過ぎ行く薫り


雨が降り続いたあの日々は、もう明けたのだろうか。
立ち止まり空を仰ぐと、眩い太陽の光が無数の線となって瞼を焦がす。所々に浮かぶ真白な雲は、もう涙は落とすまいと誓っているようで。軽い眩暈を覚えて、祐巳は眉間をつまみゆっくりと首を振った。
「……祐巳?」
肩に、静かな重みを感じる。
目線を向けると、祥子さま――お姉さまが、祐巳の肩に手を置き不思議そうにこちらを窺っていた。
祐巳は、お姉さまのそれに自らの手を重ねて微笑む。
「いえ、今日は暑くなりそうだと思って」
「そうね、良い天気だもの」
擦れ違いが解消されてから始めてになる、二人揃っての登校だった。通常の登校時間よりも少し早く、生徒の数も疎らであるにも関わらず、久々に見るその光景に二人の横を通り過ぎる生徒は皆控えめに視線を投げかけてくる。だがそれも無理もないのだろうと祐巳は思う。
お姉さまと当たり前のように微笑みを交わせるという今の現実は、未だ夢のように暖かくて、当の本人でもしっかりと認識出来ていないのだから。

瞳子ちゃんの事は全て祐巳の思い過ごしだったし、祐巳が拒絶だと受け取ったお姉さまの行動には、ちゃんと意味があった。
こうして振り返ってみると、何のことはない。感情的にならず、傷つく事を恐れずお姉さまに歩み寄れば、あんなに思い悩む事にはならなかったのかもしれない。思い返せば自分は身勝手で、一人で転んで怪我をした子供が痛い痛いと泣き喚いていただけのようだった。それで、物事が良い方に転がる訳はない。
けれど、雨が降ったからこそ、洗い流される泥もある。転んで傷を負ったからこそ、痛みを知ることができた。
何よりあの梅雨の日に濡れた雨のお陰で、一人では生きていけないこと、そして祐巳を思ってくれる大切な人が一人だけではないことを知った。案じてくれた人。共に悩んでくれた人。叱ってくれた人。手を差し伸べてくれた人。
そんな周りにある大切なものに気付かせてくれた、あの雨の日。今となっては、肌に残る雨の冷たさすらも愛しく思える。 数々の笑顔が、脳裏に浮かぶ。やがて暖かい薫りと共にあの人の笑顔が浮かんで、そして消えた。
「どうしたの、祐巳。とっても嬉しそうだわ」
「お姉さま。私、お姉さまと……大切な人たちと知り合えて、本当に幸せです」
「そう、そうね。」
お姉さまは、それ以上何も言わなかった。
それから向き合った祐巳のタイに指をそっと触れさせて綺麗に整えると、大輪の花のように微笑んだ。
その花の鮮やかな色彩に、祐巳の心が軽やかに躍る。もう二度と、この人を疑ったりはしないと、強く思った。

――あれ?
お姉さまの肩越しに、校舎へと向かうあの人の姿が見えたような気がして祐巳は眉を顰める。見間違いではない、あの横顔は。祐巳を元の居場所へと導いてくれた、林浅香さまだった。
思わず浅香さまを目で追うと、およそ二メートル程離れたところで、まるで今二人の存在に気が付いたかのように彼女は突然振り向く。浅香さまは、笑っていた。それはミルクホールでいつも祐巳を迎えてくれていたあの笑顔と、何処か違っているように見えた。 無論気のせいだとは分かっている。
祐巳の気持ちが以前と変化しているからそう見えているだけで、浅香さま自身は何も変わってなどいないのだ。
何かしら声を掛けられるのだろうと姿勢を正すと、予想に反し浅香さまは素早く手を振り何事か呟くと、さっさと前を向いて歩き出して行ってしまった。颯爽と遠ざかるその後姿が、妙に潔い。
その一瞬の出来事に拍子抜けして口を開けたまま浅香さまの背中を見送っていると、お姉さまは呆れたように言った。
「なんて間の抜けた顔しているの。早くしないと、時間がなくなるわよ」
「え、あ。す、すいません」
慌てて頭を下げながら、祐巳は考える。
声は聞こえなかったけれど、確かに浅香さまはさようならと言っていた。それは、誰に向けて告げた別れなのだろうか。
自分に?それとも――。単純な祐巳の思考ではその答えは一生分からないのかもしれない。
「祐巳、行きましょう」
優しく名前を呼ばれて、下げた頭をゆっくりと持ち上げた。視界を照らす陽の光に、くらくらとする。
「はい、お姉さま」
眩しい。
あの人の薫りが風に乗り頬を撫でたように感じられて、祐巳はそっと目を瞑った。


さようなら。
そう声を掛けて見せたのは、何故だったのだろうか。
未練?いや、違う。けじめ?そんな大層な物じゃない。そう、多分それは、単なる悪戯心。
浅香は空を仰ぐと、小さく小さく、笑った。青々と広がる夏空は何処までも高くて、陽射しと共に刻まれる、今はまだ辛うじて爽やかだと言える気温も、後数時間もすれば鬱陶しいことこの上ない夏の洗礼をこの身に叩きつけるに違いない。
流れ行く雲。形を変える、入道雲。もこもこと大きくなり、時には雨を降らせるそれ。夏を彩る、空に浮かぶ白い船。それはまるで、心の様。
祐巳さんはきっとびっくりした事だろう。いきなりさようならだなんて言葉を向けられて、びっくりしない訳はない。祐巳さんのぽかんと口を開いた顔が、目蓋の裏に残っている。数分前の状景を思い出した浅香の口元から、笑みが零れ落ちる。
二年前は言えなかった言葉。去年も結局、言えずじまいだったそれ。結局浅香は、自分からはさようならと言えなかった。それはもしかしたら、意地だったのかも知れない。もしかしたら、執着なのかも知れない。もしかしたら、憎悪だったのかも知れない。もしかしたら。もしかしたら。
そんなもしかしたらを何度も何度も並べてみて、それが全て正しくて、全て正しくないと言う事を、浅香は知っていた。
さようなら。
お姉さまには、言えなかった言葉。祐巳さんには、言えた言葉。それはきっと、癒しの言葉。
全てを癒す、魔法の言葉。祐巳さんと祥子さんの笑顔が生み出し、浅香の内に蟠った想いを解き放ってくれる、そんな魔法の調べ。
そんな、どことなくメルヘンチックな思考が頭を過ぎり、思わず浅香は首を振った。何かを否定するかの様に。何を否定するのか分からないまま。
マリア様の小庭から校舎へと続く銀杏並木は、その枝毎に青々とした葉を茂らせていて、それが作る影に身を寄せると、僅かに涼を得ることが出来る。
あの日、冷たい身体と心を抱えた祐巳さんを誘った道。
あの日、祐巳さんと共に歩き、そして別れへと向かった道。そのいずれの日も銀杏並木を飾る青い葉は変わらずにそこにあって、静かに影を落とし、見守っていた。
今日は快晴。どこまでも高い空が、銀杏並木の隙間から眩しいほどの青を照らし出してくれる。
祥子さんの隣にあった祐巳さんの晴れやかな笑顔は、この夏空にこそ相応しい。あの笑顔を目の当たりにして、やっと浅香はさようならと言えた。過去のお姉さまに、何よりあの日々からずっと悩みを引き摺っていた浅香自身にさようならと言えた。
青空を仰ぎ、青い銀杏を仰いだ。朝の風が髪を撫で、晴れの薫りが鼻腔を擽る。
それはどこか、祐巳さんの薫りの様だった。
最初の日は、雨だった。
小さく震える濡れた祐巳さんの姿は、かつての浅香自身を見ているような、そんな錯覚に囚われるほど、心まで雨に濡れて見えた。そこにあるのは、ただの同情だったのだろう。
そして最後の日は、夕暮れだった。
祐巳さんの心を知り、浅香自身の心と向かい合い、そして、心に別れを告げようと決めた日。最後の時を噛み締める様に、二人並んで歩いた、銀杏並木。
木漏れ日が浅香を照らした。焼ける日差しに、頬が、唇が、熱い。見上げると日差しが瞳を焦がそうとしたので、浅香は思わず右手を頭上に翳した。指の間から日差しが零れ、熱が掌を焦がす。
掌に夏の熱を受け止めながら、浅香はあの日覚えた、祐巳さんの熱を思い出した。




――時が経ち、熱を失ったコーヒーがカップの半ばに色濃く澱んでいる。
しかし時間は、浅香の内に燃える熱までは奪ってはくれなかった。
目の前で色濃く戸惑いを浮かべたままの祐巳さんへの思い。それは、決して許されない気持ち。浅香が胸に抱いた思いは、悲劇しか巻き起こさない事を知っていた。そしてその悲劇の渦で苛まれるのが、祐巳さんだと言う事を知っていた。
祐巳さんの気持ちに気づいていながら、浅香はそれに甘えていた。持ち得なかった妹。築ける筈のなかった、新しい姉妹と言う形。祐巳さんの存在はそんな泡沫の夢を与えてくれた。
いつまでもこのままではいられない。それは誰よりも浅香自身が知っていた。
浅香の言葉を聴いて、祐巳さんはそれをどう捉えたのだろうか。厳しい物言いだったかもしれない。けれど、精一杯の手向けのつもりだった。
目の前には、戸惑いと苦痛と、諦めと決意とを混ぜ込んだような、複雑な表情を浮かべた祐巳さんの顔があった。
こんな時なのに、どことなく可笑しみを覚えてしまう。そんな祐巳さんの魅力。テーブル越しに向かい合わせになったこの景色は、いつの間にか浅香の中では掛け替えのない絵になっていた。時に笑顔。時に悲嘆。目の前の景色を飾った苦悶の表情も大輪の笑顔も、浅香にとって大切なものだった。
目の前の祐巳さんを見て、その事を改めて知る事が出来た。だからこそこの言葉は、浅香にとって何よりも自然だった。
「ありがとう……、祐巳さん」
「……。いいえ、それはこちらの台詞です、浅香さま」
浅香の素直な心情を受け取った祐巳さんは、初めはきょとんとし、その後木漏れ日の様な微笑みと共に言葉を紡いだ。悲しみと優しさの混ざった、心地好い音が浅香を包み込んだ。
祐巳さんのそんな笑顔を見て言葉を聴き、浅香の胸は熱くなった。その熱は風を伴って、浅香の胸に蟠っていた翳りを溶かし、散らしてくれた。別れを経て祐巳さんの笑顔をまた失うとき、胸の翳りはまた幾重にも層を重ねていくのかも知れない。けれど二人にとって、別れは必然だった。別れと言う明日は必ずやって来る。
それならば、明日がやってくる前に、今はこの時を楽しもう。明日を笑顔で迎えるために。
せめて笑って明日を迎えようと、自分に言い聞かせられるように。
そんな思いに向かって心の中で頷き返し、浅香は冷めたコーヒーに口をつけると、渇いた口を湿らせた。
そして努めて口元から零す笑みと共に、こう言った。
「ねえ、祐巳さん。今日は少し、散歩しない?」

思ったよりも長く祐巳さんと話していたのだろう、外の世界は紅に染まっていた。
今朝はあれ程分厚かった灰色の雲が、いつの間にか薄れて浮かんでいる。結局雨は降らなかった。
心なしか肌に触れる外気も、さらさらと乾いている。明日は、もしかしたら晴れるかもしれない。そう思うと自然と気分が軽くなって、浅香は密かに笑った。
銀杏並木を並んで歩いていた祐巳さんが、そんな浅香の様子に気付いて首を傾げる。浅香につられたのか、祐巳さんの表情も何処となく楽しげに見えた。
「どうかしましたか」
「ううん。祐巳さん、初めて会った時よりも随分変わったなって、そう思って」
「変わった?」
「そう、変わった」
「……私、そんなに暗かったですか」
神妙な顔をして、そんなことを言う。当然浅香は吹き出し、声をあげて笑った。
「何もそんなに笑わなくても」
「そうじゃない、そうじゃないの。……いや、確かにそれもあるけれど」
「それしかないですよ」
そう言って祐巳さんは頬を膨らませる。その頬が夕日に染まり、とても綺麗な紅を為していた。不貞腐れた祐巳さんの顔をこんな間近で見るのは、もうないのだろう。そう考えた浅香の手は、知らぬ間に祐巳さんの頬を撫でていた。
「浅香さま?」
そう呟いてきょとんとした祐巳さんの頬を撫でながら、浅香は歩みを止めた。隣で祐巳さんの足も止まる。
「……温かいわ」
「え?」
「あの日、祐巳さんを私のジャージに着替えさせたとき、とても冷たかったの。芯まで冷え切ってるんじゃないかと思うくらいにね。そんな祐巳さんが、今こんなに温かい。何だか、感慨深いなって」
「……」
「変わったって、そう言うことよ」
そう言って笑って見せると、浅香は祐巳さんの頬から手を下ろし、ゆっくりと足を進めた。
「それなら、私が変われたのはやっぱり、浅香さまのお陰です」
祐巳さんがそう言いながら、足早に隣に並んだ。
「そう?」
「ええ。だって私、本当に落ち込んでいたから……」
「そう、私のお陰か……それじゃ」
浅香はそこで口を閉ざし、立ち止まった。
いつの間にか、視線の先にマリア様の小庭が見えるところまで歩いていたらしい。マリア様の周りに他の生徒の姿はなく、遮蔽物に遮られる事もなく一条の紅い光がマリア様を照らしていた。
浅香の視線はマリア様へと釘付けになっていた。浅香に習って足を止めた祐巳さんが次の言葉を待っている様が横目に見える。朱に染まるマリア様を見つめながら、浅香は呟いた。
「祐巳さんからお礼に、キスしてもらおうかしら」
「……はあ、キスですか、なるほど。……えええっ!」
横目に祐巳さんの驚いた顔が見えた。
頬を赤らめ眉を上げたり下げたり、口元を緩ませ目元を微かに潤ませ、あたふたと言う言葉をそのまま表情にしたかのような、そんな祐巳さんを横目に見た浅香は、湧き出る笑いを堪えながらおどけた調子で続けた。
「……なんて言うと思った?」
「へっ?」
「冗談よ、冗談。いやね、そんなに真に迫ってたかしら私」
そう言い放って浅香は笑うと、また足を進めた。半歩遅れて祐巳さんの足音が聞こえる。どこか慌しい足音だった。
早足で近寄ってきた祐巳さんが、浅香のすぐ左隣に落ち着く。
「……浅香さま、あのですねぇ」
唇を尖らせて文句を垂れた祐巳さんの額に、振り向き様に軽く唇を押し当て、素早く離れた。
一瞬でその感覚はあまり味えなかったけれど、その焼けるような熱は確かに唇に残っている。 どんな顔をしているのかと祐巳さんの前に回って顔を覗き込むと、彼女は見事なまでに固まっていた。その表情も纏う空気も、まるで石で出来ているかのよう。祐巳さんの眼前に手の平を翳して、浅香は口の端を吊り上げてにやりと笑った。
「冗談って言ったのが、冗談だったりして。あ、でも結果的には私からしちゃった訳だ」
ちょっと損した気分かも、なんて肩を竦めておどけてみせると、漸く祐巳さんは呪縛から解かれたようで、前髪を掻き上げ自分の額をぱちりと強く叩いて押さえつけた。
妙に小気味良い音がしたから、恐らく痛かっただろう。口をぱくぱくさせながら、必死で言葉を紡ぐ。
「な、な、な、な、なに、なにを」
「分からない?全てが冗談なのよ」
「じょ、冗談?」
「そう、本気じゃない」
浅香は、未だ笑いを浮かべたまま祐巳さんを置いて先に進む。
「だからいつまでも覚えているべきだわ。私も、祐巳さんも」
祐巳さんは、もう追い付こうとはしなかった。自らの意志で、そこに足を生やしている。
その代わりに優しい意味を持った言葉を、少しずつ二人の距離をあけてゆく浅香の背中に投げて寄こした。
「浅香さまだって、変わりました」
「そうかしら」
そうだといい、と浅香は思った。二人が交わる時は、恐らくもう永遠にないだろうけれど。
いや、だからこそ。
きっと、後ろに立つ祐巳さんは笑っている。そして浅香もまた、笑っていた。
紅い光を遮る物は、何もない。浅香は愉快な気分をそのままに、これからはこの足で何処へでもいけるはず。
今日の笑顔と今日の夕日を、忘れなければ、きっと。


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