エル・カザド2


帰る場所を求めていた。
家も、大切な人も、何もかもを失ったあの日から。
鼻腔をつく焦げた匂い。戦慄すら覚える程の苦悶の声をあげる村人を嘲笑うかのように、ぱちぱちと爆ぜる炎。
悲嘆に暮れながら、足が動かなくなるまで歩いた道。
ずっと求めていた。

それなのに、何故。

窓ガラスに映る自分を、ナディはかれこれ数十分眺めている。
ロベルトの所にいた時間を不満に思ったことなど一度たりとてなかった。
むしろ、幼い頃から願っていたものを、やっとこの手にする事が出来たとすら思っていたのだ。
帰る場所。ありのままの自分を受け入れてくれる優しい人達。
その筈なのに、何故自分はあの日常を、「物足りない」と感じたんだろう。
エリスに指摘されるまでは自覚出来ないくらいの、それは小さな小さな想いだった。
自分達を狙う人間がいなくなったとは言え、それらを置いてまでエリスと二人再び当てもない旅へ出ることを選んでしまうほどには。
自由はそんなに良いものじゃないなんて、ブルーアイズに偉そうな口をきいていたのに。

精悍な顔立ちをした昔の雇い主を思い出そうとして、同時にアミーゴタコスの支部長という彼女には恐ろしく似合わない肩書きまで浮かんでしまって、ナディは小さく吹き出した。
読書中の相棒に聞こえてしまっただろうかと、椅子の背もたれに手を掛け、慌てて振り返る。


ベッドの真ん中に座って薄い絵本を熱心に読んでいるエリスは、どうやら全く気が付かなかったらしい。
絵本は、この宿に入る前に古い本屋で買ったものだ。
資金の余裕が出来るまで無駄な浪費はしないつもりだったけれど、店前の棚に積まれた絵本の表紙に魅入られたエリスがその場を中々動こうとしなかったから、仕方なく。
とは言え、あれだけ気合を入れて読んでくれれば、買った甲斐があるというものだ。
懸命に文字を目で追うエリスの横顔を見つめていると、再びもやもやとした思いがナディの心を塗り潰し始める。
そう。帰る場所を求めていたのは、自分だけじゃない。
エリスに気を使わせてまで選び取ったこの道が、本当に正しかったのだろうか?
旅に出ようと決めたあの瞬間こそは世界が煌めいて見えたものだけれど、日を置くにつれその疑問が大きくなってくるのだった。

気取られぬようそっとベッドに忍び寄り、音もなくエリスの後ろに座ってその華奢な身体を抱え込んだ。
エリスは驚いたりせず、ちらりと振り返ってナディを無表情に確認すると、再び本の世界へと舞い戻る。
それがなんとなく気に入らなかったので、腕を抱える力を込めて強制的にページを捲る手を止めさせた。
「どうしたの?」
「それ、そんなに面白い?」
「…面白い。ナディも一緒に読む?」
「どんな話なの?」
「騎士さまとお姫さまの話。騎士さまはお姫さまの事、いつも守ってくれるんだよ」
「ふーん、ま、よくある話ね」
「私とナディみたいだね」
「お姫様って柄かね、あんたが」
「お姫さまはナディ」
「…」
「騎士さまはエリス」
「ふ、普通逆じゃない?」
「逆なの?」
「…はいはい、どうせあたしは弱っちいお姫様ですよ」
エリスの肩に顎を乗せ唇を尖らせて拗ねるナディだけれど、エリスから離れる気分にはどうしてもなれなかった。
やがて読書を諦めたエリスが、苦笑を浮かべて絵本を閉じる。
「嘘。ナディはずっと私を守ってくれてるから、ナディが私の騎士さま」
そっと頭を撫でられる感触に心地良さを覚えながら、ナディは考える。
この子は、いつからこんな風に人を思いやる事が出来る様になったんだっけ。
出会った時から本質は変わっていないのかもしれないけれど、自然な温もりを伴うそれは、いつの間にかエリスの中に詰まっていた。ともすれば零れてしまいそうな程に。
そんなエリスに、自分は寄り掛かってしまっているのだろうか。

「だけど、誰ももう、エリスを危ない目に合わせたりなんかしない」
エリスの冷たい頬に自分の頬を寄せ、呟く。
自由なものだけが触れられる青い空。果てしなく広い荒野。二人なら、何処へでも行けるのではないかという錯覚。
孤独な一人旅ではなく、隣にエリスが居ればこそ輝く時。ウィニャイマルカを目指すという以前のような明確な目的がなくても、想像するだけで心が躍る放浪の旅。
ナディはそれを心の底で確かに望んでいたのだ。そして、その自分勝手な願いを叶える為の絶対条件であるエリスを巻き込んだ。
自分はもう、エリスの騎士なんかじゃない。
「人生、何が起こるか分からないよ」
「これ以上何があるっての?」
「あの二人組が、脱獄してまたくるかも」
「うわ、やめてよ。折角忘れかけてたのに」
「ふふ」
落ちてくる沈黙。
ナディはエリスを抱え込んでいた腕を、折れてしまいそうなくらいに薄い腹に回して強く抱き寄せた。
眼前には透き通るように青白い首筋。
おもむろに其処へ顔を埋めてから、緩くウェーブがかかった髪の毛を唇で抑え付ける。
エリスは、目を閉じてじっとその行為を受け止めていた。
「ナディ」
「ん?」
「今日は甘えんぼ」
「…そうかな」

こんなに細くて小さい身体で。ナディと出会ってからは勿論、それ以前にも、どれ程辛い環境に耐えてきたのだろう。
エリスを狙う人間がいなくなったというのなら。
彼女に与えるべきだったのは、夢のように穏やかな時間の流れる、安息の地だったのではないか。
重なる思念を振り払うように、エリスの小さな胸を掌で包み込む。
薄い生地で出来たワンピースの寝着の上から、その形をなぞるように撫でると、エリスは一つ吐息を漏らした。
二人がこのような行為をするのは、初めてのことではない。
ローゼンバーグをこの手で葬った日の夜、お互いの存在を触れることで確かめ合った時から、何度かその熱い想いを交わしてきた。
その最中でさえ声をあげたり、あまり乱れた様を見せないエリスだけれど、稀にエリスの方から身を寄せてくる時もあるので嫌がってはいない、筈だ。
エリスはいつだって、ナディのしたいようにさせてくれている。
「ねえ、エリス」
手の動きを止めぬまま、柔らかなエリスの耳朶を震わせ、ナディは囁く。
「?」
「リリオに会った後は、どうする?」
「…?」
「その後は…なんにもする事なくなっちゃうね」
裾から侵入した指先で太股の素肌を直に撫でられても、エリスは特に何の反応も見せずに答える。
「そうだね」
「そうだねって…」
「いけないの?」
何の問題があるのかと問いたげな表情で振り返る。
一瞬たじろいだナディだったが、なんとか言葉を紡ぐ。

「いけないって事はないけど。それからは目的もなくずーっとぷらぷらするのよ、エリスはそんなんでいいの?」
「ナディがいいなら」
いいに決まっている。そもそも自分自身が選び取った道なのだ。
あの暖かい場所でずっと暮らしたいと思ったのも確かだけれど、エリスと旅に出たいという気持ちがそれを上回ったのもまた事実だった。
目が輝いている自分を好きだと言ってくれた。
心の何処かで願っていた想いの欠片を探し出し、背中を押してくれた。
ナディを悩ませるのは、ただ一つ。そんなエリスが、果たして自分と同じように思ってくれているのかという事だけだった。

それきり黙りこんだナディを、不思議そうに覗き込むエリスの唇を素早く塞ぎ、その輪郭を確かめながら舌を這わせる。
しっとりと湿った薄い上唇を噛み、誘うように端を吸う。それでも、エリスはただその行為を静かに受け止めるのみ。
そんな様子に、僅かに苛立ちを感じたナディが顔を離す。
何の感情も込められていないようにも思えるエリスの無機質な瞳が、不機嫌に眉を顰めた自分の顔を捉えていた。

「…」
一つ溜息をついてから、ナディは無言で腰まで捲り上げていたエリスのワンピースを整え、身体の向きを変えてベッドから両足を下ろした。
「ナディ?」
「…もういい、なんでもない」
「私、嫌じゃないよ?」
「だから、もういいってば」
背後から掛けられる言葉を、強い声で跳ね返す。
振り返ってわざわざ確認しなくても、戸惑いの滲んだ表情でこちらに視線を向けているであろうエリスを容易に想像出来た。
―何やってんだろ、あたし。
一拍遅れて、自己嫌悪の波が押し寄せる。
エリスの態度はいつものそれと何ら変わりはなかったのに、自分は何をむきになっているのだろう。
「ナディ」
「…」
一人で考え込み些細な事に腹を立て、エリスを怒鳴ったりして、馬鹿みたいじゃないか。
「ナディ」
「なによっ」
しつこく思考を邪魔されたナディは反省虚しく、八つ当たり気味に声を上げ振り返えると、エリスは首を傾げて微笑んでいた。
予想もしていなかったその微笑に、怒りや罪悪感が急速に吸い取られていき、脱力する。
「…今日のナディは我がまま」
「…」
「分からず屋」
「…」
「自分勝手」
「…どうもすいませんでしたねー」
普段子供みたいなエリスに我がまま呼ばわりされると、妙に恥ずかしい。しかも図星だ。
やけになって仰向けに倒れたナディを追って、エリスがゆっくりと覆い被さる。必然と至近距離で目が合い、睫毛が触れ合う。
驚く間もなく、流れるような自然な動作で口付けられた。
「我がままで、分からず屋で、自分勝手で、甘えんぼ」
底抜けに優しい声を聞き、楽しげに揺らめくエリスの瞳を見て、ナディは言葉を失う。
「でも、大好きだよ」
全身を駆け巡る愛おしさに、目頭が熱くなるのを慌てて指で押さえ堪えた。
我がままで、分からず屋で、自分勝手で、甘えんぼ。

―本当に、彼女の言う通りだった。


「リリオに会ったら、次はフリーダに会いに行く」
ベッドに転がったまま天井を見つめるナディの胸に頭を乗せたエリスが、思い出したようにぽつりと呟いた。
「フリーダ?懐かしい…って、めちゃくちゃ遠いじゃない」
「駄目?」
「時間は腐るほどあるからいいけど、その前にお金貯めないと」
「ナディと一緒なら何でも出来るよ」
平然と吐かれた言葉には、エリスの本気はあまり感じられない。
それでも、ナディは素直に受け止める事が出来た。己の単純さに苦笑しつつ上半身を起こす。
「…ま、いっか。そろそろ電気消すよ」
「いえっさ」


エリスはいつだって、ナディのしたいようにさせてくれる。
このまま旅を続ける事をエリス自身が求めているのかと問えば、彼女は首を縦に振ってくれるだろう。
そんなずるい質問は出来ないし、エリスの真意を理解できる日がくるとは、到底思えない。
けれど。
今更気付いたというのも情けない話だが、ずっと求めていたナディの帰る場所は確かに此処にあったのだ。
エリスも少しはそう感じてくれているのだとしたら。
それほど嬉しいことはない、とナディは思った。


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