日課の早朝ランニングを終え、台所に向かった巴が見たのは
割烹着姿で忙しげに動き回る要芽の姿だった。
「あう?・・・要芽・・・姉さん?」
「あら、おはよう巴。いつも早いのね」
「ど、どうしたの・・・?」
「どうした、って・・・朝ごはんを作ってるのよ?ああ、ちょっとお醤油とってちょうだい」
「あ、うん・・・はい」
鍋に醤油をさしたところで、要芽が一息ついた。
「ふう・・・人数が多いから作るのも大変だわ。巴は、毎日えらいわね」
「あ、あははは・・・わ、私、こういうことが・・・好きだから」
「そう・・・巴がいてくれて、よかったわ。本当によかった」
要芽の手が、すっと巴の頭に伸びてくる。
「・・・え?」
そして、そのまま戸惑う巴の頭をゆっくりと撫でる。
「・・・あう・・・」
その掌が何故か嬉しく、何故か優しく、そして何故か切なくて
巴は不意に涙が出そうになった。
「そうそう、久しぶりだからお味噌汁がちょっと自信がないの。巴、味を見てくれる?」
「う、うん」
小皿に取られた味噌汁を啜った途端
巴は、自分でもわからない何かがこみ上げてきて
「う・・・うぁ・・・うあぁぁん!」
小皿を握ったまま、声を上げて泣いた。


「わぁ、いい匂い・・・って、あれ?要芽お姉ちゃん?」
要芽と巴が朝食の準備をする居間に入ってきたのは海だった。
「おはよう、海。もうすぐできるわよ・・・空也はまだかしら?」
「あ、うん・・・まだ眠ってた。眠そうだったから起こさなかったけど」
「海、あまり空也を甘やかしてはダメよ」
それはいつも要芽が海に注意していることだったが、今日の要芽は穏やかだった。
「でも、空也は弟だから〜」
いつものように海が返すと、要芽が手を止めて海を見つめる。
「そうね。でも、空也も男の子なんだから、本当はあなたに甘えてもらいたいかもしれないわよ?」
「・・・え?私が、空也に・・・甘える?」
「そう。甘えたい気持ちと、甘えてもらいたい気持ち、両方あるんじゃないかしら?」
「そ、そう・・・かなぁ」
「空也にはあなたが本当に甘えられるような、しっかりした子になってもらわなくちゃ、ね」
「えへへっ・・・」
「だから、甘やかすだけじゃなくて・・・海?」
すでに海は空也に甘える妄想で頭がいっぱいなようで上の空だった。
苦笑いしながら、要芽もまた朝食の支度を続けていった。
「おはよう・・・はっ・・・!?・・・ど、どうして!?」
「・・・おはようございます、雛乃姉さん」
続けて居間に入ってきた途端、驚きのあまり固まっている雛乃に要芽が微笑みかける。
「今日は事務所も休みですし。たまには・・・いいでしょう、こういうのも?」
「・・・あ・・・そ、そうで・・・あるな」
その後も、要芽は居間にきては自分を見て驚く家族たちに微笑み続けていた。


「高嶺、いいかしら?」
「あ、はいお姉さま、今開けます!」
慌てた様子で部屋の扉を開けた高嶺に、要芽が朝と変わらず微笑かけながら
「久しぶりに、あなたのピアノが聞きたくなったの。いいかしら?」
「は、はいっ、もちろんです!どうぞ!」
高嶺はピアノの前に立つと、ベッドに腰を下ろした要芽にたずねる。
「何を弾きましょうか?」
「そうね・・・『猫踏んじゃった』」
「・・・はい?」
思わず聞き返す高嶺に、きっぱりと要芽が答える。
「『猫踏んじゃった』がいいわ」
馬鹿にされているのかとも思ったが、要芽の眼差しはもっと真剣で、それでいて優しげだった。
高嶺は椅子に座り、リクエストの「猫踏んじゃった」を弾き始める。
最初はゆっくり、だんだんと早く、ときにアレンジを加え。
そして思い出す。せがんでピアノを買ってもらった頃のことを。
いつのまにか立ち上がっていた要芽が、高嶺の後ろに立っていた。
そのまま、そっと覆いかぶさるように高嶺の肩に両手を置く。
「上手になったのね・・・高嶺」
高嶺の手が止まる。
「・・・はい・・・ありがとうございます」
「頑張ったわね・・・あなたは頑張りやさんだものね」
固まっていた何かが、高嶺の中で溶けていった。
「さあ、続けて・・・今度は違う曲も聞かせてちょうだい」
「はいっ!」


居間でファッション雑誌を眺めている瀬芦里の傍に
いつの間にか要芽が座っている。
「退屈そうね」
「んー・・・遊びに行く気もなんかしないしねー」
「そう・・・ねえ、瀬炉里?」
「なに?」
「あなた・・・この家に来て、幸せだった?」
突然の質問は瀬芦里には奇妙にしか思えなかった。
「はあ!?・・・どうしたの要芽姉、今日ちょっと変だよ?」
「そうね・・・でもね、時々気になるのよ・・・」
要芽の問いかけが真剣なことに気づき、瀬芦里もまた眼差しを改める。
「私は・・・幸せ、なんじゃないかな・・・少なくとも・・・」
瀬芦里が遠い目をする。
「あのまま、あっちにいるよりは、ね」
「そう・・・」
「それに、こうして気にかけてくれる人もいるしさ。それだけでも幸せなんじゃない?」
突然、要芽は瀬芦里ににじり寄り、ぎゅっと抱きしめる。
「え!?ちょ、か、要芽姉!?・・・ど、どうしたの・・・?」
「・・・ごめんなさいね・・・」
「やだ、何で要芽姉が謝るの?」
「・・・しばらく、こうさせて・・・」
要芽の手が、抱きしめた瀬芦里の背中をあやすように撫でていく。
「・・・あ・・・」
空也を抱きしめるのとは違う。抱きしめられている。
久しく感じなかった気持ちが、瀬芦里を満たしていった。


落ち着いた風情の和室。
雛乃がゆったりした動作で茶をたてている。
「お邪魔します、姉さん」
静かに襖を開け、要芽が入ってきた。
雛乃は答えない。
「私にもいただけるかしら」
黙ってもう一つ茶碗を出すと
二人分の茶をたて始める。
チンチンと茶釜の湯が音を立てるだけで
部屋は静まり返っていた。
雛乃が立て終わった茶を要芽に差し出す。
差し出す手が、かすかに震えていた。
要芽は黙って茶碗を受け取り、一口啜る。
「・・・おいしい、ですね」
雛乃がギュッと、自分の膝頭を握り締める。
「・・・ッ!・・・ここは・・・我らしか・・・」
雛乃が、涙に潤んだ目で要芽を見つめる。
訴えるように。
ゆっくりと茶碗をおろし、要芽は小さくため息をついた。
「そう、あなたにはわかるのだったわね・・・雛乃」
「はい・・・母上・・・」

「気がついたら・・・寝ている要芽の体が目の前にあってね。ちょっと借りてみたの」
いたずらが露見した子供がするように、ぺろりと舌を出す。
「乗り移るのって、結構簡単なのね。実の娘だからかしら?」
「要芽が寝ていたからでしょう。母上とは霊の波長も近いようですし」
「元気になったわね、雛乃・・・」
「はい・・・」
「・・・よく・・・頑張った・・・わね・・・」
「は・・・はは・・うえ・・・母上ぇっ!!」
雛乃の小さな体が、要芽の・・・いや、要芽の中の凛に飛び込む。泣きながら、母の胸に。
抱きしめる凛もまた、涙を流していた。
二人の嗚咽が、静かな部屋に響いていた。

「雛乃・・・そろそろ・・」
胸の中の雛乃の肩をそっと押しやって、凛が体を離す。
「・・・はい」
「舞を・・・見せてくれるかしら」
「・・・!・・・い・・・いや・・・いやですっ!まだ、まだよいのでしょう!?」
ふるふると、悲しげに凛が首を横に振る。
「いつまでも、こうしてはいられないのはあなたが良く知っているでしょう?」
「それは・・・だけど!」
「雛乃・・・お願い・・・これ以上は・・・私もつらい」
やがて、意を決したのか雛乃がすっと立ち上がる。
「舞います・・・お送りいたします、母上・・・」


部屋の中央。
扇を広げ、ゆっくりと雛乃が舞う。
くるり、くるりと。ふわり、ふわりと。
舞の動きに、滴る涙が零れ落ちる。
はらり、はらりと。きらり、きらりと。
凛は壁にもたれかかって、それを見ている。
誰に聞かせるでもなく、つぶやく。
「雛乃・・・要芽・・・瀬芦里・・・巴・・・高嶺・・・海・・・空也・・・」
雛乃は舞をとめない。流れる涙をぬぐうこともない。
「翔・・・あなた・・・」
やがて。雛乃の目に、還っていく凛が映る。
要芽の体を離れ、高く、高く・・・
まだ舞はとめない。
だが、もう涙はなかった。
やがて、雛乃にも凛の気配がわからなくなって
舞は終わった。
雛乃は要芽を・・・今は戻っているはずの要芽を見る。
壁にもたれ、眠っている要芽の目から
つ、と一筋の涙が落ちた・・・


(作者・◆Rion/soCys氏[2004/10/8])

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