母さんの夫とのおもいではこの場所に在り続け、あたしの父とのおもいではこの夢の中に在り続ける。

 なごみのお話〜Little step〜

 リビングのテレビに映る旧知の顔。伊達先輩がインタビューを受けているのをぼんやりと母さんと眺めていた。
「すごいわね〜。この子、なごみちゃんと一緒に生徒会にいたんでしょ? 有名人なんてみんな遠い人のように見えるけど、身近になにかの縁があるってなんだかヘンな感じね〜」
「……別に、何とも思わない」
 立ち上がって顔を背けた。母さんから。伊達先輩から。
 苛立ちながら部屋へと戻る。
 伊達先輩の笑った顔、満足そうな顔。それはなにかをやり遂げた証。
 自分にはどうあってもあんな顔はできないのだと認めて、認めたくなかった。
 あの人を、いや、あの人のような人たちを羨んでいる自分を、認めたくなかった。


 ベッドに突っ伏して、ざわついている胸をおちつかせる。いろんなことがうざったくて、いろんなことにむかついて、苦々しい思いをしている自分にまた苦々しい思いが重なっていく。
 ふう、と溜息をついた。その折、床に置いていた一冊の雑誌が視界に入る。ああ、今日さっき買ってきたんだっけと思い当たる。
 街をぶらついていて、なんの気なしに本屋に立ち寄った時のことだった。
 特に目あての本があるわけでもなかったので店内を適当に見渡しながら歩いた。とある表紙がふと、目についた。
 それは優しい風の感触が届いてきそうな風景写真、緑色の草原から海を見下ろしている。題を見れば旅行のガイドブック。それも、いまあたしが住んでいる松笠を含む地方のものだった。
 自分が住んでいる地方のガイドブックなどそう見ることもない。なんとなく珍しい機会だと思って買ったのだ。
 ぱらぱらと目を通す。観光名所や美味しい店の紹介が並んでいる。戦艦"松笠" やオアシスの名前もあった。
「へえ……」
 外から見ればやはり有名な場所なんだなと、地元に住んでいて実感のない身としてあらためて小さな感嘆。
 さらにページをめくり、街を少し離れて郊外へ。
 いくらか経って、めくる手が止まった。綺麗なグラビアページ、表紙に使われているものと同じ風景写真。
 丘陵は緑に萌え、空が青く透っている。風の匂いを、錯覚させる。
 電車で1時間か2時間かそこらの距離。こんど行ってみようか。いい気晴らしになってくれればいい。


 ある土曜の午後、対馬家のチャイムを鳴らす。間もなくカニがあたしを出迎えた。
「なんでここにいんだココナッツ?」
 開口一番カニは言った。無礼もいいところだ。
「遊びに来た客をみるなりその態度か。常識がなってないぞカニ」
「もうカニじゃねーっつってんだろ。そうじゃなくて、ウチのがきんちょどもに会わなかったか?」
「いや。あの子たち、どうかしたのか?」
「さっきオメーのとこに遊びに行ったんだぜ」
「行き違いになったのか。母親にあたしの行き先は伝えてあるから、そういうことならすぐに戻ってくると思う」
「あーあ、やだねー。何だってあいつらもオメーなんかに懐いてんだか」
 憎まれ口を叩きながらも結局彼女はあたしを玄関に招き、あたしもそれに従う。あたし達を見て対馬センパイやフカヒレ先輩は「なんだかんだで仲がいい」と称するが、正直、あたし達の間柄は自分でもよくわからない。
「よう、椰子」
「どうも」
 家の中に通されて対馬センパイとあいさつを交わす。
「これ。ちょっと作ってみたんで、晩にでもあの子たちと食べてみてもらえませんか」
「なんだまた新しい料理かテメー。レパートリーの増殖速度が主婦のボクよりも速いってどーなのよ」
「別に新しいって程のものじゃない。少し新しい味付けを試しただけだ。まあ、他人の意見が欲しくて持ってきてるのには変わりないけど」
「ハッ、いいぜ遠慮なくいただいてやるよ。あいつらに『なごみおばさんのおかずおいしくない〜』って言われてうちひしがれるテメーの姿が楽しみだぜ」
 たしかにこのバカの料理の腕は驚くほど上達している。カニのいうレパートリーの増殖速度があたしに分があるなら単純な腕の上達速度はこいつの方が上だろう。だが、上達しているそのぶんだけ、他人との差を見きわめる目も否応なしに養われていってしまうわけで。
「……? うちひしがれるのはそっちじゃないのか?」
「素の反応を返すなよ!」
 カニはあたしの持ってきたタッパーを冷蔵庫にしまうために台所に引っ込んだ。
 あれのやかましさにすっかり慣れている自分に気づいてどこか奇妙な感慨を覚える。


 あいつのバカはいまに始まったことではないけれど、竜命館時代と比べるといまのバカとはどこか違う。
 あの頃のバカが脳味噌が足りない故のバカなら、いまのバカは幸せを手に入れた故のバカだろうか。
 そこまで考えて、そんな思考をしている自分に首を振る。最近のあたしはどこかおかしい。他人の幸せにどうこう気を巡らすなんてどうかしてる。
「ところで椰子、ウチの坊主どもに会わなかった?」
「さっきカニにも聞かれましたよ。どうやら行き違いになったみたいです」
「ふーん……あ、そうだ。子供で思いだした」
「なんです?」
「俺達明日スバルと遊びに行くんだけどさ、お前ヒマ?」
「ああ、伊達先輩帰ってきてるんですか。あの子たちを預かれっていうのは別に……ああ、いや」
「え? もしかしてなんか用事あった?」
「いえ……」
 明日はガイドブックのあの場所に行ってみようかと思っていたところだったのだけれど。
 あの子たちもそろそろ留守番ができる歳ではあると思うが、やはりまだすこし早い、という気もする。
「……ちょっと出かけるんですけど、ピクニックがてらあの子たちもいっしょに連れて行っていいのならおもりしますよ」
「んー、迷惑でないなら頼みたいけど。いいのか?」
「ええ」
 子供たちといっしょに行くのもそれはそれでありだ。そう思った。
「ヘッ、羨ましいだろ、メダリストと遊ぶんだぜ。サインの五百枚や千枚に、アイツが使い古したジャージやシューズをタダでもらえるんだぜ」
 カニは戻って来るなり、微妙に不穏なことを言い放つ。やはりこいつはただのバカだ。
「……有名人と仲がいいことについて自慢するのがそこなのか?」
「原価0でボロ儲けのチャンスなんだぜ!?」
 どこまで本気なのかわからない。
「あー、きぬ、そこまでにしとけ。俺達の友情が疑われる。むしろ俺が疑う」
 センパイがカニの口を押さえて止める。玄関の扉を開く音がしたのはその時だった。続いて足音が続く。あの子たちが帰ってきたようだ。 
「ただいま。なごみおねえ、きてるー?」
「おねえちゃん、こんにちはー」
 センパイとカニの二児、流(リュウ)と涼(すず)。母さんにもらったのか、花を一輪ずつ手に持っていた。


「おかーさん、これおばさんからもらった!」
 「お、よかったな。ちゃんとお礼言ったんだろーなー?」とカニも子供たちにあいさつを返しながら戸棚へと歩いていく。お礼の確認や進んで花瓶を取りに行くあたり、一応、しつけと気づかいはちゃんとしているのが意外だった。
 「ほれ、コレに入れろや」と水を注いだ花瓶をテーブルにコトンと置く。
 そっと花瓶に花を挿す。透明な水の中に沈んでいく緑の茎。根本が底にこつんと当たって、花は側壁に寄りかかった。リュウとすずはお互いに顔を見合わせて笑った。
 大人にとっては何気ない行為も子供にとっては珍しいもので。センパイにとってもカニにとっても、そしてあたしにとってもその様子はほほえましい。
 そんな安らぐ光景をカニがぶち壊す。リュウとすずに向かってカニは言った。「ところでオメーら何度言わせるんだ」
「こんなやつをおねえ呼ばわりする必要はねえ。ココナッツおばさんて呼べよ」
「えー、でも父さんが「おばさん」って呼んだらダメだって言ってたよ」
「ハァ!? レオ、テメーなにココナッツの味方してやがんだ? 裏切りか? 浮気なのか!?」
 そういえばこの子たちは最初からあたしをお姉ちゃんと呼んでいたっけ。考えてみればカニがそんな呼び方を許すわけがない。センパイのしつけだったのか。
 とはいえ。
「あたしは別に「おばさん」で全然かまわないんですけど」
 親の知り合いをおじさんおばさんと呼ぶことは普通のことだと思う。別におばさんと呼ばれてもなんとも思わない。
 というか、お姉ちゃん呼ばわりの方が逆にくすぐったいものがあるのだが。
「ホレ見ろ! この単子葉植物本人が自分をいき遅れのババァだって認めてんだぞ!?」
「そこまでは言ってない」
 バカの片頬を全力でつまみつねりねじり上げる。
 バカがうるさくわめくが気にしない。子供たちも慣れてしまっているのか、カニのやかましさもなんのその。センパイの話の方に気をやっていた。


「だってお前、俺は恐ろしいぜ。たとえ椰子が良くったってこの先こいつらが乙女さんや姫たちに会う機会があるかもしれないんだぞ? そこでおばさんなんて不用意に言ったのを想像してみろ。マジ怖えーっつーの」
 礼儀がどうのではなくそっちの意図のしつけか。小心者が。
「ケッ、なんだその予防線? このチキンハートが」
「ちきん〜ちきん〜♪」
「のみのしんぞー♪」
 妻であるバカガニと、意味がわかっているのかいないのか、息子と娘である子供たちの罵倒が響く。
 べつにセンパイとバカはどうでもいいが、このようにリュウとすずの口が悪くなっていってしまうのかと思うと他人事ながら頭が痛い。

 日が暮れるあたりまで談笑がしばらく続いた。晩飯時になったのでお暇する。
「おねえ、帰るの? いっしょにごはん食べようよ」
「ごめん、ご飯は自分の家で食べることにしてるんだ。明日、たくさん遊ぼう」
 頭をなでてやって席を立つ。「玄関先まで見送る」とセンパイもついてきた。
「明日は午前中に迎えに来ますから」
「うん、助かる」
「別にいいですよ。……ところで、明日あたしがダメだったらどうするつもりだったんです?」
「はじめてのおるすばん」
「……つまり行き当たりばったりだったと」
「う、なんで睨むんだよ」
「睨みたくもなる。ちょっと買い物いくから留守番してろ、のレベルじゃないんでしょう?」
「あー、でもさすがに夜遅くまで、ってレベルにはならないと思う」
「当たり前です。4人で遅くまで飲むんだったら早めに帰ってきて家の中でやってください」
「ああ、そうするよ、てか多分そうなる」
「そうですか。……それともうひとつ」


「ん?」
「伊達先輩とは一度宴会やったんですよね?」
「ああ、坊主たちに愛されて感動してた」
「はあ、それはそれは」
「スバルがどうかしたのか? サインか?」
「興味ないです。そうじゃなくてあの子たちに酒飲ませてたりしてないか聞きたいんですが」
「それも大丈夫だ。酒飲ませる前にスバルの膝枕でお休みだった。銅メダリストの足にあやかったぜ」
 飲ませるつもりはあったのか?
「潰しますよ」
「ごめん嘘。飲ませるつもりなんてこれっぽっちもなかったって」
「……ふう、じゃあ帰ります。明日、また」
「ああ、ホント悪いな。今度おごるから」
「ええ、それじゃ」

 帰路を辿る。あたしの家と対馬家は案外近所にあって、さほどの距離はない。
 角を曲がり、店先が視界に入ったところで、足を止めた。天王寺の車。あいつが来ている。
 踵を返す。いまでも、あいつがいるうちは家には帰らない。絶対に、天王寺とは会わない。
 最初の頃はこの行為が母さんとあいつへの抗議だったけど、いまではもう、抗議は抗議の機能を為していない。
 むしろあたしがいないこの時が、ふたりにとって都合のいい逢瀬の時間にすらなっているようにも感ぜられる。
 それでも、いまさらこの意地を張ることをやめることはできない。やめてもやめなくても、なにも変わらないのなら。
 せめて自分だけはこうしていないと、なにもかも無駄になってしまいそうで。
「うざい……」
 ほんとう、うざったい。

 夜の街で時間を潰して。家へ戻ったのは朝方だった。


「おねえ、それお弁当?」
 あたしの提げているバスケットを見てリュウが尋ねる。
「うん、昼ご飯」
 準備してきたお弁当。味を見てもらうためではなく、純粋にふたりのために作ったもの。
 中身はなにかと尋ねるふたりに、その時までのお楽しみだとこたえながら改札をくぐった。
 いくつか駅を通って乗り換える。ボックスシートに座って子供たちと向かい合って座った。
 窓の外を流れる景色にふたりがはしゃぐ。風景がだんだんと郊外になっていくにつれて、あたしの気持ちも浮き立っていく。
 視線は景色を越えておもいでへ。いつか、こうした乗り物に乗って父に遊びに連れられていったとき、窓の外で知らない景色が流れていくのをみているのが、ほんとうに楽しかったのを覚えている。
 つと、すずが景色ではなくあたしを見ていることに気づく。どうした? と首をかしげると、「おねえちゃん、楽しそう」
 そうかな? と尋ねた。そうだよ、と彼女は笑った。

「すず、おねえ、海だ」
 みんなで窓にはりつく。草原と海岸を列車が走る。開け放った車窓から風が吹きこむ。
 涼風。かすかな潮の香りを乗せた風。

「きれいなところだね」
 すずは笑う。特にアトラクションがあるわけでもないので、退屈ではないかと気になっていたのだけれど。
「退屈じゃないか?」
 ううん、と首を振った。
「きもちいいよ」
 駅からたっぷり数十分も歩いただろうか。少し、かったるい距離。
 だけど、目の前に開けた風景にはそんな距離は気にならない。言葉も、出てこない。
 晴れ渡った青空の下、見渡す限り広がる緑の丘陵。
 一端から、海を見下ろす。落ち込む岩肌の先にある、青い海。空を映して、深く澄み渡る、青い海。
 高空を滑るような鳥の白い影。海に飛沫を立てる白い波。
 感動の心に風がそよぐ。草がざわめいて、草原に緑色の波をつくる。
「すごいな」
 感嘆が思わず口をついた。自分がちっぽけに見えてくる。
 空にも夢にも届かない、小さな自分。


 はしゃぎ声がする。緑色の波の中を子供たちが駆けていく。
 伊達先輩の影響なのか、無邪気な子供にはちょっと似合わない、かけっこっぽくない走りかた。
 これから何にでもなれる、無限の可能性を持った子供たち。そんな彼らに、不意に憧れを抱いた。

 自販機でペットボトルを買って、走って息を切らしたふたりに渡してやりながらお弁当を広げた。
 あたしのサンドイッチを口に含んで、リュウとすずはにっこりと笑う。
「おいしい!」
 大きな、笑顔。あたしの方までうれしくなる。
 頬をほころばせたあたしをみて、すずはえへへ、と笑みを浮かべてあたしへとすり寄ってきた。
「おねえちゃん、やさしい顔だから好き〜」
「やさしい?」
「うん、笑ったら、すごくやさしくなる」
 そんなことを言われて、困惑してしまう。
「そう、なのかな?」
 そうだよ、とリュウも言った。
「お母さんみたくばかっぽくなくて、いい」
「そう言ってくれるのはうれしいけど、親をそんな風に言うものじゃない」
 照れくささが先に立ってしまって意図せぬ小言を言ってしまう。
 でもリュウのそれは、大好きな母親にこそかえって雑言を投げつける遊びだったから、そんな小言は何の意味も為さなかったのだけれど。


「おねえ、陸上の伊達スバルって知ってる?」
 雑談のさなか、リュウがそんなことを聞いてくる。
「ああ、知ってる。……その人みたいな選手になりたいんだって?」
「うん、オレの夢!」
 自信を持って顔を輝かせてそう言いきるこの子がまぶしい。そうとは知らず、あたしの心を削る。
「ボクはお嫁さんになる」
「伊達先輩の?」
「うん、いい子で大きくなったらお嫁さんにしてくれるって言った」
「そっか」
 正直、カニの側にいたままでいい子に育つことが出来るのかと思わないでもないのだが。
 そうして、リュウは言った。

「なごみおねえの夢はなに?」

 それはなんてことない質問なのに、予想できていた質問なのに、あたしの心を砕いた。
 こんなに動揺するなんて自分はよほど悩みの深みに嵌っているのだなと他人事のように思う。
 だけどそれは、原因がわかっているが故の悩みだ。自分がなにをしたいかなんて、とっくの昔から、わかっていた。
 この子たちのために弁当を作ったとき。弁当を食べた後のこの子たちがおいしい、と笑ってくれたとき、気づかされた。
 心が満たされるその瞬間を、ずっと続けていたい。だから。
「あたしの夢は」
 あたしの夢は――――


 規則正しい電車の揺れ。帰りの電車のその揺れは決まって眠気を誘うもので。気づけばふと、眠っていた。
 窓の外に映る世界は、きれいな赤色に染まっている。草原と海岸が、夕暮れ色に混じっていく。
 夕日が沈んでいくに従って、雲の色が変わっていく。オレンジから、紅へ。
 ゆっくり、ゆっくり、変わっていく。胸の深いところまで響いてくる、厳かな変化。
 ボックスシートの向かいに目をうつせば、頬と頬をくっつけあって仲良く眠っているふたり。
 夕焼け色が、ふたりの姿を照らし出していた。
「おねえ、そっちに行ってもいい?」
 リュウの声。差し込む夕陽にまぶしそうに目を細めながら言った。
 あたしのとなりに座る。まぶしさで目を覚まさぬように、すずの側にだけカーテンを引いた。
 リュウはあたしの側に身体を預けながら窓の外を見る。「すごいね」と言った。
 リュウの身体から、風の匂いがした。草の匂いと、潮の香り。
 あの場所の、匂い。
「リュウは、自分の父さんと母さんのこと、好き?」
 ふと、尋ねた。
「大好きだよ。ばかっぽいけど」
「だからそんなことを言うものじゃない」
「大きくなったらお母さんと結婚する。そう思っていた時期がオレにもありましたー」
 どこで覚えたそんな言葉。
「いまはそうじゃないんだ?」
「結婚するならおねえの方がいいよ」
「それはカニのいるところで言ってほしいな」
「やだよ、そんなこと言ったらお母さん怒る」
 くすりと、笑みがこぼれた。口は悪くとも、ちゃんと親のことをわかっているいい子だと思った。
「すずももうお父さんと結婚するって言わなくなったし、これが親離れってやつかなあ」
 生意気にもそんなことを言って。そして尋ね返す。「おねえは? おねえは自分のお父さんとお母さんのこと好き?」
「――――うん、大好きだよ」
 夢を尋ねられたときとは違って、なんの迷いもなく、そう答えることができた。
 心の奥にある、たくさんのおもいで。
 父さん、母さん。あたしは――――


「おねえは、いっぱい料理を作っていたい、って言った」
「うん、それがあたしの夢。料理人――コックさんとか、そういうのになりたい」
「おねえならなれるよ。おねえが持ってきてくれるおかず、いつもおいしいもん。お昼のサンドイッチも、すごくおいしかった」
「ありがとう」
 子供は言葉を飾らない。だからこそ、言葉のひとつひとつが心を打つ。
 ありがとう。ほんとうに、そう思う。きみたちのおかげで、自分の気もちに気づくことができた。両親のことも、料理のことも。
 きみたちのその言葉のおかげで、これからもずっと料理を作っていたい。そう思えるから。
 幸せを手に入れたセンパイやカニのように。目標を成し遂げた伊達先輩のように。
 踏みだしてみよう。
 決着を、つけよう。


「いままで、ごめんなさい」
 頭を深々と下げて謝罪の言葉を口にする。
 あたしの気持ちをくみ取ってくれたのか、天王寺さんは軽々しく「頭を上げてくれ」などとは言わずに黙ったままでいてくれた。
 あらためて上体を起こして、彼と視線を合わせる。言葉を、続ける。
「あたしはいまでも、父さんのことが好きな親離れできない子供でした。だから、あなたを父親としてみることなんてできないし、好きにはなれない」
 ああ、ほんとうにあたしは子供だ。あまりに子供じみていて、足が震えるくらいに恥ずかしい。
「だけど――――、あのひとには。母さんには、あなたが必要なんだ」
 ただ、それを認めてあげれば良かったんだ。
 父が逝ってしまった後の空白を生きたあたし。夫が逝ってしまった後の空白を生きた母さん。
 つらさを乗り越えるとか死んだ人間を忘れるとかどうとかではなくて、母とあたしは別の人間で、別の人生がある。
 親子であれ夫婦であれ、家族として時間と空間を共有することはできても、人生を共有することはできやしない。
 あたしと母さんの空白は同一のものではない。同種のものですらなかった。それはそれぞれがそれぞれに、いつかの未来、いまとなっては過ぎ去ってしまった過去の中で、必要な清算を済ませていかなければならなかったもの。
 母さんの清算の時期はもうとっくの昔に訪れていて、あたしの清算の時期は天王寺さんがあらわれたその時のはずだったんだ。


「たとえあなたを父としてみることへの抵抗感が、これから続いていくとしても――――それでも」 気がつけば涙をぽろぽろこぼしていた。後悔と羞恥。
 みっともない有様を見せていた自分を自覚して、みっともない有様を見せている自分を自覚して、またこぼれる涙が増えていく。
 詫びても詫びきれない胸中。多くの言葉をのべなければならないのにこみあげる嗚咽が邪魔をする。
 だけど、心を尽くさなきゃ。
「それでも――――母さんを幸せにしてくれた人として、あたしを気づかってくれた人として、あなたを好きになることはできるから」
 母さんと天王寺さんの想いを生かすも殺すもあたしの気持ちが全て握ってしまっているのなら。あたしがいままでふたりの想いを殺し続けていたのなら。
 心を尽くして、彼と向かい合って。最善ではなくとも、能う限りこれから前へ進んでいくための目あてを貫き通す。
「だから、どうか」
 どうか母さんを――――

「あ、なごみちゃん、お帰りなさい〜」
「ただいま。…天王寺さんと、話、してきた」
「ええ、知ってるわ〜」
「そう」
「あら、なごみちゃん、もしかして泣いたの〜? すごい跡よ〜?」
 いつもと変わらないのんきな声で、そっとほっといておいてほしいことに母さんは言及する。やさしさ故か、からかっているのか。
「なんでもないよ。もうあたしは、母さんと天王寺さんのことについて反対するつもりはないから。それと……」
「それと〜?」
「もうひとつ、話があるんだ」
 そう切り出したあたしに母さんは疑問を浮かべるでもなくただ、おだやかに頷いただけだった。


 『なごみおねえの夢はなに?』 
 いまさら夢を追う、なんて言ったところでどうにかなるのだろうか?
 自信はない。不安が胸に渦巻いている。だけどこの弱気を潰す自信はある。あたしは、伊達先輩やカニを羨んでいるのだから。
 羨むということは、自分もまたそうでありたいという確かな希望の証。
 線の内外にかかわらず、尊敬する一個の人格として彼らを認めないほどあたしは狭量ではなく、そして自分自身が彼らに劣っていると認めるほど寛容でもない。
 目を落とせばそこはおもいでの原点。父さんが愛した花の店、ここで過ごした父との日々。
 振り返ればそこには夢の原点。父さんが教えてくれた、美味しいものを作ることの楽しさ。
 胸があつくなる。いちばん奥にある冷たい部分、そこにあたたかな灯がともるよう。
 母さんの夫とのおもいではこの場所に在り続け、あたしの父とのおもいでは夢の中に在り続ける。だから。
「あたし、料理人になりたい」


 見習い修行でヘトヘトになった身体を引きずって帰路につく。たまたま仕事がはやく終わった今日、久しぶりに背する夕日がまぶしく感じた。
 現実はやはり甘くはない。目に見えてわかる満足な成果などついてくるはずもなく、気持ちだけが先走る。
 夢路は永く未来は遙か。心の弱音に耐えながら、むかつく胸をおさえてうつむいて歩く。
 『あなたの料理を食べるたびに、お父さんのことを思いだしているのよ〜』、そう言って母さんは微笑んだ。
 あなたが自分で選んだ好きな道を行くことに反対することなんてなにもない。
 たとえ料理の道がとても厳しいものであっても、あなたの中にいるお父さんがきっと守ってくれるから安心ね。
 呑気で気楽な承認と励まし。とても、母さんらしかった。
 思いだして少し気力が戻った。うつむくのをやめて顔を上げる。角を曲がればもうすぐ自分の家。
 フラワー椰子の店先。差しこむ夕日に輝きながら、花びらがちらちら、吹く風に乗って宙を舞っている。
 やさしい光景。赤、青、黄、橙、紫、白。いろとりどりの花たちが咲き誇る。
 暮れかけた陽光の下に人影ふたつ、廻る色たちに包まれて。近づくあたしをみとめて笑顔で手を振って――――


(作者・名無しさん[2005/12/12])

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