚ろで、その身体は徐々に透き通りつつあった。

「怖い人が言ってたんだ……これからお姉ちゃんを襲うって……
ねえ……お兄ちゃんは強い人なんでしょう……お姉ちゃんを助けてあげてよ……」

霊体が霞み、徐々に分解されようとしている。
横島の除霊スタイルは成仏とは程遠いが、今目の前で少年が成仏しようとしているのは理解できた。
だが、いったいこの少年は何を伝えようとしているのか。

「待てって! いったい何の話をしているんだ!?
『お姉ちゃん』って誰のことだよ!」

おキヌを起こしてしまうかもしれなかったが、思わず横島は声を上げていた。
霊感は鋭い方ではなかったが、何か嫌なモノが――不吉な虫の報せのようなモノが――ふつふつと胸中に湧き上がっていた。
まさかと思っておキヌに目を向けるが、少年は首を振って否定した。

「違うよ……そのお姉ちゃんじゃないよ……
もう一人……お兄ちゃんの大事なお姉ちゃんがいるんでしょう……?」

嫌なモノは胸を締め付け、横島の頬を汗が伝う。
鼓動は早鐘を打ち、喉は渇き、さらに息苦しさは増していく。

「怖い人は言ってたよ……やられた仕返しをするんだって……
チカラを失くした今なら……思う存分ひどい事が出来るって……」

その瞬間、時が止まった。
横島の顔から血の気は失せ、見開かれた瞳も焦点が定まっていない。

わかっていた。
今まで、美神がやってきた非合法紛いの所業を考えれば、何時かこういう事が起こるのはわかっていた。
そして、力をなくした美神に、それを防ぐ術が無いであろう事も。
相手が人間ならまだ何とかなるかもしれない。
だが、もしも相手がそれ以外の存在なら――――

「どこだ……! 相手は誰だ……!
おい、まだ消えるな! 俺の質問に答えてから――――!」

搾り出された横島の言葉だったが、既に少年の霊はその場から消えてしまっていた。

「……んー、横島さん……?」

さすがにあれだけ声を荒げれば、誰だって目が覚めるだろう。
寝惚け眼で見上げるおキヌの肩を、横島が激しく揺さぶった。

「おキヌちゃん、美神さんは今どこにいるんだ!?
美神さんが狙われてるんだ! 早く助けに行かないと!」

揺さぶられ、頭も徐々に覚醒してきたようだが、まだおキヌはきょとんとした顔で首を傾げていた。
今にも立ち上がって駆け出しそうな横島とは裏腹に、拗ねたように口を尖らせる。

「横島さん、美神さんは強いんですよ。いつだっても私を守ってくれてるんですから。
どんな悪い人が来たって、美神さんならへっちゃらなんです。」

もう、横島さんはわかってないんだからー、などと胸を張っている。
何の心配も無いとばかりに美神を自慢しているが、横島がそれに同意できる訳もなかった。
要領を得ないおキヌの仕草に、思わず怒りの声を上げてしまいそうになったが、寸でのところで思いとどまった。
何故なら、不安にも似た直感が脳裏をよぎったからだ。

――――もしかして、おキヌちゃんは美神さんが霊能力を失ったのを理解していないのか?

いったい、おキヌの記憶はどういう状態なのか。
自分との些細な思い出は残っているようだが、果たしてそれ以外の事はどの程度まで覚えてくれているのだろうか。
四年前、自分が姿を消す間際の、あの数日間の出来事も覚えているのだろうか。
皆の前で、事務所は解散すると美神が告げたあの日の事も覚えているのだろうか。

そんな疑惑が津波のように押し寄せ、言葉を失ってしまった。
今こうして目の前で笑顔を浮かべる彼女が、どれほど不安定な存在なのか気付かされてしまった。

「ほら、私達が助けに行ったりなんかしたら、『私を誰だと思ってるのよ!』って怒られちゃうかもしれませんよ?」

全然似ていなかったが、精一杯美神の口調を真似て、横島に微笑みかける。
きっと、おキヌにとってはこれが自然体なのだろう。
だが、事情を知る横島にとっては、その姿はあまりに痛々しくて。

「えへへ、あんまり似てないですよね――――って、え、横島さん?」

照れ笑いを浮かべて恥ずかしそうにしていたが、いきなり力強く両腕で抱きしめられた。
不意の抱擁に困惑で身をよじるが、すぐに力を抜いてその身を委ねる。

――――あれれ? 良くわからないけど、横島さんに抱きしめられちゃったー。

にへらと頬を緩ませるおキヌからは見えなかったが、横島の頬には一筋の光が走っていた。










「おキヌちゃん……美神さんがどこにいるか教えてくれないかな。」

「もう、まだそんな事言ってるんですか。
美神さんなら何があったって平気――――」

「おキヌちゃん、お願いだから……!」

言葉にできない想いを込めて、おキヌを抱きしめる腕に力を入れる。
おキヌの記憶の中の美神は、初めて彼らが出会った頃の、あの自由で無敵で博識で、不可能な事などまるで感じさせない、完全無欠の女性なのだ。
だが、今は違う。今の美神は、力を失い、心にも深い傷を負ってしまった、ただの弱い一人の女性なのだ。
けれど、それをおキヌには言えない。決して言ってはいけない。
だから今横島に出来るのは、想いが通じる事を祈りつつ、抱きしめる事だけだった。

「せっかく横島さんと二人っきりなのに……仕方ないなぁ、もう。」

すねたように口をとがらせ、おキヌが肩を落とした。

「今美神さんはグランド・リベールホテルで記者会見をしてる筈ですけど……場所わかります?
私も地図とかもらってないんで、ホテルの名前だけしかわからなくて。」

その心配は無用だった。横島の頭の中には、既に関東一円のめぼしい宿泊施設が入っている。
美神仕込みの用心深さに加え、何よりいつでも女性を連れ込めるようにとの下心からの事ではあったが、この時ばかりは自身に感謝した。
場所どころか最短で辿り着く道筋すら、すぐに浮かんでくる。


「充分だよ。ありがとうおキヌちゃん、急ごう!」

来た時と同様、おキヌがバイクのタンデムシートにまたがる。
そして横島の体に手を回し、しっかりと体を固定する。

「あーあ、せっかくゆっくりとお話できると思ったのになぁ。」

残念そうにため息をつきながら、おキヌが不満をこぼしているが、横島は何も答えない。

「……横島さんの、鈍感。」

バカ、と小さく呟き、うつむくおキヌを背に、横島はアクセルを思い切り握り締めた。




















安物の絨毯に色あせた壁紙、煙草の残り香が漂う、簡素な造りの廊下を、一人の女性が足早に歩いている。
すらりとしたスタイルと、艶のある亜麻色のロングヘアー。
そして、その見る者を惹き付ける美しい顔立ちは、この華の無い質素なビジネスホテルにはあまりに不似合いだった。
一息に自分の部屋まで移動すると、部屋を引き払うべく、自分の荷物を整理し始めた。

荷物といっても、必要最低限の衣類と書類が数枚といった、極々僅かなものだ。
この部屋自体、ほとんど使用していなかったのか、生活の気配は感じられない。
衣服を詰め込んだスーツケースを手にし、チェックアウトをするため、フロントへと向かう。
だが、女性は部屋を出ようとした所で、何かを思い出したのか、足を止めて振り返った。





――――その、コンサートのチケットは送るけど、悪いけどおキヌちゃんには会わないでほしいの。
本当はあの娘のためを思うなら、日本での公演は断りたかったんだけど……」

「え……駄目なんですか?
出来たら、会って勝手に姿を消した事を謝りたかったんですけど……」

「うん……もう戻れないのに、昔の思い出に触れても、辛いだけだと思うのよ。
だから、お願い……出来たらあの娘をそっとしておいてあげて――――





おキヌと横島を会わそうとしなかった自分の判断が本当に正しかったかどうか、それはわからない。
ただ確実なのは、今更過去に想いを馳せても、あの頃に戻るのは不可能だという事だけだ。

おキヌ――中身はシルキィ――には六道から派遣された人間を警護につけているが、やはり自分が傍についていなければならない。
苦すぎる教訓になったアーレルギアでの一件は、何時になっても美神の頭から離れる事は無いだろう。
気を取り直し、部屋を出ようとしたその時、凄まじい破壊音とともにホテルに衝撃が走った。

一瞬、爆弾を使用したテロかと思ったが、独特の火薬の匂いが漂っていなければ火の気も感じられない。
先ほどの衝撃と爆音の方向から察するに、エレベーターの辺りで何かがあったようだ。
幸い、火災が発生した訳でもないらしく、廊下に煙が充満しているという事もなかった。
ホッとする半面、違和感も感じていた。

何らかの爆発物でのアクシデントでもなければ、さっきの爆音の説明がつかない。
もしかしたら、エレベーターを支えているワイヤーが切れたのだろうか?

だが、霊感を失った美神は気付いていなかった。
火の気を伴わぬ破壊。その原因の第一が霊障によるものだという事を。




















アリーナ付近の交差点。ここは通行止めになっていたため、いつもなら点灯している信号機も、今は電気が通っていない。
交通規制のために設置しておいたバリケードが、その日の役目を終えて片付けられようとしていた。
コンサートも何事もなく無事に終了し、片付けをする警官達の表情も穏やかで、一安心といった様子だ。
10人ほどでの作業だが、上手く連携を取り、手際よく片付けていく。

「オーライ、オーライ、はいオッケー。」

最後のバリケードも輸送車に積み込まれ、物々しい様相を呈していた道路も、普段の表情を取り戻していた。
これで交通規制も終了で、警官達も通常の業務に戻る事になる。

「いやぁ〜、今日は疲れた! こんな夜は冷えたのを一気にいきたいねぇ。」

「良いよなぁ。これで帰れる奴は。俺なんか、このまま夜勤に突入だぜ?」

グラスをあおる仕草でおどける仲間に、別の警官が愚痴をこぼす。
信号機にも光が戻ったのを確認し、彼らはそれぞれ乗ってきたパトカーに乗り込んだ。
そのままその場を後にしようとしたが、視界の先から何かが近づいてくる。
警官達の目の前を、甲高いエンジン音を響かせ、一台のバイクが凄まじいスピードで交差点を突っ切っていった。

「おいコラァ!何キロ出してやがるんだ馬鹿野郎!!」

目の前の明らかな速度超過を見過ごすほど、彼らは職務怠慢ではない。
車上の警告灯をランランと光らせ、パトカー達もバイクを追跡するべく急発進した。

「おい、あの車輛って、あの時のアレじゃないか!?」

「俺も同じ事を考えていた所だ! 本部に応援を要請するぞ! 今日は絶対に逃がさん!!」

そう。彼らはあの時、横島と一戦交えた警官達だったのだ。
あの時逃げられた借りを返すべく、怒りに燃える警官達が先行する赤いバイクを睨みつけていた。




















気付いてない訳じゃない。昔とは違う。
今の自分は、相手の好意に気付かないような子供じゃ無い。

当然、背中の女性が自分に好意を抱いてくれている事もわかっている。
それも、今だけの話じゃない。彼女はずっと前から自分を好きでいてくれたのだ。
今ならそれがわかる。

だが、今は駄目だ。今だけは駄目なのだ。
今この胸の奥底でうずく、吐き気を感じさせるほどの緊張感。
この強烈な不安を、自分は以前にも経験していたからだ。

罠にかかった美神が、アシュタロスの手によって魂の結晶体を抜き取られたあの日。
美神が事実上の死を迎える直前、今と同様、いても立ってもいられないような激しい不安にかられたのだ。
不安は予感を超え、既に確信へと変わっていた。
美神に危機が迫っている。それも、命に関わるような、重大な危機が。
だから、今だけは、おキヌの気持ちに気付かない振りをするしかなかった。

おキヌのコンサートのために交通規制が行われていた為だろうか。周囲に車の影は無い。
実際は交通規制が解除された直後のため、他の車が走っていないのだが、細かい事はどうでも良かった。
アクセルを握り込むと、周囲の風景が、吹き飛ぶように背後に流れていく。
全力で飛ばせば、すぐに目的地まで辿り着く事ができるだろう。

いつかのワイバーンとの決戦の時の如く、今の横島の視界は色を失っていた。
モノクロの静止画の連続と化した世界ならば周囲の状況を完璧に処理できる。
この状態なら、例えどれだけ道路が渋滞しようとも絶対に目的地へ走り抜ける事が出来る!

だが――――

「そこのバイク、止まりなさい!」

耳ざわりなサイレンを響かせながら、背後からパトカーが迫っていた。
それも一台ではない。五台ものパトカーが追いかけてきていた。
遠くからもサイレンの音が近づいてきている事から考えて、応援まで呼ばれているようだ。

おかしい。妙だ。
ただのスピード違反にしては、あまりに大掛かりすぎる。
せめて一台か二台なら、この前のように、力で押し通る事も出来るというのに。

そう考えたところで、ようやく事情を理解した。
あの時の無茶が原因なのだ。
あの時は後ろからしか見られてないと思っていた。
だからナンバープレートを付け替え、ある程度時間が経てば大丈夫だろう、程度にしか考えていなかった。
だが、それは甘過ぎたようだ。

非があるのは自分だ。追われて当然だ。
牢屋に放り込まれるのも構わない。
罪を償えといわれれば喜んで償おう。
だが、今は駄目だ。今だけは――――

「邪魔ァ……するなァァーー!!」

横島の左手に霊気が凝縮され、瑠璃色の光に包まれた。















――――ず ずるぅ ずず ぶ ずずぅ


エレベーターへと続く通路を進みながら、美神はふと違和感を覚えた。
通路には自分以外の姿はなく、周囲の部屋も人の気配が感じられない。
普通なら、さっきの揺れと音の正体を探ろうと、他の客が出てきている筈なのに、だ。
冷たいものが背筋を走り、美神が足を止めた。

美神の視線の先は、通路が直角に曲がり、その先がエレベーターと階段になっている。
曲がり角の先から伸びる黒い影。
影はゆっくりとその形を伸ばし、こちらへ向けて近づいてくる。


――――ずず ずずぅ ずるぅ じゅる ず


通路の先からは何かを引きずるような音が響き、床に伸びた影はアメーバの如くうごめきながら近づいている。
喉はカラカラに渇き、息をする事さえ困難だ。
耳に入るのは、不快な粘ついた音と自分のかすれた吐息のみ。
無意識の内に、美神は後ずさっていた。


――――ずぶぅ じる じゅ ずず ず ぶじゅ


通路の先から、緩慢な動作で、影の主が美神の前に姿を現す。
かろうじて人間の形こそとってはいるが、アメーバ状に変化する不定形の身体。
窪んだ眼窩の奥に潜む、陰湿で淀んだ光を放つ瞳。
霊感を失った美神でさえハッキリと知覚できる程の、異常なまでの質量をともなった悪霊がそこにいた。

『おぉ……んな……』

美神の前に現れた悪霊は、うわごとのようにひび割れた声で呟く。
その瞳は、美神を捉えているのか、それとも別の何かを見ているのか。
焦点の定まらぬ視線からは判別できない。

『おん、なぁ……ぉおんな……』

焦点が定まっていなかった瞳が、徐々に一点に集中し始める。
美神の呼吸は荒くなり、その鼓動は張り裂けんばかりに早鐘を打つ。
目の前の相手は話が通じるような相手ではない。
霊感を失っていようと、過去の経験がそう告げているのだ。

『女だぁ…女! ギャアハハハァハハハハハッハァッ!!』

天を仰ぎ、悪霊が狂ったように耳ざわりな笑い声を上げた。
美神を完全に捉えたその瞳に、凶悪な眼光が宿る。
次の瞬間、狂気に身をよじらせ、猛然と美神に襲いかかっていた。





備えはある。
霊力を持っていた頃、あれだけ無茶な仕事をしていたのだ。
生きている人間、死んでいる人間にかかわらず、自分に敵意を持っているモノは数えきれないだろう。
だからこそ、どんな相手であろうと、常に自分とおキヌの身を護れるだけの備えはしてある。

火薬の力で高速で射出される、研磨済みの精霊石の弾丸。
相手が人間であろうと霊体であろうと――それこそ魔族であろうと――打ち倒す事が可能な、万能の道具、精霊石銃。
使用するのに霊力は必要とされず、引き金を引くだけで敵を滅ぼす事ができる。

「私に何の恨みがあるのか知らないけど……こっちはあんたに構ってる暇は無いのよ!」

霊体といえど急所はある。
経験上、たいていの悪霊は核が頭部にあると知っていた。
飛びかかる悪霊の頭部に狙いを定め、引き金を引く。

――――ガギッ

「え!?」

身構えていたのは、火薬が炸裂する音とそれに伴う衝撃。
だが、美神の引き金は、何かに引っ掛かり引く事ができない。

『イヒィハアヒャヒャアアァァッ!!』

悪霊が壁に突っ込み、壁に大穴を穿つ。
とっさに飛びのいた美神は、その威力を目の当たりにし、冷や汗を浮かべた。
この悪霊は、ただの低級霊ではない。
依頼であれば、安くても数千万は報酬を要求できるような、特に危険なタイプの悪霊だ。
だが、そんな悪霊が何故こんな場所に?

そんな事を考える余裕は無い。
たちこめる埃の奥で、悪霊の眼が鈍い光を放っている。
しかも最悪な事に、こんな時に限って銃が弾詰まりを起こしたらしい。
どんなにマメに整備をしていても、どうしても銃にはこういうアクシデントが付きまとう。
だからこそ、自分が現役の時は、銃ではなくボウガンを使用していたのだ。

しかし、今そんな事を言っても仕方が無い。
銃が使えないのならば、別の手段で対処するしかない。
美神は不利を自覚しながらも、精霊石を埋め込み対霊体用の改造を施した警棒を構え直していた。




















視界の先では、先回りされたパトカーに道を塞がれている。
どれだけ状況を高速処理できようとも、物理的にスペースが無い場所を踏破できる訳ではない。

後方から追いすがるパトカーも徐々に距離を縮めて来ており、ここで速度を落とせば、逃げ切る事は不可能だろう。
頭を突き合わせる形で道を塞ぐ、前方の二台のパトカー。
その真ん中にソーサーを撃ち込めば、道を切り開く事は可能だ。
左手にまとわせていた霊力を圧縮凝固し、円盤状の霊力を形成させる。

吹っ飛べ!

既に横島の眼は狩る者のそれに変わっていた。
円盤を高速で回転させ、速度と威力を飛躍的に向上させる。
もはや凶器と化したそれを投げつけようとしたその時、腰に回された手にギュッと力が込められた。
そこでようやく気が付いた。その手が小さく震えている事に。

頭に上っていた血が一気に冷め、握り込んでいたアクセルを戻す。
おキヌを後ろに乗せたまま、自分がしようとしていた事に気付き、全身の血の気が一気に引いていた。
緩やかに速度を落とし、ついには停止したバイクを、追いついたパトカーが完全に包囲した。




















キンと澄んだ音をたて、ひしゃげた警棒が廊下に転がった。
埋め込まれていた精霊石は砕け散り、既にその光は失われている。

『アヒャァアァ……女ァァ……オレのモンだァァ……』

かろうじて人の形を保っていた霊体は膨張し、繭のような球体へと変化していた。
粘つく霊体が四肢に絡みつき、飲み込まれた美神の自由を奪う。
繭の中で壁に押し付けられ、苦しげに呻く美神に、悪霊は満足げな笑みを浮かべる。
大の字に磔にされた美神が逃れようと必死にもがくが、霊力が失われた肉体では悪霊を振りほどく事など出来ない。
腹の中でもがく美神を、悪霊が歪んだ眼光で見下し笑う。

『あったけぇぇぇぇ……やぁぁらけぇぇぇぇ……オレんだ……オレのモンだァァ……』

絡み付いていた霊体が、美神のブラウスを掴み、乱暴に引き裂く。
温かみなど感じぬ、泥のような感触が素肌にまとわりついてきた。

「こ……の……ッ!」

肌を舐めまわされるような不快感に、美神が一層激しく抵抗するが、僅かに身体をよじる程度しかできない。
その間にも細長く枝分かれした霊体は肌を這い進み、腕を伝いわき腹から胴体へと伸びていた。
細長く枝分かれした無数の霊体は、まるで愛撫でもするかのようにわき腹から乳房へと這い上がる。

『アヒャァハァ! 硬くなんなよォ……一緒に楽しもうぜェ……!』

気力だけは負けまいと悪霊を睨み返した時、目と目が合った美神はようやく気付いた。
違う。この悪霊は違う。これは自分に取り憑こうとしているのではない。
この悪霊の目は、違う。この目は。この脂ぎった目の光は、まるで――――

美神の脳にフラッシュバックするのは、アーレ・ルギア解放戦線から救い出した時のシルキィの変わり果てた姿。
この悪霊は自分を犯そうとしている。それも魂を、ではない。肉体をだ。

そう気付いた瞬間、まったく別の種類の恐怖が美神を貫いた。
霊体が人を襲うのは、肉体を奪い自分のモノにするためだ。
たまに低級霊の中に色情霊が存在するが、そんな霊はたいした力を持たず、相手が霊能者でなくても手を出せないようなモノばかりだ。
そうでなければ、霊能力を持たない女性など一方的に餌食にされてしまうだろう。

だが、この悪霊は違う。
まるで人間の男のように、好色な目で自分を見ている。
それを意識した途端、自分にまとわりつく霊体が、まるで何人もの男にまさぐられているように感じられた。
相手の意図を理解したその時、美神は初めて叫び声を上げていた。

「やぁぁ! いやぁぁぁぁ!!」

ほとんど言葉になっていない、本能的に救いを求める声。
今までどんな危険な除霊の最中でも、こんな悲鳴を上げたことはなかった。


――――美神の理性を飛ばしたのは、穢れる事への恐怖か?
否、その程度の事は些事だと切り捨てる事が出来る。
シルキィの献身を知った今なら尚更だ。

ならば死への恐怖か?
違う、そうではない。
今この瞬間、美神の感情を埋め尽くしているのは過去の傷跡。
四年前の、あの夜の結末が――――


『ダァメだなぁぁぁぁ! オレの好きにして良いって約束だァからなぁ!!』

美神の悲鳴は、むしろ悪霊を喜ばせるだけだった。
だが、その悲鳴が自分に向けられたものではない事など気付いてもいない。

ぬるりとした感触が背中を滑り降り、尻を伝い太股に絡みつく。
太股から足先へと絡みついた霊体は、両脚を左右に押し開かせようとまとわりついていく。
必死で美神が抵抗するが、霊力を失った身体ではどうにもならず、強引に脚を開かされた。
一番大切な部分を無防備にされた姿勢に、悪霊がより一層下卑た笑い声を上げる。

『さあぁぁたっぷり楽しもうぜェェ! 夜はまだまだァこれからだよなァァ!!』

引き千切られた白い下着が床に落ち、美神の叫び声が廊下に響いていた。




















「美神女史はまだ来られていないようですね。そろそろ時間なのですが、参りましたな……」

記者会見が終わり、次は国の役人との打ち合わせが控えていた。
役人達の前で、一人待つおキヌはきょろきょろと周囲を見渡している。
役人をテロから護るためのSPに加え、六道から派遣された人間が警備を担当しているため、対霊の警護も万全だ。
少なくとも、ここは今日本で一番安全な場所だろう。

「おや、彼女はまだ来ていないのですか。時間に遅れるとは意外ですな。」

ぼんやりと佇むおキヌに話しかけてきた、白髪を撫で付けたグレースーツの老人。
会った覚えの無い相手に、思案するようにおキヌが小首を傾げていた。

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