Amazon Yahoo 楽天 NTT-X Store


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 転職 海外旅行保険が無料! 海外ホテル

DAWN OF THE SPECTER 15

丸々&とおり

足音が段々と近くなってくる。
シルキィは楽屋の扉に背を預け、襟元を指でなぞり、乱れた灰色のコートの皺を伸ばしていた。
ふぅと溜め息をつきながら、一つ一つ丁寧に。
この真夏の時期、冬物の――フードまで付いた――ロングコートを着ていてもシルキィは全く意に介せず、あくまで涼しげだった。
異様を感じさせるその立ち居姿には戸惑いや迷いなどなく、あくまであるがままに凛と立ちつくす。
皺をある程度整えた頃、足音の主がシルキィの前に現れた。
人並み外れた巨躯の男、両頬には入れ墨であろうか、2本の黒縞が走る。
彼とシルキィが向かい合うと、シルキィは余計に小柄に、儚く脆く見えた。
男が辺りに鋭い視線を配り口を開こうとした時、遮るようにシルキィが頭を下げた。

「ごめんなさい」

深々と頭を下げる少女に、男は気づいていなかったのか。
唐突な謝罪にも事態を理解できず、彼女を見ては訝しげに首を傾げる。

「ど、どうしたんジャー?」

しばらくして、この少女がおキヌと話しているのを思い出した。
そうだ、遠目で見ただけだったが、この特徴的な服装は忘れようが無い。

「トラップが作動したんで駆けつけたんじゃが…」

辺りに人影は無い。
少女以外には。
一体どうしたことか考えあぐねていると、頭を下げたまま、少女が男に向けて手を差し出した。
手の平に乗せられた砕けた黒い水晶のような物体を目にし、男が眉を寄せる。

「綺麗だから見ていたんだけど、間違えて落としてしまいました。
きっと大事な物だったのでしょう? 本当に、ごめんなさい。」

それは男が仕掛けておいた、心理トラップの核となる呪術を込めた水晶。
楽屋の前の床に仕掛けておき、この部屋に近付こうとしたものを捕らえるためだった。
あくまで外から来る者への罠だったので、内から出る者へは無反応だ。
念を入れて、トラップは水晶から少し離れた場所で発動するように設定していたが、この少女にはきちんと伝わっていなかったのだろうか。

「……まあ、仕掛けに関しては、もう一度仕掛直せば良いだけの話しじゃノー
じゃが、ワシはさっきトラップが発動したと感じたからここへ来たんじゃ。
もしかして……何かあったンか?」

男の視線は少女の後ろの扉に注がれている。
さっき自分が感じたあの感覚は、本当に核を割られたためなのか。本当は罠が発動したのではないか。
そもそも、あの水晶がそう簡単に割れるとは思えない。
絶対に割れない、とは言い切れないが、かと言って少し手元から落としたくらいで割れるような代物では無い筈だ。
そう、それこそ足で踏みにじったりでもすれば別だろうが。
少女が扉に背を預けているのも、何かあったからではないか。
男は、そう勘ぐっていた。
ところが。

「本当に……ごめんなさい……」

つと顔を上げた少女と男の視線が交錯する。
不意に少女の碧い瞳からじわりと滲んだ。
溢れ出した涙が少女の頬を伝い、冷たい床に雫が落ちる。
だが、それを拭おうともせず、ただ繰り返し繰り返し許しを乞う。

「本当に……ごめんなさ――――」

「ま、待ちんしゃい! 涙は苦手なんジャー、勘弁して欲しいケン。
水晶を壊してしまったのを責めるつもりも無いしノー。」

男はなにより女性が、もっと言えば女性の涙などは理解の範疇外であった。
慌てて場を取り繕うとしても、少女は涙を止めることはなく。
もう一度少女は深々と頭を下げる。

「…起きてしまった事は仕方ないケン。
気にしすぎるのはよくないんジャノー」

男は言葉を続ける。
彼が示すことの出来る、精一杯の優しさ。

「ただし、もう一度仕掛けを設置し直さなければいかんケン。
しばらくここで作業させてもらうが、構わんジャろう?」

少し間が空き、抑揚の無い言葉で少女が答えた。

「……はい。お願いします。」

男が慌てていなければ、涙などすっかり止まっていることに気づいたかも知れなかった。




















うん。わかってる。わかってるはずよ。
これは夢じゃない。だけど現実でもないって。
私が失くしてしまった本当の、本当に大事な、大切な時間。それが今ここにあるの。
だから、もう少しだけで良いの。もう少しだけここに居させて。
仮初めとわかってはいても、心地よい思い出に、浸っていさせて欲しいの……。

「こぉら、あんた達! 何時までも遊んでないでさっさと除霊の準備しなさい!
ほら横島君は道具の確認! シロは確認が済んだ荷物を車に運ぶ!
さぼってると今日の御飯は抜きにするわよ!」

そうだったなぁ。横島とシロが遊んでて。いっつも美神さんが叱ってて。
二人とも御飯抜きって言うと慌てて仕事してたっけ。本当に単純なんだから……

「まあまあ、美神さんもそれくらいで良いじゃないですか。
横島さんもシロちゃんも、すっごい頑張ってくれてるんですし。」

あはは。美神さんが怒ったら、おキヌちゃんすかさずフォロー入れてたのよね。
こうして見てみると、見事な飴と鞭だったみたいだけど。
しかもそれを素でやっちゃうんだから、おキヌちゃんは凄い。それに挫けない美神さんも凄いけどね。

「くぅー! おキヌちゃんは優しいなぁ!
薄給でこき使う美神さんとは大違いだ!」

せっかく治まりかけた火に油を注ぐんだもんなぁ。毎回毎回、学習って言葉を知らないのかしら。
素でいることにも善し悪しはあるけど、こっちは確実に悪い方ね。どういう頭の構造してるんだか……
あ、やっぱり殴られた。横島は馬鹿ね、ホントーに。
だけど、それがとても楽しくて、面白かった。

「荷物は全部運び終わったでござる。
さあ、いつでも出発できるでござるよ――――って先生がヒドイ事に!?」

で、嵐が過ぎ去った頃に戻ってくるのよね。シロって意外と要領良いのかな。
弟子としては師匠を助けるべきではあるんだろけど。
まあ、そもそも美神さんを怒らすのは横島の仕事みたいなものだし。シロはおまけってとこか。
おまけの割には、いつも一番ご飯食べてたけど。
ぼろ切れみたいに転がった横島を見たシロが騒いで、また美神さんが怒って、それをおキヌちゃんがフォローして。

本当に、皆が皆同じような事を繰り返してるだけなのに、なんでこんなに楽しいんだろう。楽しかったんだろう。
どうして、この生活が何時までも、ずっと。続かなかったんだろう――――?




















「本当に大きくなったな、シロ。」

「ちちうえ…?」

懐かしい匂い、仕草、声、そしてこの姿。見間違えよう筈もない。
けれど、だからこそ、これが現実ではないと思い知らされる。
決して死者はよみがえらない。決して。
父上は、武士の誇りを抱きながら。立派に戦って逝った。
だから、この父上も。本物ではないのだ。

「それに綺麗になった。お前は覚えてないだろうが、母さんにそっくりだぞ。
昔はあんなに小さくて、まるで男の子みたいだったのになぁ。」

頭ではわかっていても。
これが現実ではない、幻であるとわかっていても、とめどなく溢れてくる涙を拭う気にもならなかった。
自分をふうわり包んでくれる、頼もしく大きい人がいる。

夢でもなんでも構いはしない。
ここに居てくれるのだから。
父上が、暖かい父上が目の前にいてくれるのだから。

「せっかく道場にいるのだし、久しぶりに稽古をつけてやろうか。
昔は基本程度しか出来ていなかったが、今は違うのだろう?」

それは何よりも望むところ。
基礎を習いはしていても、剣術の師に着いたとはしても、自分は父上の剣を継承できなかった。
その忸怩たる想いを、強く強く叩きつけたい。
叩きつけて跳ね返ってきたモノを、全て自分のモノにしてしまいたい。

「踏み込みが浅いぞ!
手数に頼るのではなく討てる機会を見逃すな!」

やはり、父上は凄い。
片目が使えないというハンデをまるで感じさせない。
打ち合う霊波刀の切っ先も、迷い無く隙を突き、犬神の身体能力を活用した幻惑も父上には全く通用しない。

「目だけで追うのでは無い!
五感を解放し全身で敵の動きを感じ取れ!」

確かに、剣筋は完全に見切られている。
経験の差……だけでは無い。拙者とて美神殿の事務所で実戦を積み重ねてきた。
最前線で戦い抜いてきたのだ。
一瞬の判断が生死を分けるシビアな状況で、とにかくも生き抜いてこれた。
まったく一人の手柄だとは言わないまでも、自分は確かに成長してきたはずなのだ。
それがこうも簡単にあしらわれるという事は、何かきっと、理由があるに違いない。

「犬神の超感覚は追跡のためだけではない!
我らは武士。剣術においても感覚の全てを駆使するのだ!
相手の筋肉の軋みを聴き取り、殺気を嗅ぎ取り、空気の流れを感じ取り、そして動きを見切れ!」

そんな事が出来るというのか……!
いや、犬神の超感覚を自分のモノに出来たのなら、もしかすると可能なのかもしれない。
だがこれこそ、言うは易し。行うは難し。
何故なら、自分が視覚のみに頼るようにしているのには理由があるからだ。

犬神の超感覚を解放すれば、全身の感覚器官から、膨大な量の情報が一挙に押し寄せる事になる。
そして今、自分にはそれを処理しきれるだけの能力は無い。
脳が処理を行う前に反射的に動くだけの経験もない。
戦の場では一瞬の遅れが致命傷に繋がってしまう。
故に自身の感覚を開放することは、かなりの危険を伴ってしまう。

――――だが。
父上は言っていたではないか、己の可能性を信じろと!

「相手の発する全てを感じ取れ!」

この夢幻世界の中で父上に倒されることも、もう厭わない。
おキヌ殿に与えていただいた、希有な機会を逃すことは決して出来ない。
この瞬間、この世界をモノにしなければ、自分はずっと、後悔したままだろう。
これからもしっかり自分が大地を踏みしめられるよう、前を向いて。

「これが…本来の感覚…?!」

恐ろしさすら覚える。
開放しきった超感覚は、相手の動きを、父上の動きを、丸裸にしていた。
呼吸の間合い、筋肉が軋む音から次の動作を見切り、そして殺気として放たれる光の筋を読み取る。
相手の感情の起伏を頭ではなく肌で感じ取り、相手の発する全てを己の内に取り込む。

「どんな些細な事であろうと感じ取れ! そして、己が放つ気配も見逃すな!
それが出来て初めて、我が流派の極意を得る事ができる!」

極意――――?
これ以上の先があると言われるのか。
え……父上の音が、消えた……?

「己が発する全ての兆しを絶ち、一撃の下に相手を討ち倒す。
これこそが、我ら犬神の奥技! あらゆるものを屠る、狼の牙!!」

衝撃が襲う。
数瞬遅れ、肺から空気が押し出され、更に痛みが全身を駆けめぐる。
う、ぐッ……!
馬鹿な…。
今の拙者をもってして影を捉える事すら叶わぬとは……。
これが、これこそが真の犬神の力……!!




















静かに後ろ手で扉を閉めると、シルキィはソファーにゆっくり腰を下ろした。
扉の向こうから死角になるよう部屋の隅に身を潜めている横島に、ちらり目をやる。
先程の会話は横島にも聞こえていた。
横島は思いがけない人物に驚いていたが、今は姿を晒す気は無い。

話の内容から察するに、タイガーはこの会場の警備を担当しているようだ。
となると、たとえ昔の友人とは言え四年前勝手に姿を消した事を抜きにしても、不法侵入者の自分が歓迎される訳がない。
今この場に自分が潜り込んでいると知れば、立場上見過ごす事は出来ないだろう。
余計な手間をかけさせるのは、横島としても本意ではなかった。

「……何時までそうしているの。こちらへ来て、話でもどう?」

何とか横島が聞き取れる程度の、小さな、囁くような呼び掛け。
聞こえないのか、それとも聞こえない振りをしているのか。横島は動こうとしない。

「聞こえないみたいね……それなら、もう少し大きな声で呼ばないと駄目かしら。」

『大きな声』――その言葉の意図を察した横島が小さく舌打ちする。
ぎりと歯を軋ませ、横島は渋々ながらシルキィの対面のソファーに腰を下ろした。
だがそれ以上は譲歩すまいと、拒絶の意志を示すかの如く顔を伏せ、シルキィと目を合わせようとはしない。

二人の間には音もなく時間ばかりが過ぎ去っていく。
横島はタイガーが立ち去るまで待つつもりだったが、ふと影が差したのを感じ顔を上げた。
何時の間に移動していたのか。
シルキィが横島に気取られることなく、眼前に立っていた。
小柄なシルキィだが、座っている横島を見下ろせるくらいの背丈はあった。

「魔族の欠片が混じった魂……本当に珍しい魂ね。
美しさにおいてはマスターの足元にも及ばないけど、貴重さだけで言えば大したものだわ……」

感情の起伏が窺えない、無表情と言っても過言ではないシルキィの口元が薄笑みを形どる。
あの最初に自分を見た時の、床に落ちたゴミでも見るような冷めた視線は影も形も無く、横島の目を見つめるシルキィの碧眼は熱に浮かされたように妖しく揺らめいている。

「……黙れ。」

「肉体と魂は互いに繋がり合い混じり合っている、という事くらいは知っているわね。
極めて不安定な魂にもかかわらず、肉体に異常も無く過ごせるなど、本当に珍しいわ。
そして自我を崩壊させずに恩恵のみを享受できているなんて、まさに奇跡。」

「……黙れと言ってるだろう。」

「ああ、これは失礼。全く異常が無い、という訳ではないのよね。」

シルキィの口元が僅かにつり上がった。
その言葉とその嘲りにも似た笑みを目にし、横島の瞳孔が一際大きく開いた。
激昂し立ち上がりそうになったが、拳を握り締めて湧き上がる衝動を必死に押さえ込み堪える。
歯を食いしばり、シルキィを無言で睨みつける事しか横島には出来ない。

少しの間そうしていたが、不意にシルキィの顔から嘲笑が消え、最初に出会った時の冷淡な無表情へと変わる。
あまりに不自然な突然の表情の変化に、噛み付かんばかりの勢いだった横島も、思わず呆気にとられた。
シルキィは一度扉の向こうへ視線をやり、また横島の目を見据え、ぽつりと呟いた。

「……そう。どうやら、貴方は本当にマスターの事を思って行動しているようね。
過去を引き合いに出したのは謝るわ……もう、しない。」

訳がわからず怪訝な顔の横島に、シルキィは言葉を続ける。

「私が見たのは、過去に貴方が体験した映像のみ。
今現在、貴方がどういう思惑で行動しているのかまではわからない……心は読めないから。
だから……貴方が簡単に感情に流されるのか、冷静に己を律する事ができるのか、試させてもらった。」

黙り込み、至近距離で見詰め合う二人。
互いの緊張からしんと静まり返った部屋には、カチカチという規則正しい時計の針の音だけが響いていた。

横島は頭を冷やし考えを巡らせる。
どうやら挑発されていたらしいという事はわかったが、それは一体何のためなのか。
そもそも、四年前にはいなかった、この少女の姿をした何かは一体何者なのか。

「お前は一体、何なんだ……?
さっき、おキヌちゃんの使い魔だと言ったが、それが事実なら何の理由でおキヌちゃんの使い魔になったんだ。」

ネクロマンサーは黒魔術師のように使い魔を使役するような類の霊能者ではない筈だ。
召使が欲しいというのなら、浮遊霊なりを使役すれば済むだろう。かつてのおキヌがそうであったように。
黙秘するかと思ったが、意外な事にシルキィは素直に話し始めた。

「私は古い精霊の一種。神族や魔族とは違う、妖精のようなものだと考えてもらって構わない。
私に出来る事は、魔具の製造。それも、音を奏でる……所謂『楽器』を造り出す事を得意としているわ。
この姿は土塊から造り出した仮のモノ。私は定型の姿を持たないのだけど、マスターに同行するために便宜上この姿を使っているの。」

――――楽器。
そう聞いてもピンと来なかったが、すぐにネクロマンサーの笛を指しているのだろうと気が付いた。

「マスターは望んだわ……より多くの魂を救う力を。
だから私は手を貸した。マスターが望む力を与えるため、より強く魂に干渉する笛を造り出した。
その力は、上の階の観客達が今この瞬間にもその身で体験しているはずよ。」

上の階。シロとタマモが居る事を思い出し、横島の表情が険しくなる。

「……上には俺の連れもいるんだ。
このコンサートで行われるのは、ただの演奏じゃないのか?」

おキヌ主催のコンサートだ。
危害を加えるようなものである筈がない。
だが、シルキィの言葉に横島は得体の知れないものを感じていた。

「彼らは、彼らが心から望む瞬間を追体験しているわ。
人によって差異があるけど、故人との邂逅や、過ぎ去ってしまった瞬間の再現などでしょうね。
それらは失われた、もう戻らない事実ではあるけど……マスターは笛を通じて聴く者の魂と己の魂を連結し、傷ついた魂を癒しているのよ。
その人が望む瞬間を追体験させる事で、過去と決別できるよう手を貸して、ね。」

「いや、ちょっと待て……そんな事は不可能だ。
いくらネクロマンサーの笛が霊魂に干渉する力を持っているからと言って、それは人間一人に出来る業を遥かに超えているだろうが。」

耳を疑うような言葉に、思わず横島はシルキィの言葉を遮っていた。
今の話の内容は、ヒーリングなどというレベルを遥かに超越しているのだから。

「何故そう思うの……?
それを言うなら、かつての貴方の能力だって、人の業を超えている事に変わりは無いのに。」

「そりゃあ……言葉では上手く説明できないけど、そんな事は無理だ。
今日この会場に集まったのは恐らく三万人はいた筈だ。そいつら全部と魂を連結するなんて、出来るとは思えない。
『魂を連結する』っていう原理や理屈はさっぱりだが、そんな事をすれば絶対におキヌちゃんにとんでもない負荷が圧し掛かる筈だ。」

自分がかつて持っていた力――――文珠。
あれも規格外の能力だと思うが、その代償として厳しい制限があった。使用できる数があまりに少ないのだ。
力にはそれに比例して制限や代償が付き纏う事を、横島は理解していた。
だが、シルキィは小さく首をかしげる。

「負担は、ある。でも、それが理由で不可能になる訳じゃない。
確かに貴方には無理かもしれない。でもマスターには出来るの。
マスターは自分が辛くても他人を救う事を選ぶ人……それは貴方も良く知っている筈でしょう。」

正解だ。
自分の知るおキヌは、そういう性格の女の子だ。
それは横島も認めざるを得ない。

「マスターは色々なモノを失ったわ。でも、その代償にマスターは何千万という霊魂を救済してきたの。」

軽々しく飛び出した数の単位に、目を見開き絶句してしまう。
それだけの数の霊を除霊するなど、出来る出来ないの話以前に、想像する事さえ出来なかった。

「過去の大戦……あの大霊障……マスターの力を借りたいと願う人間は世界中にいる。
そして、求められたならマスターは全力で応えようとするわ。貴方の記憶にあるマスターも、そういう人でしょう。」

その通りだ。
自分にどれだけの負担が圧し掛かろうとも、困っている人を、助けを求める人を見過ごす事が出来ない。
不器用な生き方だ、などと陰口を叩く奴もいるかもしれないが、その優しさこそが彼女の本質なのだ。

「……ああ、そうだな。おキヌちゃんはそういう優しい女の子だ。
どんなに負担が圧し掛かってきても、おキヌちゃんはきっとそれに耐え抜いて他人を救う事を選ぶよな。
世界中を飛び回る破目になって、自分の自由がなくなってしまうとしても、おキヌちゃんなら人を救う事を選ぶんだ。」

話の区切りがついたのだろうか、シルキィは横島に背を向け、自分もソファーに戻ろうとする。
だが、肝心な事を聞いていなかった横島はその華奢な肩を掴み引き止めた。

「……重要な事をまだ聞かせてもらってなかったよな。」

肩越しに振り返ったシルキィは、横島の瞳に浮かぶ冷たい光に身を硬くした。
それは先程の、火傷しそうな激しい怒りとは正反対のもの。

「お前は、何を『条件』におキヌちゃんの使い魔になった……?
もしも、お前が彼女の命や魂と引き換えに従っているのなら……」

全てを凍てつかせ、粉々に粉砕するかのような絶対的な死の気配。
一欠けらの偽りさえも見逃さぬ、鷹の瞳がそこにあった。
横島の過去を覗いたシルキィにはわかっていた。
もはやこの男は昔の間の抜けた少年ではないと。

その本質は何百もの人ならぬ存在を、その手で引き裂き滅ぼしてきた狩猟者なのだ。

「私が提示した条件は、唯一つ……先程、貴方にしたように、マスターの魂を観賞させて頂く事のみ……
貴方が心配しているような、マスターの死後、あの人の魂を己が物にするというような類のものではないわ。
それをマスターは受け入れ、私は美神令子が用意した誓約書にそれを条件に署名した……決して逆らえない誓約書に、ね。」

美神令子の名が出た時、僅かだが横島が視線を外した。
だが、それもほんの一瞬の事。すぐにまた視線をあわせ、説明するよう言葉を続ける。

「つまり、覗きが趣味って事か?
それは、お前にとってどんなメリットがある。」

「……人間にはわからぬでしょう。マスターの魂がどれほど稀有な物なのか。
彼女の魂は三百年もの時を越え、再び生を受けたのよ……転生などではなく、同一の魂がね。
言っている意味がわかるかしら……?」

「ああ、さっぱりわからねぇな。俺にもわかるように説明しろ。」

シルキィは自分でも驚くほど素直に話していた。
認めたくないかもしれないが、横島の迫力に気圧されていたのだろう。

「こう言えば、わかるかしら……?
マスターはあの聖人と同じ事をやってのけたの。
完全なる死からの生還。それは魂にどんな修行も足元にも及ばない、極上の輝きを与えるのよ……」

横島がハッと息を飲んだ。
キリスト教徒ではないが、あの有名な逸話は横島とて知っていた。
無表情な筈のシルキィの瞳に、恍惚とした光が浮かんでいるように見えるのは気のせいだろうか?

「私は見てみたい……マスターの魂がどこまで輝きを高めていくのか……
その全てを、私はこの目で見届けたい……」




















「いやぁ、今日の除霊も楽勝でしたね〜。
俺もバッチリ大活躍でしたし、御褒美に何か美味いモン食わしてくださいよ〜♪」

うん。まあ、立派に囮役として活躍してたわね。
何十体もの悪霊と追いかけっこしてた割には随分元気だこと。

「なぁーにが『バッチリ大活躍』よ。あんな下級霊相手に文珠二つも使って、馬鹿じゃないの?
そろそろ、ちゃんと霊符や霊具の扱い方を勉強しなさいよ。まったく……」

そう言えば、横島が神通棍とかお札を使ってるとこなんて見た事無いような気が。
少しでも危なくなると文珠使ってるもんね。結界札とか破魔札とかで代用できる時も文珠使うんだから、確かに勿体無いかも。

「そ、そんな事言われても! あんなに大量に押し寄せてきたら普通パニクるでしょッ!?
文珠なら元手もかからないしすぐに使えるんだから、別に良いじゃないッスか!」

まあ、ねぇ。何億もするような精霊石や、何千万クラスの破魔札使うよりは安上がりよね。
二、三日で一つしか出せないって言ったって、依頼も毎日ある訳じゃないもんね。

「あんたねぇ……元手がかからないのは大いに結構だけど、代わりに数が限られてるでしょ。
そういう切り札は、いざって時のために取っておくもんなのよ。それがプロってもんなんだから覚えときなさい。」

意、意外……まさか美神さんが採算を二の次にするなんて……
明日は嵐でも来るんじゃないかしら。

「美、美神殿がタダで使えるものを使わせないとは……!
むぅ……明日は嵐でござろうか……」

気が合うわね、シロ。
でも、そういう事は口に出しちゃ駄目なのよ?

「良い度胸ねシロ。あんた今日は晩飯抜き。」

ほら、言わんこっちゃない……

「あ、ああ、そんな殺生な! ちょっとした言葉のアヤでござるよぉ〜!」

何もそんな本気泣きしなくても……
別に一食抜いたからって死にはしないわよ。

「まあまあ、美神さん。シロちゃんのちょっとした冗談じゃないですか。
でも、美神さんがそんな事言うなんて、私もちょっと意外かも。」

えへへ、って可愛く笑えば許されるのがおキヌちゃんなのよね。
ほら、美神さんも溜め息つくだけで怒らない。

「まったく、おキヌちゃんまで……
そりゃあ私も経費節減は第一に考えてるけどね。
それでも、安易に文珠に頼ってるようじゃこれ以上成長できないって言ってるの。」

へえ……ちゃんと横島の師匠らしい事も考えてたんだ。
あの頃は全然気付かなかったけど、育てる気はあったって事か。

「そんなの、別に良いじゃないッスかぁ♪
これからも俺がサポートして、美神さんがトドメを刺すって事にしましょうよ。
その方が絶対に確実ですし〜。」

また能天気な笑顔浮かべて……あんたには成長しようって意志が無いの?
でも、今のやり方が一番安定してるのも確かなのよね。私も美神さんと横島の連携は凄いと思うし。

「……そろそろ、私も楽に仕事したいのよ。
って事で、次から私は指示出しに徹するから、シロとあんたが前衛ね。しっかりやりなさいよ?」

……ああ、そうか。そうなんだ。
もう、この頃から美神さん……自分の力が無くなりつつある自覚があったんだ。
それなのに、私はその事に気付こうともせずに。

――――気付こうともせず?

「おお! ついに拙者が活躍する時がきたのでござるな!
拙者と先生がいれば、どんな相手でも軽く捻ってやるでござる!」

違う。

「シロちゃん、浮かれて怪我しちゃ駄目よ。
ちゃんと美神さんの指示通りにやるんだからね?」

気付く訳、無いじゃない。

「おキヌちゃん……シロの心配も良いけど、俺の心配もしてね。」

だって、私何もしてないじゃない。
何時も距離を置いたところから様子を窺って。
そんなんで、何かわかる訳無いじゃない。

「タマモー? そろそろ行くわよー?」

そうよね。一歩引いてるようじゃ、何もわからないのよ。
なら、そうなら。これから私がやるべき事は――――




















アリーナの全景を一望できるよう天井に造られた監視スペース。
幾重にも張り巡らせた精霊石結界の中心に、ライフルを肩に担いだ一つの影があった。
魂への干渉を防ぐための結界だが、純粋に音色としての演奏は届いている。
生前は名だたる演奏家だった彼らの演奏は、心の壁を軽々越えて魂に響く。
だが、ライフルのスコープ越しに油断無く客席の様子を監視するその女性の表情は険しかった。

「どうやら、全員眠りに落ちているみたいね。
演奏による魂への干渉はそう簡単に防げないんだし、問題は無い筈なんだけど……」

油断は出来ない。
数年前、ほんの少しのミスからおキヌをテロリストに誘拐されてしまった。
未だにあの時の顛末を完全に把握している訳ではないが、あの事件は彼女の油断が招いた事だった。
あの苦い経験を、決して忘れる事は無いだろう。

精霊石結界から客席の様子を監視し続ける。
スコープを覗き込んでいると、突然視界に知った顔が飛び込んできた。
上の階のVIPスペースで肩を並べて眠る二人の少女。
少女、と呼ぶには少々成熟しているが、彼女にとってはやはり二人は今も少女のままだった。

「シロも……戻ってたのね。それにしても二人ともいい女になっちゃって。」

穏やかな口調で、亜麻色の髪の女性が呟く。
少女達の頬を伝う涙を目にし、口元を僅かに緩ませた。

「大丈夫……目が覚める頃には、きっと辛い事を乗り越えられているわ。
だから、ちゃんとあんた達は自分の幸せを掴み取るのよ。
私の教え子が不幸になんかなったら、承知しないんだからね。」

そう呟くと表情を引き締め、またも階下の監視へと戻るのだった。




















会場を包み込んでいた、安らぎの空間が徐々に薄くなっていく。
演奏を終えた浮遊霊達は、おキヌに微笑みかけると一人、また一人と姿を消していく。
おキヌの方も、額に浮かぶ汗を拭うでもなく、浮遊霊達に笑顔で手を振っていた。
演奏が終了した事により、魂への干渉も同時に終えている。
それに伴い、眠るように背もたれに身を預けていた観客達も徐々に意識を取り戻していた。

皆、自分の頬が何時の間にか涙で濡れている事に驚きつつも、その事で先程まで自分達が見ていたものが夢であったのだと気付いていた。
喪った者――もしくは時間――をもう一度追体験した感動の大きさから、現実に戻ってきたという実感がないのだろうか、皆呆然とした表情で先の体験の余韻を噛み締めている。
だが次第に観客達も我に返り始め、少しずつ湧き起こった拍手はさざ波となって広がり、やがてアリーナを埋め尽くす程の大音量となりステージ上のおキヌに降り注いだ。

やはりこういう場面は苦手なのか、当のおキヌはいつもの照れたような困ったような微笑を浮かべ、控えめな仕草で観客達に応えている。
全ての演奏が終了し、簡単な挨拶を終えたおキヌが舞台裏に消えた後も、その拍手がしばらく鳴り止むことはなかった。

「お疲れ様、おキヌちゃん。」

一足先に舞台裏に下りてきていた美神が、労わるようにおキヌの汗をタオルで拭っていた。
やり遂げた満足感からか、おキヌも胸を張り笑顔で美神に応えている。
荒く肩で息をしては、時折深く吐きだす。
二時間近く笛を吹き続けたのはおキヌには負担が大きかったのか、用意してあった飲料――柑橘系のフルーツジュース――を口に含み、咽を湿らせるようにゆっくりと飲みこむ。

「あの……どうでした、美神さん。
私、ちゃんと上手くやれてたでしょうか……」

不安げに聞いてくるおキヌに、美神は優しく微笑み、安心させるようにその小さな肩を抱いてやる。

「大丈夫。上から見ててもバッチリだったわよ。
『ちゃんと出来てた』どころか、今までで一番の演奏だったわ。自信持って、おキヌちゃん。」

美神に力強く太鼓判を押され、おキヌも安心したようにホッと胸をなでおろした。

「良かったぁ。初めての日本でのコンサートだから精一杯やらなくちゃってずっと緊張してたんですよ。
学校のお友達も聴きに来てくれてるかも、って頑張っちゃいました。」

てへ、と舌を出して微笑むおキヌとは対照的に、美神の表情がハッと強張った。
だがその強張った表情もすぐに微笑で隠され、何気ない口調で美神がおキヌに尋ねた。

「ねえ、おキヌちゃん。誰か聴きに来て欲しい人でもいたのかしら。
もし時間の都合がつくようなら、その子と連絡を取ってみるけど。」

人差し指を顎に当て、考え込むおキヌだったが、すぐに困ったような苦笑いを浮かべた。

「考えてみたら、私って仲の良いお友達とかいなかったのに、おかしいですよね。
妙に張り切っちゃって、なんでだろう。別にいつものコンサートと変わらないのに。
――――え、あれ、ちょっと、美神さん。どうかしたんですか。」

不意に美神に抱きしめられ、おキヌが困惑した声を上げる。
優しい、まるで慰めるような抱擁が理解できず、おキヌは首をかしげている。

「ううん、何でもないの……ただ、ちょっとおキヌちゃんが疲れてるみたいだったから、ね。」

曖昧な言葉だったが、おキヌもそれ以上尋ねようとはせず、自身も美神を抱きしめ返す。

「美神さんって、本当に優しいですよね……いつも、私のために色々考えてくれて……
すっごく感謝してるんです……本当ですよ……?」

目を閉じ、美神の温もりにひたるおキヌから贈られた感謝の言葉。
だが、美神がそれに言葉を返す事はなかった。










「よう、美神の旦那。コンサートの護衛はこれで無事終了した訳だが、俺達はもう上がっちまって良いのか?」

おキヌと美神が舞台裏で少し休憩を取っていると、ふらりと雪之丞が現れた。
特に何事も無く終わったためだろう、体力を持て余し溌剌としている。

「お疲れ様。あんた達が外を警備してくれてたから、私も安心して会場の警備に集中できたわ。
本当は、今回の日本公演の間はずっとあんた達に警備をお願いしたかったんだけど……そっちの都合もある訳だしね。
また縁があったら、次もよろしく頼むわよ。」

誰もが認める超一流の美神からの言葉に、雪之丞もまんざらではないようだ。

「選抜GS試験もなぁ、俺だけなら別に良いんだが……どうせ筆記試験で不合格だしよ。
でもタイガーの奴は受かってるだろうからな。流石に、俺一人だけじゃ仕事にならねぇよ。」

美神が言う『都合』。それは選抜GS試験を指していた。
雪之丞としては自分も筆記試験に受かるものと思っていたため、次以降の公演の護衛は断ってしまったのだ。
美神と雪之丞の話が一段落したと思ったのだろう、それまでじっと黙っていたおキヌが雪之丞の前に進み出た。

「よう、久しぶり――――」

久しぶりだな、おキヌ。
と――先程抱いた疑念を払拭すべく――続けようとしたのだが、その言葉は突然おキヌに手を握られた事で遮られた。
そして、続くおキヌの言葉に、雪之丞は衝撃を受ける事になる。

「警備のお仕事、本当にありがとうございました。
でも、ちょっと意外ですね。こういうお仕事ってもっと大きな方がされるのかなーって。」

何気なく発されたおキヌの、しかし完全に初対面の相手に対する言葉が理解できず、思わず雪之丞の顔が強張った。
それをおキヌは今の言葉に気を悪くしたためと思ったのだろう、慌てて頭を下げた。

「あ、ご、ごめんなさいっ!
私ったらいきなり失礼な事言ってますよね。」

「大丈夫よ、おキヌちゃん。彼はそんな事で怒ったりするような人じゃないわ。
私はこれからの話を彼としなくちゃならないから、ちょっとここで待っててくれるかしら?」

「それじゃあ、先に楽屋に戻っておいて良いですか。
シルキィが一人で寂しがってるかも知れないし……」

「駄ー目。すぐ終わるから、ちょっとここで待っててね。」

その言葉に、拗ねたように頬を膨らませるが、特に不満を口にするでもなく素直に側に置いてあったパイプ椅子に腰を下ろした。

「雪之丞、ちょっとこっちに来なさい。」

「旦那。これはいったいどういう――――」

「いいから来なさい!」

いきなり美神が声を上げた事に驚いたおキヌが目をやるが、その視線を避けるように美神は雪之丞を連れておキヌの目の届かない所まで足早に移動する。





おキヌの視界から外れたところで、雪之丞が美神の手を振り払い、強い調子で詰め寄った。

「――――美神の旦那、あいつはおキヌじゃねえのか!?
かおりや魔理とダチの、俺達と一緒にあの戦いを乗り越えた氷室絹じゃねえのかよ!?」

「黙りなさい……!
そんなでかい声でしゃべってんじゃないわよ……!」

美神は声を荒げる雪之丞の胸倉を掴み、力任せに壁に叩きつける。
腕力なら明らかに雪之丞の方が上なのだが、美神の纏う異様な迫力にたじろがされ、振りほどく事はおろか、それ以上言葉を続ける事さえできなかった。
雪之丞が静まった事を確認すると、美神は手を離し、ポツリポツリと話し始めた。

「あの娘は……確かに皆が知っているおキヌちゃんよ……」

「だったらなんで――――」

またも声を荒げようとする雪之丞をキッと睨みつけ、鋭い視線で制する。
だがその鋭い視線も、まるで何かから逃げるように伏せてしまった。

「そう……あの娘は、確かに皆が知っているおキヌちゃんなの……
でも……あの娘は、皆の事を知らない……憶えていない……ただ、それだけの、事よ……」

そして紡がれる、蚊の鳴くような、消え入りそうな程に小さな囁き。一言一言を、弱々しい口調で吐き出す。
美神らしからぬ、そのあまりに弱り果てた姿に、先程とは別の驚きを雪之丞は感じていた。
あの、アシュタロスさえも出し抜き、思うがままに翻弄したあの頃とはまるで別人のようだった。










観客達が感動の余韻に浸りながら家路に向かい始めた頃、おキヌと美神は連れ立って楽屋へ戻ろうとしていた。
楽屋まで辿りつくと、扉の前でシルキィが二人を出迎えた。
おキヌは膝をつき、出迎えたシルキィを嬉しそうに抱きしめる。
しばらくそうした後、シルキィはおキヌが肩にかけていた羽衣を恭しく受け取る。

「シルキィ、一人で寂しかったでしょう。
いつも言ってるけれど、別に客席の方で待っていてくれても良いのよ。
席だって、シルキィの分くらいはちゃんと用意できるんだから……あ、それとも私の演奏はいっつも聴いてるから聴き飽きちゃったかな。」

「いえ、マスターの演奏を聞き飽きる事などありえません。
ですが、マスターの留守を守る事を寂しいなどと思いませんので。
それに今日は一人で待っていた訳ではありませんから。」

最後の言葉の意味がわからず、怪訝な表情のおキヌと美神を背に、シルキィが扉に手をかける。
キィと蝶番が軋み、ゆっくりと扉が開かれていく。
そこにいたのは、花束を手にぎこちない笑みを浮かべる青年。

「あ、あんた……!
こんなところで何して――――」

「横島さんッ!!」

前回、釘を刺したのを無視した青年の行動に、美神の頬が紅潮する。
どういう事か問い詰めようとしたが、それより先におキヌが青年の胸に飛び込んでしまっていた。
青年は咄嗟に花束が潰れてしまわないように手を開き、そのまま胸に飛び込んできたおキヌの背に手を回す。

普段女性を口説く時に肩に手を回したりしているからだろうか、その仕草は実に自然だった。
だが、やってしまってからマズイと思ったのか、美神に申し訳無さそうに苦笑いを浮かべる。
昔のように二、三発殴られるのではないかと美神の方にちらりと目をやるが、当の美神は驚いたようにおキヌを見ている。

「横島さん……横島さん……!」

感極まり涙ぐんでいるおキヌに、美神が後から声をかけた。

「おキヌちゃん、あなた……横島君を覚えているの……?」

日本での演奏が決まってから。そして日本に着いてから。
意識して横島の名前を話に出さないようにしていた。
だというのに、おキヌは四年の月日など無かったかのように横島をすぐに判別した。
それは美神とっては、全く信じがたい事実だった。

「あたり前じゃないですか美神さん……横島さんの事を忘れるなんて、ある訳ないです……」

横島の胸に顔を埋めたまま、横島を抱く腕に、まるで相手の存在を確かめるようにしっかりと力を込める。
横島の方もおキヌの温もりに心地良い気分だったが、何時までもそうしていても仕方が無い。
おキヌの耳に唇を寄せ、そっと優しく囁いた。

「これ、俺達からおキヌちゃんに……
ここにはいないけど、シロとタマモも客席で演奏を聴いてた筈だよ。」

そう言って差し出されたのは、美しくラッピングされた薔薇の花束。
本当はおキヌ達が戻る前にこっそりと楽屋に置いて立ち去るつもりだった。
だが、タイガーが仕掛けていた罠を回避できなかった。
さらにその後、タイガーが扉の前に居座っていたために立ち去るタイミングを失してしまったのだ。
美神との約束は守るつもりだったのだが、さすがにこれは不可抗力だった。

おキヌは顔を上げると、キョトンとした表情で横島を見上げている。

「シロ……? タマ、モ……?
えーと……その人たちって、横島さんのお知り合いの方なんですか?」

シロとタマモ。
それを聞いたおキヌの無垢な瞳に浮かんだのは、聞き覚えの無い名前への困惑だった。

BACK/INDEX/NEXT