そこにあるのは、メリーゴーランドの煌きだけ。
身を置いているのは、何も聞こえない無音の世界。

辺りを包む空気が、何処か冷たく感じた。
ぼんやりとした思考も、感覚に合わせて徐々に明確になってゆく。

ライトアップされたメリーゴーランドの光が、面積の少ない瞼の外側を照らした。
眩しさに思わず俯いた景は、自分の人形みたいに小さな手を見てふと思い出す。
あぁ、そういえば。
私はお母さん達と一緒に遊園地に遊びに来たんだっけ、と。
自分の左手に繋がった手を目で追っていくと、お母さんが微笑みながら景を見ていた。
お母さんと一緒にいるのだと分かると、次第に気持ちがワクワクして、なんとなく嬉しくなる。
「おかあさん、あれに乗ってみたい。」
景がメリーゴーランドを指してお母さんの腕を揺さぶった。 けれど、お母さんは何も言わない。
黙ったまま、優しげな笑みを浮かべて景を見下ろしているだけ。

「・・・。」
どうしてお母さんは、何も喋らないんだろう。
口を開く気配すら、そこにはなかった。

それ以上お母さんに話しかけるのを諦めて、腕を揺するのをやめる。
母と繋がった腕が、だらりと力なく垂れた。
漠然とした不安を抱えたまま、景は前を向く。

目の前ではメリーゴーランドの馬達が、くるくると楽しそうに回っていた。
子供を乗せたまま緩やかに上下しながら回っている馬は、一周、また一周と姿を現す度に姿を変えて。
景は幻想的にさえ見えるそれを、ずっと見つめていた。
飽きもせずに、ずっと。

メリーゴーランドの煌き

パチリ。
そんな音が本当に聞こえそうな程、景は大きく目を開いた。
いつもならば、目覚めた瞬間に部屋の天井が視界に入って来る所だけれど・・・なぜか今日は違った。
視界に入ったのは、普通に考えればこの部屋には居ない筈の、自分以外の誰か。

二つに分けた髪の毛。どこか愛嬌のある顔。
まさしく目に写った少女は、つい最近景の知り合いになった人物だった。
「わぁっ!!」
景の顔を覗き込んでいた少女が、目が合った瞬間に大きな声と共に視界から消える。
ついでに畳に体を打ちつけたような大きな音も鳴った。
・・・どうやら彼女は、眠っていると思っていた人間が急に起きたので、酷く驚いたらしい。
多少、リアクションがオーバー過ぎる気も、しないではないけれど。
「・・・祐巳ちゃん。この場合驚くのは、私の方なんじゃないかしら。」
なんとなく状況が掴めた景は、やけに重い体をゆっくりと起き上がらせながら呼びかける。
尻餅をついて化物を見るかのような目線を送ってくる祐巳ちゃんに。

「ごっ、ごごごめんなさい!人様の家へ勝手に上がるなんて、やっぱりいけないと思ったんですけど・・・。」
「大丈夫、分かってるわ。弓子さんでしょう?」
「はい・・・。」
激しい慌てぶりに思わず苦笑を漏らす。
祐巳ちゃんは、申し訳なさそうに頭を垂れると小さく頷いた。

彼女の話をまとめてみると。
一時間程前、早い時間に学校が終わった祐巳ちゃんがバス停に向かっていると
散歩中の弓子さんとば偶然にもばったり会ったらしい。
話が弾み、立ち話もなんだからと弓子さんが彼女を自宅へ招き、特に用事もなかった祐巳ちゃんは
誘われるままに弓子さんの住む母屋へと。
「母屋で話している時に今日は大学もお休みだと弓子さんに聞きましたから。
それなら加東さんにもご挨拶を、と思いまして・・・。」
「弓子さんと一緒に離れまで来てみたら、私が鍵もかけずに居眠りしていた、と言うわけね。」
「はい。物騒でもあるし・・・加東さんが目を覚ますまで此処に居てくれって頼まれたんです。弓子さんに。」
やっぱりそうだったか。
しかし、随分と弓子さんも意地悪になったものだ、と景は思う。弱い自分を、祐巳ちゃんに見せようとするなんて。
景が両親との写真の前で居眠りをしている時、たまにだけれど、あの夢を見る事を弓子さんは知っているのだから。

冷蔵庫から冷えたウーロン茶の缶を取り出して、祐巳ちゃんの前へ置いた。
缶の底がちゃぶ台に当たって、コトリと小さく音を立てる。
その音に反応して顔を上げた祐巳ちゃんと視線がぶつかると、彼女は慌てて目を伏せた。
「そんなに気にしなくてもいいのに。弓子さんが勝手に上がってくる事だってあるのよ。」
景はそう言って、床に置いたままだった眼鏡をかけてから祐巳ちゃんの横に腰掛ける。
「ええ・・・弓子さんに聞きました。合鍵で鍵を掛ければいいだけなんだけど
・・・こういう時、いつもは自分が加東さんの傍に居てあげてるんだって。」
「そう。」
ちらりと、目線を和机の上にある写真立てに向けた。
古びたスナップ写真の中には、遊園地の風景を後ろに楽しそうに笑っている両親と、まだ小さかった頃の自分。
母も父も、永遠に傍に居てくれるのだと信じていた、遠い過去。

景は、祐巳ちゃんを振り返って笑った。
「もしかして、私ったら寝言でも言っていた?お母さん、とか。」
「ぶっ!!」
途端、祐巳ちゃんは缶に口を付けたまま噴出す。かろうじて口の中のウーロン茶は飲み干したらしかった。
やはりこの反応を見ると、祐巳ちゃんは弓子さんに全て聞いているのだろう。あの夢の話も。
『悲しい夢を見た後に、一人だったら淋しいでしょう。居眠りする時は、私を呼んで頂戴ね。』
以前夢の話をした時、しっとりと微笑んだ弓子さんの姿が脳裏に浮かんだ。

「い、いいえ・・・ただちょっと、苦しそうな声を出してたかなって・・・。」
「そ?それならいいの。寝言でお母さん、なんて。この年になってちょっと恥ずかしいもの。」
小さく笑いかけると、祐巳ちゃんは真面目な顔をして低い声で呟いた。
「・・・お母さまの夢を、見ていらしたんですね。」
「ええ。珍しい事じゃないわ。」
「でも加東さんは、うなされて・・・。」
言いかけて、祐巳ちゃんは口を噤む。後一歩の所で踏み込めない。踏み込まない。
まだ知り合って間もないとは言え、景は祐巳ちゃんの積極的のようで控えめな性格がとても好きだった。
どんな話をしても、祐巳ちゃんは自分なりにそこから何かを読み取ろうと必死になってくれているように思えるから。
だからだと、景は思う。
あの日、ほとんど誰にも打ち明ける事が出来なかった家族の事情がすんなりと口から流れ出たのも。
弓子さんが景の傍に居てくれと頼んだのも。それはきっと、相手がそんな祐巳ちゃんだったから。
「母の声が、聞こえないの。」
だからだ。夢の中の出来事ですら、こんなに自然に話してしまえるのは。

祐巳ちゃんが、不思議そうに首を傾げる。漫画みたいに目をパチクリさせて。
そんな様子が可笑しくて、景は息を漏らして笑った。
「夢の中でね。呼びかけても答えてくれないのよ。」
「・・・お母さまが。」
ちゃぶ台の上に二つ並んだ缶の水滴が、重力に耐えられなくなって落ちていく。
中指で水滴を掬えば、現実的な冷たさが胸にしみた。
「どうしてかしらね。一言でも喋ってくれたらいいのに。」
「加東さん・・・。」
拗ねているだけだって事は、自分でもよく分かっていた。
せめて夢の中でくらい、声を聞かせてくれたっていいじゃないって。
そうすれば、一人でメリーゴーランドを見つめているだけで終わってしまう、あんなに淋しい夢を見なくたって済むのに。
「あの・・・。お母さまの声って、どんな感じだったんですか?高いとか低いとか・・・。」
ちょっと聞いてみたいんです。祐巳ちゃんは微笑みながらそう言った。
彼女が母に興味を持ってくれた事を、景は素直に嬉しく思った。母は、とても素敵な人だったから。
「えーっと・・・そうね。」
母の声。
写真の母を眺めながら、景は自分の記憶を辿った。

「・・・あれ。」
「?」
「どんな声だったかしら。」
母の顔を頭に思い浮かべてみても、何故かそこから声が連想出来ない。
しきりに首を捻る景を見て、祐巳ちゃんは信じられないといった顔をする。
「・・・加東さん、まさか。」
「忘れちゃったみたい。」
「えええっ!」
「そういえば、もう母が亡くなってから10年以上経つんだから、声くらい忘れていても不思議じゃないわね。」
「そんな・・・。」
忘れていた事すら忘れていた。なるほど道理で夢の中の母が喋らない訳だ。
景が勝手に自己解釈していると、祐巳ちゃんが両肩を下げて落ち込んでいるのが目に入った。
「やだ、違うの。いいのよ、どうして母が喋らないのか分かっただけで。」
「でも・・・。」
母が景と話をしてくれない訳じゃなかった。
ただ単に、景が母の声を忘れていただけの話で。
忘れた張本人が不安になるなんて、お門違いも甚だしいってものだ。

「随分すっきりしたわ。忘れてた事、思い出させてくれてありがとう。」
祐巳ちゃんに話して良かった、と景が笑うと、ようやく祐巳ちゃんも安心したように笑ってくれた。


それから景の母親の事だとか、祐巳ちゃんの家族の事だとか、色々な話をして時間を過ごした。
話題に花が咲くのに比例して窓の外が夕日で赤く染まってきた頃、祐巳ちゃんが時計をちらりと見る。
「それじゃ私、そろそろ帰りますね。」
「あ、もうこんな時間になるのね。」
ウーロン茶の缶も気が付けば温くなっていて、周りの水滴もすっかりなくなっていた。
「ごめんなさい。弓子さんと私の話に付き合わせちゃって。」
「いいんです。私も楽しかったですし。」
元々景は無口な方だから、こんなに誰かと話をしたのは久しぶりかもしれない。
時間を忘れる程祐巳ちゃんとの会話に夢中になった自分を、今更ながら不思議に思った。
鞄を持って立ち上がった祐巳ちゃんと一緒に腰を上げる。
「あ、そうだ。」
思い出したように、祐巳ちゃんはくるりと振り返った。
その表情は、とても晴れやかで。
「加東さんが小さかった頃に撮ったビデオテープがあれば、お母さまの声が聞けるかもしれませんよ。」
「・・・ああ。」
だからきっと、自分も似たような顔をしている筈だと、景は思った。
「そうね、きっとそうかもしれないわ。」

―明日にでも、祐巳ちゃんの言った通り、実家に帰って母が写っているビデオテープを探してみる事にしよう。
それを見終えたら母の声をしっかりと頭に刻み付けて、写真の前でまた居眠りをするのだと決めた。
その時こそ、夢の中の自分はメリーゴーランドに乗れるだろうか。
一緒に乗ろうって、母は自分の手を引っ張ってくれるだろうか。

景はふと、あの眩いくらいに光を放つメリーゴーランドの煌きを思い出して、ゆっくりと目を閉じた。


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