「死ね」という言葉の考察
 

 日本の漫画やTVゲーム、また現実の子供を見て思った事
なぜ「死ね」「殺す」などという言葉が不必要に氾濫しているのだろうか?
少し考えれば分かることだがどちらとも不用意に使っていいような言葉では決してない
間違えれば脅迫罪、もしくは名誉毀損罪になる、また罪にならずとも相手を不快にさせる言葉だ

 これらの言葉の氾濫の大元は漫画やゲーム、そして一部のテレビ番組だろう、その中でも漫画の占める割合は大きい
とはいえ漫画の世界でも始めからこうだったわけではない、流血漫画の元祖ともいえる「リングに○けろ」
ハードボイルドアクション漫画(?)の「CITY HUN○ER」などでもこの二つの単語が使用されているのは極めて少ない
ところが、今は「戦う」という事を必要としないギャグ漫画でさえもこの二つの単語は盛り上がりの一つとして多用されている

 そしてこれをさらに促進したのはTVゲーム、とくにロールプレイングゲーム(RPG)と言われる部類のものだろう
ストーリーを進めるために必要とされる行動である「戦闘」で、ほとんどの場合がモンスターと呼ばれるものだが
ときには人間の姿をした相手とも戦う必要性を要する、これは大きな影響だといえる
また、RPGにおいてなにが問題かというと、「殺す」という言葉がキャラクターの行動によって可能だからである
仮想的な世界とはいえ、「殺す」ということが可能な空間というのは一種の魔力をおびているともいえる
通常できないからこそ、してみたい・・・・当然そんな誘惑はあるはずだ
 また、主人公にしてもそうだ・・・たとえ死んでも絶対に生き返る、不死身の存在だから、死ぬのは敵だけだ
ゲームの世界だから「死ね」「殺してやる」と何回いっても相手は嫌な顔ひとつせずに殺されてくれるだろう
そしてその台詞を言っている本人には危険は一切ないのだから、これほど楽なことはないだろう

 漫画やゲームといった、子供向けのものにすでに盛り込まれるようになったこの二つの単語
いったい保護者はどういう風におもっていうのだろうか?
私からみると、保護者がもし責めるとしたら、責めるべきものは学校とか自治体ではなく、漫画やゲームだろう
そしてそれよりももっと先に、そんな言葉を平気で使う子供たちをまずしかるべきではないだろうか?
私自身、「死ね」という台詞をつかったせいで、父、母ともに1週間からそのうえ、ずっと口さえ聞いてくれなくなった思い出がある

 「死ね」「殺す」という言葉を聞いて、不快にならない人物がいたとすれば、それは日本語を分からない人だけだろう
正常な神経をしている人は絶対に不快になり、二度とその人と会話すらしたくなくなるはずだ
こんなものが日常の会話の一つとして定着してしまっている事自体が以上であると私は思う
私は日本語というのは世界の中でもその情緒的で詩的な感性あふれる美しい言語だと信じていたが
今の日本人はその独特の美しさあふれる日本語をどこになくしてしまったのだろうか?

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