静まり返った土曜の夜に甲高い叫びがこだまする。声の下には一組の男女。
「ち、ちくしょーーー!!!」
「おい吼えるな近所迷惑だ」
「もういっそ男だったら良かったぜ!」
「そうするとオレが困る」
「はぁー?なんでよ?」
「さぁて、何ででしょ」
酔っ払い、ふらふらと歩く少女を青年は肩で支えている。そのまま会話を交えながら、十分ほど歩き、不意に足を止めた。
「おい、カニ。大丈夫か?」
ふと気付くと、横の少女、カニ―本名を蟹沢きぬという―は顔を真っ青にして脂汗で顔が湿っていた。
「だ、大丈夫に決まってるじゃ……おおおおぅ」
青くなり、赤くなり信号機のように顔色が変化し、口を抑えがくりと体から血柄が抜けうずくまる。
「って、全然大丈夫じゃないだろうが!ちょっと我慢しろ、すぐトイレに……オアシスは遠いな。クソッ、仕方ねぇ!」
うずくまる蟹沢を抱え両腕で抱え上げ、俗にお姫様抱っこと言われる体勢を取る。
「…三分、いや、一分だけ我慢してくれよ」
そう告げると、息を止め、上体を少しだけ倒し走り始めた。
「揺れ、揺れるふぅ……」
「我慢だ」
弱々しい抗議を一言で切り捨て青年はぐんぐんと加速していく。
鍵を開けるのももどかしげに青年はドアを蹴り開ける。
玄関に置かれた、ボロボロの革靴と安っぽいハイヒールを目にし、一瞬顔をしかめ、舌打ちをするが、腕の中で呻く少女の事を思い出し。トイレに駆け込んだ。
洋式便器にすがりつくように胃の中身を吐き出している蟹沢の背を青年は優しく撫でる。
「おえええええええええええ…気持ち悪い」
「ったく、どんだけ飲んだんだ?」
「瓶…一本……ヴォヅカ?とか言うやつ」
「そりゃ多分ウォッカだな。明日は…もう今日か、確実に二日酔いだな」
「うぉぇええあああ…かはっかふっ」
「全部出すもの出しちまえ、少しは楽になる」
「すまねぇ、スバル面倒かけちまって」
「気にすんなや。水飲むか?」
「頼んだぁ」
ぐったりとしている蟹沢の背をもう一度撫で、立ち上がるとキッチンへと向かった。
途中、リビングを通る。そこには煙草をふかす半裸の中年男性がいた。嫌悪感も顕にその顔を見るスバル。男が何か口を開く前にさっさとキッチンへと移動し、コップに水を注ぐ。
再びリビング、男と視線を合わさないように通過し、トイレへと急ぐ。
その背にかけられるだみ声。
「どんな具合だったお前が連れ込んだ女」
くるり、スバルが振り返る。
飢えた野良犬のような凶暴な表情をし殺意にすら達しそうな憎しみを込めた瞳で射る。
「てめぇと一緒にするんじゃねぇ」
苛立ち混じりに大声で怒鳴るが帰ってきたのは冷淡な反応だった。
「ハンッ」
一瞬、二人の間に沈黙が降り、忌々しげに中年の男は舌打ちをする。
「…くたばりやがれ、ゴミ野郎が」
青年は地獄の底から聞こえるような低く暗い声で呟き、去って行った。
「ほれ、持ってきたぜ」
「あんがと」
ぐでっと便器にすがりついたまま、軽く口をゆすぎ、半分ほどグラスに残った水を一気に飲み干し、グラスを置いた。
「まだ飲むか?」
「ううん、いらねぇ」
「少しは楽になったぽい」
そう言うとスクッと立ち上がる。
しかし、直立体勢を保てたのはニ、三秒の事でゆらりと体がゆれ、倒れそうになる。
予想していたかのように、手早く、そして優しく支えるスバル。
「だから無理するんじゃねぇよ」
そう言うと、素早く左手を蟹沢の膝に回し、再び抱き上げる。
「ちょ、スバル!」
「良いから大人しくしてろ、家まで連れてってやるから」
そう言うと、さっさとドアを潜り屋外へと出て行った。
夜の道を二人は歩く、お姫様抱っこをされた少女は恥ずかしげに頬を染め、スバルを見上げる。
「うー…何か恥ずかしいんだけど」
「俺は恥ずかしくないな」
数は少ないとはいえ通行人はおり、彼等は例外なく通り過ぎる彼らに好奇の視線を向けた。
「やっぱボク歩くよ」
「ダメだ、倒れて怪我でもしたらどうする」
「それはボクの責任って事で」
「ダメだ……つうか、そこまで嫌がられると少し傷つくんだがな」
「う、スバルが傷つくなら…仕方ねぇ、我慢してやるよ」
「ハハッ、ありがとよ」
蟹沢家の付近に到着し、別れの時が近づく。
いよいよ、家の前に到着し蟹沢を降ろす。ふらふらとしてはいるが立てないことは無いようだ。
別れの言葉を口にしようとした時、スバルは、蟹沢の視線が一点に向けられているのに気がついた。
「……レオの部屋か」
カーテンが閉められており、彼らの訪問を拒んではいるが、灯りが漏れているため眠っているわけではないのだろう。
彼等は同じ想像をした。
「うーがーーー!」
「だから叫ぶなって」
「だって…だって…」
泣きかけの声でぶつぶつと繰り返す少女の頭を優しく撫でていた。突如、蟹沢が凄い勢いで顔を上げる。
「覚えてろよ、ちくしょう!幸せになってやるからなーー!」
「だから五月蝿いって、しかも何かフカヒレみたいだったぞ今」
大声を上げたが、窓は閉ざされたまま反応は無い。蟹沢は一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべた。
「ちぇっ…」
小さく呟くと、おぼつかない足取りで歩き始める。
「あんがとね、スバル送ってくれて」
背を向けたままか細い声で告げる。焦燥がありありと手に取れ、青年の顔を曇らせる。
「礼なんていらねぇよ」
―バタン―
音を立てて扉が閉まる。
何か、とても重い物が体の中に溜まっていく様な感触を味わい、疲れた息を吐き出す。
そして青年は歩く。
今日の宿をどうするか、と比較的どうでもよい事を考えながら、駅前に向けて。
段々と、その歩みが速くなる。
気がつくと、走っていた。
「チクショウ、チクショウ、チクショウ」
悔しげに、その一言を繰り返しながら走っていた。
「あああああああああああああああああああああああ!」
最後には意味の無い叫びを発していた。
蟹沢きぬの朝は遅い。
具体的に言うと遅刻寸前で校門をくぐるほど遅い。
加えて寝起きも悪い。
彼女の幼馴染である対馬レオはそれについて度々文句を言っていた。
「ほれ、起きろ。」
ぐらぐらと揺すられる。普段ならばこの程度では蟹沢は起きない。だが、今日は事情が違った。
脳に直接釘を打ち込まれるような痛みが、彼女を襲う。
「うおおおおおお、頭がいてぇーーーーーーーーーー!」
「叫ぶとさらにいてぇえーーーーーーーーーー!」
飛び上がり、ごろごろとベッドの上を蟹沢が転がる。やがて、壁にぶつかり、動きが止まり、小さな呻き声がもれる。
「くっ…もっと静かに起こしてくれよレオ」
「誰がレオだ」
「……あ……そか…乙女さんに変わったんだっけ」
「それも違う。っていうかオレの声を忘れたか?」
頭を抑えながら上体を起こしぺたりと座り、驚いたような声を出す。
「って、何でスバルがここに!」
「うおおおおおおおまたもいてぇーーーーーー!」
阿呆のように自らの叫びで悶絶する蟹沢に対し苦笑いをしながらスバルは答える。
「ま、代理みたいなもんだ。昨日酷かったからな」
小さめの声で優しく語るスバルに釣られるように蟹沢の声も小さくなっていく。
「そか、あんがとよ…うー、でもマジで辛いなコレ」
頭を抑え、苦しげに顔をしかめる。
「自業自得だ。」
「休みてー」
「残念だがお前のおふくろさんは行けと言っていた」
諦めたような溜め息を吐き、のろのろと立ち上がる。
「しゃあない、着替えるからちょっと待っててくれや」
「あいよ、首長くして待ってるぜ子蟹ちゃん」
一つウインクを飛ばし、部屋から出て行くスバルを見送り、制服に着替え始めた。
スバルは門に背を預け、空を見詰めながら蟹沢を待っていた。
隣に住む、対馬レオは先程青年の前を通り、登校して行った。スバルの存在をいぶかりはしたが、あっさりと誤魔化された。
―ガチャリ―
扉が開き、顔色の悪い蟹沢が現れる。足取りはしっかりしているがしきりに頭を抑えている、二日酔いが余程辛いのであろう。
「お待たせ、あー死ぬ」
「朝から悲惨な台詞だな、ほれ、肩貸してやるよ」
蟹沢は素直に頷き、青年の肩にもたれかかる。
辛そうな少女を気遣ってかスバルの足取りは随分とゆっくりしたものであった。
結果、いまだ学園の門すら見えていないというのに、鳴り響くチャイムの音が耳に届いた。
そして当然のように蟹沢はもがき苦しんだ。
スバルは溜め息を一つ。
「まぁ、予想通りだな」
「どうせ、遅刻だちょっと休んで行こうや」
そう言うと、進路を変え軍艦の見える公園に向かった。
到着すると目立たないベンチに少女を座らせ、自らもその横に腰掛ける。
「飲めよ。美味いぜ」
鞄の中から魔法瓶を取り出し蓋に注ぐ、味噌と出汁の良い香りが周囲に漂った。
それを受け取り、一口一口味わうようにゆっくりと飲んでいく。
「オレの愛情がたっぷりこもったしじみの味噌汁だ。ま、ゆっくり飲んでくれ。おかわりもあるぜ」
しばらく、少女が味噌汁を飲む音だけがそこにあった。
やがて、魔法瓶の中身は空になり、ふぅ、と安心したような溜め息を蟹沢が吐く。
「美味かったか?」
「おう、サイコーだったぜ」
弱々しいが普段の蟹沢の口調である事にスバルは小さく安堵し、彼女の首に手を回すと、ゆっくりと自らの膝の上に誘う。
「じゃあ、しばらく寝てろ。まあ、ニ、三時間も寝てれば大分マシになるはずだ」
「おうよ…でもスバル、何か手馴れてるね」
「…………まぁな」
何気ない問いに口ごもり答えづらそうにするスバル。脳裏によぎるのは複数の蟹沢とは似ても似つかぬ女達の姿、微かに罪悪感を感じた。
「…何か悪いこと聞いたかなボク?」
聡く、スバルの返事に含まれた躊躇を汲み取り、困ったような表情を浮かべる。
「いや、俺がしょっちゅう酔っ払ってる人間に見られたと思ったらショックだな、と思っただけだ」
「気にせず寝ろ寝ろ」
「分かったぜ…」
蟹沢が目を閉じる。
「…スバルは嫌かもしれないけどさ」
「スバルを好きになれば幸せになれたかもね、ボク」
その言葉を聞き、泣きそうな、寂しそうな辛そうな、様々な感情が入り混じった複雑な表情を浮かべる。
しかし、蟹沢は目を閉じているので、それを目にする事は無い。
「馬鹿が………いくらでも幸せにしてやるさ」
その言葉が聞こえたか否かは定かではないが目を閉じた少女の顔には、今日初めての笑顔が浮かんでいた。
蟹沢が目を開ける。既に頭痛は消え去り、頭は冴えていた。
一面に広がる紅の世界。木も、空も、地面も、道行く人々も空に鳴くカラスさえも赤い。
「って、夕方じゃねぇーか!」
勢い良く起き上がり、膝枕をしていた青年の顔を見る。
「どうして起こしてくれない…って寝てるし」
目を閉じ、すやすやと寝息を立てているスバルを見て、蟹沢はにへらっとした笑みを浮かべる。
「全く、仕方ない奴だね」
スバルは目を開ける。
蟹沢の寝顔を見ているうちにいつの間にやら眠ってしまったようだと思いながら、二つの疑問を抱いた。
まず、周囲は闇に包まれている事。そしてもう一つ、まるで寝そべっているかのように視点が横向きになっている事だ。
「あ、起きたな。気分はどうよ?」
青年よりはるかに身長の低い少女の声が、青年よりはるか上から聞こえてくる。首を傾け、上を見た。
何の事は無い。ただ、青年は蟹沢に膝枕をされていただけであった。ちょうど、スバルが少女に対してしたように。
「ん?どうした、ボクに見惚れてんのか?」
蟹沢の冗談めかした台詞は一面の真実を突いていた。スバルは時間が固まったかのように、微動だにせず蟹沢の顔を見ている。
左手で青年の頭を撫でながら優しげに微笑む蟹沢にスバルは見出していた。
幼い頃に失ってしまった人の面影を。
怪訝そうな顔で青年を見る。スバルは、何がおかしいのか、一人で小さくくすくすと笑っていた。
「いや…何でもない」
「変なスバル」
「カニとフカヒレにだけは言われたくねぇな」
笑いながらそう言うと、スバルは起き上がる。
「ボクの膝はもう良いのか?実は気に入ったんだろ、もっと寝てても良いんだぜ」
「そうだな、気に入ったからまた貸してくれ」
「次回からは一時間四百円になります」
「微妙な値段だな、ツケで頼むわ」
二人は肩をすくめ、笑顔を浮かべた。
「さて、送ってやるよカニ」
「…何か、昨日今日と妙に優しいなスバル」
「オレはいつだってお前に優しいよ」
少し照れくさげに少女は微笑み、青年もまた微笑を浮かべた。
今日もまた、少女は玄関先で立ち止まり、レオの部屋を見る。
昨日のように泣き喚きはしないが、どことなく寂しそうな顔をしている。
「今日もカーテン締めてやがるなレオの奴」
「もう、さ、ボク達の事なんてどうでも良くなっちまったのかな?」
「んな事ねぇだろうよ」
「ただ、俺達より大切な人が出来ちまったんだよ」
そう告げるスバルの声もまた寂しげで、どことなく、悲しい空気が漂う。
「こうやってさ、ボク達離れ離れになっていくんだね」
切なげな溜め息と共に自嘲気味な台詞が漏れる。
「おい、カニ。お前それ本気で言ってるのか?」
「あはは、すまねぇ、ちょっとセンチメートルな気分になっちまったみたいだぜ」
「センチメンタルな」
少女の顔に奇妙に歪んで泣き顔のようにも見える笑顔が浮かぶ。痛々しい、と律儀に突っ込みを入れながらスバルは思った。
「週末空いてるか?」
こくり、と無言で頷くのを確認し、言葉を繋げる。
「よし。じゃあ気晴らしに遊びに行こうぜ。」
「じゃあなおやすみ、きぬ」
少女の返事を待たずスバルは踵を返した。
去り行くスバルを見送り、玄関から家に入ったとき、ふと気がついた。
「…スバル、ボクの事名前で呼んだ?」
奇妙な感触だと、彼女は思った。
そして、週末がやって来た。午前十時、スバルは手製の弁当を片手にまだ起きていないであろう少女を起こすために蟹沢家のブザーを鳴らす。
人が走る音、開く扉。
出てきたのは意外にも蟹沢きぬ本人であった。服装も既に整えられており、少々面食らったような表情を浮かべる青年。
「珍しく早いな」
「そりゃあボクだって、たまには早起きするさ」
「そいつはびっくりだ何だ楽しみにしてたのか」
「おう、遊び倒そうぜ」
連れだって二人は出かけていく。
まずは軽く、という事でゲームセンターへ行く。レースゲームや、メダルゲームで適度な盛り上がりを見せたが一番二人が楽しんだのはパンチングマシーンであり。
「死ねやああああああああ!」
と、いう蟹沢の叫びがゲームセンターにこだました。
十二時手前になり、少し早いが二人は食事を取る。駅前の適当なベンチに陣取り、弁当を広げる。
サンドイッチ主体の為、手の込んだ料理は無いが、素材選びから味のバランスまでしっかりと手間をかけていた。
「うめー、相変わらずスバルの料理はうめー」
ガツガツと両手にサンドイッチを握り齧りつく蟹沢に苦笑を漏らしながら、慌てると詰まるぞ、と言い。ペットボトルの紅茶を差し出す。
「んぐ…んぐ、ぷはっ、流石にレオ相手に腕磨いてきただけの事はあるね」
対馬レオの名前が出たとき、一瞬切なそうな表情を浮かべた事をスバルは見逃さなかったが、それを表情には現すこと無く、まぁな、と呟いた。
「でも、あいつ毎日こんなの食べられてたんだよな、何かむかついて来た」
「レオもご愁傷様だな。ま、食べたけりゃ毎日でも作ってやるよ」
「マジで!じゃあ、今度焼きソバ食いたい。スバルの作った奴」
「焼きソバ?また微妙なチョイスだな。ま、良いさカニのためなら何でも作ってやる」
「なぁ、スバル」
一瞬、言い難そうに視線を逸らし、そのまま続きを口にする。
「一週間ぐらい前かな、ボクの事さ、名前で呼んだよね。きぬ、って」
「さぁな、そんな事もあったかもしれん」
とぼけるようにスバルが答える。
「あれ、ボクの勘違いかな、なら別に良いんだけど」
「名前で呼ばれたの初めてだったからさ…ちょっと、変な感じがてよ」
「呼んださ、確かに、な。嫌か?」
「嫌って言われると微妙に嫌だけど、何か…………うがあああああああああああ良くわかんねぇ!」
オーバーヒートしたかのように突如頭をかき首を振る蟹沢に胸中で苦笑いをする。
「あれはオレのケジメみたいなもんだ。普段は名前じゃ呼ばないからあんまり気にするなよ」
「…分かった」
雰囲気を変えるようにいつもの飄々とした口調でスバルが口を開く。
「食べ終わったらどこ行くよ?」
「あ、ボクカラオケ行きたい、もしくはビリヤード」
「よし、両方行こうぜ。オレとお前の時間はたっぷりあるんだ」
二人は他愛の無い会話を続けながら、遊びまわった。
その後も少女の行きたいという場所を全て周ったため気がつけばかなりの時間が経過し、周囲は夕暮れに染まっていた。
「うーん、遊んだ遊んだ。んじゃそろそろ帰るか」
「………最後に一箇所だけ、オレに付き合ってくれないか?」
真剣な表情で蟹沢の顔を見詰める。少女はその真剣さに驚きながらも、小さく一つ頷いた。
言葉一つ発することなく、淡々と歩く。
辿り着いた場所には一本の樹がある。
「ガキの頃は…大きく見えたけどさ、今見ると意外と小さいよな」
青年と少女が始めて出会った場所を見上げ、幼い子供に語るように言う。幹を一撫でし、くるりと少女を見る。
「登るか?」
「もちろんだぜ…ってボクスカートなんだけど」
「……すまん、忘れてた。」
「いやーでも昔は結構気にせず登ってたんだぜ。ひょいひょいって感じでさ」
「今、それやったらただの馬鹿だな」
そう言いながら、二人は木の根元に腰を下ろす。
突然に、青年が口を開く。
「……オレはオヤジを殺したいほど憎んでいる」
込められた憎しみの割には淡々とスバルは語る。色々なものを押さえつけて。
「アイツはクズだ…そしてそのクズの血がオレにも流れている」
どこか遠くを見ながら語る青年の横顔を少女は見詰める。青年が全て語り終えるまで、口を挟むまいと心で思いつつ。
「本当にガキの頃から、オレはアイツを否定してきた」
「アイツの血が流れる俺自身すらも否定したかった」
「…オレは死んでしまいたかった。アイツの血から逃れるために」
「お前に会って、お前等に会って…初めてオレはオレの存在を許せた」
「今でも、アイツを憎んでいる。だけど、もうオレ自身を憎んではない」
「本当に自分を憎んでいないのかは実は分からない。ただ、お前達がいる限り生きていたいと思っている」
口を閉ざし、傍らの蟹沢を見る。二人の視線が絡み、じっと見詰め合う。
少女の目には何の感情もなく、ただ、続けて、とだけ刻まれていた。
視線は逸らされ、語りは続けられる。
「アイツの世話になんぞなりたくは無い、だからオレは金を稼いでいる、学費から生活費まで全部だ」
「お前には普通のバイトだって言ってたが、本当は違う」
「色んな女のところ渡り歩いてSEXして適当な愛の言葉を囁いて、金を稼いで寝床を得てた」
「クズみたいなやり口だ」
「もう、何人と寝たかなんて覚えてもいないぐらいほどの女とオレはそうしてきた」
二人の間に流れる沈黙。
「…これで終わりだ。お前の知らない『伊達スバル』の全部だ」
溜め息を一つ、そして二人の視線が再び合わさる。
「……全部、お前に伝えた上で言うぜ」
「きぬ、お前が好きだ。お前の笑顔が好きだ、お前の優しさが好きだ、お前の嫉妬深いが好きだ、お前のちょっと抜けてるところが好きだ、お前の全てが好きだ。」
「レオの事を引きずっているのは知っている」
「だけど、笑って欲しい、オレのために」
懺悔にも似た心情の発露、苦しげさえ形容できる表情と錆びた鉄のような声。
きぬがひしゃげた泣き顔のようにも見える笑顔を浮かべる。
「………ボクはさ、馬鹿だからレオへの気持ちも…今のスバルへの気持ちも…上手く言葉に出来ないけど」
「笑うから、さ。スバルも笑えよ…そんな、辛そうな顔するなよ」
「頼りないかもしれないけどさ、ボク達幼馴染だろ」
スバルがひしゃげた泣き顔のようにも見える笑顔を浮かべる。
「…変なの」
「…お前も変だよ」
歪んだ笑顔を浮かべたまま、どちらからとも無く彼等は抱きしめあう。
互いの鼓動を聞き、互いの吐息に触れ、互いの暖かさを感じる。
ゆっくり、ゆっくり
二人は笑顔を作っていく。
それから、大きな変化があったわけでもない。
ただ、少しだけ二人の距離が近くなった。
スバルは毎朝きぬを迎えに行った。
きぬはスバルが来る頃には起きて待っているようになった。
スバルはきぬのために弁当を作るようになった。
きぬはスバルのために料理の勉強を始めた。
スバルは女達と手を切り、今はバーで働いている。
きぬはもう、レオの部屋を眺めて溜め息をつかなくなった。
周囲から、二人の雰囲気が少し変わった。と言われ。
幼馴染達からは、二人とも性格が丸くなったとからかわれた。
ある日の夕暮れ
きぬがスバルを呼び出す。
二人が出会った木の下へ
「どうした、カニ」
「あのな、ずっと前にさ、言葉に出来なかったけど」
「今なら言葉に出来るからさ、聞いてくれよ」
微笑を浮かべた二人の間に、一陣の風が吹いた。
〜Fin〜
(作者・名無しさん[2005/09/24])