朝霞薫る


次の日の朝。
祐巳は起き抜けて身をベッドの上で起こすと、机の上にあった鏡を手に取った。瞼と頬が腫れぼったく赤く染まっている。 枕を見下ろすと、小さな跡が残っている。夢の中で泣いていたのだろうか、けれど祐巳は、その夢を思い出す事は出来なかった。
ただ、悲しかったと言う余韻だけが、奥まって掻き取れないような頭の片隅に引っ掛かっていた。
祐巳は鏡に向かって、笑って見せた。腫れた瞼が目立つ。それが少し可笑しくて、ほんの少し笑えた。
冷たい水で顔を引き締め、大きな声で家族に朝の挨拶をし、家を出た。空元気でも元気には違いない。もやもやした心の内は表に出さないように。
家を出た祐巳の鞄の中には、乾燥機ですっかり乾かした、浅香さまのジャージがあった。
学校へ行き教室へと入ると、由乃さんが待ち構えていた。祐巳は由乃さんに誘われるまま、人気の無い中庭へ連れ出された。 謝った祐巳を、由乃さんは許してくれた。心配げな由乃さんに、経過を告げ、気持ちを伝えた。薔薇の館へはいけないと言う、気持ちを。お姉さまを、祥子さまを信じられなくなってしまったと言う、気持ちを。
けれど、三奈子さまと浅香さまとの事は、何故か言えなかった。何故言えないのかは、祐巳自身にも分からなかった。 分からない事に気付いたとき、ほんの少し胸が痛んだ。何故痛いのかが、分からなかったのだけれど。
教室へ戻ると真美さんが待っていたかのように立ち上がり、すり足で祐巳の傍らへと近寄ってきた。
余りにもいきなりなその動作に驚いた祐巳に向かって、真美さんは一言「お姉さまから聞いたから。とりあえず今は、記事にしない」とだけ独り言のように呟くと、またすり足で真美さん自身の席へと戻って行った。
そんな真美さんの動きが可笑しくて、三奈子さまの気持ちが嬉しくて、祐巳は少し笑った。少し離れた所を歩いていた由乃さんも、こっちを見て笑っていた。見ると腰を下ろした真美さんも笑っている。嬉しくて、可笑しくて、一頻り笑った。
祐巳は、笑えると言う自分自身が可笑しくて、また笑った。
お昼休みか放課後になったら、浅香さまにジャージを返しにいこう。
そう考えたとき、何故かチクリと胸が痛んだ。
けれど小さなその痛みと共に、胸の奥がほんの少し温かくなった。

「あれ、祐巳ちゃんじゃない。こんなところで何しているの?」
校舎に残る生徒の数も疎らになった放課後。三年生の教室がある廊下で突如声を掛けられ、祐巳はぎくりと肩を竦めた。
ぎこちない動作で振り返ると、怪訝そうに首を傾げた令さまが軽い足取りで近づいて来た。
「令さま……ごきげんよう」
「ごきげんよう。祥子は今日学校を休んでいるけれど……それは由乃から聞いて知ってるよね」
「はい、昼休みに聞きました」
「それじゃ、どうして此処に?」
「えっと……それは……」
『昨日、上級生にジャージを借りたので、それを返しに来ました』
たったそれだけの事が何故か言えなくて、まるで悪戯が見つかった幼子のように、祐巳は忙しなく視線をあちらこちらに彷徨わせた。
これじゃ、祐巳が令さまに責められているみたいではないか。令さまの口調は相変わらず柔らかく、そんな気配は微塵も見受けられないというのに。
するとそんな祐巳の様子から何かを察したのか、令さまはそれとなく話題をすり替えた。
「うん、そんな事どうだっていいか。祐巳ちゃん、今日も薔薇の館へ行かないの?」
「……はい。忙しい時に申し訳ないのですが」
なんとなくほっとして、祐巳はすぐに応えた。それは昨日からずっと考えていた事だったから。
祥子さまとの件に決着をつけるまで、薔薇の館へ行くつもりはない。
「それはいいのよ。祥子が学校へ来れば何とかなるだろうし……私も由乃も部活だから、お互い様でしょ」
「……すいません」
でもね、と令さまは言った。
「でもね。祥子は祐巳ちゃんを待っていると思うよ」
「……」

何言ってるのって、祐巳は思った。
令さまの言葉は耳を伝って、胸の中を縦横無尽に駆け巡る。眠っていた想いが、微かに軋んで悲鳴を上げる。
お姉さまが、祐巳を待っている?
違う。
祐巳はジャージの入った袋と一緒に胸を抑えて小さく呻いた。酷く苦しい。
違う。そんな訳がない。お姉さまは、祐巳を捨てたのだ。お姉さまが待っているのは祐巳なんかじゃない、瞳子ちゃんだ。
ほら、眼を瞑るとこんなにも鮮明に瞼に浮かぶではないか。祥子さまの傍へ寄り添っているのは。
「そんな訳」
「……浅香さん?」
感情のまま令さまに食って掛かってしまいそうになったまさにその時だった。
最初は、令さまが祐巳の名前を間違えたのかと思った。無論、冷静に考えればそんな事がある筈もないのだが。
上目遣いで令さまを見上げると、令さまの視線は祐巳の背後に向けられている。身体ごと振り向くと、そこに居るのが当たり前のように浅香さまが立っていた。軽く片手を振りながら、昨日とはまた違う意味を持った笑みを浮かべて。
「ごきげんよう、令さん。…祐巳さん」
「はあ」
どうしてこんな時に、こんな所にいるかな。拍子抜けして、祐巳はぽかんと口を開けたまま変な声を出した。昨日といい今日といい、この人は影からタイミングを計っているのではなかろうかと疑いたくなってしまう。
自分から浅香さまに会いに三年生の教室前に来ていたのだということをすっかり忘れて、余りにも唐突過ぎる事態の変化に、祐巳は思わず手を握った。
するとかさっ、と言う音が小さく響く。手の中にあった、紙袋の包みが擦れた音が鳴る。その音で漸く祐巳は得心した。そうだ、浅香さまにジャージを返しに来たと言うのに、何を考えているんだろう。
「令さま、すみません。ちょっと浅香さまに用事が……」
「……分かった。それじゃ、またね」
祐巳がそう言うと、令さまは大まかな事情を察してくれたかのように微笑んだ。そんないつもと変わらない令さまの優しさに触れて、ほんの少し胸が苦しかった。
「ごきげんよう」
颯爽と去って行く令さまの背中に向けて、祐巳はそう声を掛けた。
「それで、どうしたの?祐巳さん」
令さまが視界の先から消えた頃、視線を向けた祐巳に向かって、浅香さまはそう微笑んだ。
その微笑みを見つめると、昨日の出来事がスライドショーのように祐巳の頭の中に浮かぶ。雨の冷たさ。ミルクの温かさ。ジャージの肌触り。
微かに涙腺が緩みそうになる。けれど手の中の紙袋がかさりと乾いた音を鳴らして、それを押し留めてくれた。代わりに、恥ずかしさが胸の奥から広がってくる。頬が熱くなっている事に、祐巳は気付いた。
「あ、あの……これ、昨日お借りしたジャージです。ちゃんと洗濯しました。あの……ありがとうございました」
しどろもどろになりながらそうまくし立てると、祐巳は両手に持った紙袋を浅香さまに向けてお辞儀しつつ差し出した。これではまるで、思い人にバレンタインのチョコを渡す少女だ。
やっぱりそんな様子が可笑しかったのか、浅香さまの小さな笑い声が頭を下げた祐巳の後頭部にぶつかった。けれどそれは決して不快じゃなくて。優しさを感じる笑い声だった。
紙袋がかさりと鳴った。浅香さまの手が紙袋に触れたのだろう、祐巳が手を離すと紙袋は遠のいて行った。かさりかさりと頭上で音が鳴っていた。
「……まぁっ、クリーニングに出したみたいに綺麗に。ありがとう、祐巳さん」
「いえっ、お世話になったのは私で……それで……」
相変わらずしどろもどろな調子で俯いたままの祐巳に、今度はさっきより多少大きめの笑い声が聞こえた。
「いやね、もう。顔上げて頂戴祐巳さん」
「は、はい」
そう言って顔を上げると、祐巳の目の前には口元に手を当てた浅香さまの笑い顔があった。目を細めて笑うそんな様に、祐巳は恥ずかしさに胸が張り裂けそうな気がした。
すると浅香さまはそんな祐巳の顔を見て、何かに触発されたかのようにくすくすと笑い声を洩らした。思わず祐巳は恥ずかしさ交じりの訝しげな視線を浅香さまに向けると、その視線に気付いた浅香さまは笑いを収めるように口元に掌を当てた。
「ごめん、ごめんね。余りにも祐巳さんの表情がくるくると変わるものだから……」
そんな浅香さまの答えに、祐巳は思わず恥ずかしそうに、小声で呟いた。
「……百面相、してました?」
祐巳の呟きに浅香さまは収まった笑いと共に手を下ろし、優しい視線を祐巳へと向けた。温かい、けれど何処か深い何かを持っている、そんな眼差しに思えた。
「ごめんなさいね、でも可愛かったわ。そう、少なくとも落ち込んでいた昨日より全然いい」
「それは……浅香さまのお陰です」
「そんな事は無いわ。三奈子さんが声を掛けなければ私は頓着しなかったろうし、私はただジャージを貸しただけだし」
「そのジャージが、私を暖めてくれました。そのお陰で今日、私は笑うことが出来ました」
「そう。それなら良かったわ」
そう言って微笑む浅香さまを見つめながら、祐巳は離れがたい何かを感じていた。それが何かは判らないのだけれど、けれど胸がちくりと痛む。
けれど、ジャージを返しお礼を言うことが出来た祐巳には、ここにいる理由もこうして浅香さまと話している理由ももう無かった。今祐巳が言うべきは、「ありがとうございました」と言う再度のお礼との言葉と、「ごきげんよう」と言う挨拶の言葉のはずだった。
だから、唐突な浅香さまのその言葉は、祐巳にとって大きな驚きと、小さな喜びを与えてくれるものだった。
「ねえ祐巳さん。薔薇の館へ行かないのなら、私と一緒にミルクホールへ行かない?」

昨日と同じミルクホール。昨日と同じ景色。昨日と同じ暖かいホットミルクの湯気。
けれど今日は、雨は降っていない。そして、昨日は近くにいた三奈子さまの姿はない。
周りを見回すとちらほらと生徒の姿は見えるけれど、彼女達は思い思いに時を過ごしていて、新たな闖入者のことに頓着することもない。外の湿り気を帯びた空気は締め切られたミルクホールにまでは届かずけれど暑過ぎることもなく、殊の外快適な時間を過ごすことが出来そうだ。
祐巳の目の前では、浅香さまが伏目がちに微笑んでいる。祐巳はそんな浅香さまの様子を見ながら、ミルク瓶の口を人差し指でなぞっていた。
浅香さま。目の前で微笑む人。昨日初めて知り合った上級生。三奈子さまの友人。そして、凍えた心と体を温めてくれた、恩人。
目の前の人に対して、祐巳が知っていることは、それだけだった。だから祐巳には、ミルクホールに祐巳を誘った浅香さまの真意を図りかねていた。誘われたこと自体は嬉しかったけれど、いや、嬉しかった分その疑問は頭から離れない。
浅香さまにとって祐巳と言う存在は、友人の知り合いの下級生でしかない筈だ。それとも紅薔薇のつぼみと言う祐巳の肩書きは、関わりのなかった上級生がミルクホールへと声を掛けてくれるほどに学校内では影響があるのだろうか。祥子さまの妹に過ぎない、ただそれだけなのに。
祥子さま。紅薔薇さま。祐巳のお姉さま。お互いにとって、大切な人。少なくとも昨日までは、そう信じていることが出来た。今は……分からない。祐巳の中にある祥子さまと祥子さま自身、祥子さまの中にある祐巳と祐巳自身、互いの抱いたイメージと本人の抱えた思いは、一体どこからずれ出したのだろうか。
令さまはさっき、祥子さまが祐巳を待っていると言った。ならば何故、昨日何も言ってくれなかったのだろう。瞳子ちゃんが知っていることを、祐巳は何も知らない。そんな祐巳に向かって何の言い訳もなしに、瞳子ちゃんに手を取られるままにしていたのだ。祥子さまにとって祐巳の存在は、結局その程度のものだったのだろうか。
心の中で、それは違うと叫ぶ誰かがいる。その言葉を信じたい。信じたいけれど――。
「……巳さん、祐巳さん」
螺旋を成す思考の回廊に閉じ込められた祐巳の耳にその言葉が届いたとき、目の前には祐巳の顔をじっと見つめる浅香さまの心配そうな顔があった。思わず、頬が熱くなる。
「あ!ごごご……ごめんなさい。……意識、大分飛んでました?」
背中に冷たい汗を感じながらそう言うと、目の前の浅香さまはオーバーアクション気味に胸を撫で下ろして見せると、小さく溜息をついて微笑んだ。
「ええ、ほんの少しね。大丈夫?」
「……ええ、大丈夫です」
そこで祐巳は、嘘を吐いた。大丈夫な訳はない。大丈夫だなんて、ありえない。けれど今は、大丈夫だと言いたかった。祐巳自身が大丈夫と言わなければ、きっと今の祐巳に対して誰も大丈夫だとは言ってくれない。
「そう、なら良かったわ」
そう言って微笑む浅香さまの灰色掛かった瞳が見えた。目が合った。祐巳の吐いた嘘など、全て見透かしてしまいそうな、深みを感じる瞳。
けれど浅香さまは、それ以上その事には何も触れず、微笑んでいてくれた。
そんな浅香様を見ているうちに、ようやく祐巳は最初の疑問を思い出した。
「……あの、何故私を誘ったんですか?」
「あら、どうして?」
「だって私は浅香さまと昨日まで面識もなくて。ご迷惑掛けてしまって。それで……」
「でも昨日、知り合えたでしょう?今日もまた、再会できた」
「それはそうですけれど」
「祐巳さんともう少しお近づきになりたかった。そんな理由じゃ、だめ?」
「いえ……いえ、そんな」
「でしょう、それで十分よ」
そう言うと浅香さまは、手元にあったカップコーヒーを口に近づけた。コーヒーを飲み下す音が微かに聞こえる。コーヒーの香りが鼻に届いた。
そしてまた、時間は振り出しに戻った。浅香さまは何も言わず、祐巳も何も言えなかった。けれど先程まで沸き起こっていた心の冷えは、どこかへと飛んで行った様に思えた。
やがてミルク瓶の中身から白が駆逐され、浅香さまのカップからも湯気が立ち上らなくなった頃、それまで無言だった浅香さまが、口を開いた。
「祐巳さんを見ていると何となく、自分を見ているようで放っておけなかったの」
「え、それはどう言う……」
「飲み終わったわね。それじゃ、帰りましょうか。ごめんなさいね、お引止めして」
「え……は、はい」
祐巳がそう答えると、浅香さまは満足したように微笑を浮かべ、立ち上がった。祐巳はそれ以上何も聞くことが出来ず、続いて立ち上がるしかなかった。
ミルクホールの出入口まで並んで歩いたところで、またも浅香さまは唐突に言った。
「ねえ祐巳さん。祐巳さんの時間が空いているときでいいわ。また放課後、こうして過ごせたら嬉しいのだけれど、いいかしら?」
「は、はい。もちろん。でも……」
「良かった。それじゃ、ごきげんよう」
そう言って微笑みの残滓を振りまくと、浅香さまはそのまま去っていった。
浅香さまはその時の言葉に違わず、次の日は祐巳のいた二年松組の教室まで訪ねてくると、祐巳を誘い出した。
時間としては十分くらいだろう、飲み物は違っていたけれど、前日と同じように浅香さまも祐巳も特に会話をするわけでもなく、そうして放課後のひと時を過ごした。
そんな日が二日、三日と続き、いつしか祐巳は、浅香さまと過ごすそんな奇妙な時間が、待ち遠しくなっていた。
そんな時だった。
浅香さまについて、由乃さんから話を聞いたのは。


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