「それじゃ、後はお願いします」「悪いね、姫、乙女さん」

一通り仕事を片づけた後
俺と良美はまだオフィスに残っている姫と乙女さんに軽く頭を下げた。

「あ〜あ、よっぴーも年貢の納め時かぁ〜」

姫がデスクにだー、と突っ伏して
わざとらしくハァ〜、とため息をつく。
ていうか、それって男の方が言われるもんじゃないんか?

「そう言うな、姫。足かけ10年も交際を続けたのだ。
 レオだってそろそろ『ケジメ』というものをつけなければな」

乙女さんが重そうなファイルをいくつも重ねて持ち上げると
手際よくキャビネットに収納していく。
秘書兼ボディガードとしてキリヤにスカウトされたばかりの頃の乙女さんは
正直見ていて不安になることもあったが
今はすっかりオフィスワークにも慣れてきていた。

「ま、特に重要なプロジェクトもないから
 休暇ぐらいはいいんだけど……それにしても急な話よねー」

すでにキリヤカンパニーの全てを手中にし
後は世界のトップを目指すだけという段になって
このところ姫は少し慎重だ。小さな失敗も許されないレベルになったということか。
まあ、おかげで少し仕事に余裕ができて休暇も取りやすくなったわけで。

「いや、前々から考えてはいたんだよ。
 ただなんて言うか……踏ん切りがつかなくてさ」

踏ん切りがつかなかったのは、俺ではなく良美のほうだけどね。


ガタタン……ガタタン……

車内には他にあまり乗客もいない。
ゆっくりした列車のリズムだけが響く。
ボックスシートの隣に座った良美は
ずっと窓の外の風景を眺めていた。
ときおり、目線を通り過ぎたものに送っているのは
何か見覚えのあるものを見つけたのだろうか。

不意に良美が振り向き、ぽつりと告げる。

「もうじき、だよ」

「そうだな。駅から何分ぐらいだっけ?」

「歩いて30分ぐらい、かな。バスの時間があえばいいんだけど」

「なに、それぐらいなら歩くさ。
 良美だっていろいろ見て回りたいところあるんじゃないの?」

「……そんなところ、ないよ」

10年以上帰っていない、良美の実家へ
今、二人で彼女の両親に会いに向かう。

結婚の許しを得るために。

黙って結婚してしまうことだってできる。
それでも、やはり知らせるだけは知らせておくべきだと思ったし
できることなら、祝福してやってほしかった。
渋る良美を何とか説得し、休暇を取り、実家に電話をさせて
今……駅についた。


駅を出て、途中すれ違う人たちが
皆一様に目を見張り、そして良美に会釈をする。
そして一様に俺に目をくれて
『何かしらこの馬の骨は』みたいなオーラを出している。気がする。

「良美ってこの辺じゃすごいお嬢様?」

「そんなことないよぅ」

「……ずっとこっち側が塀になってるけど、公園か何か?」

「あ、ううん、もう塀の向こう側がウチ」

「……そうですか」

こともなげに良美が答える。
お屋敷じゃん。お嬢様じゃん。
5分ほど、佐藤邸の塀ぎわを歩く。まだ門は見えない。

「ずいぶん広いお屋敷なんだね」

「そんなことないよぅ」

「いや広いって!竜鳴のグラウンドより広いぞこれ」

「……広くても、中は空っぽだよ」

そんなはずないだろ、これだけのお屋敷だったら
さぞかし色んなものが詰まって、と言いかけて見返した良美の顔は
まるで能面のように表情がなくなっていた。
空っぽなのだ、この家は。少なくとも良美にとっては。
俺たちはその後は黙って門まで歩いていった。


馬鹿でかい門をくぐり長い小道を歩いてようやっとたどりついた玄関では
しわくちゃのお婆さんが俺たちを出迎えてくれた。

「お帰りなさいませ、お嬢様。
 旦那様は書斎でお待ちでいらっしゃいます」

「わかりました」

出迎え、といってもなんか事務的だった。
婆やさんがチラ、と俺を見る。

「……対馬様、でいらっしゃいますね?」

「え?……ああ、はい、対馬レオ、です……ども、えと……」

「対馬様はこちらへ。お荷物は下男がお持ちいたします」

いつの間にか近づいていた男性に
良美はそれが当然であるように荷物を預ける。

「ああ、その、俺の荷物はいいです。自分で持ちますから」

「左様でございますか。では、こちらへどうぞ」

こちらへ、って……俺も良美のお父さんに挨拶するつもりだったんだが
なんか予想してた手順と違ってきた。
とまどう俺に、良美が

「……お父様にご挨拶をすませたら、部屋に行くから」

と、この場は指示に従うようなことを言う。
逆らっても仕方がない。成り行きに任せることにした。


静かな部屋の中で待つことしばし。
やがてノックされるドア。

『レオくん、良美です』

飛びつくようにして開けたドアの向こうで
良美は静かに笑いを浮かべていた。
人形のように。

「ど……どうだった?」

「お父様に紹介するから、ついてきて」

「あ……はい」

部屋を出て、先を歩く良美の後をついて長い廊下を進む。
その間、良美は一言もしゃべらない。
この家に戻ってきてからの良美は
まるで……人形だった。
実家に戻ったことで条件反射のように
良美は自ら作り上げた仮面をかぶる。
そうしなければ、この家では壊れてしまうから。

両開きの、重そうな木製のドアの前で良美が立ち止まる。

「お父様、対馬さんをお連れいたしました」

『入りなさい』

ガチャリと音を立ててドアが開く。
広い書斎の奥
開け放たれた窓のそばに、その人はいた。


もっと尊大な人物を想像していた。
もっと横柄で、強引そうな人物だと思っていた。

だが、窓辺にたたずんで俺を待っていたのは
ただのくたびれたオッサンだった。
そう、この人は……疲れている……

「どうぞ、おかけなさい」

「あ、はい」

いかにも高価そうなソファに浅く座り
俺は良美の父親に頭を下げる。

「初めまして、対馬レオと申します。
 お嬢さんの良美さんとは竜鳴館の同級生で
 現在は同じ職場の……」

カチンコチンになりながら始めた自己紹介が
柔らかな声に遮られる。

「あー、対馬くん。そう畏まらなくてもいい。
 君のことは……まあ、だいたいわかっとるつもりだ」

はて?
良美が俺のことをそう詳しく伝えていたとも思えないが。

「いや、失礼だとは思ったが……
 娘の交際相手ということで、人を使って君のことを調べさせた。
 これも娘を思う親心ということで、勘弁してくれたまえ」

隣に座った良美の肩が、ピクン、と震えた。


俺はといえば、調べられていたことには
さして驚きもしなかったし腹も立たなかった。
まあ、ありそうな話だよな。

「なかなか、将来有望ですな。
 何より……良美を、大事にしてくれている。感謝しています。
 これからも、娘のことをよろしくお願いします」

「は……はいっ!ありがとうございます!」

……やった。
拍子抜けするほどあっけなく
あちらの方から良美との交際を認めてくれた。
喜びで、顔面が紅潮するのがわかる。

「ありがとうございます、お父様」

そして良美も微笑みながら頭を垂れる。
仮面のような笑みで。

「対馬くんのご両親は、まだ海外かな?
 一度、ご挨拶させていただきたいものだが」

そこまで調べられてたか。いいけど。

「あー、いやスイマセン。
 なかなか帰国の都合がつかないらしくて、連絡もままならないんですよ。
 そのうち帰るみたいなことは聞いてるんですが」

和やかな雰囲気で会話が進む。
その間、良美は相づちを打つ程度でほとんど喋らず
ただ、ずっと人形のように微笑んでいた。


とりとめもない話をしばらく続け
一段落付いたところで
不意にお父さんが身を乗り出してきた。

「さて……対馬くん。
 妻にも、会ってやってくれるかね?」

それまでの温和な表情が
一転して真剣なものに変わった。

「は?……はい。よろしければ、是非」

そういえばお母さんはまだ一度も顔を見せない。
出かけているのかと思っていたが、屋敷内にいるのだろうか。

「良美も。いいね?」

良美の心の傷を作った張本人。
立ち直りつつあるとはいえ
良美にはまだ母親の存在はプレッシャーを与えているのだろう。
仮面から、作った笑顔さえ消して
良美がゆっくりと頭を垂れる。

「はい、お父様。
 お母様はどちらにいらっしゃるのですか?」

良美が拒絶しなかったことにホッとしたのか
それとも覚悟を決めでもしたのか
大きく一つ息を吐き出すと
絞り出すように俺たちに居場所を告げた。

「新しく作った離れにいる。私も、行こう」


「あらかじめ、伝えておくことがある」

長い廊下を俺たちを先導するように歩きながら
振り返ることなく話し出す。

「今、あれは病気なのだ」

「ご病気、ですか?」

それで顔を出さなかったのか。

「3年ほど前になる。
 ……事故で頭を打ってね。
 体の方はもういいようなんだが……記憶に、混乱があってね」

「記憶?」

「私と結婚したすぐ後、同じように頭に怪我をしたんだが
 そのときの記憶に戻ってしまっているんだ。
 ……良美、お前を産む、ちょっと前の頃の記憶にな」

「私が……産まれる、前……?」

「うむ。だから、お前を見ても誰だかわからない。
 二人のことは、私の方の遠い親戚と、その婚約者、ということにしておく。
 そのつもりでいてくれ」

「わかりました」

わかりました、と言いながらも
こんな再会に意味があるのか
疑問を感じずにはいられなかった。


良美のお母さんは、静かな、日当たりのいい和室にいた。
俺たちが入ってきたことにもしばらくは気づかず
中央に布かれた布団の上で
上体を起こしてガラス窓の外をぼんやりと眺めている。
やがて、ゆっくりと首をこちらに向けた。
優しい、それは優しい……笑顔だった。

「あ……おかえりなさい、あなた」

「ただいま。具合はどうだい?」

「ええ、もうほとんど頭も痛まないのよ。
 あの……そちらはお客様?」

「親戚の良美ちゃんじゃないか。忘れたのかな?」

「あらやだ……ごめんなさいね、ちょっと頭がまだ混乱してて。
 んー、良美さん良美さん……いやだ、全然思い出せないわ。
 ホント、こんなんじゃ困っちゃうわねぇ」

「今度ね、こちらの対馬くんと結婚するんだそうだ。
 それで、挨拶がてらに見舞いに来てくれたんだよ」

「まあ!おめでとう!そぉ〜、いいわねぇ。
 予定はいつ?私、結婚式までには治せるかしら?」

「だいじょうぶ、すぐに良くなるよ。
 結婚式だって……出られるさ……」

お父さんの言葉が、かすかに震えていることでわかった。
治らないのだ。
たぶん、この先、ずっと。


この人は、おそらく一番幸せだった記憶の中にとどまって
この先の人生を過ごすのだろう。
この先起こるはずだった嫌なことも
今のこの人にはまだ起きていないことなのだ。

「でも、ちょっと困ったわねぇ」

「何がだい?」

「お腹の赤ちゃん。
 私、女の子だったら『良美』ってつけるつもりだったのよ。
 ねえ、良美さん、同じ名前をいただいてもいいかしら?」

「え……あ、あの……はい……」

「よかった、ずっとどんな名前にしようか考えてたの。
 きっと、貴女のご両親も……」

「……あのっ!……ちょ、ちょっと……
 しっ……失礼しますっ!」

耐えきれずに
抑えきれずに
良美が部屋を飛び出す。
きょとんとしているお母さんを残して
俺もその後を追った。

良美はすぐに見つかった。
部屋を出てすぐの廊下で
うずくまって何かブツブツとつぶやいていた。

「……どうして……どうして……どうして……」


声を、かけなければ。
引き戻して、またお母さんと話をさせなければ。

「……良美?」

声をかけたとたん、爆発した。

「どうしてぇっ!?なんでよ、なんでこんなあぁっ!?
 どうすればいいの、どうすればいいのよぉっ!?」

「ちょ、声デカイ!落ち着けって!」

喚き始めた良美を慌てて廊下の端まで引きずっていくが
爆発した感情は収まらない。

「あんまりよ、あんまりじゃないの!
 あんな……あんなヒドイことして、ずっと忘れられないようなヒドイことして
 どうして覚えてないのよぉっ!なんでなかったことになってるのよぉっ!」

「だから、それは頭を打って……!」

「ズルイよ、ズルイよ!
 なんで!?なんで私だけ!?ずっと恨んできたんだよ、ずっと憎んできたんだよ!?
 なのになんで覚えてないの!?私、バカみたいじゃない!
 後悔も反省もなしで、なかったことにするなんてズルイじゃないのよぉっ!」

もう俺の言うことも耳に入っていないのか
良美は積もり積もったものを吐き出し続ける。
この家に来て、ずっとかぶっていた仮面も
今は全部脱ぎ捨てていた。

「私どうすればいいのよぉっ!?」


どうすればいいのか
どうすることが正しいのか
正直、俺にはわからない。
だから
そうしてほしい、そうあってほしい、と思うことを言ってみる。

「許せば、いいんじゃないかな」

「ゆる…許す!?許せって言うの!?
 あんな……あんなことされたのに、許せって!?」

「うん。
 このまま、憎みながら、恨みながら生きていくよりは
 ずっとその方が楽なんじゃないかな」

「で……できない、よ……そんなの、無理だよ……」

「できるさ。良美は、本当に優しい、いい子なんだから」

「でも……それ、私だけ酷い目にあって損してる気がする……
 反省とか、後悔とかしてほしかったのに……」

「それなら、私がする」

「えっ?」

不意に後ろからかけられた声。

「お、お父様……」

いつの間にか、お父さんも部屋を出て
俺たちのすぐ後ろに立っていた。


「お前があれに……虐待を受けていたことは
 薄々は、気づいていた……だが、確かめようとはしなかった。
 怖かったんだ。見かけだけでも幸せそうな家庭の
 その見かけさえも壊れてしまうのが……」

うつむき加減のその顔が青ざめて見える。

「お前がこの家を出てしばらくして
 婆やが、何が起きていたのか教えてくれた。
 私が家庭だと思っていたところで
 何が起きていたのか、そこがお前にとって何だったのかを」

良美は喚き散らすのをやめ
今は凍り付いたように動かない。
告白は続く。

「だが、私にはあれを責める資格がなかった。
 私の……浮気が、あれをそう追いやったのだから。
 お前を呼び戻すこともできなかった。
 お前が……怖かったんだ」

「罪は私にある。今更遅いかもしれないが
 後悔も、反省も私が二人分しよう、だから……
 あれを、許してやってはくれないか」

良美は黙っていた。
黙ったまま、表情を変えずに立っていた。
やがて、くるりと向きを変え
飛び出した和室にまた足を向けた。

許してほしいという父親の願いに
答えないまま。


襖をあけ、つかつかと部屋に入っていく良美に続き
俺たちも部屋に戻る。
お母さんは明らかに困惑していた。
無理もない、いきなり部屋を飛び出したんだから。

「あの……ごめんなさいね?
 お名前のこと、何か気に障っちゃったみたいで」

いかにも申し訳なさそうなお母さんに

良美が、微笑んだ。

本当の、笑顔で。

「いいえ、私こそ急に取り乱してしまってすいませんでした。
 私の……母のことを、思い出したものですから」

「お母様の?……そう……」

「どうぞ、こんな私と同じ名前でよかったら
 つけてあげてください。良美という、名前を」

「そう……ありがとう、私ね、この名前ずっと考えてたのよ。
 貴女みたいに きれいな いい子に なりますように、って
 そうしたら、きっと、幸せになれるから」

「!」

「……貴女のお母様も
 そう願いながらお名前をつけたんでしょうね」

「はい……きっと……そうだと、思います」


許して
許されて

今、ここに一組の家族がいる。
それは記憶が失われたことで生まれた
儚い、仮初めのものかもしれない。

だけど、偽りではないと感じた。

だから、俺は提案する。
残しておきたかったから。何か形にして残しておきたかったから。

「あの、良かったら……写真撮りませんか?」

「え、写真?だ、ダメよ、こんな……
 ろくにお化粧もしてないし」

「大丈夫だよ、そのままでお前は十分、綺麗だから」

「じゃ、お二人で並んで……良美はその前、そうそう……」

取り出したケータイのカメラ機能を起動する。

「?最近のカメラは、変わってるのねぇ」

「お前はそういうの弱いからなぁ」

「はい、撮りますよー」

液晶画面の中の家族の肖像は
はい、チーズ、なんて言う必要がないほどに
楽しげで、幸せそうだった。


「赤ちゃん、欲しいね」

帰りの電車の中で、唐突に良美が話し出す。

「ま、そのうち、かな。
 それより前に結婚、ちゃんとしないと」

「うん。レオくんのご両親にもまだご挨拶してないしねー」

「あれはもう放っておいてもいい気がする」

「そんなわけいかないよぅ。
 ちゃんとご挨拶して、ウチのお父さんお母さんにも会ってもらって
 祝福されて式あげるんだもん」

「なんとか連絡とらないとなー」

「スッゴイ豪華な結婚式あげてもいいよねー。
 エリーに言えばなんとかしてくれそうだよね」

良美は帰省の結果ちょっぴり……欲張りになったかもしれない。

「それでー、子供はいーっっっぱい欲しいなー。
 ほら、私一人っ子だったじゃない?
 あ、レオくんもそうだよね?やっぱり子供はさ……」

まあ頑張ってみるか。大好きな、この笑顔のために。

「……そしたらスッゴイ幸せな家族になれるよ!」


(作者・名無しさん[2006/12/24])

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