●●● アカデミーの屋上、手すりに両腕を乗せ、地上を見下ろしながら、イルカはじっと考えていた。 記憶を失ったあとのカカシの変わりよう。 特に、その性格は以前と真反対になったように思う。 『俺…アンタみたいな人、大嫌い。』 氷のように冷たい声は、感情がまるでなくて。 記憶喪失になったカカシに、最初に言われた言葉は、耳の奥に、まだ、強く強く、残っている。 手すりにのせ、合わせた両手をぎゅっと強く握り、強く口を引き結ぶ。 心配している。 カカシのことを。 彼のことを思い出すと、たまらないくらい切ない気持ちになるのと、同時に 男相手にあんなに身悶えて、感じてしまった自分を思い出して後ろ暗い気持ちになる。 この気持ちはなんだろうか。 説明できないこの感情に、振り回される。 …吹き抜ける風は、春だというのにまだ冷たい。 ふいに、湿っぽい匂いが鼻先をかすめ、風に雨の気配を感じて、瞼を閉じた。 なにも見たくない時がある。 なにも感じたくない時がある。 今がまさに。 「よう」 背後を振り返ると、そこにはアスマがいた。 「しけたツラしてんな、木の葉一の癒し系が」 「そのあだ名やめてくださいよ。柄にもない」 イルカは苦笑を浮かべつつアスマに居直った。 アスマはフーと白煙を吹きつつ、イルカの隣に立ち、先ほどまでイルカがやっていたように、両腕で手すりにもたれかかった。 「カカシの具合はどうだ―――――」 これでで何人目だろうか。この質問は。 カカシが付き合っているからといって、 イルカに聞けば、その具合が分かると思っているのだろうか。 たしかに、他の人よりは知っているかもしれない。 …一緒にすごす時間は割りと長かったから。 イルカは困ったような笑みを浮かべつつ、頭を振った。 「今はまだなんとも」 「元気か?」 「ええ。健康状態は以前と変わってません」 「そうか…ならまだいいか。 元気ならば、どういうことをしようが、まだ喜ばしいことか」 「?」 「見ろ」 アスマが顎をしゃくって屋上から見下ろす通り道には、美しい女と腕を組んであるくカカシの姿があった。 しかも、こちらに気づいている。 アスマとイルカ、両名と目を合わすも、なんの変化もなくふいっと横を向き、腕を組んだ女とにぎやかな大通りに消えてゆく。 「…ありゃあなんだ、記憶喪失になると趣向も変わるのか」 「カカシ先生は性格も変わられたようですから」 「随分と都合のいい記憶喪失じゃねえか。 あの堅物が女を次から次へととっかえひっかえ、色町にも繰り出して随分と派手に騒いでいるらしいじゃねえか。 ここに大事な人間がいるってのによ」 「…俺は、そんなんじゃ…」 イルカは少し照れたように赤くなったが、アスマは、眉間に皺を寄せた。 「アイツは、戦い方も変わった――――」 「と、いいますと…」 「味方の言うことは聞かない。単独行動はする、後先かまわず敵陣に突っ込んで一人で負傷してきて、敵の捕虜に暴行はするは依頼先の里の娘に手をだすわ、とにかく、やることなすことまったくなってねえ…以前のカカシにはもっと、物事の裏の裏まで読んで行動する忍びとしての心構えのしっかりした慎重さがあった」 「そんなことが…」 「しかも、アイツはそういったことを心から楽しんでやがる。 おまけに、自分の必殺技すら忘れちまいやがって、こっちとしちゃ、迷惑だってことこのうえない」 「必殺技…車輪眼をですか」 「コピー忍術から雷切までなにもかもだ。 …まあ、元々アイツは身体能力の高い男だから、実線での戦闘にはあまり困らないが、 それでもいざというときに困るだろう。こっちが。 そんなわけで、あいつの行動、その他諸々のことで、里のお偉方はいたくご立腹でな…、このままだとあいつの首をはねるとまでいっている人もいるくらいだ」 「クビ?!忍をですか」 「もしかしたら、の話だ。 …まあ今回は記憶喪失なんだから仕方がない。 これからもあいつはこの里にいなくちゃらない人間だ。そんなこと誰だって分かっている。 偉い人間が色々言ったって、結局は"車輪眼のカカシ"の方が重要だ。…アイツの力は重宝されているからな。 それに忍びとして生きたからは、忍びとして死ぬのが当然の話だ。 若いうちから現役を降りるなんて不名誉なこと、普通誰だって嫌がる。 カカシだってきっと… ―――戻るんだろう?記憶」 イルカはそれに答えられなかった。 「失礼します」とだけ、アスマに言うと、急いでその場を離れた。 …ぽつぽつと雨が降り出してきた。 頬が冷たい。 イルカは、いつの間にか、すっかり青ざめていた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ すっかり青ざめてしまった自分を落ち着かせようと、以前のカカシを想う。 告白されたときの少し照れた顔。 笑うと目じりに笑い皺ができて。 普通の時の半目の時とは違う柔らかい表情を見て、優しい人だったんだと知る。 多くの人に憧れられていて、それが自分ひとりだけに向けられていると分かったときの、あの喜び。 カカシ先生。 会いたい。 自宅に到着すると、玄関に赤いドレスの女が一人で立っていた。 イルカを見ると、口元になんとも形容しがたい笑みを浮かべてその横を通り抜けてゆく。 ふんわりとした香水の匂いを感じながら、そういえば、あの女はさきほど、アカデミーの屋上から見かけたカカシの腕に寄りかかっていた女だったと思い出す。 …嫌な笑みだった。 あんな女と付き合っているのか。 以前のカカシを思い出し、不釣合いだと思う。 これはけして嫉妬ではない。 これはけして嫉妬ではない。 …別にどうでもいいじゃないか。 今のカカシが誰と付き合おうが、関係ないではないか。 むしろ、女とつきあうことで、自分から手を引いてくれるかもしれない。 そう考えれば心も休まるものというものだ。 でも… イルカは腐った気持ちをもてあましつつ、乱暴に自分の家のノブに手をかける。 そして、半転ほどさせて、鍵が開いていることに気づく。 やっぱり…カカシが来ている。 自分から強引に奪っていった合鍵で、女を置いて、一人で上がっているのだ。 玄関にあがると、いきなり背後から抱きしめられた。 「か、カカシせんせ…んっ!」 振り返ると、唇をふさがれてその場に押し倒された。 「い、嫌!」 「なにが嫌?」 全部。 今のカカシのする行為全部が、嫌だ。 でも、それは口にはできない。 だって嫌いじゃないから。この人自身は。 嫌われたくないから、断れない。 「ここじゃ…嫌ですっ!」 「嫌じゃないデショ…?どこでだって、アンタよがり狂うんだから」 獣のような尖った目が、薄暗い部屋に光る。 食われそうだ… ごくりと喉が鳴る。 イルカは、この先訪れる目のくらむような展開を想像して、体が震えた。 事が終わって、気がつくと、カカシは腕を組んで壁にもたれかかり、ぼんやりと壁を見つめていた。 意識が朦朧としていたが、なんとかまだ生きている。 ぐしゃぐしゃになった髪を撫でつけ、「う、う」とうめきながら、玄関で、痛む身体を起こす。 板目の後が肌にくっきり残っている。目じりをこすると塩の塊がぽろりとはがれた。 イルカがズボンをはいてよろよろとよろけながらその横に来たが、カカシは気配で察しているはずなのに微動だにしない。 その整った横顔を見ていると、アスマの言葉が思い浮かんでくる。 記憶喪失によって性格が変わり、任務では身勝手に振る舞い、仲間には悪口を言われ、あげくに自分の必殺技すら忘れて。 それでも、この人はカカシだ。 イルカにとっては、敬愛する上忍だ。 …この人に、忍を、やめさせたくない。 かといって、自分に今なにができるだろう。 荷物をテーブルに置いて、その傍に寄ると、彼は、ただ壁をみているんじゃない。 ボードに貼りついた写真を眺めているのだと知る。 ボードには一枚だけ、写真が貼ってあった。 七班の皆とイルカ、その背後に、目を細めて笑っているカカシが。 「…以前の俺と貴方はどんな恋人だったんだったんでしょうね」 カカシはぽつり、と云った。 …記憶喪失になって、この人も不安なのかもしれない。イルカは思った。 自分ばかりが必死になっていたが、カカシは当の本人だ。 記憶を失うなんて、これが自分だったらを思うと、計り知れないほど恐ろしいだろう。 イルカは言葉を選んで慎重に話し出した。 「貴方はとても立派な人でした。 中忍の俺にも礼儀正しくて、優しくて、落ち着いていて、思慮深くて…。 なにか困ったことがあって相談すると、教えてくれたのは俺の知らない言葉ばかりでした。 そんなあなたに俺はいつも気後れして、横に並ぶのさえためらわれるくらいでした。 だから、同僚なんかにはいつも、『オマエはカカシさんの金魚の糞みたいだ』ってからかわれていましたけど、 カカシ先生はそんなこと気にせず、遅れて歩く俺に歩調を合わせてくれて…そんなところもすごく…憧れていて。 …覚えていませんか?」 「全然」 「そうですか…」 記憶の眠っているその心の奥に届くように必死になって言ってみたが、徒労に終わったかと落ち込むイルカに、カカシが口を開く。 「嘘吐き」 「え?」 予想していなかった言葉。 振り返ったカカシの目には剣呑な光りが帯びていた。 「どういうことですか。その話聞いていると、貴方、まるで一度も俺に抱かれたことがないようじゃないですか。 それともなんですか、以前の俺は駄目で、今の俺になら抱かれる気にでもなったんですか?」 イルカはハッと口元を抑えて、すぐに否定した。 「―――違います!」 「なにが違うの?恋人だったこと?抱かれたことがなかったこと? 貴方、見かけによらず結構やりますねぇ。 どこからどこまで嘘なの?そうやって俺を惑わせたいわけ」 「違う!」 「何が違うの?」 カカシはイルカの両腕を取った。 そして、抵抗する間もなくダンッと乱暴に壁に押し付けられる。 「どこが違うの? …貴方に、そういうところがあるとは知りませんでしたよ。 いいですねぇ、そういうのは好きですよ。俺。 …イルカ先生も前の俺が嫌だったんですか。奇遇ですね。俺もです。 そんなに前の俺が良かった? 尊敬されてた?立派な忍だった?そんなものなんの役に立つっていうんです。 ねぇ。イルカ先生。先生もそう思うでしょ? もっと素直になりましょうよ……抱いて欲しかったんならそうだって言えばいいのに。最初から」 「ちが…んっ!」 強引に唇を重ねられる。 また泣きたくなった。 「…俺は抱きたいですよ。先生。 むしろ、任務とか、忍とか忘れて、ずっとそういうことばっかりしていたいですね。 今日だって、わざわざ貴方を抱きにきたんですよ。女放り出して。 さっき見た、屋上で見た貴方の顔が忘れられなくてね」 そう言って、心底楽しそう笑う。 「一応聞きます。もう一回、抱いてもいいですか?イルカ先生」 「――――っ!……」 「断ってくれてもいいんですよ?」 「…っ」 その言葉に、イルカは返事もできず、くしゃりと顔をゆがめた。 返事が出来るわけがないじゃないか、そんな問いなんかに…。 頭上から、ふっと吐き出すようなカカシの嘲笑が降ってくる。 両腕を抑えられたまま再び覆い被さってくるその影に、当てはまる言葉が浮かんでこなかった。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 今日はここまで。次は… |