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第3章『狂った貴公子』
あれから一時間程経っただろうか。由美は静かに瞼を開いた。 徐々に開けてくる視界へ最初に飛び込んできたのは白亜の天井だ。唯一落ち着ける場所。自室のベッドに寝かされているのだろう。 そして左側に人の気配を感じ、ゆっくり首を動かした。 そこにいたのは、心配そうな表情の佳代子だった。 「大丈夫? 気分は悪くない?」 「佳代……ずっと、そばに居てくれたの?」 気を失っていた間、どうやら佳代子は、ベッドサイドでずっと付き添ってくれていたようだ。 先ほどの熱いプレイのためか、全身に気だるさが残っている。 「ごめんね、由美……。あんな、酷いことしちゃって」 先ほどのレズプレイを、顔面を紅潮させて詫びたのだった。 由美も思い出しただけで、全身が火照ってくる。生まれてはじめての濃厚なレズ。しかも、一年ぶりに再会した友人とである。乳首と乳首が触れ合ったとき、アダムとイヴが禁断の果実を一噛みしたときの衝撃と同じものを感した気がした。あの時、浣腸をされていなければ、もっと感じることができたのだろうと思うと、少々残念な気分になったのも本音である。 「うんん。悪いのは私の方。佳代がまさか目の前にいるとは思わなかったから。佳代に名前を呼ばれなくったって、私の方から駆け寄っていっちゃったと思うし。それに、エレン様の御命令だったんですもの。私はまだ経験が浅いから、エレン様の本当の怖さを知らないけれど、一年先輩の佳代だったら、エレン様の御命令に逆らったらどうなるかっていうこと、身をもって知らされているんでしょ? だから、佳代はぜんぜん悪くない……でしょ?」 「由美、平気なの? 許してくれるの?」 佳代子は、うつむきながら尋ねかえした。 「私、決めたんだ。一生こういう生活を強いられるんであれば、どんなことでも楽しんでしまおうって。はっきり言って、SMは初めてのことだったし、数日は恐怖ばかりしか感じなかったけど。でも、苦痛の中からも快楽を見出せるって凄いなって。だったら、どうせなら快楽の事だけを考えて生きていこうって。生き物として、それだけを考えればいいと思えば、これほど幸せな事はないんじゃないかって。そう思ったら、性奴隷って、快楽に溺れることが使命っていう楽な身分じゃない」 強がりを言ってみせているが、今にも泣き出しそうな声になっていた。佳代子にだって、それが本心のわけがない事くらい分かっている。でも、この考えを持っていなければ、この先、一切の希望もない我が身を支えてはいけないのだ。 お互い恥ずかしくて、顔を見合わせることができないでいた。無理も無い。再会がこのような形だったのだから。 拘束されている時間でなければ、奴隷たちは自由に仲間の部屋を訪れて良いことになっている。会員は双子の奴隷、紗姫と紗代以外は同時にふたりを指名できない。しかし、一部屋に複数人いた場合は別だ。指名料を余分に請求されてしまうが、同時に二人まではプレイできる。なので、エレンも金銭面で損をすることがない。 本来は休めたはずのどちらかが、そのせいでプレイに駆り出されるので、消耗するのは奴隷の体力だけである。 佳代子は先ほどのカクテルドレスを着ているが、由美は今日、首輪以外の着用を禁止されている。 由美は布団で胸を隠しながら、上半身を起こそうとした。それを佳代子は、背中に手を添えて、力を貸してあげる。 「うっ!」 由美の口から鋭い声が発せられ、上半身がピクっと跳ねた。先ほど、エレンから受けた一本鞭が、みみず腫れとなって痛むのだ。 「ご、ごめん!」 佳代子は急いでベッドの下の救急箱を取り出し、軟膏を塗ってあげた。 麻酔成分が配合されているのか、これを塗るとすぐに痛みが消えてしまう。そして瞬く間に乾燥するので丁寧に剥がしてあげると、腫れが驚くほど引き、半日もすれば治ってしまうのだ。 「ありがとう……それにしても、ベッドの下に救急箱があるなんて知らなかったわ」 「このお薬はね、鞭に打たれたとき専用なの。由美、いままで一度も痕が残るような叩かれ方はなかったでしょ? だから知らなくて当然よ」 そこで一端区切ると、由美の背中を見ながら再び口を開いた。 「でも驚いたわ。エレン様がまさか一本鞭をお振るいになられるとはね。御主人様の中には、一本鞭で責めることがお好きな方もいらっしゃるけど……でもエレン様は、普段はアクセサリーとしてお持ちになられているだけなのに」 佳代子は、軟膏のビンを仕舞いながら、本当に不思議だという口調で言った。 難解で聞き慣れない敬語だらけの言葉に一瞬首をかしげた由美だが、唐突に表情を曇らせた。 「私、エレン様に嫌われているのかな?」 声から、急に元気が無くなる。 エレンに嫌われる、この地下牢において、それは死を意味するも同然だからだ。 しかし、佳代子から発せられた言葉は全く逆のものであった。 「その逆だと思うよ。前に私が見たのって、奈保子様が怒られているときだったから。多分、大切に思っている奴隷にしか使われないんだと思う」 佳代子は、早速乾いた軟膏を、慎重に奇麗に剥がしゴミ箱に捨てながら、素直に考えを述べた。現にここへ監禁されて一年になるが、一度もエレンからは一本鞭の洗礼は受けたことがないのだから。 少々の沈黙の後、最初に口を開いたのは佳代子であった。 「運命って、不思議なものよね」 由美に、さも当然のごとく納まっている真紅の首輪を見詰め、しみじみとつぶやいた。普段奴隷達は、自室にいるときは自由な服装でいられる。しかし、ネームプレート付きの首輪の着用は義務付けられている。奈保子は黒だが、他の奴隷は赤だ。だから、佳代子も由美と全く同じ首輪を嵌めている。 「なによ、佳代らしくない。そんな難しいこと言い出しちゃって」 由美はもぞもぞとお尻だけを動かして、ベッド奥の壁に背を預けた。 二人とも、ちょうど一年前のクリスマスイヴの夜を思い出していた。 「あのときの佳代ったら、彼氏に振られたとか言って、食べ放題のお寿司屋さんでヤケ食いしてたっけ。体重がって毎日のように騒いでいたのに」 由美は目を細め、くすりと口元をほころばせた。 それに頬を膨らませた佳代子は、 「だって、由美が言ったんでしょ。そんな時は食べるに限るって」 と言い、由美の額を指でつついた。 「痛いなあ、もぅ」 右手で額をごしごしやりながら、今度は由美がむくれる。 佳代子は小さくため息を吐いてから、 「その後だったよね。ここに来たのって」 二人はお腹を満たした後、こんな夜に彼氏いない組みが真っ直ぐ帰るのは癪に障るからと、ブティック「エレン」を訪れたのだ。実際には、由美には彼氏が居たのだが。しかし由美の彼氏が出張で海外へ行ってしまっていたので、その日は二人して歌舞伎町で憂さ晴らしをしていたのであった。 「佳代ったら、カップルだらけの店内で、ますます怒っちゃって」 「だって、頭に来るじゃない。前日に振られた者の身にもなってみなさいよ」 「それで、憂さ晴らしに十数万もするドレスを衝動買いしっちゃおうってなったんだよね。佳代らしいなって思ったっけ……」 由美は、クローゼットの扉を見た。 佳代子も、そちらを振り向いた。 その中には、まさしくそれと同等か、より高価な衣装が仕舞われている。 右手で首輪をいじりながら、由美は声音を落とした。 「試着室に入って、そして、そのまま出てこなかった……」 「気が付いたら地下牢だったわ。私、エレン様がいらっしゃったとき、大暴れしちゃって、足首を捻挫したんだ。初めはそれに気が付かなかったけど、それまで責めていたエレン様が気付いてくださって、そしたら大慌てで奈保子様を呼んで、湿布してくれたり包帯巻いてくれたり、しっかり治療してくれたっけ」 その日に佳代子は捕らえられ、奴隷の儀式を受けたのだ。 由美は一晩中新宿を探し回ったが、当然のことながら手がかりの一つも見つけられなかった。 「あのとき、ずっと佳代のこと、試着室の前で待っていればよかったのよね。ちょっとふらふら店内を見ているうちに、別の人が入っていくの見たから、てっきりもう出てきたのかと思っていて」 あの時の心細さを思い出したのか、布団を持つ由美の手が、ぎゅっと握られた。 それに引き換え佳代子は、さっぱりした顔で、 「でも良かったじゃない。こうして再会できたんだもの」 と、笑ってみせた。 確かにね、と由美もにっこり笑った。 「だけど佳代ったら、なんであんなに腰の使い方うまいの?」 「紗姫様と紗代様に教えてもらったから。教えてもらったっていうより、無理矢理教え込まされたんだけど……。でもその甲斐あって、あんたの彼氏よりも上手だったんじゃないの?」 素朴な由美の質問に、佳代子は恥ずかしげもなく答えた。 「あー。彼ね。この前振っちゃった」 「えっ! だって、あんなに仲良かったのに……どうして?」 佳代子は、本当に意外だという表情をしている。だが、それはそうだろう。誰もが羨むくらいに、愛し合っている二人に見えたのだから。 「浮気してたの。去年のイヴ、出張って嘘だったんだよね。別の女と一緒だったみたいで。でも、いいんだ。もう関係ないし……」 関係ない。 確かにそうである。別れたにせよ、まだ一緒にせよ、こうやってこの地下に囲われしまったのだから。 佳代子が慰めの言葉を掛けようとしたとき、由美が話題を変えた。 「そうそう。聞きたいと思ってたんだ。紗姫様と紗代様って、本当の双子だよね? あまりにそっくりで見分けが全然つかないんだもん」 由美はエレンの命令で、例え仲良くなっても、他の者全てに『様』の敬称を付けるように言われたのだ。奴隷間でも上下関係は絶対である。本来であれば、佳代子のことも『佳代子様』と呼ばなくてはならないのだ。この会話をエレンが聞いていたら、間違いなくお仕置きの対象となるだろう。 「お二人の見分け方は、首輪のネームプレートでもいいんだけど、泣き黒子があるのがお姉さんの紗姫様」 「そうなんだ。首輪って重要なんだね」 ふーん、と言いながら、佳代子の首輪のプレートに視線を移した。そこには[Slave No.6 Kayoko]としっかり彫られている。 「いや、そうじゃなくって……」 泣き黒子という単語を飲み込んで、話を続けた。 「小さい頃御両親に捨てられて、孤児院で育てられたらしいわ。それからお二人で大きなお屋敷のお手伝いさんになって、それなりに幸せな日々を送っていたんですって。それで、お二人がお休みをもらったある日、ここで試着しようとしたら……らしいわ」 「え? それって新聞に載った事件のこと?」 「そう。発見者に一億円っていう見出しのね」 大富豪の屋敷に住み込みで働いていた二人は、その主人に大変に気に入られていた。毎日、我が子のように可愛がわれていたのだという。警察に捜索願いを出したのだが、二人のことだけには時間を多くは割けられないという警察の言葉に失望した主人は、懸賞金を用意して捜索をしたのであった。結局有力な情報は得られまいまま時だけが過ぎ、話題は風化してしまった。 二人は、決して誰にも、その時のことを話さないという。普段は明るい双子だが、その話題になると、必ず沈黙してしまうのだ。 しかし、二人はエレンを憎んだりはしていない。他からすれば、奴隷の中で一番輝いてみえるのが、紗姫と紗代ではなかろうか。 二人は度々一緒に指名され、一緒に責められ、レズプレイをさせられる。大抵の場合、姉の紗姫が責めになる。 会員の中では、双子が絡み合っているとき紗代に、 「あぁ……お姉様……」 と言わせることが、会員権を持つことのふさわしい、サディストとしての証となっているくらいだ。強烈なサディストばかりが集うエレンの秘密SM倶楽部だが、大抵の者は一年掛かるといわれている。しかし、エレンは一晩で言わせてみせたのだ。 佳代子は、しばらく由美の部屋で取り留めのない話を楽しんだ後、そろそろ疲れたからと自室に戻っていった。 一人だけになってしまった由美も、もう一度眠ることにした。ゲームをしていてもいいのだが、やはり裸体で何かをするのは流石に恥ずかしい。 身体だって、本調子ではない。 横になりながら、特に何も考えず真っ白な天井を見ていると、いつのまにかに夢の世界へと旅立っていた。 ところが、それを待ち兼ねていた者がいた。 第七の奴隷、瑞恵である。 ちらりと由美の部屋を覗き見て彼女が眠っているのを確認すると、部屋の中へこっそりと忍び込んだ。瑞恵は先ほどまでピンクのシャーリングを着ていたが、今は動きやすそうな、丈の短いワンピースだ。 「由美さん?」 瑞恵は耳元で声を掛けてみたが、由美は小さな寝息を立てていた。もう一度声を掛け、目を覚ます様子がないことを確かめると不敵な笑みを浮かべ、静かにユニットバスへと入った。 小さな物音がわずかにあった後、瑞恵は再び由美の元へ戻ってきた。彼女は右手に、なぜか洗面台においてあるカップを大事そうに持っている。 それからもう一度由美が寝ていることを確かめると、起こさないように、空いている左手でそっと掛け布団を捲くった。由美はヴァギナもアヌスもちょっと痛めているだろう、足を若干開き加減で寝ている。あれだけの調教を受けたのだ。まだ慣れていない由美なら当然だろう。しかし、これは瑞恵にとって好都合だった。 すると何を思ったのか、ヴァギナへ静かに、カップの中身を掛けはじめたのだ。 その液体は少々アンモニア臭がして、わずかに色が付いている。瑞恵の右手には、カップを通じてぬくもりも伝わってくる。 ところが由美はよほど疲労しているのか、全く気が付かない。 半分ほど掛けたところで、布団を掛けたときその部分へ当たる場所にも、たっぷりと染み込ませ、残った分を、開かれた足の間にこぼしたのだ。 万事うまくいくとそっと布団を掛け、ユニットバスへ戻り、カップを奇麗に洗ってからその下に紙切れを置いた。 気持ちよさそうな顔で眠っている由美を見て、不敵な笑いを口元に浮かべると、廊下に誰もいないことを確認してから向かいの自室へ戻った。 それから数時間後。由美は、頬に激しい痛みを感じて目を覚ました。 目を開けると、そこにはにこやかな表情のエレンがいる。由美もそろそろ分かってきた。エレンがこのような笑みを浮かべているときは、頭の中でエレンにとって十分楽しめる責めのメニューを考えたという証拠だ。これからどうやって責め、苦しめようかという想像をしているに違いない。 由美は急いで飛びおき、理由はなんであれとにかく謝ろうと思ったのだが、掛けていたはずの布団が無かったのだ。とっさにエレンの後ろに動く影を見ると、奈保子が黙々と布団カバーを外している。 そのとき、妙な感触がお尻にあることに気が付いた。 ……まさかっ! 由美は慌ててその部分を触ってみた。 そこは、まさかの通りに濡れていた。 「エレン様、申し訳ございません!」 由美は自己嫌悪に陥りながらも、こんなことをしてしまった罰は辛いものになるだろうと確信し、床で深々と土下座をしたのだ。露になった背中には、まだ薄く鞭の跡が残っている。 「由美ちゃん。あなた、いくつになったのかしら? まったくもう、しょうがない娘ね」 腕組みをしたままのエレンが、にこやかに由美を叱った。 その口調に、奈保子は背筋を凍らせた。エレンが激昂している現れだからだ。 「せっかくあなたに、初めての御主人様が来てくださったっていうのにこれですもの」 ここまでいうと、エレンの口調が、激しくなった。 「私なんかより、早く御主人様に頭をお下げなさい!」 奈保子にばかり気を取られていたために、部屋の入り口にある人影に気が付かないでいた。 由美は、初めての主人の顔を見ることすら忘れ、足元で両手を付いた。 「御主人様、大変に申し訳ございませんでした。私を御指名くださったのに、このような醜態をさらしてしまい、本当に申し訳ございませんでした」 エレンから教わった、主人に対する失礼の侘びの作法など忘れ、ひらすら本心から頭を下げた。勿論、主人が許してくれるまで頭を下げていようと決めた。そもそも、恥ずかしくて顔など上げられない。この歳になってお漏らしをするとは、いくらなんでも思ってもみなかったのだから。 鼓動が早まっている。全員にその音が聞こえているのではないかと、余計な心配をしてしまう程である。額に、じんわりと汗をかいていることにも気が付かずに。 その時突然、後頭部に固い感触と重みを感じた。次の瞬間、床に額を押し付けられてしまった。 革靴で踏まれてしまったのだ。ましてや初対面の者に。白いタイル敷きの床は、容赦なく額を押し返してくる。頭を圧迫される恐怖に、腕が小刻みに震えてしまう。 これは屈辱以外の何ものでもない。しかし、由美は奴隷だ。踏まれたということは、今日の奴隷として選ばれたということだ。 由美は、贅肉の固まりでできたような中年男を想像していた。しかし、頭を踏まれたままで自分に発せられた声は、明らかに若さを感じた。 「私が初めての主人らしいですね。よろしく頼みますよ、由美さん。しかし、驚きましたね。お名前を呼んでみても起きなかったので、そのままプレイルームまで抱きかかえて行こうと思って布団をはいだら全裸の上に、強烈な臭いがするわ湿っているわ。でも、なかなか面白いものを見させていただきました。ではさっそく、プレイルームでおねしょのお仕置きをしてあげましょう」 責める人間として、大変に似つかわしくない丁寧な口調だった。しかし、所々に由美を責め立てる表現が含まれ、そして何よりも慇懃すぎて残酷さを含んでいるのだ。 足をどかされ、由美は顔を上げて主人の顔を見た。 まるで、貴族の王子様といった風貌だ。紺の三つ巴も素晴らしく似合っている。 ……このような方がサディストだなんて、嘘でしょ? 由美は複雑な心境に、顔を真っ赤に染めて自問した。 「ねぇ、マダム?」 「はい、神宮寺様」 エレンは片膝を床に付き、その男を神宮寺と呼んだ。 「由美さんは今日、何も着られないのかい?」 「いいえ、私の命令よりも神宮寺様の御命令の方が、強くてございます」 由美は、エレンがここまで優雅な言葉を操れるとは思ってもみなかった。奈保子はよくエレンの部屋へ出入りをしている。そこの本棚にはさまざまな資料があるのだが、エレンはその中でも『躾・お嬢様と呼ばれるために』という厚い本を、月に一度は必ず目を通しているのだという。日本国籍はあるものの海外生活が長かったこともあり、日本語に対する劣等感を持っているのだ。 しかし今度は神宮寺に対してとは全く別人のような口調で、由美に声を発した。 「感謝なさい。今日一日、何も着ることができなかったのですからね」 それを聞いて、由美は再び神宮寺に頭を下げた。 「ははは。照れてしまいますよ。では、お部屋にご案内しましょう。マダムもじきにいらっしゃるのですね?」 「はい、由美に粗相がないように監視しているだけですので、思うが通りのプレイをなさって頂いて結構でございます」 神宮寺は大きく頷くと、優しく由美の手を取り、立たせてあげた。 そしてエレンから引き縄を受け取り、首輪に付けると由美を廊下に連れ出した。初対面の人間に首輪で誘導される屈辱は、とても大きなものである。外すことができる首輪なのなら、そのまま逆方向へ走り逃げたであろう。これら心を踏みにじられる辛い気持ちは、奴隷という身分になった者でなければ分からない。神宮寺には、今の押しつぶされそうな由美の心など、到底理解できないのである。 瑞恵はしっかりと見ていた。由美が初めての主人として、神宮寺に連れて行かれるところを。そして、鼻で笑った。完全防音なのでどのような会話がなされたのかは、一切分からない。しかし、観念した様子で、引き縄に導かれるまま神宮寺の後を付いて行く様を確認できただけで十分であった。 ……由美、ただで帰ってこられると思ってたら大間違いだからね。 意地悪な目をして由美の背中を見送ったが、ふと不安がよぎった。 由美の部屋と向かいとはいえ、扉が付けられている位置は反対側で室内を見ることはほぼ無理である。しかし、初め神宮寺が部屋に入ってしばらくした後、にやけながら部屋から一度出て、エレンと奈保子を連れて戻ってきた様子を一部始終見ていた。 もしも由美が、神宮寺が部屋に訪れる前に目を覚ましていたら、お漏らしに気が付いた時にどういった行動を取るだろうか。そもそも、瞬時にバスルームに駆け込むだろうか。駆け込んだのであればカップ下の脅迫状に気が付いているはずだ。 しかしそうではなく、神宮寺が由美のお漏らしに気が付いた場合はどうであろう。世話役の奈保子は、濡れてしまった寝具の処置をした後に間違いなくバスルームへ行くはずだ。由美が脅迫状を知らないとすれば、奈保子が発見し、エレンに報告するだろう。 最悪の場合は、自分の犯行であることに気付かれてしまう。 でも、証拠が残るようなことは全くしていない。誰にも見られなかった自信もある。部屋にも廊下にも、監視カメラが設置されていることもない。 瑞恵は自分を落ち着かせて、一眠りすることにした。 もう一人、由美が連れられているのを見ていた奴隷がいた。由美とのプレイに、興奮が収まりきれず眠れないでいた佳代子だった。 ……由美、無事に帰ってきてね。あの人は、強烈なサディストである以前に、普通じゃない行動に出るから。 神宮寺のハードなプレイを知っている佳代子は、祈るように由美の身を案じた。 会員の中でも、奴隷に人気のある者とそうでない者が当然いる。神宮寺は、その中でも嫌われ者の指三本に入っているのではなかろうか。 当の由美は、もちろんその外見に騙されていた。半ば、一目惚れをしているのかもしれない。他の奴隷も初めはそうだった。しかし、プレイが進むにつれ、狂っているとしか思えないようなことが多くなると、奈保子ですら逃げ出したいと思ったほどだ。 初めての主人が神宮寺になってしまった由美に、 「頑張ってね」 と、声援を送ることしかできない自分の無力さに、強く唇を噛んだ。 神宮寺は階段を上がり、二階の調教室へ向かった。 ここへ来てから別の階へ由美が行くのは、初めてのことだった。 色々な期待と不安を胸に調教室へ向かう由美の足取りは、わずかに軽い。 その時、由美の部屋の片づけをしていた奈保子は、洗面台に一枚の紙切れを見つけ、それを読んで背筋を凍らせた。 瑞恵にとって、最悪のシナリオが選択された瞬間だ。 「エレン様、エレン様……」 いつも冷静な奈保子が、顔面を蒼白にして名前を呼んだ。 「どうしたの、奈保子」 「これを、御覧ください」 奈保子は紙を、震える手でエレンに渡した。 『あんたが憎くて憎くてしょうがない。 新人面していい気になるのもこれまでよ。 こうからは、地獄の責めを味合わせるわ。 そう、奴隷の奴隷になるの。 今日のはほんのちょっとしたご挨拶。 もしもこの事を誰かに言った場合、 私はあなたを殺します。 』 エレンは深くため息を吐いた。 「そうよね。おかしいと思ったわ。由美がこのような事をするはずが無いことくらい分かっていたから。この右上がりの癖字は……瑞恵のものだと思うけど、どうかしら?」 もう一度奈保子に手紙を見させた。 「私は瑞恵ちゃんの字を見たことはございませんので分かりませんが、確かに癖の強い字ではございますね」 眉間にしわを寄せて、小さな声で答えた。 「由美が来てから様子がおかしかったし、さっきも変だったから……少し問い詰めてみるとしましょう。取りあえず、これは私が預かっておくわ」 エレンはそれを胸元に仕舞いながら、奈保子に次の指示を出す。 「ルームメイクが終わったら、由美のことが気になるだろうけれど調教ルームの入り口に、いつもの用意をしておいて頂戴」 「二階のA調教室ですね。わかりました」 奴隷は、連れて行かれるまでどの調教室でプレイが行われるのかを知らないし、何時間なのかも知らされない。 予定時間になると、奈保子が各部屋に電話を入れるのだ。 奈保子は会員とプレイをすることは滅多にないが、その代わり予約の受け付けや部屋の状況の把握、会計等をしている。地下一階の受付嬢は、奈保子なのだ。 「プレイは二時間だったはずよ。もっともそんなに長くはプレイを続けられないでしょうけれど。私は、神宮寺様が無理をなさらように監視していないといけないので、あとは任せます。瑞恵のことは、それから考えましょう」 エレンはそう告げると、足早に由美の部屋を後にした。 由美の部屋では既に気付かれてしまっていたことを、瑞恵が分かるはずもない。分かったならば、今こうして寝息を立ててはいられないだろう。 畳敷きの調教室に連れられた由美は、はじめに身体を洗われた後、素肌の上から白の体操服と紺のブルマをはかされた。そして、使い込まれてやや黒ずんでいる麻縄で菱縛りを施された。白と麻縄のコントラストは、見る者によってはあまりに魅力的なオブジェである。芸術的な自分の縛りに、神宮寺は少々満足げだ。今は、ソファーにどかりと腰を下ろし、こちらを向いて正座をしている由美の頭の上に灰皿を置き、一服している。 一方由美は、あまりにきつい縛りのために胸を圧迫されていて、呼吸をするのも辛く、口を大きく開き、細切れに肩を上下させている。少しでも体勢を崩したら灰皿が落下し、身体中に灰を浴びてしまうだろう。額に汗を浮かべながら、必死に耐えている。 数分前までは、純和風の部屋があることに心がときめいていたのだが、今は強烈な縛りの為に、部屋の様子を観察する余裕など微塵もない。 主人が十人いれば十色の責め方があるもので、神宮寺は由美と心を落着かせる為の会話もせず、部屋に入って早々、牛皮の鞄より持参した体操服とブルマを取り出したのだった。今日の神宮寺が考えたシチュエーションは、淫乱な男教師と惨めな女生徒である。 ゆっくりと煙草をくゆらせたあと、由美の頭から灰皿を取った。 由美はほっとしたのも束の間、神宮寺はおもむろに立ち上がり、スラックスを脱ぎはじめ、トランクスも下ろしてしまった。 天を突き刺している大きな肉棒が、由美の目の前に現れた。 こうなることくらい予想できなかった由美も由美だが、いきなり眼前に出されては、由美でなくとも躊躇してしまうのは当然のことだ。 「嫌っ!」 由美は、反射的に顔を背けた。 「いけませんよ、生徒が先生の言うことを聞かないと、内申点に響きますよ。私がこうしているっていうことは、私が言わずとも命じていることくらい解らないのですか?」 その先端からきらりと光る液体が、由美をますます恐慌状態に陥れた。 何を求めているのか位、この状況であれば経験の浅い由美にだってわかる。しかし、いきなり口に含むなど…… 「私が初めての主人ということですが、私の命令を聞けないようでは、奴隷として、私の生徒としての価値がありませんね、あなたには」 神宮寺の物言いは、あくまで静かだ。 しかし、その中に、強烈なサディステトの息遣いを感じた気がする。 咥えてくれないことが分かった神宮寺は、道具が陳列されている棚に向かい、ゴム球が付いた口枷を持ってきた。 「口を使わないのであれば、そんな口に用はありません」 この口枷は、バルーン式アナルストッパーを同じ原理で、ストッパーを咥えさせてからポンプで空気を入れていくと、口内を一杯に膨らむ仕組みである。 限界まで空気を入れられてしまい自然と口が開いてしまう由美に、顎が外れてしまうのではないかというくらいの痛みと、口でしていた呼吸もできなくなってしまったことから、窒息寸前の恐怖が突如として襲ってきたのだ。 神宮寺は、鞄からナイフを取り出した。 冷たい輝きを放つナイフを、由美の目の前にかざし、角度を変え、反射する光を由美の瞳に当てた。 ……私、殺される? エレン様、早く、早く来てください! 由美は、ついに目から大粒の涙をこぼしはじめた。 「泣いたって無駄ですよ、できそこないの奴隷さん。私は時間が来るまで、あなたを自由に扱えるのです。仮にマダムが来ようとも、私たち主人のプレイには口を挟むことは不可能なのです。言わば、私の持ち時間中であれば、あなたのその奇麗な瞳をこのナイフで貫くことだってできるのですから」 神宮寺は、由美をたっぷり怯えさせてから、困ったような顔をした。 「どうしましょうかね。とりあえず……」 神宮寺はそう言うと、ナイフをさっと動かした。 由美は全身を凍り付かせた。 しかし神宮寺は、自分の親指の先をナイフで少し傷つけたのだった。 じわじわと鮮血が湧き出してくる。 「真っ赤な血潮。奇麗ですね。あなたは何色ですか? 赤ですか? できそこないだから緑かもしれませんね。試しに見てみますか?」 親指に乗せられた大きな赤い玉を、由美の右頬に擦り付けた。 しかしそれは、涙によって、すぐに流れ落ちてしまった。 「あなたは、私の芸術を、そうやって洗い流してしまうのですね? 私の血だからいけないのですか? どうなんですか?」 慌てて首を振る由美は、恐怖から唇を紫色に染めている。 神宮寺は親指を軽く舐めながらも、あくまでも冷静な表情を保っている。しかし心の中は、他に例えようのない位の征服感で充たされていた。その証拠に、幾筋もの内から浮き出る血管を誇張した淫らな剣の先端からは、だらしないほどの涎が糸を引いて垂れている。 もしも今の表情でポーカーをしたならば、テーブルの者全てを騙す事が可能なのではないだろうか。 「立ってください」 神宮寺の狂気のまなざしに、由美は一切逆らえなかった。 ふらつく足を叱咤して、よろよろと立ち上がる。由美のその哀れな姿を、神宮寺は胸の中で卑猥な笑いを発しながら、楽しそうに見つめた。 ゆっくりと由美の両頬に、両手を添えた。由美は反射的に瞳を閉じる。それを口元だけで笑った神宮寺は、口の戒めをあっさりと解いた。由美は、呼吸困難の顎が外れるという恐怖からは解放されたわけだが。 膝を小刻みに震わせている由美が、なんともいとおしくて仕方が無い。自分の一挙手一投足の全てに恐怖と苦痛の表情で従う奴隷。これほどサディストの心をくすぐる存在はあるだろうか。 パシンッ! あまりの可愛さに、なんの脈絡も無しに右手で左頬を平手で強烈に殴った。 予想だにしなかった平手打ちに、由美は体勢を崩し、部屋の中央に倒れてしまう。 口の中に、鉄のような味がじわりと広がった。どうやら、口の中を切ってしまったらしい。 ……恐い。狂ってるわ、この人……私、どうしたらいいの……? 由美は錯乱していた。 手さえ自由になっていれば、どうにでもできる。しかし、もし仮に神宮寺を突き飛ばしでもしたら、その報告を受けたエレンに、死を覚悟の罰を与えられるかもしれない。だから、不自由な身で良かったのだろう。いくら神宮寺が精神をズタズタにするような調教をしてきたからといっても、この場から逃れたら、自分自身が罰を受けるのだ。 ……逃げられない……どこにも、逃げられない……助けて。 今までに耐えることの調教も受けた。最近になってやっと、耐えているうちに、快楽が生まれてくるということを知りはじめてきたのだ。軒をならべて真性M女を売りにしている合法SM倶楽部に今の由美がいるとしたら、間違いなくトップのM女として看板娘になっていることだろう。 しかしここは、エレンが育てた奴隷達の市場だ。由美のレベルでは、どの会員も責めの満足をお腹いっぱいには味わっていけないだろう。もっとも、経験の少なさから、すぐに涙を流してしまう姿を見て、初々しさから心を満たしていける。だから本来、由美には強烈な責めを施してはいけないのだ。 言うまでもなく、神宮寺は人を慮る心など持ち合わせていない。ましてや、命さえ奪わなければ奴隷をどうこうしようと会員となった自分の勝手だとすら思っている。しかし違うのだ。卑しき肉体に身を落とした者こそ、精神は脆くなりやすい。心からの愛情を持って責めなければ、廃人となってしまう危険性が高いのだ。 意識が朦朧としだした由美に、 「いつまでも倒れていないで、こちらに戻ってきていただけませんか?」 と、神宮寺は容赦のない言葉を掛け、ナイフを奇妙に構えた。 もちろん由美は、逆らうことなどできない。 ナイフを構えている人間に、自ら向かっていく。そこまでの道のりに、死の十三階段を見たような気がした。 側に寄った由美に、神宮寺は素早くナイフを振るった。 ……っ! 由美は、その場にへなへなと崩れてしまう。 しかし、身体どころか、着ている体操服すら切れていない。切れたのは身体を拘束していた麻縄だけで、しかもそれが、ものの見事に由美の身体から外れていた。 由美は、完全に腰を抜かしていた。 ナイフを鞄に放り投げ、神宮寺はポーズを決めた。 「どうです? 私のナイフさばき。なかなかのものでしょ?」 「はい……」 大粒の涙を流しながら、由美は大きく首を縦に振った。 「ははは。可愛い生徒だ。よし、御褒美を与えよう」 そういうと、再びアイテム棚へと向かっていった。 ……今度は何をされるの……もう、許して。 可哀想な由美は、もう思考することを拒否していた。 すると神宮寺は、ローションを取り出したのだ。キャップを開け左手に持ち、右手へ大量のローションを垂らす。 手の平から垂れたローションの一部が、神宮寺の快感を示している部位にも垂れた。そして、その手を由美の正面から、ブルマの中に差し入れたのだ。恐怖から全く濡れていない秘部が、ローションで気持ち悪いくらいに潤いを与えられる。そして木の芽を優しく撫でられた。悲しいかな、身体は素直に反応する。 「感じてるんですね」 神宮寺の言葉に、由美は頬を赤らめ俯いた。 気持ちは全く感じていないのに、身体はそれとは全く逆の反応をする。手の平で敏感な部分を、そして中指は何かをまさぐるように由美の身体に差し入れられた。 たとえ乾いていたとしても、ローションがたっぷり塗られているので難なく受け入れてしまう。そして、身体はますます反応してしまう。このような身体になってしまったことは、エレンを呪うしかなかった。 「ん……」 由美は、遂に声を漏らしてしまった。これまでの屈辱と恐怖はまだまだあるというのに、どうして神宮寺なんかに感じていることをアピールしてしまったのか。 神宮寺は満足したのか、ブルマから手を抜いた。そして鞄を左手で漁り、何かを右手に乗せてから、再びローションをたっぷりと注いでブルマに手を入れてきた。 ひんやりとした独特の感触が、今の由美には心地良かった。 「御主人様……ご、御主人様……」 思考を停止させている由美は、神宮寺の手の動きに身体を反応させながら、口からは自然と主に、快楽を求めていることを伝えてしまう。 由美が感じているのは、神宮寺にもはっきりと分かった。中指に絡みついてくる温かい液体は、紛れもなく由美が快感から分泌させた愛液であると。膣の保護の為の体液ではなく、身体が淫靡に反応している為の物だと。 それに満足した神宮寺は静かにブルマから手を抜くと、壁に掛けてあるタオルで手を拭った。そしてうっとりとしている由美に別のタオルを持って近づくと、それを口に咬ませたのである。もっとも原始的な猿轡だ。そして由美の身体を両手で軽々と持ち上げたのだ。快楽を与えられた由美は、神宮寺になされるがままだった。 そのまま抱きかかえて連れて来られたのが、部屋の隅に設置されている三角木馬であった。そこに、無抵抗の哀れな奴隷を跨がせた。 敏感にされた部分に、強烈な痛みが走る。 「うぐっ……!」 猿轡の奥から、くぐもった悲鳴がもれた。 由美が手に重心を分けようとしたとき、神宮寺はとっさに手を後ろにねじ上げ、簡単な後ろ手縛りにしてしまう。そして、木馬を挟み込んでいる両足が気に食わないからと、細い足首に、大きく重い鉄球の付いた足枷を嵌めてしまったのだ。 「……ぅ」 塞がれた口からは、もはや声はない。 突然股間だけに掛けられた重心のあまりの痛さが全身を切り裂くようだ。そしてローションを塗られたままになっている秘部は、あまりにおぞましい感触に、ぬめっとした物を新たに分泌させた。 ……こんなことで、どうして濡れちゃうの? 混乱したままうつむくと、木馬と接しているブルマの部分から沁み出たその液体が、木馬の左右と左大腿に赤い筋を1本ずつ作っていたのだ。 ……酷い、酷すぎるわ……この人、狂ってる……狂ってるっ! 大腿を勢いよく伝っていく赤い筋が何なのかはっきり意識した時、ついに精神の限界が訪れた。吸込まれそうな黒の、奇麗な瞳がぐらりと揺れると、そのまま前に崩れていき、クッションの付いた木馬の頭にもたれ掛かるように、気を失ってしまった。 「まったく……面白い奴隷ですね」 吐き捨てるように言うと、由美のすべての戒めを外した。 そこに、エレンが入ってきたのだ。 部屋の奥の木馬でぐったりとしている由美を見て、遅かった……と、悔やんだが、それを一切表情には出さずに、ソファーでのんびりくつろいでいる神宮寺に近づいた。 もしかすると、エレンは神宮寺よりもポーカーフェイスが上手いのかもしれない。 「神宮寺様。由美は初めてでございます。プレイ前に、あれほどお頼みいいたしましたのに」 エレンは、神宮寺が由美にとってはじめての主人であることを伝え、どうか慈悲を与えて欲しいと願い出ていたのだ。 しかし、神宮寺は見事に由美を限界まで追い込んでしまったのである。 不安な気持ちを抑えて、今度は由美の方へ歩んでいく。 かわいそうに、木馬で左右に割られたところからは、行く筋もの赤いものが垂れていた。だがそれは、エレンには何なのか一目で理解できた。 それを察したかのように、煙草をふかしながら神宮寺は、「マダム、面白いよ、この娘。ブルマに仕掛けておいた血糊袋が裂けて、赤インクが出てきただけなのに、気を失ってね」 と、得意げに説明したのである。 いくら奴隷を苦しめる責め具であるとしても、木馬と股間が接する部分が鋭角である筈が無い。その部分は安全のために雰囲気を崩さない程度に面積を設け、卑猥さを出すため表面に凹凸を施した鉄製になっているからだ。こんなことで使い物にならなくなってしまって一番悲しむのは、言うまでもなくエレン自身なのだから。だから、そうそう簡単に裂けて血が出る作りではないのである。もちろん、由美がそんなことを知る筈もない。引き裂かれる痛みと赤い筋を見たら、それが秘部からの流血だと思い、気を失ってしまったのも当然である。 エレンは、会員の責めには一切の文句を言えない。それが、悔しい。 本当であれば、奴隷全員を自分の手だけで調教していきたいと思ってはいるのだが、新宿の一等地にあるこの地下牢を維持していくのには、ブティックの売り上げだけでは到底間に合わない。 いや、ブティックの維持すら難しいだろう。その為、半ば仕方なく会員制のSM倶楽部にしたのだ。勿論会員になれる者は限られている。いくら莫大な金を積まれようと、素性のはっきりする、汚れた過去を持たない者限定なのだ。しかも、奴隷と会員の比率を考えなくては、後々に自分の首を絞める結果になる。 約三〇名の入会金だけで、地上八階、地下三階からなる泉ビルと、土地の権利は買い取ることができた。 だが、現金では決して買うことのできない『奴隷との絆』を、若干ながらも失ってしまったことに、一生悔いていくしかないのだ。 だから可愛い奴隷たちに、心情など全く知ろうともしない狂気の調教を与える神宮寺は、エレンにとってもマイナスの存在でしかないのだ。 その神宮寺は、満ち足りた表情で由美をちらりと見て、ケタケタと卑猥な笑い声を上げた。 「しょうがないですね、マダムの仰っしゃる通りにいたしましょう」 神宮寺は立ち上がると、由美を静かに木馬から下ろし、シャワースペースまで連れて行くと、インクで真っ赤になったブルマを脱がした。そして、ぬるめのお湯で、汚れてしまった由美の下半身を、沢山の石鹸を付けて奇麗に洗いはじめた。 その途中で由美は気が付いたが、瞳は虚空を見詰めているだけだった。 「だって、この娘がいけないんですよ。私に敬意を表さなかったんだから」 神宮寺の口調は、まるで悪いことをして怒られてしまった子供ものだ。 しかし、クレームはクレームである。エレンは、 「申し訳ございませんでした。あとで、たっぷりとお仕置きしておきますので、今日はこの辺でお許し下さいませ」 といい、深々と頭を下げた。 「わかったよ。マダムには従うよ。だって会員権を剥奪されたら嫌だもんね」 由美の身体を浴槽の外壁に預けた神宮寺は、鞄に素早く荷物をまとめ、足早に部屋から出ていった。 いつの間にか部屋の外に控えていた奈保子は、出口まで見送るために、その後ろを小走りに付いていく。 会員権を奪うことくらい、エレンにとっては赤子の手をひねることよりも簡単なことだ。契約時にもその旨の文面にサインを要求する。しかし、本当に追い出してしまった場合、腹いせにこの地下牢のことを公にされてしまったら、今までに築き上げてきたもの全てを失うことになるのだ。 当然のことながら、エレンも過去に一度だけ汚い手を使ったことがある。成り上がって一代で巨万の富を築きあげた二八歳の会員と、当時人気のあった奴隷とが駆け落ちをしてしまったのだ。 エレンも、そして奴隷の誰もが、二人の関係に気づいていた。 あるとき、彼女は身篭った。勿論父親が誰かは判らない。奴隷は妊娠をしたとしても、すぐに中絶しなくてはならない。しかし、彼女は拒んだ。それから二週間後、プレイ中の二人は忽然と姿を消した。 しかしその三日後、飲酒運転で二人の乗った車は、操作を誤り埠頭から海へと転落した。翌日の朝刊地域面の隅に『恋のもつれか? 死のダイブ』という記事で、事故死として処理されていることを、エレンは涙を流しながら確認したのだ。 金さえ出せば、偽装殺人などいくらでもできる。しかし、拭えない罪はこれ以上犯したくない。例え、罪滅ぼしができようとも。 鉄の扉が音を立てて閉まったのを確認してから、エレンは由美の元へ駆け寄った。すぐにタオルの猿轡を取ってあげ、次に首輪の鍵を外した。そして、汗と涙で汚れた体操服を脱がす。 依然として、生気のない瞳で虚空を見つめたままだ。 さすがのエレンも、一人で担ぎ上げることはできない。試着室から地下牢へ由美を運んだのも、奈保子の手を借りてである。しばらくすれば奈保子も戻ってくるので、その間に全身をシャワーで丁寧に洗ってあげる。それから風邪を引かないようにと、バスタオルで由美の身体を拭いてあげた。 そのとき、由美の瞳が一瞬だけくるりと動いた。 「……エレン様……御主人様は……どちらでしょう……? 私、まだ……」 「もうお帰りになられたわ。だから、心配しなくていいのよ」 エレンは由美の言葉を遮り、母親のような優しい声で接してた。 このとき、エレンは悟った。由美には真性なマゾの血が流れていることを。精神をここまで犯されたというのに、主人へ奉仕をしなければという意志が、十分に伝わってきたのだ。 この娘だけは、絶対不幸にさせない…… エレンはそっと口づけをした。 まだ正気は取り戻せないでいる由美は、空ろな目でエレンの瞳を見て口を開きかけた。 「今は、何も考えなくていい。何も言わなくていい。ただ、ゆっくりと私に身体を預けていなさい」 その言葉をはっきりとは理解できなかった由美だが、目を閉じてエレンになされるままにしていた。 そこへ奈保子が足早に戻ってきた。 「由美ちゃんの様子、いかがですか?」 エレンは一度奈保子を振り返ってから、 「いつものように睡眠薬の投与。今日のことは夢だったということにします」 と指示すると、奈保子は扉を大きく開き、閉まらないようにそばにあった消火器で押さえ、棚の裏から担架を持ってきた。 二人は呼吸を合わせて由美を担架に乗せると、奈保子は部屋の外にある鍵の掛かった金庫のようなところから無色透明の液体が入った、小さな注射器を取り出し、それをエレンに手渡した。 これが、先ほどエレンに頼まれていた物だ。初めて神宮寺の相手となるときは、まず間違いなく精神的な苦痛を与えられる。何度か回を重ねれば余裕は出てくるのだが、それまではプレイ後に、この睡眠薬を注射し、悪い夢だったと思わせるのだ。 アルコールを含んだ脱脂綿で左腕を消毒をしたあと、細心の注意を払って静脈に注射を打った。由美は、一瞬目を開いたが、すぐに規則正しい寝息を立てはじめた。 それを確認したエレンは、由美の顔に掛かった髪を優しく払ってあげ、「困ったもんだ……。ねぇ由美ちゃん……」 と、愛しそうに声を掛けた。 「奈保子。由美を見定めたあなたの目、素晴らしいわ」 「とんでもございません。ありがとうございます」 奈保子から見れば、エレンが由美を気に入っていることは容易に分かる。将来的に、今の自分の立場を脅かすであろう存在だということも。 しかし、奈保子はそれでも良いと思っている。エレンの幸せが、奈保子の幸せなのだから。 ……エレン様。私は一生、あなた様の奴隷です。 眉間に皺を寄せながら寝息を立てている由美を見詰めながら、エレンへの忠誠を心の中で誓ったのであった。 〜第3章 完〜 |
Written by 桃桜 杏 anzuhime_312@hotmail.com |