僻地赴任編―更新

 地平線のように田んぼの広がる、まれに見るほどの壮絶な僻地への赴任だった。さすが陸の孤島というか、職場にネット環境がない。居住地にもネット環境はない。当然、インターネット喫茶などという洒落たお店は、雑誌かテレビ番組の中だけの存在である。
 事実上サイト更新の手段がうしなわれたということだ。ネタはあるのに更新できないことほど辛いことはない。悶々としながら仕事に追われる日々が続く。
 その晩は残業で深夜になった。見渡す限りの田んぼの中を抜ける、あぜ道と見分けのつかぬ道。街灯とは名ばかりのぼんやりした光がところどころを照らすほかは、全くの闇だ。この年になって肝試しをやるはめになるとは。
 気づくと街灯さえない。踏みしめているのはアスファルトではなかった。……道に迷った。
 あたりには店などはおろか人家さえ見あたらない。携帯で同僚にSOSするのも時間が時間とてはばかられた。というより迎えに来てもらおうにもここがどこだかわからない。
 やむを得ずそのまま歩き続ける。遭難という文字が頭をよぎり始める頃、山手の方にかすかな灯りが見えた。
 細いあぜ道の方へ踏み出す。灯りを目指して進み続けて田んぼの尽きるあたり、山道にかかろうかというところに、その店はあった。コンビニか何かだろうと思いろくに看板も見ず飛び込むと、薄暗い店内にずらりと並ぶテーブルと椅子と……パソコン。ネット喫茶であった。
 外と中とのギャップに現実感を失い、呆然としていると、
「いらっしゃいませ」カウンターの女性に声をかけられた。見ると、なんと見る者が見ればわかる、ややマイナーなゲームに登場する制服である。
「こちらのお席へどうぞ。何かお困りですか?」
 しどろもどろで、更新ができないなどと口走り、気づいて、道に迷ったのだと言い直す。
「どうぞごゆっくり。ここは24時間営業ですから。お泊まりですか?」
 質問に違和感を感じながらも、朝までいると告げると、
「お泊まりの場合は延長料金かかりませんから」
 何となくとまどいながらも、とにかくメールチェックと必要な返信をすませ、サイトの更新を始めた。
 朝まで、他の客は一人も来なかった。

 まっ暗闇の中を、店の灯りだけを頼りにたどり着いたのだった。あぜ道に目印があるわけでもない。朝や夜早い時間に通ってもその店への道は見つからなかった。たぶん回りがよほど暗くならないと、遠くの灯りが見えないのだろう。
 遅くまでの残業のあと疲れた心身状態で通ったときだけ、招くかのように灯りが見える。そういう残業はしょっちゅうだ。睡眠時間が減るのをものともせず、みずははネットカフェに通い、順調に更新を続けた。
 職場で同僚から、
「やつれたんじゃないか」
「ちゃんと食べてないだろう」
などと聞かれるようになった。だが外食店もコンビニも弁当屋もない地域。自炊しようにも仕事とネット喫茶での更新で、買い物や炊事の時間さえ惜しい。最近いつ食事をしたか、みずはは記憶になかった。
 第一よく言われることなので気にならない。「デフォルトだから」と答えてすましてしまう。むしろいつになく快調だと、本人は感じていた。
 カフェでは、よほど暇らしく店の女性がパソコンの作業を眺めに来る。
 毎回コスチュームが違う。すべてゲームやアニメで見たことがある制服、メイド服、さらには神の恩恵かゴスロリ……
「全部手作りですの。暇なものですから……」
 なるほど、いつも他に客はまったく見ない。たまにパソコンや配線のメンテをしている男を見かけるぐらいだ。これで採算が合うのかが不思議で遠回しに尋ねても、
「お恥ずかしいですわ」とうつむかれてはそれ以上聞けない。いずれにしろ、客が来ない方が二人っきりでいられて好都合だ。

 そのころ常連閲覧者は、更新内容に微妙な違和感を感じ始めていた。今までのように計算された非常識さではなく、何となく、素で常軌を逸している感じなのだ。それに更新は(嬉しいことに)頻繁だが、メールの返信の方はぴたりと止まっている。いつもの礼儀正しさに似合わず、それに対する断りもない。
 みずはの方は、それらに気づいていなかった。職場とネットカフェ以外に行き場がなくても、ネタは適度に職場で起きる。というか起こしていたりする。更新内容には事欠かない。このところみずはは、ネット喫茶に行くためだけに、毎日遅くまで残業をするようになっている。往年の連日更新が復活していた。
 来るメールはおざなりに目を走らせるだけになっていた。関西に残してきた親友というか仇敵というか、例の奴からも時々来ていたが、特に用事はなさそうなので返信していない。引っ越し直後に「貴様が消えると関西が平和になってありがたいが静かすぎるのもつまらん」などという珍しく本音を吐露したようなメールが来たので、「それほど寂しければこの地の果てまでみずはを拉致しに来るんだなわははは」と即返信した。それが最後だ。
 そいつとは地球上どこにいようとメールのやりとりを欠かしたことはない関係のはずだったが、もはやみずはにとって、思い出しもしない遠い存在になっていた。

 更新の作業中、彼女に見つめられていると、まるですばらしいネタを思いついた時のような、めったに体験しない高揚を感じる。高揚感というよりは浮揚感か。
 ネタを、文体を、文字装飾の効果を彼女がほめる。的確な評価が嬉しくて、彼女の言葉に酩酊する。背景の見慣れた黒と紫のグラデーションが、魂を引き込まれるような陶酔を呼び起こす。
 ふと鋭い視線を感じて部屋の隅に目をやった。メンテの男か。が、女性といるときに男の視線を気にするようなみずはではない。見覚えのあるような背格好だと思いながらも、気にとめもしなかった。男が背中を向けるときに肩のあたりがきらりと光った。鋭い棘のように。だがそんなことはどうでもいい。モニタに向き直り作業を続ける。
 腕に手が置かれた。顔を上げる。今日の彼女は喪服のような黒一色のゴスロリだ。顔には黒レースのベールを垂らしている。レース越しの彼女の瞳は眩暈のするような輝きをたたえている。
 コスプレの女性と快適な通信環境。他に何が要るというのか。
 彼女が顔を近づけるたびに香る、甘い幻惑されるような鼻腔をくすぐる匂い。膚は彼女の視線と吐息を感じている。視界はモニタ画面で満たされ、キーボードはすでに指の延長だ。耳には快い彼女の声。世界にはそれだけしか存在しない。
「日記はその人の人生と言えますわね」
 彼女の声が、遠くから聞こえる。
「テキストはその人の内面そのものですわ」
 彼女の声が、耳元でささやく。
 指の動きが快い。神が舞い降りたように文章が流れ出る。
 パソコンの中に自分のすべてを注ぎ込むような快感がある。
 今夜は特に調子がいい……
 気が遠くなるような充実感と非現実感の中で、みずはは思った……





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