夜が恐い。 内勤が多いせいだろう。 身体を動かさなくなったからか。 眠れなくて。 目をつむって布団のなかでじっとしていると、時計の音に混じって、 海の、静かなさざなみのように不安が寄せたり引いたりする。 そうして、昔を思い出す。 家が燃えてなくなってしまって、親もいなくなって、真っ黒なガレキの山の中で、ひとりぼっちで大声で泣いていた。 泣いていても誰も来てくれなくて、世界にはもう自分ひとりしかいないような、そんな気さえしていて。 あれから何年もたったけれど、あのころの記憶だけはまだ鮮明で。 学校が終わって、一人になると、ふと思い出すあの記憶。 あの頃と違って、今では自分の周りには大勢の忍の同僚と、生徒たちに囲まれているけれど、 学校が終わってしまえば、自分は家族のいない独り者で。 あれから、本質はなにも変わっていないことに気がつく。 冷たい鍵を持って、アパートのがらんとした自室で立ち尽くす。 ああ、やっぱり、自分は誰からも必要とされないんだろうな、って。 Leison D'etre (レーゾン・デートル) 誰かのために生きていたい。 誰かを守りたい。 …誰かに必要とされていたい。 教師という職はそれを叶えてくれるけれど、本当の望みは他にあった。 教え子達が戦地に旅立っていって訃報だけを耳にして、自分のやってきたことは、教えてきたことは一体なんだったんだろうとそのたびに自問自答して昔の自分を思い出す。 遠い過去の記憶のようでいて、手を伸ばせばすぐそこにある。 いつだって悲しい記憶とすぐに向き合える自分がいる。 そして、あの時から自分の時は止まってしまっているんだと気づく。 幼いままの自分が心に棲んでいるんだ。 親を亡くして、愛してくれる人を失って、心のどこかは成長をやめてしまって そのまま大きくなったものだから、精神がアンバランスになるときがある。 あの時の闇に、囚われてしまう瞬間がある。 そんな刹那をカカシに見つかってしまった。 めざとい人だから簡単に見つかってしまった。 それに、なぜだか、あの人にはそういうところばかり見せてしまう。 それでも、「なぐさめてほしい」なんて言わない。 「…そんな台詞、あなたは言わないでしょうからね」 頑固で、一枚岩で。 辛いことがあってもきゅっと眉根を寄せて、ぐっと唇をかみ締めて耐える人だから。 本当の望みは誰かに求められること。 誰かのために生きるのではなく、誰かに必要とされるとも違い、誰かが欲してくれること。 再び無くすのが恐いから、己のテリトリーに誰も踏み込ませなかった。 そこに足を踏み入れたのは三人。 一人は、火葬場まで手を引いてくれた老人。 一人は自分によく似た境遇の子供。 そして、もう一人は… 「…あ、あ…っ………ふ……ぅ……」 「辛いですか?辛いですよね。そうしているんですから」 根源を抑えられ、熱い本流が行き場をなくしてぐるぐると腹のあたりにわだかまっている。 欲望をせき止められることは男として辛い。 さらにそのうえから追い立てられる。 辛いやら気持ちいいやらでどうにかなってしまいそうだ。 「でも、こうされたいんでしょ? 乱暴にされたいんでしょう。 あなたの欲しいものは分かっています。あげますよ。俺にできることならばなんでも」 冷静な声が頭上から絶対的な口調でもってして降ってくる。 逆らえない響きだと。 そう思う。 「ただね…」 その声がわずかに揺らいだ。 「オレはこういう関係でもいい。高望みはしません。あなたのそばにいられるならばね。 けれど、見ていてこちらが苦しくなるときがあるんですよ…。 イルカ先生。 あなたから変わろうとしなければ、永遠にこのままですよ」 本当に欲しいものはこんなものじゃない。 こんな行為だけで埋められるものならば、とっくの昔にもっと幸せになれていたと思う。 カカシがイルカの心に足を踏み入れたとき、そこは荒れ野で、強くつめたい風が吹きすさんでいた。 包丁であの人を襲おうとしてあっけなく押さえ込まれた。 そんな状況になってもなにも驚かなかったあの人は、自分の影の部分も受け止めてくれる強さがあるから。 「――――――…は…」 震える手で眠りにつくカカシに頬に触れる。 安らかな眠りにつくのこの人の白い顔は、どこかあどけなくもあり、あの子にもよく似ていた。 泣けてくる。 甘えても、いいのだろうか。 イルカにとって、甘えるということは自分のプライドを曲げて、昔の自分を受け入れるということだった。 イルカはオープンで優しそうにみえて、鉄壁ガードだった。 自分の主張ははっきりしていて、己の信条はけして曲げない。 自分や生徒に厳しく、本心よりも、忍のしての理想を大切にする。 我ながらプライドが高いと思う。 そんなイルカの心の奥底まで覗き込んではっきりとその形を表現してくれるこの男は、 危険なんだろうと、思う。 ナルトだってそうじゃないか。 腹に怪物を飼っている。 恐ろしいものを傍に置いてその存在を受け入れてしまうのは、 子供のころの自分が見上げた、赤い月に赤く光る妖狐の目と、血に染まった自分の両親からだろう。 消せない過去、消せない罪。 失ってしまったかつてのそれらを思い出させてくれる存在に、惹かれる。 いや、惹かれる、というよりは近づいてしまうのだろう。吸い寄せられるように。 許しておくべき存在ではないと囁かれる存在であるのにもかかわらず。 それでも、そういう存在にすら愛情を振りまけてしまうのはイルカの優しさだ。 矛盾しているようで、理にかなっている。 イルカの中で自己完結している。 それが、俺なんだと言える。 そういう意味ではイルカは強い。 カカシは、違う。 カカシの強さはその本質が違う。 「オレはね。気持ちいいことが大好きなんですよ。 人を殺すのも、軽い運動くらいの気持ちです。 感覚でモノを考えるんです。 六感をフルに使ってね。直感で。 頭でなくて、身体でね。 戦いで要求されるものはそういったものばかりで、そういうものしかいらないと思っていましたから。 そうしてますと戦いでもカンだけで危険を察知できるようになって、敵がどこから襲ってくるかも予感できるんです。 ピンとくるんですよ。 だから、相手が臨戦態勢になる前に息の根を止めることができる。 野蛮な戦い方だと思いますが、手っ取り早い。 まるで動物みたいでしょう?短絡的なんです」 「それは…すごいですよ。 それは卓越しているっていうんじゃないんですか」 「いいえ、退化です」 カカシは動物だの退化だというが、 戦いにおいての考察やその強さには舌を巻く。 到底イルカの到達できないところまで達している。 「…でも、イルカ先生。あなたは単純そうに見えて、とても複雑ですね。 オレには理解できないことまで考えている」 そうだろうか。 「前に、オレは分かりやすいって言いましたよね。 気持ちよく生きたいんです。 いつ死ぬともわからない職業ですしね… 余計なものはいらないんです。考えないようにしているんです。 欲しいものだけ手に入れられればそれでいい。」 カカシの強さは自由を手に入れるための手段にすぎない。 少なくとも本人はそう考えているだろう。 飛ぶ鳥が自分の羽を毛づくろいしてもっと高くまで飛べるように。 一方イルカは地に根を下ろした木だ。 根を広げ、葉を繁らせ、自分の領域を守ることを一番大事にしている。 頑張って成長して毎年少しずつ少しづつ根を広げている間に、カカシの鳥は世界を巡って自由に鳴くのだろう。 イルカが必死になって守ったものも、カカシにとっては小さなとるにたりないこと。 その許容量の違いを思って、途方にくれそうになる。 気持ちいいことが好きだといって、嫌なことは忘れろといって、いらないものは自由に捨ててけして後ろは振り返らない。 イルカのようにささいなことでうじうじ悩んだりしない。 そういうことで悩むのも大事なことだと思うが、カカシのように自由奔放な生き方にも憧れる。 こういう人は、風のように横を通り抜けてゆく。 イルカは、まさかカカシのような人と人生が交差するとは思っていなかった。 あげくに、こんな関係になろうとは。 カカシがイルカの本心をあばかなければ、こんな風な関係になることもなかっただろう。 そうして気づく。 同情のような優しさでいいから、と以前求めたが、 この人が、同情のような優しさを持っているとは到底… あの人の心に、ずっと語りかけている。 はやく気がついて欲しくて。 割り切ってほしかった。 過去の因縁から。 そして、自分を見て欲しかった。 ゆっくりと覚醒する。 枕もとの時計は5時を指していて、部屋はうっすらと白んでいる。 「…目が醒めましたか」 薄暗い部屋に、しんとイルカの声が響く。 カカシは顔だけ布団から出して眠たげに目をこすった。 「…ああ、おはようございます、イルカ先生。 昨日はどうも…身体、大丈夫ですか?」 「大丈夫です。今、メシのしたくするんで」 そう言って、イルカは身体を起こすとベッドから降りて浴室の方へ向かう。 「…怒らないんですね」 いつもだったら、事後、身体のことを言うだけでぎっと睨みつけられたのに、イルカの態度は意外だった。 イルカは足を止め、振り返って静かな声で告げる。 「カカシ先生、今日はお休みでしょう? ゆっくりしていってください」 「…?………イルカ先生…」 起きぬけのイルカがいつもと違うことにようやく気がついたカカシは、大きく目を見開いてイルカを注視した。 いつものグロッキーなイルカがいない。 あの、抱かれたあとにいつも見せる、己が嫌で嫌でたまらないという顔をしたイルカが。 優しく微笑んでいる。 「今日は俺も休みだから、どこか連れて行ってください。 カカシ先生、あなた、花の名所に詳しいでしょう? そろそろ桜のつぼみもほころぶ季節ですし、早咲きが見たいです」 "お願いします"、と。 その口調は以前その言葉を聞いたときの暗くきつい声とは全然イントネーションが違っていて。 穏やかで。 カカシはまぶしいものを見る気持ちで、目を細めた。 ようやく気がついてくれた。 自分の価値に。 カカシのカウンセリングめいた語りかけが功を生じたのだろうか。 なにが、イルカを変えたのかはわからなかったが、そんな些細なことは気にならなかった。 ただ、イルカが笑いかけてくれることが嬉しい。 それだけで、いい。 「…イルカ先生にも、春が来たみたいですね」 「もうすぐそういう季節ですからね」 「オレのところにも来てくださいよ。春を連れて」 今のあなたなら、できるでしょう。 そう言って、カカシは猫みたいに笑った。 完 Leison D'etre (レーゾン・デートル) 存在理由。存在価値。レゾンテートル。→(仏)Leison D'etre(学研 現代新日本語辞典より) topへ |