あたしはいつもいつも一人だった。一人でいるのが当たり前の、慣れてしまった日々。彼女と出会わなければあたしはどうなっていただろう。彼女が、あたしの心に光を差し込んでくれた。彼女は・・・あたしにとってなくてはならない存在だ。
「まひるー?」
彼女があたしの名前を呼ぶ。あたしはそれに答える。
「はいはーい。ねえ、香澄。朝、ジョギング行こうか」
「ジョギング?」
「そうそう。誰もいない静かな公園で二人きり」
「・・・あんた・・・いやらしい事考えてるんじゃないでしょうね」
「そんな事ない、そんな事ない」
「あっそ。ならいいけど」
「ほんと?」
「全く、あんたのその子犬みたいな目で頼まれたら断れないわよ」
「でへへー。じゃあ朝5時ね」
「分かったわよ」
あたしは香澄が大好きだ。
朝5時。周りには誰もいない。公園の池が公園の橋を湖面に映して完全なシンメトリーになっている。
「くぅー、いい天気」
あたしは普段は外出する時スポーツバックの中に入れている羽を思いっきり伸ばす。ばさっと白い羽が大きく羽ばたいた。
「あ、香澄。おはよー」
「おはよー・・・って、あんた何やってんの」
「大丈夫大丈夫。こんな朝早くに誰もいないって」
「そりゃそうだろうけど・・・万が一誰かに見られたら」
「遠目で誰かの姿が見えたらまた隠すよ。あたし、目はいいから」
「ったくもう。まぁいいわ。行きましょ」
「はーい」
ジョギングってのは単なる口実。香澄といたかったから。二人きりになりたかったから。でも二人でいて何か重大な事を話したい訳じゃない。香澄と一緒にいたい、ただそれだけの事。この羽が生えたからもう学校には行けないから今のあたしに会ってくれるのは香澄とひなた、そして透だけだ。透はかけがえのない友人だし、ひなたはなくてはならない妹だけど香澄に抱いているような恋愛感情じゃない。あたしは今までずっと女の子として暮らしてきてあたしでも女の子と認識してたのに医者があたしの性別を男性だと言ったから・・・だけどそれでも「まひるはまひるだよ」と言ってくれた香澄の言葉が嬉しい。羽が生えて人目から隠れて生活しなくちゃならなくなっても香澄は「しょうがないなぁ」と言いながらあたしについてきてくれる。脆くて今にも壊れそうなあたしを支えてくれる。あたしは、香澄じゃないと駄目なんだ。香澄は・・・あたしの事は単なる変な友人にしか思ってなくても。
皆といてお喋りしてるのも楽しい。でも、香澄と二人きりでいるのを望んでいるあたしがいるのも事実だ。
1キロもない公園の外周を走っただけであたしはもうへろへろになってしまった。香澄は息一つ乱していない。流石だ。
「自分から誘っておいてもうへばったの?」
「あははー。・・・あのさ、この公園に誘った理由分かる?」
「何なのよ」
「橋の方を見て。ね? 綺麗だと思わない?」
「・・・確かに綺麗ね。・・・幻想的で」
「でしょでしょ? ふぃー、疲れた」
あたしは叢にしゃがんだ。その隣に香澄が座る。彼女の長い髪の毛、長い睫、いい匂いがする。あたし達二人は湖面を見ながら休んでいた。
「あの・・・さ、学校行けなくなっちゃったね」
「そうだね。・・・学校は好きだったよ。香澄も透もいて、あたしがいつも“大丈夫”だって言えるのも香澄がいるからだよ」
「あたしは・・・学校が、じゃなくてまひるを苛める集団が嫌いなのよ。あの子達もあれだけまひるに酷い事をしておいて、いなくなったら“最近寂しくなったと思わない?”とか言い出すの。・・・まひるからどれだけのものを受け取ったか分かってないのよ」
「ほえ? あたしは何もしてないよ?」
「何もしてなくても! ・・・まひるは、必要なのよ。まひるがいたから癒されていた。まひるの何をされても“大丈夫”だと言い切れる強さが・・・なのにだからってまひるに何をしてもまひるだから平気だとまひるを排除した奴らがいる。それが許せない」
「香澄・・・。香澄は、あたしの姿形が変わっても嫌がらないよね」
「だってまひるはまひるでしょ? 羽が生えても、眼球が変化しても・・・変わらないんだから。そんなまひるを見て変わるのは・・・周りの人間だけ。まひるは、変わらないのよ。そんなまひるが・・・」
「ありがと。あたし、香澄がいなかったらとっくに学校の屋上から飛び降りていたと思う」
「馬鹿な事言わないでよ!」
「本気。これは羽が生えたからじゃない。羽が生える前、あたしが男だとクラスや先生に知られてそれでも女の子の制服で学校に通ってて・・・その時に香澄がいつもかばってくれたでしょ。ほんと、嬉しかったんだ」
「・・・まひる。ううん、私の方がまひるに助けられてた。まひるがいない今の学校なんてほんとに詰まらないのよ。まひると会えないなら学校に行かなくてもいいぐらい」
「香澄、あたしの分まで学校を楽しんで。あたしはもう、学校には行けないから」
「ん。・・・走ろうか。平気?」
「うん」
再び香澄とゆっくりと走り出した。香澄はあたしの羽が生えている反対側を走っている。彼女の運動能力ならあたしを幾らでも追い越せるのにあたしのペースに合わせてくれる。それが、嬉しい。空気の澄んだ朝。鳥達の囀る声。他に誰もいない、あたしと香澄の世界。・・・このまま時が止まればいいと思う。無常にも時は刻一刻と流れていってあたしの大切な時間を奪おうとする。・・・でも、また走ればいい。時間はあるんだから。早起きしてまであたしに付き合ってくれる香澄には悪いなーと思うけど。でも、あたしは香澄と一緒にいたい。色々な物を犠牲にしてきたあたしだから、香澄と共にいる時間だけは奪ってほしくない。この時間だけは大切にしたい。この時だけは。
また一周しただけでへばってしまった。
「ふぃー」
「もう今日はこれ位にしたら?」
「そうだね。香澄、またジョギングに付き合ってくれる?」
「いつでもいいわよ。・・・まひると走るのは好きだから」
「あたしも香澄が好きだよ」
さらっと言うと香澄は少し顔を赤くした。
「な、何言ってるのよ」
「香澄の黒くて長い髪、香澄の綺麗な顔、香澄の強い性格、香澄のどんな困難にも立ち向かっていく性格。香澄の人を思いやる心。香澄の」
「やめてよ。・・・全く、恥ずかしい。でもね、私が強くいられるのもまひる、あんたがいるから」
香澄は首にかけてあるネックレスの先を手に取った。あたしが香澄にあげたものだ。
「香澄・・・」
「何よ」
「キス・・・してもいい?」
「ば、ばかっ」
「冗談だって。もう、行こう。香澄、学校始まっちゃうよ」
「あんたはどうするのよ」
「うーん、家でごろごろ・・・おひさまぽかぽか・・・いいなぁ・・・」
「さっきの・・・その・・・」
「何? どしたの?」
「あの・・・キス・・・してもいいけど、まひるが初めてなんだからね! 責任取りなさいよ!!」
「香澄まっかっか」
「うるさい! おちょくるなら無かった事にするわよ! ・・・ったく、どれだけ私が恥ずかしい事を口にしてるかほんと分かってないんだから」
「・・・分かってるよ。だって、あたしも香澄に聞く時・・・恥ずかしかったから」
香澄は目を閉じた。あたしは脆くて壊れそうな香澄をそっと抱きしめて羽毛が触れ合うようなキスをした。
「じゃああたしの分まで楽しんできてよ、がっこ」
「・・・あんたがいないとちっとも楽しくないわよ。・・・でも、あんたが行けない分もあたしは学校の事を吸収しようと思う。・・・さっき、言いかけたけど・・・そんなまひるが好きだから。大好きだから」
「あたしも他の誰よりも、世界中で香澄が一番好きだと言える。・・・断られたらどうしようかと思ってた。・・・さっきのキス」
「もう、馬鹿なんだから・・・」
あたしは羽をスポーツバッグの中に入れて肩にかけて歩き出す。香澄がいる世界。香澄と一緒にいる空気。それを大切にしたい。香澄はあたしの大事な大事な人だから。
<END>