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DAWN OF THE SPECTER 9

丸々&とおり

薄暗い部屋で、僅かに差し込む光が作る影がゆっくりと上下している。
影の正体は、青年。
左手を後ろに回し、右腕だけで体を支えていた。
最大限に腕に負担をかけるため、出来る限りゆっくりと腕立てを繰り返す。
7月の蒸し暑さと鍛錬の過酷さから、全身には玉のような汗が噴き出している。

既に日が暮れているにも関わらず、電気も点けず、かれこれ一時間近くずっと体を酷使していた。
左腕はとうに限界を迎え、残った右腕の方も限界が近付いているのか細かく震えている。
だがそれでも歯を食いしばり、物理的な限界を迎えるまで鍛錬を続ける。
その後も10分ほど続けていたが、とうとう限界なのか、どさりと床に倒れ伏した。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

荒い息を吐きながら、目を閉じ、青年が呼吸を整えようと試みる。
脚、腹、背、首、腕、器具無しで鍛えられる箇所は全て限界まで酷使した。
普段からある程度の鍛錬は欠かさないが、今日のこれは明らかにオーバーワークだった。

「……あー、ちょっとはスッキリしたかも。」

もはや苦痛を感じるレベルまで痛めつけた体に、青年が満足そうに呟く。
体を起こそうとしたが、どうやらしばらく無理なようだ。
汗でまとわりつく衣類は不快だったが、シャワーを浴びるのはもう少し後になりそうだ。

ふと気付けば口の中に鉄の味が広がっており、青年が顔をしかめる。
昼間争った時の傷はまだ完全にふさがっていなかったようだ。
夕方、教会に戻った時に神父にある程度ヒーリングしてもらったのだが、神父には申し訳ないが、おっさんに頬を触られるのが何だか嫌だったのですぐに切り上げてしまった。
おかげで顔の痣はほとんど目立たなくなったが、ざっくりと深く切れた唇はまだそのままだった。
鍛錬により血の巡りが良くなった事と、床に倒れた時の衝撃でまた血が溢れてきたのだろう。

しばらくそうしていると、呼吸も安定し、少しくらいなら体が動くようになってきた。
何とか力を振り絞ると、ごろりと寝返り、仰向けの体勢に体を入れ替える。
今のこの時間、教会に人はおらず、薄暗い室内には虫の鳴く音色だけが響いていた。
リーリーと耳に響く音色を聞きながら天井を見上げ、青年は予想もしなかった昼間の再会を思い出していた。




















「――――ええ、そうね。
会場の警備はいつものように最高レベルで。
私の方でも腕の良いのを雇っておくわ。
――――え、信頼できるのかって?
私が信頼できないような奴を、おキヌちゃんの側に置くとでも思ってるの?」

携帯電話で何やらやり取りしているのを眺めながら、横島が珍しい物を見るかのようにキョロキョロと辺りを見回している。
そこはビジネスホテルの一室で、ベッドも一つしか置かれておらず、泊まるだけを目的にしたような簡素な部屋だった。
敢えて一つ良い所を挙げるとすれば、このホテルは他のどのホテルよりも駅から近い事ぐらいだろうか。

警察で顔を合わせた後、二人は美神の宿泊先のこのホテルに移動していた。
美神はその場で別れようとしたが、横島が頑として譲らなかったのだ。
結局根負けした美神が横島を連れて行く事を認めたのだった。

ホテルに着いた横島は、美神が宿泊先にこんな安ホテルを選んでいる事に驚いていた。
あまりにも『らしくない』としか思えなかったのだ。

だがもう一つ、横島は驚いている事があった。
それは、美神の纏う雰囲気。

彼女の雰囲気からは、GS稼業の人間が纏う、一種独特のアクの強さが感じられなくなっているのだ。
昔の、宝石のような過剰に華やいだ気配は影を潜め、今では無駄の無い実務的な気配をその身に纏うようになっていた。
その雰囲気は、横島がアメリカで活動していた頃に依頼人としてよく接していた、企業に務める人間に似通っていた。
一言で言えば、素っ気無いのだ。

「あ、ごめんね、待たせちゃったわね。」

携帯電話を折り畳み、スーツの胸ポケットにしまう。
服装も以前の露出の多い服ではなく、イタリア製のブランド物とはいえ、あまり派手ではないパンツスーツを着こなしている。

「いえ、別に気にしてないっす。
そういや今度、日本でやるらしいじゃないっすか。」

横島本人は意識していなかったが、何時の間にか口調が昔のものに戻っていた。

「……まあ、ね。
今日、その準備のために日本に戻ってきたんだけど。」

目を逸らしながら視線を下に落とし、美神が呟く。
何となくあまり乗り気でない様子なのが気になったが、それ以上に気にかかる事があった。

「もしかして、さっき空港にいました?」

無言で頷く美神に、今度は横島がバツが悪そうに目を逸らす。

「すいません、何か面倒かけちゃって……」

「別にいいわよ。この仕事やってると、色々と顔が利くだけだし。
ちょっと、流石にあれはやり過ぎかな、とは思ったけどね。」

空港での出来事を思い返し、美神が苦笑する。
その仕草に、横島が弾かれたように顔を上げる。

「俺はッ――――」

強い声に、美神がびくりと体を震わせる。
歯を食い縛り、横島が美神の肩を掴んだ。

「俺は、西条がいれば、美神さんが独りにならないと思ったから……
あいつなら、力を失った美神さんを守ってくれると思ったから。
だから、俺は、俺さえいなければって――――!!」

肩を掴む力に、美神が微かにその端正な顔を歪ませた。
だが振り解こうとはせず、優しく横島に微笑みかける。

「それは横島君が気にする事じゃないわ。
あの時、君が相談してきた時も、私は止めなかったでしょう。」

その、全てを予期していたかのような表情に、横島が表情を歪ませる。
歪んだ表情には深く苦悩が刻まれ、今にも滲んだ瞳から熱いものが零れ落ちそうだった。

「まさか、こうなるだろう事を予想してたんですか……?
だったら、何であの時言ってくれなかったんですか!?
言ってくれたら……俺はあなたの傍に居たのにッ!!」

「そうね……確かに、こうなるだろう事はわかってたわ。
でもね、だからこそ、私は君を止めなかったのよ。
こうなる事が、私が受けるべき罰だと思ったから。」

「違うでしょうが……!
あなたは俺なんかのために……!
だから、あなたが悪い訳無いじゃないですか!
あれは、全部俺が原因じゃ――――!!」

すっと人差し指を横島の唇にあて、言葉を止める。
まるで、もうこれ以上自分を責めなくて良いとでも言うかのように。

「もう良いのよ、横島君。
あの夜から色々と変わってしまったとしても、君は君の人生を生きなきゃいけないの。
それに、私は独りじゃないわ。だって、私にはおキヌちゃんがいるんだしね。」

儚い微笑を浮かべ、時計を確認する。
そろそろ時間なのか、穏やかに横島に別れを切り出す。

「ごめんね、悪いけどそろそろ行かなきゃいけないの。
あ、そうだ、良かったらコンサートのチケット送ろうか。
私の権限で数枚くらいなら手配できるわよ。」

「え、ええ、おキヌちゃんのコンサートっすよね。
噂では聞いた事ありますけど、何か凄いらしいっすね。」

何とか横島も無理矢理に平静を装い、話をあわせる。
おキヌの顧問という立場の美神がどれだけ多忙か、その程度の事は理解できた。
国の偉いさんとの打ち合わせやおキヌの護衛の手配、後はマスコミの相手もしなくてはいけない筈だ。
国連専属GSという特殊な立場である以上、やらなければいけない事は山ほどあるのだろう。

そもそもコンサートは慈善事業であって、おキヌの本分は魂を鎮める事なのだ。
恐らく本来の目的――儚い霊を鎮める慰霊式典――は、国を挙げての行事になる筈だ。

「ネクロマンサーの笛を完全に使いこなせれば、凄い事ができるのよ。
内容は、実際に見てのお楽しみって事にしとくけどね。」

悪戯っぽく笑うが、すぐに真面目な顔になり、言葉を続ける。

「その、コンサートのチケットは送るけど、悪いけどおキヌちゃんには会わないでほしいの。
本当はあの娘のためを思うなら、日本での公演は断りたかったんだけど……」

「え……駄目なんですか?
出来たら、会って勝手に姿を消した事を謝りたかったんですけど……」

「うん……もう戻れないのに、昔の思い出に触れても、辛いだけだと思うのよ。
だから、お願い……出来たらあの娘をそっとしておいてあげて。」

何故戻れないのか、と反論しようとした所で、横島がハッと気付く。
恐らく、おキヌはもう自分の自由などほとんど無い立場なのだろう。
国連専属のGSとなったおキヌは、あの六年前の大霊障の傷跡を癒すために全世界の国々を転々としているのだ。
国連のメディア戦略により『現代の聖女』として祭り上げられつつある彼女に、果たして自由などあるのだろうか。

「別に、嫌なら無理に続ける必要なんて無いでしょう。
おキヌちゃんが無理しなくても、GSなんて他にいくらでもいるじゃないですか!」

美神の責任では無いとわかっていながらも、思わず横島が声を上げる。
優しいおキヌに無理矢理押し付けているように感じたのだ。

「駄目なのよ……もう、戻れないの。
ネクロマンサーと普通のGSは違うの。
きっと、あの娘はもう、今の立場から離れる事は出来ないわ。」

そして、たぶん、私もね――――

最後にポツリと呟いた言葉が、横島の耳にいつまでも残り続けていた。




















呼吸もある程度落ち着いたところで、少しふらつきながらも体を起こした。
汗でびしょ濡れになった髪をかき上げつつ、シャワーを浴びるために部屋を出る。
錆びた歯車のようにぎこちない動きだったが、それでも無事に風呂場に辿り着けた。

少し古臭いデザインの、タイル張りの壁がどこか懐かしい、人が二人入れるかどうかの狭い風呂場。
真夏の今は湯を張る事も無く、横島はほとんどシャワーしか使っていない。

汗でべとついた衣服を脱ぎ捨てると、冷たいシャワーを思い切り頭からかぶり、汗を落とす。
突然の冷水は肌を引き締める感触で、普段ならすぐに離れていただろうが、体が熱を帯びている今ならその感触が心地よかった。
洗い場に赤い色が流れている事に気付き、唇に手を当ててみると、傷口が完全に開いているようで血が溢れていた。

「思ったより……深かったんだな。
まあ、あれだけ暴れたんだから当たり前か……」

昼間の乱闘を思い出しながら、横島が血の混じった唾を吐く。
口内の切れていた部分も、激しく体を動かしたため、唇と同様に傷口が開いてしまったのだろう。
風呂場に備え付けられた鏡を覗き込むと、意外な事に痣や腫れはもう完全に引いていた。
聖職者の神父のヒーリングは、予想以上の効き目だったようだ。

「俺は俺の人生を、か……」

昼間の美神の言葉がふと零れる。
アメリカで暮らしていた時は、誰に遠慮するでもなく、自由気ままに暮らしていた。
ラルフに散々迷惑はかけたが、それでも自分のやりたいようにやりたい事をやっていて、それに後悔など無かった。
GSの仕事をこなし、それを通じて知り合った友人達と笑いあい、殴り合って、酒を浴びる様に飲み、疲れたら味気無いあの部屋で眠り、街に良い女がいれば抱いた。
あの頃は自分の人生を生きていると胸を張って言えただろう。

こうして日本に戻ってきた今、果たして同じように胸を張って言えるだろうか。

日本に戻ってきた最初の頃は、好き勝手に生きるつもりだった。
神父の所に戻ったとしても美神事務所があるわけでもなく、昔の様にはしたくとも出来ない。
自分は今、根無し草だ。

一抹の寂しさを感じないではなかったが、それもアメリカでの経験が覆い隠してくれていた。
アメリカから戻って今まで、せいぜい食うに困らない程度にGSの仕事をし、カワイイ女の子に声をかけて一夜を共にしたり、口説きの駆け引きを楽しんだり、その日一日を楽しんでいくつもりだったが、どうにも最近は違和感を感じつつあった。

女の子と遊ぶ、それはそれで楽しい。
それは間違いないのだが、どうにも何かが違うのだ。
そして今、違和感の原因をようやく理解しつつあった。

やはり自分も、あの頃の美神所霊事務所の生活が好きだったのだ。
馬鹿をやったり、美神に怒られたり、おキヌに慰められたり、シロと遊んだり、タマモに呆れられたり、人工幽霊と世間話をしたり――――
日本、それも東京。
相変わらずな神父の教会。
横島にとっては、郷愁を誘うのに十分すぎる環境だった。

突然、風呂場に鈍い音が響いた。

タイル張りの壁に、横島が拳を打ちつけていた。
限界まで疲れ切った体は、力などほとんど残っておらず、打ちつけた拳も小刻みに震えている。

今更戻る事など出来ない事は、自分が一番知っていた。
あの暮らしを台無しにしてしまったのは、他ならぬ自分なのだから。
もしもあの頃に戻りたいと、痛いほど思ったとしても、それは決して叶う事は無いのだ。

詰まる所、今の自分は過去に引き摺られているのだろう。
だから、何をしていても常に違和感が付き纏い、自分の意志で行動している気がしないのだ。

「――――俺は俺の人生を、か。」

同じ言葉を繰り返すと、うなだれながら深い溜め息を吐くのだった。










「いててて……やっぱ、昨日は無理しすぎたか。」

体中がギシギシと痛む中、横島は目を覚ました。
教会がしんと静まっているのに気付き、声をかけてみる。

「あれ、神父ータマモー?」

誰かいないかと声をかけてみるが、昨日と同様、教会には人の気配が無い。
翌朝になっても、神父もタマモも戻ってきていなかった。
神父は慈善事業の除霊に行ったので仕方ないとしても、タマモも戻って来ないとは予想外だった。
朝食を用意してくれる人がいないので、キッチンに何か食べる物がないか漁ってみたが、手軽に出来るインスタント物は置いていなかった。
流石に横島に料理をするような技術は無いので、米を炊き、白米と漬物だけという質素な食事で我慢する。

「さあてと、タマモがいないんじゃ勉強もできんしなあ。
仕方ないから日課の鍛錬でもしながら帰って来るのを待とうかな。」

でも帰って来たら帰って来たで、昨日の空港の件で小言か説教でもされるんだろうな、と頭を抱えつつ部屋に引き上げていった。





「……ぬうう、いくらなんでも遅くないか。」

既に太陽は一番高くまで昇り、昼飯時はとうに過ぎ去っていた。
ぎゅるると空きっ腹が鳴くのを聞きながら、そろそろタマモを待つのを諦めかけていた。

「流石に、昼飯はまともなもん食わなきゃやってられん。
……よし、何か食いに行こう。」

昼飯まで白米に漬物では体が持たないと判断し、何か食べに行こうと部屋を出る。
金ならまだまだ余裕あるしなーと鼻歌混じりに出掛けようとした所で、教会の礼拝所の扉が開く気配を感じ取った。
迷える者は決して拒まないという神父の信念により、礼拝所の扉は常に開放され、鍵すら付けられていない。
当然、居住区までは鍵を持たないと入れないようになっていたが、悩みを抱える子羊が祈りを捧げたりするくらいは出来る。

気にせず昼飯を食べに行こうかとも思ったが、ふと横島は考えてみた。
恐らく神父を頼って来た来客なのだろうが、残念な事に神父は今は不在だった。
だが、わざわざ神父を頼ってくるという事は、霊障に悩まされているという事だろう。

あまり専門的な知識は持たないとはいえ、自分もそれなりに腕が立つGSだ。
別に神父じゃなくても、自分が話を聞いても良いだろう。
無理そうなら神父に任せれば良いし、出来そうならやってみたら良い。

「うむ、たまには神父を見習って慈善事業をやってみるのも良いかもしれん。
もしかしたら依頼人はキレイなネーちゃんかもしれんしな。
いや、きっとそうだ。そうに違いない。」

男だったら華麗にスルーしようと内心考えつつ、軽快な足取りで礼拝所に向かうのだった。










「やーどうも、何かお困りですかぁ♪」

礼拝所への扉を開きつつ、最高の笑顔で声をかける。
相手が男なら挨拶などする気は無いが、女性には第一印象が肝心なのだ。
教会には場違いとすら思えるほどの爽やかさを披露しつつ、素早く目を走らせて来客を値踏みしようとする。

「あ、先生!」

目を輝かせながら、一人の女性が横島に駆け寄ってきた。
横島は意外な来客に目を丸くしている。
だが、すぐにこの女性の昔の行動を思い出し、次に来るであろう衝撃に備えて身構える。
しかし昔のように横島を押し倒すような事はせず、ある程度の距離を置いて立ち止まった。

「よ、よう、久しぶりだなシロ。」

咄嗟に、タマモと再会した時のように二、三発殴られるのではないかと身を引いたが、シロはただじっと横島を見つめている。
その様子から、どうやら殴りに来た訳では無いと判断し、ほっとしていた。

「先生…でござる…」

無言で横島を見つめていたシロの瞳から、不意に大粒の涙が零れ落ちた。
本当にイイ女に成長したよなー、などと暢気に考えていた横島だったが、流石にこれには驚いた。

「お、おい、どうしたんだよ急に。」

「先生……先生ぇ……」

両手で顔を覆い、しゃくりあげるシロに、横島が困り果てたように頭をかく。
女の涙は見たくなかったが、伊達に女性経験は積んでいない。
これまでもこういう修羅場を幾度と無く潜り抜けた来たのだ。
こういう時は、言葉よりも行動あるのみ。

スッと一歩前に出ると、おもむろにシロを抱き寄せた。
シロの背中に優しく腕を回すと、いきなりの大胆な行動に呆気に取られているシロの耳元に、落ち着かせるように穏やかな口調で囁きかける。

「ほら、落ち着けって。
泣いてちゃわからないだろ?
急に泣き出すなんて、びっくりするじゃないか。」

「うう……だって、先生が……」

抱きしめたシロの柔らかな感触に頬が緩みそうになるが、ここは流石にぐっと堪える。
女性が胸の中で泣いてるのにヘラヘラ笑っても、得られる物など欠片も無い。

「急にいなくなって……四年も経って、また戻ってきて……ようやく逢えたと思ったら、あんな……」

ああ、そう言えばシロも居たんだったな。
昨日の空港の一件を思い出し、横島の表情が僅かに曇る。
確かに、いきなりアレを見られたのでは印象が悪すぎる。

「あー、その、何だ。
急に姿を消したのは……本当に悪かったと思ってる。
でも、こうして戻って来たんだから、許してくれないか……?」

「怒ってる訳じゃ……ないのでござる……ただ、先生の顔を見たら、涙が溢れてきて……」

「そっか……じゃあ、落ち着くまでこうしとこうな。」

理屈じゃないのなら、感情の昂ぶりが鎮まるまで、しばらくこの調子だろう。
それなら下手に言葉をかけてもあまり意味は無い。
内心、これはこれでラッキーだなぁと思いつつ、かつての弟子を優しく抱きしめていた。





礼拝所の長椅子に二人は肩を並べて座っている。
ようやくシロも落ち着いたようで、もう涙は止まっていた。

「ほら、じっとしろ。」

「じ、自分で出来るでござるよ。」

まだ少し目元が濡れているのに気付き、横島がハンカチで優しく拭おうとする。
だが恥ずかしいのか、シロは顔を赤らめ、慌てて距離を取ろうとした。

「いいから、じっとしてろ。
そんなに赤い目してちゃ、せっかくのカワイイ顔が台無しだぞ。」

「あ、う、うぅぅぅ……」

何気ない口調でカワイイと言われ、シロが口ごもりながら俯いてしまう。
泣いていた時も赤い顔をしていたが、今では耳まで真っ赤になっていた。
大人しく横島にされるがままになりつつも、どうにも気恥ずかしい想いを抱えていた。

昔はここまで意識してしまう事はなかったのに、何故以前のように自然に振舞えないのだろうか。
ふと横島も同じ想いなのかと思い、こっそりと顔を盗み見てみる。

だが横島の表情は、至って真摯なもので、本心から自分を心配してくれているように見える。
その時、盗み見るだけのつもりが、目と目が合ってしまい、理由も無く目を逸らしてしまう。
そんなシロの様子に、横島は首をかしげながらも、丁寧に涙を拭き取ってやっていた。

「せっかく来たのに悪いんだが、今は神父もタマモも居ないんだ。
神父は除霊に行っちまったし、タマモは……うーん、よくわからん。」

「あ、いえ、拙者は先生に……あれ、その唇はどうしたのでござるか?」

横島の深く切れた唇に気付き、シロが声をかける。
面倒くさそうに肩をすくめる横島の仕草から、昨日の空港の一件での傷だと察しがついた。

「あ、そうだ、お前ってヒーリングできたよな。
もし良かったら、この傷治してくれないか?」

悪戯っぽく笑いながら横島が唇の傷を指差す。

「お安い御用でござるよ。
それでは傷口を――――って、あ、その、それは……」

横島の役に立てると喜んで頷き立ち上がろうとしたが、傷口の場所に気付き、さらに顔を赤くしながら口ごもってしまう。
シロのヒーリングは傷口を舐める事で癒すという、獣族特有のものだったが、唇を舐めるという事はつまり――――

「あっはははははは♪
悪い悪い、ちょっとした冗談だって。」

予想通りのリアクションに、横島が屈託の無い笑い声を上げる。
あまり大きく笑うと傷口が開きそうで不安だったが、笑いが込みあげてきて仕方なかった。

「さっき少し言いかけてたけど、俺に何か用なのか?」

ひとしきり笑った後、横島が思い出したように声をかけた。

「あ、そうでござる、実は……えーと、その……拙者は……」

どうにも上手く言葉が出てこない。
そもそもどう話を切り出せばいいのだろうか。
本人に隠れて父親から過去の話を聞きだそうとし、それが無理だったから本人に聞きに来ました、などと言える訳も無い。
オカルトGメンの一員として職務に励み、ある程度の交渉術や取調べの技術は身に付けたと思ったのだが、こんな時にどうすれば良いかなど誰も教えてくれなかった。

「ああ、そっか。そう言えば、まだだったな。」

何やら言い難そうにしているシロの様子から何かを察したのか、横島がぽんと手を叩いた。
もしかしたら横島の方から話してくれるのかと、思わずシロが目を輝かせる。
シロが嬉しそうに反応したのを見て、横島が何かを確信するかのようにうんうんと頷いている。

長椅子から立ち上がると、シロの手を取り礼拝所の扉に向かう。

「え、あれ、ちょっと、先生?」

てっきり話が始まると思っていたシロは、横島の行動が理解できず、あたふたとしてしまう。
人目を避けたいのならこの礼拝所はうってつけの場所なのに、そこから出て行くのは理解できなかった。

「ちょっと今日は体が痛くてな。
あんまり無茶は出来ないけど、軽いジョギングくらいなら平気だぞ。」

「えっと、あの、それはいったい何の話をしているのでござるか?」

シロの言葉に横島が首を傾げる。

「何って……散歩に行きたいんだろ?
そんな遠慮しなくても、いつも付き合ってやってたじゃないか。」

どうやら横島は、シロが言い難そうにしていたのを、散歩に行きたいが言い出せないのだと受け取ったようだ。
自分が横島にどういう風に思われているか理解し、シロががっくりと肩を落とす。

「何だ、もしかして違ったのか?」

何やら意気消沈しているシロの姿に、読みが外れたのかな、と首を捻る。
シロは恨めしそうに上目遣いで横島を見上げていたが、さっきからずっと手を握られていた事に気付き、目をまたたかせる。

――――あ、先生の手……大きい。

握られた手から横島の体温を感じ、この四年間で冷えてしまった心が温もるようだった。
昨日空港で見た、あの鬼気迫る表情は夢か幻だったのではないかと思ってしまうほど、今の横島は昔の姿に近い。
違うところと言えば、背丈が伸びている事と、良い意味で余裕があるように見える事くらいだろうか。
職業柄、普段からスーツを着るようになり、大人っぽくなったと思っていたのだが、今の横島はラフな服装だというのに立派な青年に見えた。
さっきまで話をしていた大樹の姿を思い出し、ああ、やはり親子なのだなと納得してしまう。

「いえ、その……拙者、先生と一緒に……歩きたいでござる。」

消え入りそうな声で、しかし心の底から嬉しそうに頷き、ぎゅっと横島の手を握り返す。
女性になったシロが嬉しそうにしてくれるなら、痛む体に鞭を打ってでも無理をしてみるのも悪くない。
シロのおかげなのか、何時に無く、自然体になれていると横島は感じていた。

礼拝所から出ると、この瞬間に命を燃やすべく、蝉達がうるさく鳴いていた。
確かに鳴き声はうるさいが、それも夏の風物詩と思えばそう悪いものではない。
照りつける夏の日差しの下、二人はずっと手を繋いだまま並木道を歩いていった。










「ところで、さっきからずっと歩いてるけど、昔みたいに走らなくて良いのか。」

「むぅー、拙者ももう子供じゃないでござる。」

何となく子供扱いされたようで、シロが口を尖らせる。
二人は教会を出て、何処に向かうでもなくぶらりぶらりと歩いていた。
あちこちからの蝉の鳴き声がつんざく様に重なって聞こえ、からっとした陽光をより印象付けている。

まっすぐ伸びた大通りには街路樹が立ち並び、影が差し掛かる歩道を歩くその姿は中睦まじいカップルのようで、すれ違う人々が羨望と嫉妬の混じった視線を横島に向けていた。
自分が人目を惹いている事に気付きもせず、シロは嬉しそうに横島の横顔を見上げている。

「先生は……」

――――この四年間どうしていたのでござるか?

「うん?」

「あ、いえ……何でもないでござる。」

喉元まで出かかっていた言葉を飲み込む。
湿度が低いせいもあってか、木陰はひんやりと涼しく、通り抜ける風は緑のにおいを運んでくる。
時折街路樹を見上げると、葉がさざめく隙間から強い日差しがのぞいている。
振り返れば、横島は肩が時折触れ合うほど近くにいる。
胸に弾むものを感じる、穏やかな散歩。

突然、何も言わずに自分達の前から姿を消したのだ。
自分達には言えない、重大な理由があったのだろう。
だが、聞かなければいけない。
そのために態々教会まで訪ねてきたのだ。
聞きたかったが、それを聞いてしまうと、四年ぶりの、この二人だけの時間が終わってしまいそうで怖かった。

「少しここで休んでいっても良いでござるか?」

シロは言いつつも、既に横島の手を強く引っ張っている。
そこは錆びたブランコと小さな砂場、それにベンチが一つあるだけの広さの割りには遊具の少ない公園だった。
だが遊具の代わりに木々が多く植えられ、ちょうどこの時間、ベンチが木陰になっていた。

「良いけど、どっか調子でも悪いのか?」

心配するようにシロの顔を覗きこむが、シロは不満げに口を尖らせる。

「うー、そんなんじゃないでござるよー。
拙者は、その、ここなら先生とゆっくりお話できると思って……
あ!あそこのベンチが涼しそうでござる!」

途中ごにょごにょと口ごもっていたが、強引に誤魔化すと横島の腕を引っ張っていく。

「うん♪やっぱり涼しいでござる。」

アスファルトが焦がされた通りとは違い、土が暑さを閉じ込めてくれる公園はひんやりとした湿り気があった。
昔と違い、普段は垂れ下がっているシロの尻尾がぱたぱたと振られている。
木陰の下でもシロの銀髪は透き通るような光を湛え、思わず横島は目を奪われていた。
視線はそのままに、ベンチに腰を下ろしながら意地の悪い笑みを浮かべる。

「ああ、やっぱり散歩するんならこうやって適度な休憩は入れなきゃいかん。
インターバル無しで10キロ以上も走り続けたりしちゃいかんのだ。」

「うッ!
いや、その、拙者も昔は子供だったから……」

以前、朝も早い内から散歩と称して横島を引っ張りまわしていた事を思い出し、恥ずかしそうに目を逸らす。
まだ成長期で体力を持て余していたとはいえ、今思い出すとあれはかなり無茶だった気がする。
申し訳無さそうに身を縮めながら、横島の隣に腰を下ろした。

頬を染め目を伏せるシロの仕草に少しドキリとしながらも、横島は気にするなと手を振る。

「うん、まあ、あれは正直かなりキツかったが、そのおかげで立派に成長できたんなら問題無しだ。
それにしてもホント、立派になっちゃってまあ……美神さんにも負けてないぞ。うん。」

うんうんと感慨深そうに頷く横島だったが、シロは何の事を言っているかわからず首を傾げた。
だが横島の視線が自分の胸や腰回りに注がれている事に気付き、真っ赤な顔でうつむいてしまう。

「うぅぅ、先生はやっぱりスケベでござる。」

「いやぁ、今更そんな事言われても照れるなあ♪」

朗らかな表情で開き直る横島の表情には一片の後ろめたさも浮かんでいない。
その時、ふと思い出したように横島が腰を上げた。

「ところで、俺まだ昼飯食ってないんだけど、シロはもう食べたのか?」

「え、あ、拙者もまだでござる。」

シロの言葉に満足そうに頷くと、どんと胸を叩く。

「それなら何か食いに行こうか。
せっかくだし、俺が何か奢ってやろう!」

「行くでござる!」

横島から食事に誘われたのがよほど嬉しかったのだろう、シロが跳ねるようにベンチから腰を上げ、満面の笑顔で横島の腕に手を回す。
腕を組むにはさすがに少し暑かったが、心を躍らせているシロは気にしなかった。

(うーん、やっぱDはあるな。間違いない!)

横島も横島で二の腕に感じる柔らかで豊かな感触に満足しており、暑さなど気にしていなかった。










「シロは今オカルトGメンで働いてるんだよなあ……
って、あれ?確かあれって高卒資格要るんじゃなかったか?」

食事を終え、コーヒーを待つ間に、ふと気になった事を尋ねてみる。
確かピートが高校に編入してきた理由は、オカルトGメンに入るには高卒資格が必要だったからの筈だ。
高校どころか中学すら行ってなさそうなシロが採用されたのは、不自然といえば不自然だし、横島には意外だった。

あまり聞いて欲しくなかったのか、シロは苦い表情を浮かべ、少し残っているパスタをフォークでつついている。
成長期が過ぎたためか、以前ほどの食欲は無いシロとは違い、横島の皿はとうに空になっている。
深く切れた唇にはパスタのソースは刺激が強かったが、何とか食べきる事ができた。

「拙者は、その……美智恵殿の推薦枠で採用されたようなものでござるから……」

なるほど、と納得したように横島が頷く。
彼女なら多少の人事権を持っていたとしてもおかしくない。

「ああ、そういえばあの人が日本支部仕切ってるんだったよな。
あの人の下だとヘマ出来ないから大変なんじゃないか?」

くくっと横島は笑っているが、シロは神妙な顔で口を開いた。

「美知恵殿は、もう引退してしまったんでござるよ……
ちょうど先生が居なくなって、しばらくした頃でござるが……
同時期に西条殿もイギリスに転属になってしまったらしく、ピート殿が大変だったと愚痴をこぼして――――」

そこまで喋ったところでハッと気付き、慌てて口を閉ざす。
今の言葉は明らかに横島の過去に触れてしまっていたからだ。
昨日の空港の一件もあり、何となく横島の前で西条の名前は出し難かった

だが横島は気付いていないのか、それとも気付かない振りをしているのか、何気ない顔でシロに尋ねる。

「そっかー……美智恵さん、もう引退しちゃったのか。
あれ、でもそれならどうやってお前を推薦したんだ? 引退しちゃったんだろ?」

「それが、引退はしても影響力はまだ持ってるらしくて……拙者も事件に行き詰ったりした時はよく相談してるでござるよ。
あ、そうでござる! きっとひのめ殿も先生と会えたら喜ぶでござるよ!」

シロが多少強引に話を切り替える。
だがその目論見は成功したようで、横島も感慨深そうに考え込んでいる。

「うーん、ひのめちゃんかー、おっきくなってるんだろうなぁ……
たしか六歳くらいだから小学校には入学してるんだよなぁ。」

「ひのめ殿は今年で一年生でござるよ。
入学式の写真をメールで送ってもらったのでござるが、すっごく可愛かったでござる!」

でも、とシロが表情を曇らせる。

「拙者もこの半年はイギリスで研修だったでござるし、寂しい思いをしてなければ良いのでござるが……
美智恵殿も引退されたとはいえ、ずっと家にいられる訳では無いようでござるし……」

美智恵の経験や職歴を考えれば、引退しても色々と相談される事は多いはずだ。
シロが日本にいた頃、非番の日に子守を頼まれた事もあった。

「そっかー、そうだよなぁ。」

腕を組み、横島が難しい顔で考え込んでいる。
しばらくそうしていたが、うんと頷くと目を開いた。

「よし、それじゃ、これから美智恵さんのとこに行こう。
あの人って今はどこに住んでるんだ?」

「え! 今からでござるか!?」

「勿論! 思い立ったら即行動ってやつだ。」

すでに行く気満々な様子の横島に、シロが諦めたように溜め息をつく。
久しぶりの横島との時間。
もう少し二人で居たかったのだが、どうやらそれは難しいようだ。

「美知恵殿は、その、今はあの事務所で暮らしているでござる。
人工幽霊殿を維持するためには霊能者が住まないといけないので……」

「じゃ、すぐそこだな。シロも一緒に行くか?」

「拙者、一度Gメンに顔を出さなきゃいけないのでござる。
もう少し時間はあるのでござるが、やはりひのめ殿と会うのなら時間がある時にゆっくり会いたいでござるし。」

「そうか。まあ隣り合わせの建物だし手早く用事をすませて、時間が空いたらこっち来いよ。」

横島の前で言う気は無いが、これからピートに昨日の空港の一件を説明しなければならなかった。
軽い事情説明はしておいたが、本部に顔を出して詳しく説明するよう求められたのだ。

出来るだけ穏便に済ませる事が出来るよう努力するつもりだったが、あれほど大きな騒ぎになってしまった以上、シロは自信が無かった。
横島にわからないよう小さく溜め息をつくと、少しパスタが残った皿をウェイターに下げてもらっていた。










「それでは先生、拙者はここで。
お昼御飯、ご馳走様でござる。」

Gメンの本部前でシロが名残惜しそうだが別れようとしている。
そのまま別れるかと思いきや、横島が不意に声をかけた。
本部に入って行こうとしていたシロが振り返る。

「なあシロ、今日の夜って何か予定あるか?」

「え、特に何もないでござるが……」

「なら、一緒に食事でもどうだ。
なんか、よく考えたら、まだあんまり話せてないしさ。」

「先生と、食事…でござるか?! よ、よよ、喜んで!」

思わぬ展開に有頂天になるシロに、横島がぴんと人差し指を立てる。

「ただし、一つ条件がある。」

「な、なんでござろう……」

ぱあっと輝かせていた表情が、不安で曇る。
そんなシロの様子に、横島が安心させるように優しく微笑んだ。

「心配すんな、別に難しい事じゃないって。
条件ってのはな……頼むから変に気を回さんでくれ。」

その言葉が、シロの胸をつまらせる。

「何か聞きたい事があるなら聞いてくれたら良いんだぞ。
そりゃ、何でも答えてやるとは言わんけど、さっきみたいに気を遣われたんじゃ話し難くてしょうがないんだ。」

「バレていたのでござるか……その、申し訳ないでござる……」

「あー、別に良いって良いって。謝るな。
でも取り敢えず、これからは変に気を回すのは勘弁な?」

「ハイでござる!」

元気良く答えると、軽やかな足取りでGメンの本部に入って行った。

「あ、時間言うの忘れてた……
まあ良いか、飯食ってる時に携帯の番号は聞いたし、後で伝えりゃ問題無いよな。」

シロの背中を見送りながら、思い出したように呟いていた。
小さく息を吐くと、懐かしそうにGメンの隣の建物を見上げる。

「我が青春の美神除霊事務所、って感じかなあ。」

くすりと笑みを浮かべ、昔のように堂々と入り口から入ろうとする。
だが事務所の扉には鍵がかけられ、ガチャガチャと音を立てるだけだった。
入り口からは事務所を訪ねてきた客を受け入れる応接室に続いているのだが、事務所を閉めてしまった以上鍵をかけるのは当然だった。
考えてみれば当たり前の事なのだが、まさか入れないと思っていなかった横島は途方に暮れてしまう。

「チッ、しゃーないこうなったら……」

横島の右手を霊力が覆い、瑠璃色の光に包まれる。
だが、すぐに考え直したのか、軽く手を振って霊力を霧散させる。

「いかんいかん、オカルトGメンのすぐ隣で無茶はできん。」

その時、懐かしい声が横島の耳に届いた。

『――――今家主は留守にしておりますが、何か御用でしょうか。』

聞き慣れた、というには久しく耳にしていなかったが、その声に思わず横島は笑顔になる。

「よっ! 久しぶりだな人工幽霊一号!」

おどけた仕草で、敬礼するようにビッと額に手を当てる。
一瞬間を置き、いつも冷静な人工幽霊にしては珍しく、甲高い声を上げた。

『よ、横島さん!?』

「久しぶりだなー、元気してたか。
今日は美智恵さんに会いに来たんだけど、留守なんだって?」

『は、はい、ひのめさんと夕飯の買い物へ……』

「そっか、それじゃ残念だけど、また今度美智恵さんが居そうな日にでも改めて顔を出すわ。」

残念そうに頭を振ると、背中を向け、すたすたと歩き去ろうとする。
だが、人工幽霊一号は我知らず横島を呼び止めていた。

『待って下さい!』

予想以上に大きな声に、驚いた横島が軽く飛び上がった。
そして次の瞬間、人工幽霊は自分でも驚く言葉を口にしていた。

『もし良かったら、美智恵オーナーが戻られるまで、応接室で待たれたら如何でしょうか。』

家主の留守を預かるのが彼の使命。
その家主が居ない時に、いくら昔の仲間といえ、部外者を入れるような事は許されない。
そう頭ではわかってはいても、彼は自分の思いを止める事ができなかった。
何故なら彼には、どうしても横島に聞かなければならない事があったのだ。










「ええ、今夜って部屋空いてます?
うん――そうそう――支払いはキャッシュで――――
今なら空きがある?――――ああ、良かった。それじゃ、頼んますねー♪」

『泊まる所が無いのですか?』

ホテルの部屋を予約する横島に、人工幽霊が心配そうに声をかけた。
だが横島はにやけた笑みを浮かべると、肩をすくめる。

「ま、大人の付き合いの下準備ってやつ?」

答えをはぐらかすように、ドスンとソファーに深く腰を下ろした。

「うーん、それにしても……変わったような、変わってないような……」

応接室のソファーに腰掛けながら、四年ぶりの事務所をぐるりと見渡す。
間取りは勿論の事、内装もほとんど変わっていない。

だが、家主が替わったからだろうか、こうしてくつろいでいても以前ほど快適とは思えなくなっていた。
親しい友人の家に招かれた時のような、気を許しつつも配慮すべき所はしなければいけない、そんな感じだった。

「けどさ、美智恵さんの許可も無く俺を入れちゃって良かったのか?
後で怒られるんじゃないのか?」

心配そうな横島の言葉には応えず、人工幽霊は沈んだ声で話しかけた。

『お体の方は……もう大丈夫なのですか?』

何を指しているのかわからず、横島が首を捻る。

『あの時……私が休眠状態に入らなければ、あんな事にはならなかった筈なのに……』

ようやく思い当たったのか、ああ、と頷いている。
無意識のうちに、横島の手は袈裟懸けに走った胸の傷に当てられていた。

「あれはお前のせいじゃないよ。
あれは気を利かせてくれたんだろ?
だったら、気にする必要なんて無いって。」

『ですが……!!』


「あら、誰かいるの?」

カチャリと応接室の扉が開き、亜麻色の髪を結い上げた女性が買い物袋を片手に入ってきた。
ソファーに腰掛ける、見知らぬ青年の姿に、女性の瞳が鋭くなる。

「あなた、いったい――――」

詰問するような女性の隣を、タタタタと軽快な足音を立てながら桃色の髪の少女が走りぬけた。
一目散に青年に向かって走っていく愛娘に、女性が思わず声を上げる。

「駄目よ!待ちなさい、ひのめ!」

けれども、少女は母親の制止の声も聞かず、青年に飛びついた。

「ただおにーちゃん、久しぶりー!」

「ひのめちゃんも久しぶり。元気にしてた?」

ポンポンと頭を撫でてやりながら、愛娘と親しげに会話する青年に、唖然とした表情を浮かべる。
だが、先ほどの娘の言葉がようやく脳に届いたのだろう、彼女にしては珍しくポカンと口を開けながら青年の顔を見つめる。

「あなた、まさか……横島君なの?」

「どうも、ご無沙汰してます、美智恵さん。」

ひのめをその腕に高く持ち上げながら、横島が美智恵に笑いかけていた。










「これは……どう考えてもマズいよ。」

他に人のいない会議室で、シロから報告を聞いたピートは頭を抱えていた。
いきなり大勢の前で殴りかかったりしたのでは、言い訳のしようも無い。
手配中の犯罪者か、とも思ったが、どうやら違うようだ。

両手で頭を押さえるその姿は、まるでテストの問題が解けず、苦悩している学生のようにも見える。
気の遠くなるような時間を生きてきたにもかかわらず、彼の姿はまだあどけない少年のようだった。
凛々しく成長したシロとは対照的に、彼の姿はあの頃からまるで変わっていない。

「相手はいったい何者だったんだい?
西条主任がいきなり手を出すなんて、僕には想像も出来ないんだけど……」

「その、それが……拙者も知らない人だったので……」

無論、嘘だ。
先輩であるピートに嘘をつくのは胸が痛むが、まだ横島の帰還をどう扱えばいいのかがシロにはわからなかった。
もしも、下手に騒いでまた姿を消されるような事になれば、後悔してもしきれない。

「困ったなぁ……最近変な事件が多発してるから、西条主任を頼りにしてたんだけど……」

「何かあったのでござるか?」

事件と聞いてシロの表情が引き締まる。
横島を見つけるために入隊したオカルトGメンだったが、何時の間にか心身ともに捜査官になっていたようだ。
ピートはファイルを取り出すと、その中から最近起きた事件の報告書を取り出す。
だが、ファイルを眺めるピートの表情は、緊迫というよりは困惑といった方が適切だろう。
彼自身、この件をどう扱えば良いのかわからないのだ。

「まあ、取り敢えず見てもらえるかな。」

シロはファイルに真剣な表情で目を通し始める。
だが、すぐにピートと同じ、困惑した表情へと変わっていった。

「どういう事でござるか、これは?」

「僕にもさっぱりだよ。
現場にも行ってみたんだけど、訳がわからない。」

ファイルには、日本海の沿岸に大量の魔獣の死骸が打ち揚げられたと書かれていた。
貼付された写真には、猿の頭部に鳥の身体という魔獣の姿が写されていた。
だが、まともな死骸は殆ど無く、写真に写っているのはバラバラになった魔獣の身体の一部だけという有様だった。

「この魔獣はタクヒといって、中国に生息しているものらしいんだ。」

「しかし……凄まじい死骸の量でござるな……
ざっと数えても、数十、いや、百以上はありそうでござる……」

シロの言葉にピートが嫌な事を思い出したのか、表情を曇らせる。

「ああ、まったく凄い数の死骸だったよ……
しかも、この夏の暑さで腐りかけててね……それはもう凄い臭いだった……」

どんよりと暗い影を背負うピートに、シロは同情するように乾いた笑いを浮かべる。
嗅覚の鋭い自分が行かされずにすんで、内心ほっとしていた。

「この魔獣は繁殖力が強いらしいから、大量発生するのは珍しくないらしいんだけど……
何でまた、死骸になっているのかが理解できない。
中国から渡ってくる途中で、何かに襲われでもしたのか……」

「現地で何か手掛かりが無かったのでござるか?」

「誰かの霊力の痕跡が残されている訳でもなく、かといって、海の上に彼らの天敵がいる訳でもなし。
まあ、現地の人が面白い事を言ってたんだけど……まさか、ね。」

最後の呟きに、シロが興味深そうに視線を送っている。
ピートは苦笑しながら、その話を聞かせてやった。

「残念だけど、たいした話じゃないよ。
現地の漁師さんが、この死骸が揚がる前日にUFOを見たって教えてくれたんだ。」

予想外の返答に、シロはどう返せば良いかわからず、何ともいえない表情を浮かべる。

「えーと……UFOって、あのUFOでござるか?」

「そう、あのUFO――いわゆる空飛ぶ円盤ってやつさ。
ね? 手掛かりになるとは思えないだろう?」

「うーむ、さすがにそれは……」

ピート同様、シロも苦笑いを浮かべる。

「でも、最近こういう事件が何度か起きててね。
マスコミも面白がって『モンスター・ミューティレーション』とか言って騒いでるよ。」

やれやれと頭を振りながら、ファイルを片付ける。
何となく気にかかるが、人に害が及んでない以上、Gメンが動く必要は無い。
恐らくその内、民間のGSが調査に乗り出す事だろう。

また真面目な表情に戻り、西条の件をどうするべきか頭を悩ませる。
ふと気付けば、シロがする事も無く立ち尽くしていた。
オフの日に来てくれたシロにピートが礼を言う。

「休みの日なのにわざわざ報告に来てもらって悪かったね。
西条主任の釈放は僕の方で何とかするよ。まあ、正直、望みは薄いけど……」

重苦しい空気が流れ、シロが目を逸らす。
嘘をついたまま、これから横島と食事に行くのかと思うと、どうにも気まずかった。

「はぁ……新人の研修も西条主任の仕事だった筈なのに……どうしたら良いんだろう……」

気まずい空気を払拭すべく、シロが努めて明るい声で質問した。

「新人が入ったのでござるか?
これで拙者も先輩でござるな♪」

ピートの表情が僅かに明るくなり、からかうように声をかけた。

「うん、今年は四名入ったみたいだよ。
なかなかGメンには人が来ないのに、きっとあの求人ポスターのおかげだね。」

その言葉に、シロの頬に赤みが差す。

「あ!あれは、美智恵殿がどうしてもって言うから!
拙者は恥ずかしいから嫌だって言ったのにぃぃ……」

顔を真っ赤にして照れるシロに、ピートも思わず笑顔を浮かべる。
会議室の壁に目をやると、色々なポスターが貼られた一角に、婦警姿のシロが敬礼している一枚があった。
髪の分け目を変えて大人っぽく写ったそれは、人目を惹くには充分過ぎた。

――――来たれ!オカルトGメン!!

なんとも直球極まりない求人ポスターだが、効果はなかなかの物だったようだ。
それなりに使えそうな人材が四名も手に入ったのは、万年人手不足のGメンには嬉しい話だった。
研修を終えた彼らは、先輩捜査官の手足となり全国を飛び回る生活が始まるのだろう。

ふとピートが腕時計に目をやると、何時の間にやら日が落ちる時間になっていた。

「ああ、ごめんシロくん。長い間引き止めちゃったね。
明後日から仕事なんだし、今日はもう帰って――――」

――――ピリリリ ピリリリ ピリリリ

突如、シロのスーツの懐から電子音が鳴り響いた。
携帯電話のディスプレイに映る発信者の名前に、シロがピートの顔を窺う。
ピートはもう帰って良いよ、と手振りで許可を出してやった。
パッと頭を下げると、シロは風のように会議室を飛び出していった。

「相変わらず、元気いっぱいだなぁ……」

溢れんばかりのバイタリティに、ピートが少し羨ましそうに見送っていた。










「晩御飯までご馳走になってしまって、先生のお財布は大丈夫なのでござるか?」

「お前なあ……これでも向こうじゃ結構稼いでたんだぞ。」

夕飯を済ませた二人は、夜の街をぶらぶらと歩いていた。
食事中、シロはずっと自分の事ばかり話していた。
巧みに話の方向を操られていたからなのだが、それには気付いていなかった。

「さてと、これからどうする?
時間的にも結構遅くなってるし、そろそろお開きにしようか。」

「あの……拙者、まだ先生がこの四年間何をしていたか聞いていないでござるよ。
いったいどういう暮らしを送っていたのでござるか?」

昼間に気を遣うなと言われていたから思い切って聞いてみる。
だがどこまで聞いて良いかわからなかったので、過去の事件ではなく、もう少し無難そうなその後の経過を聞いてみる。

横島は困った顔で頭をかく。

「うーん……別に話してもいいけど、長くなるんだよなぁ。」

顎に手を当てて考え込む。

「長くなっても良いから聞きたいでござるよー。」

うーむと考え込んだ後、ぽんと手を叩くと爽やかにシロに微笑みかける。

「よし。それじゃあ酒でも飲みながら話しようか。
この近くで良い雰囲気のとこ知ってるんだ。」

「ハイでござる!」

ついに話が聞けそうなので、喜んで頷いている。
だが、爽やかに微笑むその裏側に獲物を狙う猛禽類が潜んでいる事には、シロは気付かなかった。










「あの、先生……ここって……」

きょろきょろと周りを見渡す。
調度の淡い光がを和ませ、耳をすませば他の客達はおのおの談笑に興じている。
慣れないホテルのスカイバーという空間に緊張しつつ、シロは運ばれてきたオレンジのカクテルを恐る恐る舌を出して舐めてみる。
だが、思っていたより柔らかい口当たりに、驚いたように口元を押さえる。

「あ、美味しいでござる……」

「飲みやすいだろ?」

どうやら勧めたカクテルを気に入ってくれたようなので、横島も満足そうに笑っている。
自身もスコッチを口に含むが、少し苦痛そうに顔をしかめた。

「どうかしたのでござるか?」

「ん、いや……何でも無い。」

すぐに何事も無いように笑顔を浮かべた。
シロもそれ以上は聞かず、またカクテルを口元に運んだ。

「そうそう、今まで何してたか、だったよな。」

本題を思い出したのか、話を始めようとする横島に、一言も聞き漏らすまいとシロの目が真剣になる。
この四年間を思い返しているのだろう、遠い目で夜景を眺めている。

「この四年間、ずっとアメリカの方で暮らしてたんだ。
アメリカのGS協会に仕事もらってさ、それで食ってたんだよなぁ。」

横島の言葉に、シロが小さく溜め息をつく。
ずっと横島の行方を追っていたのだが、日本にしか目を向けていなかった。
アメリカに居たのなら見つけられる訳が無かったし、仮に目を向けていたとしてもそこまで自分の人脈は広くは無い。

無駄な努力をしていたようで、感じた徒労感を飲み下すようにカクテルを呷ってしまう。
気付けばもうグラスが空になっていた。

「もう飲んじゃったのか。なら、追加頼んどくぞ。」

「これ、美味しいでござるなぁ。」

すでに少し頬が赤くなっているのを確かめ、横島が小さく笑っていた。

「――――んで、最初の方は色々大変だったんだけど、徐々に軌道に……って、ちゃんと聞いてるか?」

「えへへー、もちろんでござるよー。」

横島と久しぶりに語り合えた喜びか、それとも初めて飲んだのか、ペースも何も考えずにグラスを次々と空にしていた。
すでに首筋まで桜色で、このままだと呂律が回らなくなるのも時間の問題だろう。

順調に酔っ払っていくシロの様子に、こうまでよくもまあ引っかかるもんだと内心笑みを浮かべながら、自分もグラスを傾ける。
スコッチを口に含むと、また僅かに顔を歪めた。

「どーしたんでござるかー?
見てたら、さっきから辛そうにしてるでござるよー。」

「ん、大した事じゃないって。
ただ、強い酒だと傷口にしみるんだ。」

唇の傷を指差しながら、痛みを堪えるように目をつむる。
昼間のやり取りを思い出したのか、くすりと笑う。

「あ、そうだ、この傷ヒーリングしてくれよ。」

「えー、それはちょっと恥ずかしいでござるよーー。」

意外とまんざらでも無さそうな様子に、もう一声かけてみる。

「大丈夫だって、俺は何もしないからさ。
な? 頼むよ。実はしゃべるのも痛いくらいなんだ。」

両手を合わせて頼まれ、シロが考え込んでいる。
運良くこの席は他の席から死角になっており、他人の目は気にしなくてすむ。
普段なら絶対にやらないだろうが、酒の魔力が彼女の背中を押した。

「じゃあ……絶対に動いちゃ駄目でござるよ?」

「ああ、約束だ。」

すっと顔を近づけ、唇と唇が触れ合いそうになる。
が、唇が触れる寸前に目と目が合ったところで、シロが顔を引いてしまった。

「うー、やっぱり恥ずかしいでござるー。
せめて目を閉じて欲しいでござるよー。」

「わかったわかった、目を閉じとくよ。」

素直に目を閉じると、リラックスしながらシロが触れてくるのを待つ。
リラックスしている横島とは対照的に、シロの胸の鼓動は張り裂けそうなほどに高まっていた。

おずおずと舌を出し、遠慮気味に横島の唇を舐める。
柔らかい唇の感触と微かな鉄の味を舌に感じながら、丁寧に傷口を舐めていく。
傷は思ったよりも深かったが、何度も唇に舌を這わせる内に、何とか治す事ができた。

ヒーリングの仕上がりを確認し、最後の一回と舌を唇に当てようとした瞬間、横島の手がすぅっと頭と体を引き寄せ、気付けば横島と唇を重ね合わせていた。

「――――ん……んっ!」

何が起こったか一瞬わからなかったが、すぐに我に返り、慌てて離れようとする。
しかし、しっかりと首の後ろを固定され、もう片方の手は頬に添えられている。

それだけでもシロには十分驚きであったが、息をつくまもなく横島が舌を滑り込ませてきた。
口内に横島の体温を感じる。
横島はまるで小鳥がついばむ様に、舌と唇を楽しげに、付いたり離れたりと動かす。

最初にあったシロの微かな抵抗もすぐに大人しくなり、強張っていた身体から徐々に力が抜けていく。
ぎこちないが、少しずつ横島の舌の動きに自分も合わせようとする。
しばらくそうして舌を絡ませ合っていたが、ようやく満足したのか横島がシロを解放してやる。
細い銀色の糸が二人を繋いでいた。

「うぅ……先生のうそつき……
何もしないって約束したのに……」

「ああ、ありゃウソだ。」

悪びれずに笑顔を浮かべる横島に、シロが恨めしそうな視線を送る。

「あ……先生、その……」

恨めしそうな表情から一転、不安そうな表情へと変わる。

「拙者……変では、ござらんかったか……?」

おかしな問いに、横島は首を傾げている。
ビンタの一発も喰らうものと覚悟してディープキスを敢行したのに、意外な反応だった。

「いや、全然変じゃないぞ。むしろ良かったし。」

正直な感想を述べる横島に、シロがほっとしたように微笑んだ。
頬を染めあげるその桜色の肌は、どうやら酔いによるものとは別のようだ。
目を伏せ、小さく呟く。

「よかった……拙者、キスをしたのは初めてでござったから……」

その言葉に、横島はまるで落雷でも直撃したかのように硬直する。
表情を引き攣らせながら、ぎこちない笑顔を向ける。

「またまたー、そんな冗談を。
お前みたいないい女を、男がほっとく訳無いだろうに。」

だがシロは首を振って否定する。

「拙者は正規の採用枠ではなかったでござるから……自分の実力を証明しなければいけなかったのでござるよ……
毎日、深夜まで働き詰めで……とても恋愛に時間を割く余裕なんて無かったでござる……
それに――――」

顔を上げ、真っ直ぐ横島の瞳を見つめる。

「それに、どうしても先生の事が忘れられなかったでござる……」

そして、消え入りそうな声で呟く。

「だから……先生が初めてで、すごく嬉しいでござる……先生も、そのつもりなのでござろう……?」

この後の『事』に触れるその表情は、未知への不安と恐怖に負けまいと必死に耐えているようだった。
精一杯の勇気を見せられ、横島はくしゃっとシロの頭を撫でる。

「……わりぃ、まさか初めてだとは思ってなかった。
お前の気持ちは受け取ったし、すげぇ嬉しいよ。でも――――」

その先に続くであろう拒絶の言葉を予感し、シロは目を滲ませ泣き出しそうになる。
だが、横島は優しく微笑みながらシロに囁いた。

「でもさ、別に焦らなくても良いじゃないか。
俺はもうどこにも行かないし、ゆっくり進んでいけば良いんだからさ。」

「せんせぇ……!」

「あー、もう、頼むから泣くなってば。」

感情の昂ぶりを抑えられなくなり、シロの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
困り果てた横島が、ぽりぽりと頭をかいている。
しょうがないな、と呟くと、シロの手を取り立たせてやる。

「ここじゃ目立つし、部屋は取ってあるから、そっちに移動しような。
なんか、しばらく泣き止みそうに無いし。」

『部屋』と聞き、シロが不安そうな表情を浮かべる

「いや、何もしないって――――ってさっきのアレじゃ信用できんか……」

自分で言っときながら、思わず項垂れてしまう。
その本気で落ち込んでいる姿に安心したのか、シロはくすりと微笑み、耳元で囁いた。

「信じてるでござるよ……先生……」

その頬を濡らした可憐な表情に、ちょっと理性が保つか不安になる横島だった。
















「良く来てくれたね、唐巣君。まあ、掛けてくれたまえ。」

「失礼します。」

椅子を勧められた神父が頭を下げる。

「急な呼び出しなのに、来てもらえて助かったよ。
良かったら何か飲むかね?」

白髪の老人は棚から琥珀色の液体の瓶を取り出した。
二人が向かい合うテーブルの上には、既に空のグラスと氷が用意されており、後は酒を注ぐだけだった。

「いえ、私は除霊の後は飲まないようにしていますので。」

「ああ、除霊明けに呼び出してすまなかった。
だがこちらの方も重要な話なのだよ。」

白髪の老人が自分のグラスに酒を注いでいる。
唐巣はあまり酒を嗜まないが、瓶の造りや仄かに漂ってくる香りから、それは値の張る物なのだろうと感じていた。

「東堂支部長、何か良い事でもありましたか?」

機嫌の良さそうな姿に、神父が尋ねた。
東堂は静かに微笑みながらグラスを口元に運ぶ。

「何、ついに全ての準備が整ってな。
来週から始まるGS選抜、滞りなく進められそうなのだよ。」

「……そうですか。」

反応が薄い唐巣の様子に、咎めるように東堂の眉が僅かに上がる。

「どうした唐巣君。何か気に入らない事でもあるのか?」

「……失礼を承知で言わせていただきますが、私は選抜に賛成ではありません。」

「ふむ、何か言いたい事があるのかね。」

東堂の雰囲気が変わり、平穏だった空間が緊迫し始める。
並みの人間なら緊張感に呑まれて萎縮してしまう所だが、神父とて幾度となく死線をくぐり抜けてきた一流のGSなのだ。
東堂の目を見据え、はっきりと提言する。

「何故、選抜の試験内容が実技に偏っているのですか。
これでは、攻撃的でない霊能を持つ者にはあまりに不公平でしょう。
それに、今は人間以外の種族も社会に受け入れようとしている時期です。
にも関わらず、彼らに参加資格を与えないというのは納得できません。」

「……君が知る必要はない。」

「納得できません。」

室内を痛いほどの静寂が支配する。
だが、決して退こうとせず、真っ向から向かい合う構えの神父に根負けしたのか、とうとう東堂が口を開いた。

「唐巣君、君は……GSに一番求められるものとは何だと思うかね。」

少し考え、答える。

「……迷える魂を導く事です。」

言葉こそ短いが、それはまさに神父の生き様そのものだった。
そして、ここで言う迷える魂とは、悪霊や自縛霊だけを指すのではなく、悩みを抱える人々や助けを必要とする人々も含まれていた。
だが、それら全てを理解した上で、東堂はゆっくりと首を振る。

「違うな、唐巣君。私が聞いているのはもっと根源的なものだ。
無論、心構えや生き方といったものも重要には違いない。
だがもっと大切な、それこそ最低限これだけは守らなければいけないという鉄則があるはずだ。」

再び、神父は考え込む。
だが今度はすぐに口を開いた。

「……たとえ、除霊に失敗したとしても、必ず生きて戻る事でしょう。」

その答えに東堂が頷く。

「しかし、だからと言って、力が全てでは――――」

「いいや、極限状態においては力こそが全てだ。」

神父の言葉を遮り、強い口調で断言する。
そして、すぐに反論しようとする神父の瞳をじっと見据え、静かに問いかけた。

「……君とて、忘れた訳ではないだろう。
あの魔神が引き起こした大霊障を。」

東堂の瞳に深い悲しみが刻まれている事に気づき、神父は言葉を飲み込む。

「忘れられる訳がない……あの、突然前触れもなく現れた、魔族や妖怪達。
そして世界を覆い尽くさんばかりに溢れかえった、あの悪夢のような悪霊の大群を。」

恐らくあの時の光景を思い出しているのだろう、東堂の視線が一瞬宙をさまよう。
しかし、その瞳に恐怖の色は浮かんでおらず、行き場のない悲しみだけが存在した。

「あれだけの戦力差だ……本来ならば複数のGSで連携して対処するべきだっただろう。
だが完全に不意を突かれた我々には、体制を整える余裕などありはしなかった。」

あの時、神父は10人近くで行動していたのにまともに進む事すら困難だった。
コスモプロセッサから近かったことを差し引いても、あれだけの数をもしも一人で相手にするとなると、背筋が寒くなる思いだった。

「勝ち目のない戦いを強いる権利など、誰にもありはしない。
己の身を守る事を優先したからといって、責められるいわれなど無い。
だが、それでも――――!」

――――ピシッ!

東堂の手の中のグラスに一筋の亀裂が走る。

「あの絶望的な状況下において、力を持たぬ人々を守るために、その身を投げ出した者もいたのだ……!」

あの時、突然の異変に人々は逃げ惑っていた。
何の力も持たない一般人には、ただの悪霊とて充分な脅威になる。
そして、逃げ惑う人々を避難させるため、誰に強制された訳でもなく、無論報酬など得られるはずも無いのに悪霊と戦ったGS達がいた。
彼らは特別強い力を持つわけではなかった。
それでも、力無き人々を守るという信念の下、その身を投げ出した。

もともと、まともな思考能力を持たない悪霊達だ。
まるで、羽虫が誘蛾灯に群がるかの如く、霊力の光を発するGS達に引き寄せられていった。
彼らの行動がなければ、犠牲者はさらに増えていた事だろう。

そして、彼らの多くはあの夜に命を落とし、慰霊碑にその名を刻まれていた。

「命を落とした者、助かった者。
彼らの明暗を分けたのは、身一つで戦い抜けるか否かだった。
切りが無い膨大な数を相手にする時、いくら知識があろうと無意味。
霊具の扱いに長けていたとしても、道具には耐久力や数的な限界があるのだ。いつまでも保ちはしない。
結局、極限の状況下では、己の力しか頼れるものはないのだ……」

東堂の話を聞きながら、神父は依然耳にした噂を思い出していた。
東堂はあの大霊障の夜、息子夫婦と孫を亡くしているらしいのだ。

彼の血筋は元来優秀な霊能者の一族だ。
恐らく、彼の息子や孫も優秀なGSだったに違いない。
そして、あの夜、力無き人々を救うために、その命を――――

「確かに、君が言うように、GSの優劣は力だけで決まりはしない。
だが、どれほど過酷な現場からでも無事に生還してみせる生存能力。
これは、命のやり取りをせねばならない我々GSにとって、何よりも重要な資質だろう。」

東堂の瞳に刻まれた悲しみの理由を察してしまった神父には、ただ頷く事しかできなかった。

「人外の種族の参加を認めていないのは、まだ彼らには時期尚早だと判断したからだ。
もしも同種の存在が人に危害を加えた時、果たして彼らは、迷いを抱かずに戦うことが出来るのだろうか。」

東堂の言葉は、神父も密かに危惧していた事だった。
シロにせよ、ピートにせよ、もしも何かの理由で同郷の仲間が人間の敵になってしまった場合、恐らく非情に徹する事は出来ないだろう。
そして、除霊現場に迷いを持ち込めば命に関わる。

「どうだろう、まだ納得できないかね。」

「……まだ完全には納得できません。
ですが、少なくとも、理解は出来ました。
反対するつもりは……もうありません。」

神父の言葉に、東堂が安心したようにほっと息を吐く。

「そうか、それは良かった……ところで、今日君を呼んだのは、経験豊富な君に選抜の試験官を頼みたかったからなのだ。
君にも都合があるとは思うが、引き受けてはもらえないだろうか。」

さっきの話を聞く前ならば、丁重に断っていただろう。
立場上、相手の方が目上だったが、そんな事は神父にとっては些細な問題だった。
己の信念を曲げてまで、目上の機嫌を窺えるほど、神父は器用ではなかった。

「わかりました。謹んでお引き受け致します。」

「そうか、それは何よりだ。
今日はこんな遅くに呼び出して、すまなかった。」

「いえ、こちらこそ不躾な質問をしてしまい、申し訳ありませんでした。」

頭を下げようとする神父を東堂が遮る。

「構わんよ。疑問は早期に解消しておかねば、後々トラブルの原因になりかねん。
さあ、これから忙しくなるのだ。今日はゆっくり休んでくれたまえ。」

神父を送り出すと、東堂は一人部屋に佇む。
気怠げな仕草で椅子に腰を下ろし、執務机の上に置かれた写真立てを手に取った。

写真には、東堂とよく似た面影の精悍な男と、ブラウンの軽くウェーブの入った髪の温和な感じの女性。
そして、 その二人に挟まれて立つ、女子大生くらいの年齢の利発そうな若い女性。
恐らく、成人式や卒業式などの祝い事の際に撮られた写真なのだろう、真ん中の女性は艶やかな着物を纏い、思わず見惚れてしまいそうなとびきりの笑顔を浮かべていた。

「……もうすぐ……もうすぐだ……
後少しで、夜を終わらせる事が出来る……後、少しで……」

うわ言のように呟かれた言葉は、誰にも聞かれる事無く消えていった。




















「うぅ……頭痛い……気持ち悪い。」

朝の光が射し込むホテルの一室に、もぞもぞと動く物体があった。
その物体は最初、自分がどういう状況かわからなかったが、ホテルの一室で一夜を過ごしてしまった事に気付き、嫌悪感にその整った顔を歪ませた。

(酔いつぶれて体を許すなんて……最低……)

二日酔いとはまた別の種類の吐き気が胸に込み上がる。
だが布団を跳ね除け、よく自分の姿を確認すると、昨夜と同じ服装で特に着衣が乱れている訳でもなかった。
室内にも自分以外の気配は無い。

二日酔いで痛む頭を抱え、のろのろとベッドから身体を起こす。
恐らく大樹が置いていったのだろう、枕元にメモが残されていた。

――――あの馬鹿をよろしく。
支払いは済んでいますので、どうぞごゆっくり。

余裕たっぷりに微笑む大樹の顔が脳裏をよぎり、何となく負けたようで釈然としなかった。
そのままベッドに寝かされていたので、服に軽く皺が入っていたが、脱がされるよりはましだった。
意識の無い時に服を脱がされるかと思うと、背筋に悪寒が走る。

せめて二日酔いの身体に活を入れようと、シャワーを浴びに浴室に向かう。
その足取りは引き摺るように重く、普段のクールな面影は欠片も無かった。
よろめきながらも、どうにか浴室に辿り着くと、のろのろと服を脱ぎ捨てる。

暖かいシャワーを頭から浴び、ようやく少しだけスッキリしたのだろう。
肌を伝っていくお湯を感じながら、昨日の大樹から聞いた話を振り返る。
何があったかを知ってしまった今、美神達が自分とシロに教えていなかった理由がよくわかる。

「はぁ……知らない方が、気楽だったかも……」

知ってしまったからといって、今更何が出来るというものでもない。
次に横島と顔を合わせる時、自分はどんな顔で会えば良いのだろうか。

――――せめて、ちょっとは優しく接してやろう。

きゅっと音を立てて、シャワーを締める。
ふつふつと湧き上がる罪悪感を抑えるためだろうか、タマモは横島への接し方を考え直していた。










「ん、もうこんな時間か。」

「夜が明けてしまったでござるなぁ。」

朝靄の向こうから届く朝日が照らす街を見下ろしながら、夜通し話し続けていた二人が、笑って顔を見合わせる。

「拙者、今日までお休みだからどこかに連れて行って欲しいでござるよ。」

まだ遠慮気味だが、横島の手を握り甘えている。
昔みたいな過剰なスキンシップを取らないのは恥じらいがあるから。

「徹夜明けでデートかぁ……相変わらずタフだな、シロは。
でも、そうだな。せっかくの休みならどっか遊びに行くか!」

「やったでござる!
――――あ、でも。」

喜んだのも束の間、シロが迷うように目を逸らす。

「その、一度宿舎に戻ってシャワーを浴びたいでござる。
夜にあびなかったし、やっぱり夏でござるし、汗を流さないと気持ち悪いでござるよぅ。」

「んー、確かに俺もシャワーは浴びたいな。
でも態々宿舎に戻る必要なんて無いだろ。せっかくホテルにいるんだから。」

横島が指差す方向には浴室があった。
さらりと無茶な事を言う横島を、シロが恨めしそうに見上げる。

「うぅー、こんな朝から先生のケダモノー。」

「あのなあ……もうガキじゃないんだからシャワーを覗くような真似をすると思うか?
馬鹿な心配してないで、さっさと浴びて来い。」

しっしっと追い払うように手を振り、浴室に追いやる。
嫌がっているのも形だけなのだろう、何度か振り返り警戒しているようだが、素直に浴室に入って行った。

しばらくするとシャワーが流れる音が横島の耳に届く。
それまでぼんやりと外の景色を眺めていた横島の視線が、獲物を狙う猛禽類のそれになる。
気配を殺し、音も無く浴室の前に移動する。

浴室の扉に手を掛けようとしたその時――――

「先生、足音が丸聞こえでござるよ。」

バスタオルに身を包んだシロがばたんと扉を開けた。
豊満な胸が湿ったタオルで強調されて、これはこれでいいものだなと横島は思ったりもしたのだが。

「バ、バカな事言うなよ。
ちょっと前を通りかかっただけに決まってるだろ?」

どうやら人狼の聴覚は出し抜けなかったようだ。
あはははは、と白々しく笑いながらベッドへと戻っていく。
覗きはバレずにやるのが男の浪漫。バレているのに強行突破するのは邪道だというのが横島の持論だった。

(もう……先生のスケベはよくわからんでござる……)

昨夜手を出さなかったかと思えば、こうしてシャワーを覗こうとする。
彼なりの基準があるのだろうが、まるで昔の彼と美神とのやり取りのようで、シロの頬が思わず緩んでいた。
手を出さなかったのは自分を思いやってくれているからで、ちゃんと女として意識してもらってるのがわかり、嬉しかった。

ちょっとくすぐったいけど、悪い気分ではない。
ボディソープを洗い流しながら、シロの鼓動は高まっていた。

「それじゃ、どこか行きたい所はあるのか?
あ、でもその前に朝飯食わなきゃな。」

「先生と一緒ならどこでも良いでござるよ。」

部屋を出ながら、シロが横島の腕に手を回す。
幸せそうに微笑みながら、横島の肩に頭をのせる。
洗い立ての髪から漂うシャンプーの香りに、横島の方もまんざらではない。

チェックアウトのためにフロントに向かおうとした所で、隣の部屋の扉が開いた。
前を塞ぐように開かれた扉に、二人は立ち止まる。

「あ、失礼。ごめんなさ――――」

通行の邪魔をしてしまった事に気付き、隣の部屋から出てきた女性が謝ろうとしたが、何故か急に言葉を詰まらせた。
隣の部屋から出てきた女性の姿に、横島とシロも呆気に取られている。

「な、なんでアンタ達がこんな、とこ、に――――」

しかしその言葉は最後まで語られはしなかった。
代わりにタマモの周囲に大量の狐火が浮かび上がる。
凄まじいまでのプレッシャーを放ち、親の仇でも見るような目で自分を睨むタマモに、横島が表情を引き攣らせる。

「ちょ、おい、いきなり何なんだ――――」

そこでハッと今自分の置かれている状況に気付く。

@幸せそうな表情で腕を組むシロ。

Aシロと自分の洗い立ての髪。

Bそして、ここはホテル。

C結論――――うん、これはもう駄目だろうね。

「こんのケダモノォォーーーーーーーー!!」

最後に自分を罵るタマモの声と、自分を庇うシロの声を聞いたような気もするが、そこで彼の意識は失われてしまった。

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