男は山中にいた。
眼光は稲妻のように鋭く、鍛えぬいた上半身には無数の傷跡が刻まれている。
関聖帝君を思わせる見事な髭を揺らしながら、一心不乱に拳を振るっていた。
男の名は『橘
平蔵』。松笠にある、竜鳴館という学園の館長を務めている。
「誰だ」
平蔵が拳を止め、気配に呼びかけた。
「精が出るのを、平蔵」
「陣内か、久しいな」
「乙女を預けたときに会ったっきりじゃから、2年ぶりかの」
好々爺───陣内を一言で表すとしたら、これほどふさわしい言葉は無い。
それはあくまで、彼を知らないものが抱く印象。
平蔵は彼を最もよく知る人物の1人であった。
「懐かしいのを、この場所は」
「そうだな、若い頃を思い出す」
それは同じ夢を見ていた頃の2人。
地上最強。
男子なら、1度は憧れを抱き、そして諦めていく称号。
この2人も、例外ではなかった。
来る日も来る日も、技を磨き、己の体を傷つけて、見果てぬ夢を追い続けた日々。
それはいつしか2人は出会わせ、この場所で、何度も拳を交えあった。
『無敵の竜・橘
平蔵』
『最強の虎・鉄
陣内』
いつしか、世間のものは2人をこう呼び、2人もその名に恥じぬものを身につけていた。
だが、1人は嫁を貰い、子を授かり、孫にも恵まれ、夢と引き換えに幸せを手に取った。
そしてもう1人は───。
「若い頃、か。おヌシは昔と変わらんのを。今も全盛期に劣らぬ、いや今が全盛期なのではないか?」
「ふっ、よく言う。お前もまだまだ衰えてはおらんだろう。今でも『最強の虎』のままだ」
陣内の中には、修羅がいる。それは平蔵が1番よく知っている。
「ならば、やるかの?」
「そのつもりで来たのだろう?」
不敵な笑みが2人の顔を彩った。
気が張り詰める。
常人ならばその場から逃げ出したくなるほどのプレッシャーが、辺りを包んでいく。
静寂。
平蔵がゆっくりと構える。
だが陣内は、息を大きく吐いて首を振った。
「……やめておこう。もうワシはおヌシの鬼には付き合えん。子や孫の顔が浮かんできおる」
「……陣内」
張り詰めた気が解けていく。変わりに場を覆うのは、もう戻れないことを知った2人の寂しさと───。
「酒を持ってきた。久しぶりに飲まんか? 今日はいい天気じゃしの」
陣内の手にはどこから取り出したのか、ひょうたんとぐい飲みがあった。
2人は近くの大木の根に腰を下ろし、酒を酌み交わした。
「ワシは後悔しとらんのだ。夢を得ることはできなんだが、代わりにそれに匹敵するものを得られた」
そう言う陣内の目は満ち足りていた。
(夢の代わりに得たもの、か)
ふと平蔵の目に竜鳴館の生徒たちが浮かぶ。
日に日に成長していく生徒たちを見守り一緒に過ごす日々。
それはとても暖かくて。
「ふっ……」
「どうした、平蔵」
「んー、儂も年をとったようだのう」
かつて夢を追いかけた2人は、夢よりも大切なものを手にしていた。
(作者・名無しさん[2006/02/08])