「ねぇ、対馬クン。乙女センパイって春からもこっちなんでしょ?」
 本日竜宮は開店休業。三学期は三年送別会までこれといったイベント仕事もなく、おかげで出席率は夥しく悪い。
 そうなると、暇を持て余した姫の矛先は自ずとこちらに向くわけで。
 できればなるべく触れたくなかった話題だが、姫相手にお茶を濁しても無駄だ。
「あー。それがそうもいきそうにないんだよなー」
「なになに、もう愛想つかされた?」
「嬉しそうに言うなって。親が帰ってくるみたいだからさ。そうなりゃ姉としての役割は御役御免でしょ」
「ふぅ〜ん…」
 姫の表情がとってもわかり易いいじめっ娘の微笑みに変わる。
「そっかぁ。春は別れと出会いの季節だもんねぇ〜。乙女センパイも新入生、大学には素敵な頼れるセンパイも
いっぱいよねぇ〜。M大って武道強いもんねぇ〜」
「エリー、そういうこと言っちゃ駄ー目。対馬君可哀想だよぅ」
 佐藤さんがすかさず口を挟む。ホンマええ子やこの子は。
「そうよね〜、チキンの対馬クンには厳しすぎる話題よね〜。よっぴーもそれを充分判って、あえて手加減してあげて、って
言ってるのよね?」
「えーと……あぅぅ、違うよぅ」
 前言撤回、その間は何だ佐藤さん。でも言い返せない自分も情けないわけで。
「大学の場所も、こっちより柴又の実家のほうが近いからさ。こっちにいる理由も無くなるし」
 動揺をなんとか隠しながら答えてみる。
「やっぱり、強い男は頼れるもんねぇ〜。強い男に守られる乙女センパイってのも、アリだと思うなぁ〜。大和撫子って
本来男を立てる性分だって聞くし、強い人との方が相性いいかも?おしとやかな乙女センパイ……うんうん、アリアリ!」
 普段なら受け流せる妄想なんだけどなぁ。なんか調子が出ない。
「……買い物してくんで、仕事ないなら帰るわ」
 あー、ほんとチキンだ俺。鞄を掴み、扉へと向かう。
「うっわ、わっかり易いいじけ方」
「もーぅ、ダメだってばエリー。対馬君ごめんねぇ」
「なーに言ってるのよ。渡りに船じゃないよっぴー的には」
「え?え?そんなことないよぅ?」
 後ろ手に閉めた扉の奥の声に耳を傾ける余裕もなく、俺はとぼとぼと廊下を外へと向かう。


 年始の挨拶、と慌しくかけてきた電話の中で、親父は春には仕事が一段落する、と言っていた。
 何だかんだでそれきり連絡はない。それでも冷静に状況を考えれば、この甘い生活が続けられるとは思えない。
 離れて暮らすことは嫌だ。それもある。でもそれよりも、離れて暮らして新しい生活に慣れ、また昔のようにこの感情も
忘れてしまうんじゃないか、と怯えている。
 顔に出てたんだろうなぁ。目聡い姫がそれを見逃すわけがない。
「ただいまー」
 乙女さんは玄関口を掃除してるところだった。拳法部の部長も風紀委員長も跡目を譲り、短縮授業で時間もあるから、と、
最近は乙女さんに家事を頼りっきりになっている。
「おお、お帰りレオ、早かったな。ちょうどよかった、今…」
 真っ直ぐに向けられる笑顔。うだうだ悩んでるせいか何だか切なくて、言葉を遮るように抱きしめる。
 乙女さんは一瞬だけびっくりした様子を見せる。が、すぐさま俺の背中に掌を差し伸べてくる。
「どうしたレオ、何があった?どこか痛むのか?悲しいことでもあったのか?」
 自分がすごく情けない顔をしてる気がして、乙女さんの肩に顔を埋めたまま、無言で首を横に振る。
「こ、こら、くすぐったいぞレオ……全く、男の子がそんな弱腰でどうする」
 背中のあったかい掌が、優しく俺を撫でる。
 無骨な掌だと乙女さんは言うけど、俺はこの掌が大好きだ。
「お前がそんなだと、はかどる仕事もはかどらんではないか。本当に世話の焼ける…この甘えん坊め」
 困ったような、嬉しいような、そんな声。俺の我侭でしかないのに。。


「玄関は閉まってるな。手も洗った。掃除道具の片付けは…まあ後でもよいか」
 ぶつくさと何やらつぶやくと、乙女さんの掌の片方は俺の背中から腰へと滑り降りた。
「よっ」という掛け声と共に宙に浮く俺の下半身。反射的に俺は乙女さんの首にすがりつく。
 気が付くと、お姫様だっこの体勢になっていた。
「何があったか知らんが…お姉ちゃんが、慰めてやるから、な」
 自然と俺を見下ろす形になった乙女さんが、少しだけ俺の耳元に唇を寄せて、甘く囁いた。
 この優しさを、手放したくない。
 それこそ小さな子供が甘えるように、俺は両手にぐっと力を込める。
「馬鹿、暴れるな」
 そう口では言いながら、乙女さんの目は相変わらず優しく笑っていた。

 翌朝。色々と身体を酷使したせいか、目覚めた頃にはずいぶん日が高くなっていた。
 今日は祝日にもかかわらず、乙女さんは早々に出かけているらしい。居間に下りると、テーブルの上にはお握りの山と
達筆な筆書きのメモが残されていた。
『よく寝ているので起こさずに行く。今日は遅くなるので、夕食は間に合わなければ済ませてくれ。 乙女』
 どこに行くかは無し。ちょっと気になる。
 大学の部活にでも顔出しするのかな?スポーツ推薦で諸手を上げて迎えられたみたいだし。

「で、晴れて俺は通い妻復活ってわけだ。最後の最後で俺のフラグが立つなんて、なぁ?」
「キモい話はいいから。せっかくの飯が不味くなる」
 そういう話になればこの男に頼むのが一番、というわけで、久々にスバルにご登場願った。
「お前のフラグはどうでもいいけど、この味の染みた唐揚げのフラグは今後とも是非」
「だろ?お呼びが掛かるまで新しい老酒の封切るの我慢してたんだぜ?」
 軽口を叩き合いながらの気楽な食事。いつ以来だっけ?後片付けが一段落した後、スバルにもそんな話を振ってみた。
「夏休み前だな。お姉様が来てからこっち、俺は冷遇されっぱなし。女に走りたくもなるさ」
「もともと女専門だろうが。それでカニと?」
「そうだな、レオの空けた心の隙間を」
「キリがないからそろそろ話進めてくれ」
 スバルと二人で面と向かうのも久しぶりだったから、この話をゆっくり聞く機会もなかった。


 クリスマスの日に、スバルはカニに告白した。何だかんだはあったものの、今は二人は無事付き合っている。
それを機会にスバルは夜のバイトを辞めた。というか転職し、ガテン系のバイトで何とか収入を得ているらしい。
「もう四、五ヶ月も前かなぁ。あいつ、実は失恋したんだ」
「マジ?そんな話全然聞いてねえぞ?」
 スバルは何とも微妙な笑顔を浮かべると、話を続ける。
「あの頃はお前、乙女さんの事で身も心もいっぱいいっぱいだったじゃねーか。話持ちかけ辛かったんだぜ」
「んー、あー、言われてみればそうだな…すまん」
「まあいいさ。で、俺はそれより随分前からカニの事が好きだったわけなんだが」
「はいぃぃぃぃ?」
「騒ぐな騒ぐな。ま、そんときに話してもよかったんだが、こちとら振られたばっかの女を口説くほど性悪じゃない」
「それでクリスマスまで?」
「いちいちカッコつけるのが好きな動物なもんでね」
 カッコつけ、って一言で片付けるが、それで我慢することができるスバルは俺なんかよりずっと大人だ。
「クリスマスまで、三ヶ月くらいかぁ。俺たぶんダメだな。言っちゃダメだと思っても態度で出ちまうだろうし。気付かれる」
「お、テンションコントロールはレオの得意分野じゃねーの?」
「乙女さんと付き合って、それもつまんないって思い始めた」
「善哉善哉。まあ、あいつが場慣れしてりゃ俺だって気付かれたかもな。でもそういうのを気付かないのが、カニのカニたる所以だ」
「確かに」
 にやり。釣られてスバルもにやり。
「まあ人の気持ちってのは面白く出来てるもんだ。長いこと一緒にいたって、肝心なことがいつまで経っても伝わらない
ときもある。見ただけで伝わる気持ちもある。思ったより簡単で、思ったより難しいもんだ。特に女心はな」
「深いこと言いやがってよー」
「深いと感じるのはお前が青臭いからだぜ、少年」
「そうかー。……伝わったと思って安心してもいけないんだろーなぁー」
「まーたウジウジやってんのか、進歩のない奴だ」
 これは伝わったんだろうな。さすがフラグ成立を自負するだけある。
「いや、それが」「今帰ったぞレオ…ん、伊達、来てるのか。済まんな手を煩わせて」
 強制終了。スバルはにやにや笑いながら肩をすくめる。


「とりあえず自分でがっつり悩め。どうにもなんなきゃ頼らせてやる」
 そう言ってスバルは席を立つと、玄関に足を運ぶ。ちょうど靴を脱ぎかけの乙女さんが伊達に笑いかけた。
「乙女さんお邪魔してます。つっても俺そろそろバイトなんで行きますんで…唐揚げまだ残ってるんで
良かったら食ってください」
「大方そうだと思ってたんだ、済まんな、レオのために。ところでだな…」
 ん、珍しいな。乙女さんの話し声のトーンが聞き取りづらい。
「…しい頼みで…いや、それは…だな、済まんが…む」
 なんだ?スバルはそのまま帰ったみたいだけど。
「お帰り乙女さん、今日は大学?」
「あー、えーとだな…とりあえず手洗いうがい、だ」
 そそくさと洗面所に消える。相変わらず几帳面なことで。
 しばしの水音のあと、乙女さんは何だかバツの悪そうな顔で居間に戻ってきた。
「レオ、済まんが明日も朝から行くところがある。夜も何時になるかわからないから先に休むといい」
「え、大学の部活ってそんなにハードなの?」
「大学?あー、う、うん、そうだ。だから、私がいなくてもちゃんと歯を磨くんだぞ。お風呂も入るんだぞ」
 何だろう。ずいぶん歯切れが悪い。
「なーんかいつもの乙女さんらしくないなぁ」
「そ、そんな事はない!……ほ、ほら、あれだ。私はお姉ちゃんなんだ。大人の女なんだからな。レオみたいな
子供っぽい奴には、ちょっとぐらい謎めいて見えるもんなんだ」
「そっかー。俺には話せないことなんだ」
 スバル相手と勝手が違うのは当たり前だけど、何こんなとこでイライラしてるんだ俺。
「い、いや、そういうわけでは……ええい、もういい。私は風呂に入る!今日は来ても入れてやらないからな!」
 売り言葉に買い言葉。乙女さんはぷりぷりと洗面所の方へと戻ってしまった。
(思ったより簡単で、思ったより難しいもんだ。特に女心はな)
 スバルの言葉が心の中でちくちくする。そうだよな。半年以上も一緒に暮らしててこれなんだもんなぁ。


 乙女さんは思いのほか怒っていたらしい。結局昨日の夜はそのまま客間に篭ってしまった。
 ってゆーか、何か俺そんなにマズいこと言ったかなぁ。
 今朝朝食のときにでも謝ろうと思ってたのに、乙女さんは早々に出かけてしまったらしい。
 朝と昼のお握りがきっちり準備されてたのがせめてもの救いだが。

「で、せっかくの日曜を無為に過ごしたわけだ。いい若いもんが二日続けて引きこもりってのは、どうかと思うぜ」
「無為って言うな。肝心の乙女さんがいなきゃどうにもなんねー」
 煮物の甘辛い匂いを纏ったスバルにきっちりツッコまれた。まあ、結局どこへ出かけるでもなく、家でゴロゴロして
怠惰に二日過ごせばそうも言われる。
 今日はブリ大根に油揚げの味噌汁に胡麻和え。明日は早い時間からバイトがあるらしく、作りに来れないからと
鍋いっぱいに作ってくれた。つくづくいい奥さんになる男だ。
「とっても有難いんだが、カニはいいのか?放置プレイで」
「ああ、今日と明日は夕方から、浦賀やなんかとあちこち買い物だと。本命相手じゃ仕方ないってとこだろ」
「無印でいいから。むしろ勘弁してくれ」
 スバルはいつものクールな笑いで言葉を流す。無言に甘えて事情を話させてもらうことにする。
「親父たち帰ってくるみたいだから、乙女さんも実家に帰るんだろうな、と思って。そうなると、なーんか
実際そうなるまでどう接していいか判んなくなっちゃって」
 スバルはまだ口を開かず、目で続きを促す。
「で、こないだっから乙女さんも、優しいかなーと思ったら逆ギレっぽく怒ったり…で今は怒られた後ちゃんと
話出来てないんでどうしようか、と思ってるとこ」
「なるほど。ま、お互い初物同士じゃややこしくもなるわな」
「人を旬の物みたく言うなよな」
「それが自然の摂理ってやつだ。で?レオとしては何か思い当たるとこは?」
「うーん。姫じゃないけど、愛想尽かされたんじゃなければいいなあ、とだけ」
「とことんヘタレモードだなー」
 スバルは呆れ顔でため息をつく。が、すぐに真顔になって。
「なまじ一緒に暮らすと残像も強烈だからな。自分がいない環境に少しでも慣れさせようとしてんじゃねーの?」
「うーん、だといいんだけど」


「愛想尽かされるような真似、してないんだろ?」
「甘えてるなあ、とは思うんだ。鍛錬とか勉強とか、乙女さんに言われたことはちゃんとやってる。でも、
身の回りのこともそうだし、休みにどっか行くにしても、乙女さんにリードされっぱなしだし」
「んー……ま、うだうだ考えてっと瓢箪から駒が出ちまうぜ。シャキっとして迎えてみな」
 シャキっと、か。頑張ってみよう。

 バイトに向かうスバルを送り出し、そのまま居間で何となく乙女さんを待つことにした。
 ……遅いな。もう22時過ぎだ。大学の部活に行って、そのまま飲み会……ないよなあ。
 でも体育会系だし……お酒強いんだっけ?……弱くて酔っ払って、なんて……
「……ロードワーク行くか」
 チキンな心はこういうときロクなこと考えない。動け動け。
 1時間程走って気が済んで、家に戻ると、風呂場から水音が聞こえてくる。
 とりあえず一安心。だが、問題はまだ怒ってるのかどうか。シャキっとしようシャキっと。
「乙女さん、お帰り」
「レオか?ん、ただいま。何だかんだで遅くなって、ついでに走ってきたから先に汗流させてもらってるぞ」
 ん?えーと。ロードワークには俺もたった今まで出てたわけで。乙女さんに習ったコースだから道も決まってるわけで。
「俺も今走ってきたんだけど?」
「そ、そうか?ちょ、ちょっと思う所あって違うコースを走ってみてたからな」
 変だよ。絶対変だ。
「俺なんかしたか?何でごまかしたりすんのさ?」
 思わず風呂場のドアを開こうとする。その気配を察してか、乙女さんの裸体が摺りガラスの向こうで動いた。
「く!覗くなスケベ!!」
 ほんの一瞬でドアは閉じられてしまった。そして。
「あ、れ?」
 一瞬俺の鼻をくすぐったのは、いつものシャンプーとは違う匂い。ずっと甘ったるい感じの匂い。
「言い忘れた。私は調べ物があるので、しばらく下で寝る。……聞いてるのかレオ!」
「あ、う、うん」
 突き放すように乙女さんは言うと、それきり何も言わなくなる。曖昧に返事を返して、気勢を削がれた俺は
そのまま二階へ上がるとベッドに倒れこむ。。


 一緒に暮らしてる彼女がシャンプー変えたのに、気が付かない。そんな所にも気付かないくらい、余裕なくなって
るんだなぁ、と思うと、なんだかすごく悔しくなってきた。なんでこうなっちゃったんだかなぁ。
 ネガティブな感情がぐるぐると渦を巻いて、止まらなくなってきている。

 そんな精神状態でも朝は来る。
 倒れこむようにそのまま寝ちゃったから、布団なんかかぶってなかったはず。でも俺はきっちり布団の中で
目を覚ましていた。
 こういうとこの優しさは変わらないんだな。案の定学校には先に行っちゃってるけど。
 謝るきっかけを考えながら玄関を出ると、程なくバカをぶら下げたスバルの背中に追いついた。
「おいーすスバル、とそのオマケ」
「おーレオおはよー…ってオマケゆーなゴラァ!食玩はオマケが主役だろがー!」
「オマケであることは否定しないんだな」
「おはよう坊主、よく寝られたか?」
 スバルが華麗にスルーしつつ挨拶を返す。つーか男ができてもカニは相変わらず騒々しいな。
「正直あんまり寝れてません」
「なになにー?レオまーたヘタれてんの?」
「うるさい黙れ甲殻類。おにーさんには君なんぞに理解できないデリケートな部分があるんです」
「へっ!なーにがデリケートだよこのシスコン野郎が!大方お姉ちゃんに怒られてしょんぼりなんだろー?」
 む。微妙に痛いところを。悔しいので久々に君の表情筋を弄ばせてもらおう。
「いふぁいいふぁい、ふぁいふんぁぉー!」(イタイイタイ、ナニスンダヨー)
「デリケートな男心を踏みにじる悪い子はこうだ」
「うぇおいいふぁえふぁふぁふぇー!」(レオニイワレタカネー)
「OKOK、カニのほっぺた引っ張る元気があればよろしい」
 スバル、彼氏的にいいのかこの光景は。
「おめーが変な遠慮していじらねーからカニも調子でねーんだってよ」
 そういうものか。まあ確かにやり辛かったからな。
「そうか、じゃあ遠慮なく」
 ぐいいぃぃぃぃーっ……ん?


「カニ、シャンプー変えたか?」
 思わず手を離してしまう。夏ごろまでの俺によくちょっかいを出して来た頃と、はっきり違う香りが髪から漂う。
本当はこれくらいに分かりやすいものな筈だった、のに。
「ったいなぁー……そーだよ、いい女は男に合わせて香りを変えるんだよ!」
 ……って、そういうこと?
「あ、レオがフリーズした」
「今の発言で何か地雷踏んだくせぇな」
 まずい。これは今こいつらに振っていい話題じゃない。
「匂いつき消しゴムってあったよな。メロンとかイチゴのやつはまだいいけど、カレーの匂いはどうかと思った」
「対象年齢12歳未満と一緒にすんじゃねーーーっ!」
 気力を振り絞ってボケてみる。幸いカニは引っ掛かってくれたようだが。
「おいおい、じゃれんのはむしろ好ましいけど時間見ろ時間」
「うわ、やっべ!」
「レオのせいだかんね!遅刻したらボクとスバルに学食のカツカレーで許してやる!」
 大慌てで駆け出しながら、変わらないことを喜ぶ俺がいる。
 校門に乙女さん……は、やっぱりいなかった。そうだった。風紀委員長も引退したんだった。
 何とか遅刻はせずに済んだものの。早いとこ乙女さんと話してスッキリしたい。

 幸い祈ちゃんの授業がなかったので、体力温存とばかりに本日オール爆睡デーとさせていただいた。
 姫と佐藤さんも買い物があるとかで、今日は竜宮そのものが鍵もかかって休業状態。むしろ好都合だ。
 帰って一眠りして、夕方から早めのロードワークに出る。今日は準備万端で乙女さんを待とう。
 市街の外周をまわり、いつものコースを一通り走り終えた頃に、携帯が鳴った。着信者は……佐藤さんだ、珍しい。


「うーす。何、生徒会の連絡?」
 早歩きにスピードダウンして電話に出る。
「はい、テレフォンショッキングよっぴーさんからのご紹介です、明日来てくれるかな?」
「悪い、姫のベタネタに付き合ってる余裕ないから」
「あっそー。ふーん。せーっかく大事なこと教えてあげようと思ったのになー」
「切るぞ」
「あーもうノリ悪いなぁ。分かったこっから本気。今よっぴーと駅前来てるんだけど、乙女センパイが男の人と
歩いてるの見たんだけど?」
「……姫、さすがにタチ悪い冗談言うと怒るぞ」
「さすがの私もこんなこと、事実しか言うわけないじゃない。よっぴーも見てるから、代わるわよ」
「え、え、私?……もしもし対馬君?」
 心臓が早鐘を打つ。一呼吸して、聞いてみる。
「佐藤さんも、見たんだ?」
「えっと、うーんと……うん。見たのは事実」
 その後は何も言葉にできなかった。電話の向こうから佐藤さんの「やだなぁ、こんなこと言うの」と呟きが聞こえる。
「……対馬君?大丈夫?」
「あ、あー。うん」
「声、疲れてるよ?」
「だろうな……」
 また沈黙。何を話せばいいんだ、これ以上。
「無理してるなぁもう。……えっと、これから私家帰るけど、よ、よかったら愚痴くらい聞いてあげるから……」
「はいはい、余計な口出ししなーいの。で、対馬クンどうする?見に来る?」
 佐藤さんから携帯を取り上げたのだろう。姫の声が問答無用で割り込んで来る。
 佐藤さんの言葉は有難いし、確かめたい気もなくはない。でも、姫も一緒だとなると公開処刑に近いな。
「大学の人かもしれないし。今夜にでも聞いてみるさ。じゃあな」
 内心の動揺を気取られないように、電話を切る。
 考えがまとまらない。ていうか、何を考えていいのかわからない。そのまま、足取りは自然と駅前へと向かっていた。


 帰宅ラッシュが始まっている時間のせいか、駅前は相当な人ごみだった。女の子たちの騒ぎ声、駅ビルのセールを告げるBGM、
どっかの市民団体の街宣車から響く金切り声なんかが絡まりあって、耳障りなことこの上ない。
 その喧騒の中を、視線だけはふらふらと彷徨わせながら、足取り重く歩く。
「在日米軍への抗議の署名をお願いしまーす」
「っさい。急いでんだこっちは」
 いきなり視界を遮るように署名用紙を突き出してきた市民団体のおっさんに、睨みを利かせて振り払う。
 探したい。見たくない。その繰り返し。ダメだ、イライラが募るのがはっきり分かる。
 今うろつくのも危ないだけか。
 耳障りな騒音さえも、だんだん聞こえてるんだかどうだか分からなくなってくる。

 どこをどうやって帰ってきたか、よく覚えていない。気付いたら自分の部屋で、明かりもつけずにベッドに潜り込んでいた。
 何でだろう。何でこうなっちゃったんだろう。考えようとしても頭が上手く働かない。
 ただ、この生活が終わりを告げるであろうことだけは、妙にはっきりと認識できた。
 ……どれだけ時間が過ぎたか、よくわからなくなった頃、玄関で物音がした。
 起き上がる元気はない。顔をあわせる勇気もない。
 物音は階段を静かに上がり、そして、俺の部屋のドアを静かに開ける。
「レオ……寝てる、か」
 衣擦れの音よりひそやかな声。それきり沈黙が部屋を支配する。
「……不実者の私を……許してくれ」
 ……!!!
 喉元に刀を突きつけられたような気がした。
 乙女さんの声は、泣いているように途切れ途切れだった。でも俺は顔を上げることはできなくて。
 それきり、ドアは閉じられ、物音は遠ざかっていった。
 世の中は理不尽だ。ちょっとしたボタンの掛け違いが、どこまで広がれば気が済むんだ。
 そんなことを嘆くしか、その夜の俺には出来なかった。情けないことに。


 眠っていたのか、起きていたのか。その狭間を彷徨ううちに窓の外は明るくなってきていた。
 学校に行く気力は正直ない。何を考えるでも何をするでもなく、ベッドの上でうだうだしている間に時間は過ぎていった。
 乙女さんが出かける物音は、ずいぶん前に聞いたような気がする。降りていけばお握りがあるかもしれないが、空腹を感じる
ような前触れも何もない。
 お握り、か。今となっては贅沢な生活だったと思う。今もしこの生活が乙女さんにとって負担でしかないなら、
きちんと話して、終わらせるべきなんだろう。ぼんやりと考える。
 携帯の着メロが鳴る。1回、2回…7回目で切れた。
 もう一度鳴る。今度は11回で切れた。
 もう一度……今度はメールだった。手を伸ばして着信名を覗く。期待した相手とは違った。
 時計表示は12時37分。もう昼休み時間か。
『俺だ。坊主風邪か?ヘタレか?まあどっちにしても学校終わり次第そっち行くわ。飯ちゃんと食えよ』
 飯ねえ。気力は無いけど、ゆっくり食うことにしますか。

「やー、ひでえ顔してんなヘタレ坊主」
 日が傾きだす前に現れたスバルの表情は、俺に空元気をくれようとしてるのか、ちょっと明るい。
「おら、出かけるぞ。さっさとシャワー浴びてシャキっとしてこい」
「いや、今日は乙女さんを待つから、外は行きたくない」
「そのお姉様から頼まれてんだよ、お前を呼んで来いって」
「……え?」
 スバルの顔には作り物ではない、本当の微笑みがあった。
「お前が学校休みなんで、昼休みに乙女さんとこに事情聞きにいったら、乙女さんもお前が休んでること知らなくて、
話したら、頭抱えて唸ってたぜ。んで、学校終わったらお前を連れてきてくれって」
「何でまた?」
「そりゃお前……まあいいや、行きゃわかる。ま、さっさと身支度してこい!」
 どういうことだ?とにかく急いで支度しよう。


 スバルは俺の前を歩いていく。足取りはどうやら駅前へと向かうようだ。
「で、どうよ、人の気持ちってのは。面白く出来てるだろ?」
「面白いかどうかはさておき、やっぱり難しいな。これだけ近くにいても、何かあるととんでもなく厚い壁に
塞がれた感じがして、全然伝わりゃしない」
「だな。半年前にお前がそれに気付いてりゃ……」
「ん?」
「や、何でもねえ」
 そんな話をしながら、俺たちは駅前の大型テナントビルに入っていく。
 スバルは俺を促してエレベーターに乗ると、屋上のすぐ下の階のボタンを押した。
「市民プラザ?なんでまた?」
「俺はそこに連れてくるよう頼まれただけだ。あとは行ってのお楽しみ」
 このテナントビルは公民複合施設になっていて、最上階の2フロアは市民プラザとして公会堂や会議室なんかが
入っている。……にしても何だってこんなところに。
 エレベーターの扉が開く。スバルは先導するように廊下を先に進み、やがてひとつの扉の前で立ち止まる。
「俺だ、弟さんを無事保護してきたぜ」
「伊達か?待て、まだ少し早い!」
「まあまあ、そろそろ種明かししないと対馬クン寂しさで死んじゃうかもよ?」
 乙女さんの動揺した声……はいいとして、何で姫が?
 スバルは構わず、『調理室』と書かれたドアを押す。途端に廊下まで洩れ出てくる、甘い甘い匂い。
 その匂いの正体を悟り、俺は全ての謎が氷解した事を知る。思わずその場にへたり込みそうになった。
 全く、そんな事まで忘れるくらいテンパってたわけか。

 今日は2月14日。聖バレンタインデー。


 部屋の真ん中の作業台の前に、割烹着姿の乙女さんを真ん中に、豆花と、二十代後半くらいの端正な顔立ちの男性。
少し離れた長机に姫と佐藤さんが陣取って、のんびりお茶しながら三人の様子を眺めていた。
 乙女さんは片手に持ちなれないケーキナイフを構え、今出来上がったばかりと思しき黒光りするケーキと相対していた。
「レオ、その、あの……」
「目の前に集中するネ、乙女先輩」
「く……ま、待っててくれレオ!こいつらを蹴散らしてすぐに!」
 乙女さんはそう言って、ケーキナイフをゆっくりと構える。相変わらずな肩に力の入りっぷりで。
「もう少し落ち着いたほうがいい。呼吸を整えて。仕上げを一番慎重に行くんだ」
「そそ、功夫の呼吸ネ。ゆくり吸う、ゆくり吐くよ」
 豆花と男性に促され、乙女さんは目を閉じると、ゆっくり呼吸を続ける。おお、肩の力が目に見えて減ってきた。
 と、そんな視界に姫が仁王立ちで立ち塞がる。
「はいはい、仕上げはデリケートらしいから、私たちはお茶にしましょー」
「そうだな、姫にはいろいろ聞きたいことがあるからな、い・ろ・い・ろ・と」
「なぁに?対馬クン怒った?」
 怒ったっつーか脱力したっつーか……はぁ。

 改めて見回すと、調理室のそこかしこに開封された段ボールが転がり、あちこちの机に作りかけか途中放棄か
わからないチョコレートが並べられていた。
 佐藤さんが入れた紅茶に一口つけると、おもむろに姫が口火を切る。
「言っとくけど、私とよっぴーは事実しか言ってないから」
 勝ち誇ったように胸を張られても。
「事実かもしれんが、周辺情報を歪めまくったつーか。あの人だろ?乙女さんと一緒にいたのって」
「そ。昨日は乙女さんが自分で迎えに行ってたから。いちいちゴチャゴチャ細かいことにこだわらないの」
「いや、俺ほんとにどうかなっちまうかと思った」


「んー、ま、いいわ。対馬クンが魂の抜け殻みたいになって、駅前を彷徨うとこは昨日ばっちり撮れたし」
「イクナイ!盗撮イクナイ!」
 何を恐ろしいことを平然と言いますかこのお嬢様は。
「そのためだけに電話してきたのか。佐藤さんまで使って……」
「ううう、ごめんねぇ。エリーがどうしてもって」
「っさいわねー。だから、かわりにこの私が、親切にも一切合財教えてあげるって言ってるでしょ?」
 盛大にため息をひとつ、つかせて頂いた。
「事の発端は、土曜にここで開かれた、手作りスイーツ講座だったわけ。うちの矢口、そこで乙女さんの面倒見てるお抱え
パティシエね。彼が講師で、豆花が助手のバイトしてるとこに、乙女センパイが参加してきたの」
「で、特訓モードに入ったってわけ?」
 俺の代わりにスバルが口を挟む。
「まあそんな感じなんだけどねー。定時連絡のときに『割烹着の子がまな板まで切断して困る』って言われたもんだから
慌てて見に来て、話聞いて、そこからは私の計画通り」
「乙女さん目立つからなー。って、その定時連絡って何さ?」
「決まってるでしょ?女の子しか集まらないとこに、わざわざ従業員派遣してるのよ?新戦力発掘のスカウティングよ」
「主におっぱいのねー……」
 佐藤さんが姫のカップに二杯目を注ぎながら、ため息混じりのツッコミ。
「よっぴーの牙城を脅かす逸材はいなかったから、安心しなさいな。で、まあとにかく対馬クンには内緒でやりたかった
みたいだから、いろいろ都合してあげたの。今日までのここの、夜間を含めた優先使用許可と、練習用の材料と器材。
あと、矢口は日曜と今日はこっちに出向って扱いにしてる」
「40キロ以上はチョコ運び込んだもんねー」
 指折り数える姫に、佐藤さんも頷く。


「まさかそれ全部使ったの?」
 俺もようやく言葉を挟む元気が出る。
「豆花が『料理は数こなすことネ、拳法の型を作るのと一緒ネ』とか言うから、乙女センパイ気合入っちゃってねー。
半分近くはダメにしちゃったけど、残りは女子にこっそり配給。それとなごみんに、執行部のおやつ兼先生方への義理として
大量に加工してもらったわ。今頃カニっちと一緒に配ってもらってる頃」
「あの二人で、ってのは危険極まりないな」
「仕方ないじゃない。仕上げの段階でここを騒がしくはできないでしょ?」
 確かに。あの二人がいたら大騒ぎで、今の乙女さんの逆鱗に触れかねない。
「姫にしちゃ、えらく至れり尽くせりですこと」
 スバルも事の全貌は知らなかったらしい。ちょっとは感心してるみたいだ。
「そりゃそうよ。仮にも多大な貢献をしてくれたセンパイですもの。卒業前に御恩返しよ」
「で、本音は?」
「こんなからかい甲斐のあるシチュエーション、手間かけないなんてもったいなーい♪」
「やっぱりそこかよ」
 肩をすくめて、俺に目配せを送る。心配してもこんなもんだぜ、と笑っているように見える。
「ま、おかげでカニもいい材料使わせてもらったからな。今年はちっとはマシなもんが食えそうだ」
「でもエリーやりすぎだよぅ。ここ使うために米軍司令部から市に圧力かけたんでしょ?」
「はぁぁぁぁ???」
 佐藤さんからのとんでもないツッコミに、スバルも俺も耳を疑った。
「だーって、使い慣れたとこで練習しなきゃ身にならないじゃない。それなのに使用規約がどーとかうだうだ言うから、
じゃあ管理してるとこに問答無用で捻じ込むしかないでしょ?」
「だからってバレンタインの準備で国際問題はまずいよぅ」
「んー、ドサクサ紛れにテイクアウト計画に走るよっぴーには言われたくないんだけど?」
「話のすり替えはダメだよエリー、めっ!」
 おお、佐藤さんが強気だ。話の流れはよくわからないけど。


「できた!!」
 晴れやかな声に全員の視線が集まる。
 皿に盛り付け終わったケーキは、上の層が漆黒、下の層が乳白色。アクセントは六分立ての生クリームだけ。
 飾り気の無さがいかにも乙女さんらしい。
 ほんの少しだけ完成の満足感に浸ると、乙女さんは視線を上げた。目が合う。
「はぁ……済まなかったレオ、お前を謀にかけて。不実者の私を許してくれ」
 事の顛末を知った俺は、逆に自分が恥ずかしくなって、そこから逃げ出したい気分だった。
「お前を驚かしてやろうと思って、内緒にしてたのは確かだ。でも私は、ずっとお前を謀ることで心が苦しくて」
 この人は、こんなにも真っ直ぐで。
「チョコの湯煎も満足に出来ず、練習を重ねて帰る頃には匂いが身体に染み付いていてな。謀がそれで露見するのが
怖くて、お前を遠ざけてしまっていた」
 俺のことにこんなに真剣で。
「だのに私は、自ら招いたことだというのに、お前が愛想を尽かしてしまうのではないか、私がいない間に他の女に
寝取られてしまうのではないか、などと浅ましい考えをして……」
 自分のことも包み隠すことをしないで。
「レオ、私は……」
「俺は、馬鹿だな。とびっきりの」
「よくわかってるじゃない対馬クン」
「や、そこで姫にツッコまれると正直調子が狂うんだが」
 そのやりとりに、やっと乙女さんが笑ってくれた。
「……ふふ、そうだな、私も馬鹿だが、レオも馬鹿だ。私がレオのために動くのは当たり前だ、何を動揺しておる」
「乙女さんだって」
「お前ほどじゃない」
 ああ、いつものやりとりだ。


「だってさ。春には乙女さんがいなくなる、って思うと、何考えていいかわからなくなってさ」
「いなくなる?私が?何故?」
 乙女さんはきょとんとした顔で聞き返す。
「だって、親父たちが春には帰ってくるから……」
「何だと?ついこの間、正式に南米赴任になって二年は戻らぬと連絡があったばかりであろう?」
 ナンデスカソレハ。
「……ああ、そうか。あの日はお前が帰ってくるなり甘えてきて、なし崩しに一緒に寝所に上がってしまったから、
私が話しそびれていたのか。済まん済まん」
 にこにこと笑う乙女さん。自分が落とした爆弾に全く気付いてない御様子です。
 姫とスバルは二人してニヤニヤ笑い。豆花は顔を真っ赤にして俯いている。矢口さんも困ったような笑顔だ。ただ一人
佐藤さんだけは、能面のような感情のない視線を俺に投げてくる。さっきより百倍逃げ出したい気にさせられる。
「あ」
 やっと気付いた模様。
「いや、その、し、寝所に連れて行ったのは、レオは甘えん坊でな、わ、私がいないと眠りにつくのもままならなくて」
 墓穴しか掘ってないよ乙女さん。うわー、穴があったら入りてー!
「あら〜、レオちゃんは甘えんぼさんでちゅか〜」
 姫、頼むから勘弁してくれ。
「お姉ちゃんといっちょに寝んねちまちょうね〜」
 佐藤さんまで……。
「対馬クン、日本のシスコンはレベル高いネ」
 豆花、この事だけはカニなんかに言ってくれるな。
「まあまあ、お嬢様方。その位にして試食して頂こうじゃないですか」
 矢口さんがその場を何とか取り成してくれた。その声に乙女さんが表情を引き締める。

 カットされたケーキにフォークが添えられる。その皿を両手で大事そうに抱え、乙女さんが俺の前に進み出てきた。
「矢口先生と豆花先生の教えが、私をここまで高めてくれた。さあ、食すがよいレオ!」
「う、うん」
 刀鍛冶から刀を受け取るような心持で、皿を受け取る。フォークを取り、食べやすい大きさにカットして、一口。
 視線が俺の口に集まる。乙女さんの射るような視線以外はリラックスした顔だが。
「……うまい」
「そうか!……よかった……」
 乙女さんは、両手で自分を抱きしめるようにして息をふーっと吐く。よっぽど緊張してたんだな。


「や、本気でうまいってこれ。単純に甘いだけじゃなくて、なんか深みがある。チョコレートと……チーズケーキ?」
 矢口さんがそれに答えてくれた。
「そうだね。彼女はとにかく火加減に弱い。だから影響を最小限に留めるために、クリームチーズのレアチーズケーキを
ベースにして、初心者向けのレシピを組んでみたんだ。濃厚な味と抑え目の甘さがコントラストをつけてくれる。
彼女みたいに体力のある人は元来お菓子作りに向いてるから、数をこなせばどんどん伸びるよ」
 豆花も嬉しそうに、その言葉に続いた。
「最初は湯煎だけで大童だたネ。でも乙女先輩にとてハ、料理も拳法も一緒ト考えるのが一番ネ。太極拳の呼吸を使て練習
したら、だんだん形になてきたネ。あとは実践あるのみネ」
 説明を聞きながらも、どんどんフォークが進む。乙女さんはにこにこしながら得意顔だ。
「どうだ、私の手作りは?美味いだろう?」
「うん、すっげーうまい。よっぽど矢口さんと豆花の教え方がよかったんだね」
「痛いところを突くなお前は。だが、それが事実ではあるがな」
「って、乙女さん豆花に習うのはOKなわけ?年下に物を習うのは、って言ってたけど」
「ん?あ、ああ。豆花先生はいいんだ。先生は」「そ、それは委細問題なしネ」
 豆花が珍しく人の会話に割り込む。
「私が引張り込んダネ。だから私責任取る、これ当たり前ネ」
「豆花が?」
「努力するお姉ちゃん、放ておけないネ」
 まあ確かに、豆花の面倒見のよさはカニからもよく聞いてるし。
「うむ、先生にはすっかり頭が上がらなくなってしまったな」
 乙女さんは再び、拳を握り締めて自分に気合を入れる。
「私はまだまだだ。もっともっと精進しなければ!」


「なーんだ、もう乙女な時間おしまい?つまーんなーい」
 様子を見ていた姫が飽きてきたのか、ぶっきらぼうに言う。乙女さんも苦笑する。
「姫、思惑はこの際脇に置いておこう。いろいろ世話を焼いてくれたな。礼を言う」
「いえいえどーいたしましてー。お礼なんていいから、今日こそ乙女センパイの胸」「こ・と・わ・る!」
「ちぇー。つまーんなーいつまーんなーい。よっぴー帰ろー。あとの片付けはおねがーい」
「あ、あ、エリー待ってよぅー。じゃ、じゃあまたね」
 嵐のように、姫と佐藤さんが撤収する。
 後に残された俺たち。そして、片付けの終わってない机。作業台。器材。廃棄物。etc,etc…
「あいや、上手く逃げられたネ。元通りに片付けるのが、公共施設のマナーネ」
 豆花がそう言って、力なく笑う。

「「「やられた!」」」

 結局俺たちが市民プラザを出たのは、夜の21時過ぎ。
 もちろん、受付でしっかり嫌味を言われたことは言うまでも無い。

 そして、俺と乙女さんはみんなと別れ、寒空の下を家路についている。
 二人の手はしっかりと繋がれ、俺の外套のポケットの中に納まっている。この手が離れる心配は、今のところ無い。
それだけで無性に嬉しかった。


「なあ、レオ。……私のこと、嫌いになったか?」
 真っ直ぐ前を見たまま、乙女さんが聞いてきた。
「そんなわけないでしょ?」
 ぎゅっと手を強く握る。乙女さんも強く握り返してくる。
「私は、もうひとつ、お前に伝えてなかったことがある」
 こちらに向き直ることもなく、乙女さんは続ける。
「あの日、お前の父上が連絡してきたとき、私は父上に、お前と好き合っていることを告白した。父上は、それは私がお前を
自分に見合う男に育ててくれた結果だから、と、私に礼を言ってくれた」
 俺は言葉を差し挟むことも忘れて、乙女さんの言葉に耳を傾ける。
「去年私がここへ来ることを頼まれたときに、父上は私の爺にこう伝えていたそうだ。『もし息子と乙女が男女の仲になるような
事があれば、首に縄をつけてでも責任を取らせる』とな。爺も笑って聞いていたそうだ」
 そうか。親父も分かってたのか。
「だが、そこまでの信頼に、私はとても応えているとは言えなかった」
「何でさ?俺はずいぶん鍛えられたつもりだよ」
「通り一遍のことはな。だが、ここ最近の私はそれで満足し、自分の立場に納得していた。それ以上変わろうとしていなかった。
そればかりか、お前を甘やかして甘い快楽を貪っていた」
「甘えた俺の責任だろ?」
「それは違う。甘えさせることも、甘えることなんだ。……だから、私自身変わってみせるために、自分の力でバレンタインの
贈り物を仕上げてみせようと思った。だが、終わってみれば人の手に甘え、お前の心を乱すに任せ、結果このざまだ」
「乙女さんは、やっぱり強いよ」


「お前、人の話を聞いているか?」
「聞いてる。自分の弱さを認めるってのは、すごく強いことだと思う」
 それに引き換え俺はどうだ。勝手に怯えて、勝手に疑って、勝手に落ち込んで、結局乙女さんに心配かけて。
 それを事が終わって初めて自分で気付いてるんだからな。
「俺なんかさ。土曜からこっち、乙女さんに突き放されたって思って、すっげー落ち込んでただけだったからさ。前の晩が
前の晩だったから、余計にさ」
「前の晩?ああ。よくあるだろ?勉強の前とか特訓の前とか、しっかり食べておいたりぐっすり寝ておいたり、っていうのが」
 何ですか、つまり食い溜めとか寝溜めと一緒の、ヤり溜め、ですか。
「それはいいとして。だからさ、乙女さんが変わろうとするなら、俺も変わろうとしなきゃ、って思った。そう思わせて
くれる乙女さんは、やっぱり強い」
「そうか……ふふ、そうだな、私はレオのお姉ちゃんだからな。強いのは当たり前だ」
 得意そうな笑顔。そう。やっぱり俺の姉は、乙女さんは、こうでなくっちゃ。
「だからといって、レオを落ち込ませるのは、これっきりにせねばな」
「そのためにも、俺も強くなる努力をするから」
 乙女さんに言われて変わるんじゃない。俺が乙女さんのために変わってみせる。


「俺、M大目指すよ」
 乙女さんは相当びっくりしたらしい。立ち止まり、きょとんとした顔でこちらに向きなおる。
「レオ……今のお前の学力では到底届かないぞ?私が言うのも何だが、相当な研鑽をせねば……」
「だから言ったでしょ?強くなる努力をするって。乙女さんのために変わってみせる」
「そうか。……レオ、お前はそんなにも私を……!」
 ぎゅっ、と強く抱きしめられる。
 変わる、とか、強くなる、とか。簡単に決めて出来ることじゃないと思う。
 だから、何か目に見える目標を、この人のために成し遂げてみせよう。それが成し遂げられれば、またその次。
 そうやって、少しずつ強くなれれば、乙女さんとの未来はきっと後からついてくる。
「じゃあ、私もしっかり料理を覚えねばな。受験生に迂闊なものは食べさせられん」
「いい師匠も見つかったし?」
「そうだな」
 そうしてそのまま、どちらからともなく、ゆっくりと唇を塞ぐ。
 それは初めてのキスのように、甘いだけじゃなく。濃厚で、それでいて甘い、大人のキスの味だった。

 (おまけ)

「そういやフカヒレ来てねーのな?」
「あのバカ、昼休みで早退しやがった。宅急便でチョコが届くんだとさ」
「へえ。遠距離ってことはメル友とかそんなん?」
「ちげーよ。二次元だ」


(作者・名無しさん[2006/04/19])

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