Police Story

 飯綱達也巡査は、その時まで、性的搾取について人並の考えしか持ち合わせていなかったし、増してや実際の現場に遭遇するとは想像さえしていなかった。

 彼は警察学校を出たばかりのしがないノンキャリアで、定年までに警部へ昇進出来れば御の字という、ごく平凡な交番勤務の警察官に過ぎなかった。だから巡回中の薄暗い裏路地で、トレンチコートの影が少女を強姦しようとする場面に出くわした時、性的搾取の社会的問題について深く考えるより先に、腰の拳銃を抜いて警告を発した。

「動くな、暴行罪で逮捕する!」

 ニューナンブの当てにならない照準を向けられるや、強姦魔は目深に被った鍔広帽子の下で三日月型の笑みを浮かべ、少女を放り出すと、ゆらゆらと陽炎のような足取りで銃口の方へ歩み出した。

 異常な事態だった。当節、日本の警察官に銃を向けられて脅えない犯罪者は居ない。警察庁の指針では、巡回中の警察官が窃盗以上の犯行現場に遭遇した場合、極力発砲「する」ように取り決められている。現に毎年全国で百人以上もの犯罪者が撃たれていたし、死亡件数も少なくない。規制緩和以来、警察組織は拳銃使用の実績作りに血道を上げているのだ。

 しかも飯綱巡査は多くの同僚と同様にマニュアルに忠実だったので、第一発目から直接犯人の身体を狙うつもりだった。

 だがそうした日本の警察官の危険な習性をまるで意に介さないのか、トレンチコートの影は、大きく両手を広げ、さぁ的はここだ、といわんばかりに胸を突き出していた。

「どうした、撃たないのかい坊や?」

 声は、まるで複数の男女が一斉に話し掛けてくるようで、聞く者の脳の内側に反響し、神経を麻薬のように痺れさせた。若い巡査は四肢から力が抜ける奇妙な感覚に戸惑いながら、歯噛みして武器を構え直す。

「くっ、動く…な!警告は二度…まで…だ。次は…撃つ」

 すると強姦魔の口が更に大きく裂け、げたげたと耳障りな笑いを立てた。何時の間にか二人の距離は詰り、もう互いの手が届くほどの所まで来ていた。

「次?次は無いわなぁ…」

 トレンチコートの前が風船のように膨らみ、ボタンが弾け飛ぶ。布地に覆われていた部分から腥い風が吹き付けるのと、何か濡れたものが飛び出るのとは同時だった。

 銃声が二度、僅かな間を空けて起る。べたつく液体が青い制服を汚し、生暖かい滴が頬に撥ねて、不快な感触を残す。暫く固まったままでいる警官を、背後から第三の声が叱咤した。

「飯綱!何してる。下がれ!」

 振向くと、年配の同僚が自分と同じく銃を構え、蒼白な顔をして此方を観ている。頬の引き攣り方が普通でない。視線を追って再び頭を巡らした時、飯綱は理由を知った。

 強姦魔の肌蹴た胸には、昆虫の脚のような器官が生えて、ギチギチと固い関節を擦り合わせながら蠢いていたのだ。三日月型と見えた口は、実はみつくち、いや左右二つに割れた大顎で、粘る糸を引きながら貪欲そうに開閉している。同僚が放った鉛の弾丸は、キチン質の外殻の表面に小さな孔を開けたに過ぎなかった。

「美味しそうな若い男と、不味そうな年寄り、どっちから頂こうかなぁ…」

 雌のようであり、また雄のようであった。飯綱が低く呻きながら後退ると、それに合わせて踏み出してくる。外見に似合わず流れるように淀みの無い動きだった。

 体液の当った頬がひりつく。棘を生やした肢先がじりじりと近付くのを感じて、震える手は反射的に銃を上げ、大顎の上の辺り、煌く複眼の間を狙った。

「今度は撃てるかぇ?」

 嘲りの言葉に、銃火が答える。だが、弾丸は路地の奥の壁に当って虚しい跳音を立てた。化け物の姿は不意に正面から消えていた。若い巡査が慌てて当りを見回すと、首筋に鈍い痛みが会って、視界がぐるっとあらぬ方向へ回転する。

「決めた、こちらは後」

 冷たいコンクリートに顎をぶつけ、目から火花を散らしながら気を失う前、彼が最後に聞いたのは、同僚の悲鳴と連続する銃声だった。




















 無論、この初めの出来事は、単なる暴力に過ぎなかった。飯綱巡査が性的搾取というものを体験したのは、次に目を覚ました時である。

 首筋に化け物の一撃を受け、意識を失ってから、どれほど経ったろうか。彼は全身をだるい疲れに揉まれ、依然うなじに疼きを覚えながら、ゆっくりと眠りから覚めた。焦点を結んだ目に、灰色の壁と、ヒビの入った天井が映る。

 どこか、屋内に居るらしい。徐々に意識が澄んで来る、といきなり、下半身に奇妙な痺れが走った。見下ろすと、何かが自分の股間の当りで動いている。嫌悪が背筋を駆け抜け、必死で身をもぎ離そうとしたが、後ろに回された両腕ががちゃがちゃと音を立てるばかりで、手足はまるで言うことを利かなかった。

 椅子に座らされたあげく、手錠で拘束されている。恐らく自分の所持品だ。屈辱の余り頭に血の気が昇り、憤怒の叫びを抑えられなくなった。

「止めろ!この虫けら野郎!」

 びくっと、股間の辺りにいたものが後ろに下がる。意外なまでの従順さに拍子抜けして、巡査が改めて其方を眺めた。

 相手はおずおずと不安そうな瞳で見返してくる。あの虫ではなかった。少女だ。虫に襲われていた方の子供だった。素裸を長い黒髪だけで隠し、痩せた四肢を小刻みに揺らしている。

 怒鳴ったのを後悔して、すぐ視線を逸らした。何と言う事だろう。彼女を助けるはずの自分が、こうして囚われてしまうとは。

「すまない…」

 そう呟いて、向き直ったところで、巡査は驚愕した。少女は再び彼の股間に顔を埋め、陰部に舌を這わせようとしている。

「何を!…っ…!」

 困惑した警官は、少女の下半身に更に意外なものを見出して、息を呑んだ。そこから自分と同じ、いや随分小さいが形は近いものが覗いていたのだ。性の区別がはっきりしない年頃のようだとはいえ、優しげな顔付きや華奢すぎる骨格からして、すぐには同性と認め難かった。

「君は…男?…って、こら、よせ!よせったら」

 小さな舌は肉具に絡みつき、易々と勃起させると、雁首の下や鈴口の周りを舐って快感を引き出していく。娼婦も顔負けの技量に、健康な若者の身体は素直に反応し、息を殺すことさえ出来ず腰を浮かしてしまう。

「やめなさい!君がやってるのは悪いことなんだ!あぁっ」

 そう言いながらも、脊髄の芯を擽る快楽に負け、精を迸らせてしまう。口淫を続けていた少年は、濃く量の有る雄の汁を苦労しながら飲み干し、肉棒の周りを丁寧に清めてから離れた。

 依然として怯え、不安に満ちた表情で、しかし己の幼い器官を固く反り返らせている。飯綱巡査はまた怒りに任せて罵ろうとして、止めた。相手は少しも幸せそうではなかった。

「君は…何故こんなことを…」

「大層立派な口振りだが、下は堪え性がないなぁ…坊や…」

 あの、幾重にもなって響く声が、室内に響いた。ぎくっと視線を転じると、想像どおり、トレンチコートの化け物が扉の側に立っている。帽子は被っておらず、何本もの触角が髪の毛よろしく蠢き、その下で複眼が濡れた光を帯びていた。

 恐怖よりも憎悪が勝って、飯綱巡査は醜い頭部を睨みつけた。

「この子に何をしたんだ!」

「下拵えよぉ。わしが真気を吸う為のな…というても無学なお前には解るまいが…」

「こいつ…!」

「精を放ったばかりの逸物を丸出しで…力んでも滑稽なだけ…なぁ阿明」

 ぎちぎちと化け物の複肢が伸びると、阿明と呼ばれた少年は逃げるように巡査の後ろに回りこんだ。助けを求めるように、涙ぐんだ目を向けて来る。矢張り先ほどの行為は無理強いされてのものらしい。飯綱は何も出来ない悔しさに臓腑の煮え滾る思いだった。

「いい気になるなよ。いずれ、警察は…」

「無駄無駄…それより阿明、その坊やに縋っても無駄だわぇ。こやつはお前のような三国人を守ったりはせん…身体で知っていようが…」

 三国人という単語が放たれるや、びくっと少年が肩を揺すれた。飯綱もさぁっと血が冷たくなるのを感じた。阿明という名前を聞いて不穏な予感はしていたのだが、まさか、この子は…。

「顔が土気色になったなぁ。どうだ、血の汚い人種に触られた気分は、吐気がするか?」

 吐気がした。そんな薄汚いモノに舐められて恍惚となっていたのか。それで守るつもりでいたのか。街の害虫共を。おぞましい侵入者共を。頬を濡らしたあどけない顔も、すぐさま卑屈で狡猾な仔猿のそれに変り、保身のために媚びを売っている風にしか見えなかった。

「阿明、三ヶ月前お前の家を壊して、媽媽を殴り殺した男達は、どんな服装をしていたかな?あんな青い制服を着て、黒い棍棒を持っていたんじゃないかね」

 声は楽しげに先を続けながら、じりじりと小さな獲物を追い詰めていく。少年は警官と化け物を見比べながら、部屋の隅へ丸くなった。

「日本の警察が守るのは、日本人の子供だけ…戸籍も無い、学校にも行っていない…貧乏な密入国者の子供は…居なくなっても誰も気付きはしない…警察官の坊や、馬鹿な真似をしたねぇ…わしはお前の代りに街を綺麗にしてあげたのに…」

 巡査は恥じ入って目を伏せた。こいつの言う通りだ。虫けらは虫けら同士食い合わせていればよかったのだ。

 化け物は満足そうに身を揺すると、細い足首を掴んで、軽々と逆さ吊りにする。大顎が開き、中から無数の針を突き出すと、白い膚の上から血管を刺し貫いた。少年は押し殺した悲鳴を上げながら、幾度も背を弓なりに反らせる。力ない抵抗を楽しみながら、複肢は腹や胸を引っ掻いて傷をつけていった。

「そうだ、坊や…お前が今日のことを黙っているなら、精を吸った後無事返してやってもいいぞぇ。相棒は三国人のならず者に襲われたといえばいい…」

 相棒。

 脳裏を年配の上司の顔が過る。老巡査部長は、彼が交番勤務について以来面倒を見てくれた先輩であり、親しい友人だった。

 恐懼に喉をからからにして、飯綱は少年を弄ぶ化け物へ尋ねる。

「清水巡査部長を…どうしたんだ…」

「交合って、真気を吸ったらぽっくり逝きおってな。屍を残す訳にはいかぬので喰った」

 喰った?衒いの無い返事に、ぞっと寒気がした。日本人を。人間を食ったというのか。

「お前…は何なんだ…どんな生き物なんだ…」

「わしか?ごく何処にでも居る妖魔よ。人の精を喰らって生きるな」

 裏返ったボーイ・ソプラノに続き、複肢の棘の一つが、桜色の乳首に突き刺さるのが見えた。鋭いキチン質の槍が、弱々しく震える肢体を持ち上げ、上下を入れ替えてゆっくりとまた引き降ろす。化け物の波打つ蛇腹状の下半身からは、産卵管に似た円筒形の器官が迫りあがっていた。態勢が整うと、更に何本かの棘が伸びて、少年の柔らかな尻朶を広げ、桜色の腸内を露にすると、不気味な円筒をずりずりと押し込んでいく。

 壊れた玩具のように、少年は首を痙攣させ、手足を力無く広げたまま虚な瞳で宙を仰いだ。

「阿明、初めてでもあるまいに、いつになれば慣れるのだぁ?」

 産卵管は波打つように蠕動しながら、抽送を始める。捕えた芋虫に子を植え付ける地蜂そっくりだ。阿明は、太さが大人の二の腕程もある凶器を受け入れて腹を妊婦のように膨らませ、息を浅く切らしつつ、だが次第に妖しく腰をくねらせ始める。激しい突き上げに応えて蓬髪が広がり、細かい汗の珠が飛び散った。淫らな動きに合わせて乳頭を貫く複肢が捻れ、真紅の滴を搾り出しながら、あえかな喘ぎを導き出す。

「下賎な三国人でも、姿は美しかろう?阿明の母は踊り子だった。幇会の連中を喜ばすために麻薬を打ち、地下の劇場で舞った…わしはあれが欲しかった…だが殺されては仕方ない」

 涕の跡も乾かぬ内から頬は紅葉を散らし、ふっくらした唇は悲鳴の代りに嬌声を上げた。未成熟な四肢は、引っ掻き傷から血を滴らせながら、狂ったように喜悦の舞を舞う。

 半ばむかつき、半ば魅せられて、警官は淫らな見世物を鑑賞し続けた。同僚の死に対する喪失感は曇った思考の隅へ消え、ただ少年の尻軽ぶりに苛立ちと欲情が湧き起る。気付くと開いた口から涎を垂らしてさえいた。

「羨ましいかぇ?いずれお前も同じ快楽の虜にしてやろう…さ阿明、逝け」

 蟻の門渡りの辺りに、一本の棘が突き刺さると、阿明の腰が仔鹿のように跳ね、精を放とうとした。素早く繊毛の生えた複肢が鈴口から差し込まれ、射精を封じ、限界まで膨らんだ昂ぶりを無理に持続させる。少年は苦痛と快楽に泣き叫んで、許しを求めるように首を振った。

「よしよし…たっぷりわしの子を孕め」

 ごぼんと産卵管が膨らんで、絶頂を迎え続ける幼い身体に何かを植え付けていく。臍の上当りが歪に盛り上る。ずるりと管が抜けるや、裏返った肛腔は、ピンポン玉位の蛋子を零した。

 尿道を塞いでいた複肢が引き抜かれ、ぐいとそれを中に押し戻し、少し直腸内を掻き混ぜて配置を整えるや、別の複肢が、尾底骨の近くを刺して神経を刺激し、括約筋を強制的に閉じさせた。阿明は薄い精を放って崩れ落ち、身重になった腹を床につけて声も無く苦悶する。

「さてと…次はお前の番だなぁ坊や」

「ぐ…来るな、来るなぁ!」

「すぐに心地よくなる…」

 妖魔は関節を鳴らして近付いてくる。酸鼻極まりない光景を目の当りにした飯綱には、最早神州日本の治安を守る青年の気概は残っていなかった。暗闇に怯えた幼児のように歯を鳴らし、粟の立った肌膚には脂汗が噴出して、青い制服をじっとりと濡らしている。

「待っ…て…ぼく…まだ…」

 後ろから聞こえたか細い訴えに、甲虫そっくりに黒光りする背が、ぴたりと止まった。大顎が人間の笑いを誇張したような形に広がり、複眼がぎろりとそちらへ動く。

「阿明、まだ遊び足りないのか」

「…は…い…」

「淫乱な子だわぇ…この坊やを庇うためではあるまいな?」

「……不…是」

 毛羽立った後肢が上がり、ぐいと盛り上がった腹を踏みつける。泡を吹いてもがく少年に、妖魔の不気味な口は猫撫で声で話し掛けた。

「不是假?」

「あぐぁっ…は…ひっ…」

 ぎちぎちと笑い声を上げて、複肢が少年を抱き起こすと、扉へと歩き出した。

「いきの良すぎる餌にも苦労する…坊や…遊ぶのはもう少し後になったなぁ」

 飯綱は返す言葉を失い、ただ化け物が少年を連れて去ってくれるのを願った。暫く肉を叩く音や、湿った咀嚼音がしてから、やがて、棘つきの後肢がコンクリートを固い叩きながら遠ざかっていく。ようやく緊張が解けた巡査は、震えながら、えずき、床に吐瀉物の溜りを作る。もう何も考えたくなかった。男としての矜持も、勇気も、気概も残っていない。性的搾取の対象にされる苦痛は精神の耐久力を完全に磨耗させていた。彼は、頭を振り、瞼を閉じ、ただ現実から逃れようと仮初の睡みに沈んでいった。




















 悪夢に魘されて、うつつに戻ると、巡査は相変らず同じ格好で拘束されていた。変ったといえば、筋肉が強張り、節々が軋み、汗は饐えて嫌な臭いをさせ始めていた事だろうか。

 終りの無い悪夢に迷い込んだらしい。彼は少し泣いて、鼻を啜った。僅かながら元気が戻ってくる。化け物が近くに居ないのが救いだった。気力を奮い起こし、慎重に身体を動かすと、かちゃかちゃと派手な音がして、足首にも手首にも手錠が掛かっているのが確かめられた。

「畜生…」

 イスラエルの秘密警察がデザインしたというご立派な代物は、犯罪者を捕える時には有用でも自分に使われた場合は始末に終えなかった。昔のアクション映画に、主人公が掌の肉を削いでまで手錠を抜く話があったが、こいつはそうは行かない。外そうとする動きに反応して余計に締まる仕組みになっているのだ。

「俺が何したってんだよ…」

 このまま自分も、三国人の少年のように滅茶苦茶にされるのだろうか。何故あんなチビを助けようと危険を犯したのだろうか。冷静になれば、巡回区域に殆ど日本人が住んでいないのは解っていただろうに。

 油断したのだ。三ヶ月前、知事の命令に従う形で、所轄と本庁が外国人不法就労者の一斉摘発を行なった際、約一千五百人強を掃除した。大半は国の収容所に入れ、一月前に、本土へ送還した。それだけで凶暴な犯罪者は駆除され、通りは綺麗になったと信じていた。

 だが、泥溜りのような街の暗部には、金を払って取締りの網をすり抜けた幇の会員や、親に逃がされた子供が残っていた。死んだ清水巡査部長はそう言っていた。そもそも追い出された連中の大半は南方系で、古くから居る北方系は事前に情報を掴んで外出していたとも。

 どちらにせよ、あの化け物が残り粕を始末してくれるのは、治安の為にも結構ではないか。

「だけど、なんで俺や清水のおっさんまで…」

 いや、理屈を説いてもしょうがない。襲って「良い」人間と「悪い」人間の違いなど虫けらに解る筈が無い。あの化け物の頭は外国人犯罪者と同じなのだ。

 堂々巡りを繰り返す思考を、物音が遮った。つい飛び上がり掛け、手錠に引き戻される。

 見ると、開いたままの扉から、阿明と呼ばれた少年が戻ってきていた。相変らず腹は歪に膨らみ、髪の毛はざんばらに顔へ掛かって惨めな態だが、血のこびり付いた皮膚には、傷は跡形も無い。

 訝る彼を前に、少女のような顔立ちの少年はよろめきつつ、椅子へ近付くと、先程のように膝元へ屈みこんだ。また、頼みもしない奉仕をするつもりだろうか。

「またか!?やめろ、××××!」

 咄嗟に出た差別用語には頓着せず、阿明は髪の毛から細く煌く何かを取り出すと、巡査の足首を捉える拘束具を弄り始めた。

「何してる!やめろと言ってるんだ。それは無理に外そうとすると…肉に食い込…」

 一瞬圧迫が増してから、金属の噛み合う音と共に鍵が外れる。信じられぬ出来事に目を丸くしていると、彼の手首に細い指が伸び、同じように針金を操って鍵を外した。

「畜生…警務部の奴等がたまげるぜ…」

 呟きに耳を止め、少年が顔を上げる。飯綱は悍しさを堪えつつ、相手の意図を測りかねて、眉を潜めた。

「どういうつもりだ?」

「お巡りさん。僕喋るの上手くない。だから良く聞いて。今すぐここから逃げてね。まず、廊下の一番奥の非常階段から…」

「待て、あいつは何処にいる?此処はどこだ?お前は何で俺を助ける?」

「…順番に…話すから、待って。あの魔鬼寝てる。さっき失敗した。今度は良く寝てる。起きない。それから此処は、街のどこかにあるアパート。詳しくは解らない…」

 巡査は強張った手足を解す間、うんうんと頷きながら埃塗れの部屋を見回した。アパート?こんな刑務所みたいなアパートがあるのか。ああいった化け物や三国人が隠れ住むには持って来いの巣だ。自分が知事だったら残らず壊してやるのに。

「待てよ?さっきって、お前があの…あの」

「ごめんなさい…ばれたら…針金…取上げられる…」

 阿明は顔を赤らめ俯いたが、直にそれどころではないと気が付いてまた先を続けた。

「お巡りさん逃がす。他のお巡りさん連れてくる。魔鬼、やっつけられる。ね?」

「やっつける?」

 あいつは三国人を始末して…いや、野放しにしておくのは危険すぎる。子供に利用されるのは癪だが日本人を襲わないという保障は何処にも無い以上、やはり片付けるべきだ。

 彼はまだぎくしゃくする脚を屈伸させて、裸の少年に尋ねた。

「俺の銃はどこだ?」

「銃無い。魔鬼捨てた。それに小さい銃駄目。機槍要る。解る?」

「マシンガンか。それで倒せるのか」

「そう…不无…でも沢山連れてきて。赤鯨幇の殺手十人で、一匹やっつけただけ」

 殺手とは穏やかでない。やはり黒社会と繋がりがあるのか。綺麗な顔をしていても所詮は犯罪者の仲間だ。飯綱は警官の顔を取り戻してねめつけた。

「幇とお前はどんな繋がりがある…」

「ええと…ゾウキ?お母さんの借金…飛機…乗れない、日本の子供、使う…難しい…でも、もう質問なし。話聞いて。僕とお巡りさん別々に逃げる。魔鬼、片方だけ追う。解る?」

「解る…が、どっちに来るか解るのか」

「僕、捕まえやすい」

「しかしそれじゃ時間稼ぎにならん…」

「…外道没有!捕まる。二人とも死ぬ、意味無い。あいつ殺すのに時間掛ける。解る?」

 興奮して喋ると意味は良く解らなかった。しかし、試すほかに道は無さそうだった。飯綱は同意の印に首を折ると、言われた通り忍び足で廊下へ進み、非常階段へ向う。それを確認した阿明は、窓から身を乗り出し、ふわっと猫のように飛び降りた。

 扉の把手を廻しながら、理性が囁きかける。あのチビはこっちを囮にして逃げるに決まっているじゃないか。自分が殺されるための作戦など有得ない。何のために彼を助けたかなど…。

「阿明!悪い子だ。逃げるとお腹の子が早く孵るぞ!」

 化け物の声が静寂を劈き、飯綱は急いで階段へと転び出た。真相がどちらにせよ、化け物は三国人の方に気を取られたのだ。この機会に逃げ延びるよりほか無い。好都合にも、少年は愚かしく甲高い挑戦の叫びを上げている。

「魔鬼!お前は終り!幇の兄弟達、大陸から道士連れてきた。油と火に焼かれて死ね!」

「奴等が、半々の臓器にそこまでする訳ないねぇ。ほら、一匹目の子が孵るぞ。狂う程の快楽を呉れてやろうわぇ…」

「うぐぅう…あいぁああ!…」

 逃げろ。今の内だ。放っておけ。時が時ならお前があの子供を殴り、収容所に放り込む仕事をしていたんだ。いや、もっと酷い事さえしたかもしれない。

 初めからあいつ等に係りさえしなければ、清水巡査部長も自分も今まで通り生きて行けたんだ。それにただ逃げる訳じゃない。応援を呼んで化け物を始末するためだ。

 彼の足が止まる。

 いや違う。奴は、捕囚が逃げたと気付けば、すぐ此処を離れる筈だ。そして、二度と警察の前に姿をあらわすまい。少なくとも公然とは。だが、それで助かるのか?姿を見た自分を、奴は決して忘れないだろう。巡回中、休暇中、あらゆる時に、狙い続けるだろう。

 今だけだ。彼方より此方が優位に立てるのは。応援を呼ぶ暇など無い。どんな子供にだってそれは明らかだ。あのチビは解っていて逃げる提案をしたというのか。

「畜生!俺は警官だぞ!」

 武器を探せ。

 およそ警官らしくない行動だった。治安組織の構成員が不必要な危険を冒すのは、全体の損害に繋がる。もし死ねば、清水巡査部長や自分の失踪について、真相は闇に埋れるのだ。

 赤錆びた階段の手摺から、一本の鉄棒が外れかけている。手に取ると、べったりと茶色い粕がつく。肩の筋肉に力を込めると軋みを立ててそれが千切れる。中空で、あまり重みがない、振り回すには不十分だ。だが、ぎざついた尖端は突き刺すのに都合がいい。

「くはは、産まれ落ちていくなぁ。わしの子等じゃ。元気過ぎて腹を噛み破るかと心配したが…どうしてどうして母体思いの優しい気性ぞ」

 地階に下りて、裏手に回ると、化け物が喋くりながら、蹲る阿明の側へとにじり寄るのが見えた。少年の排泄口からは何匹か化け物のミニチュアが溢れ、顎を鳴らして耳障りな音を鳴らしている。

「この調子なら、今度は倍の量を産み付けてやれようなぁ…お前が女でなくて残念よ…女なら前も使って…」

 疾る。

 複眼が此方を向く。棘と針とが瞬時に臨戦体勢へ移り、ずんぐりした影が横へぶれて姿を消す。刹那、警官は背を屈め、首筋を掠める針を躱すと、転がるように少年の側へ歩み寄って、力いっぱい無力な幼生を踏みつける。嫌な感触と共に、革靴の舌で畸形の甲虫が潰れた。

「貴様ぁ!」

 構わず、素早い動きで逃げ回る他の子供を踏み潰す。慣れたものだ。警官になって以来、虫けらを潰すよりほかに仕事をしていない。一匹が生意気にも親そっくりの棘を突き出して、踝を突き刺してくる。痺れるような痛みに歯を食い縛りながら、そいつを手にした鉄の棒で貫く。

「許さん!」

 化け物の怒りが空気を焦がす。だが、怖くなど無かった。虫けらは所詮虫けらだ。首筋と肩に突き刺さる肢を掴んで思い切り地面に投げ降ろす。

 ぐしゃっと複眼が潰れ、化け物の身体が弾むと、肢を上にしてぐるぐると回り出す。

「目が!目が!」

「…虫けらがぁっ!逆さにされたら何も出来ないって訳か!」

 まだ手足をばたつかせる幼生から鉄棒を引き抜き、もがく親の柔らかな腹の辺りに突き立てる。刺激臭のする液体が噴出し、化け物はぎちぎちごぼごぼと不様な音を立てた。

「てめぇら虫けらは!全部同じだ!どんなに固くても、腹から下はぶよぶよなんだよ!」

「ギィィィィィィィッ!!苦痛を…わしの子に喰われろ」

 何度も棘が突き刺さる。毒が手足を痺れさせ、粗末な槍を支える体力を奪っていく。だがどんなに悪あがきをしても、敵が助からないのは確実だ。霞む目で、阿明の方を見ると、まだ出産は続いており、新に五匹ばかりが後孔を抉じ開けて現れ出でようとしていた。

「畜生…」

 舌打ちしながら、しかし青年は少し満足そうに笑う。化け物の過剰な毒のお陰で、腸液に濡れた小さな化け物の群が足元へ辿り付く前に、三度目の失神を迎えられそうだった。




















 三度目の起床は病院だった。

 飯綱達也巡査は全身に包帯を巻かれて、個室に横になっていた。傍らには顔も知らぬ壮年の男が腰掛け、駕籠から取った林檎を果物ナイフで剥いていた。白いカーテンを光と風が揺らし、そう遠からぬ所で忙しげに働く人々の足音が聞こえる。

「目が覚めたようだね」

「…あ…はい…ここは…」

「警察病院だ。つまり君は助かった」

「う…じゃ」

 頭を動かそうとして、激痛に襲われる。傍らの男は気の毒そうに肩を竦めると剥いた林檎を切り始めた。仄かに甘酸っぱい紅玉の匂いが広がる。

「無理に動かさないほうがいい。神経性の毒物のようだ。後遺症が残る」

「後遺症…あの化け物は?」

「死んでいたよ。君の言ってるのが我々の発見した巨大昆虫のことならね」

「あ、はい、それとその子供…」

「そちらも全部殺したと、現場にいた少年が証言した」

 彼は瞼を瞬かせた。畜生、それだけで痛い。全身の神経が毒に傷つけられているらしい。

「じゃぁあの子も助かったんですね」

「現在は少年課が保護している。何れ入国管理局の管轄だろうがね」

「あ、あの…」

「私か?私は公安部の田島という。階級は警視だ」

「公安?…あの、もしかしてあの化け物の専門家でありますか?」

「いや。私の専門は外国人犯罪結社の捜査だ。あの化け物を専門にしてる部署があるとは思えんね。X-Fileならまだしも」

「は?」

「もう40年以上前のアメリカのTVドラマだ。忘れてくれ。むしろ此方としては、君が回復したら色々聞かせて貰おうと思ったんだが。あれは何なのかとかね」

 沈黙して、やがて耐え難い痛みを呼ぶ笑いを必死で抑えながら、青年は呟いた。

「あれは、強姦魔です。本官は、性的搾取を受けそうになりました…あの子供の身体を調べましたか」

「乱暴されていたようだね。しかし乱暴というより…なんと言うか…」

「わざとやったのです。相手が心の底から嫌がるのを知っていながら、それを楽しむ奴でした。強姦魔以外の何者でもない」

「ほう…」

 それ以上コメントが返って来なかったので、少し話が途切れてから、また病人の方から話の穂を継いだ。

「あの子はどうなりますか?」

「親がいないらしい。取り留めの無い供述を合わせると、三ヶ月前の不法就労者一斉摘発で不慮の事故に遭ったらしい」

「殺されたのですよ。許可なく国土を侵した三国人ですから」

「警察官が使うべき言葉ではないな」

「失礼ながら、どういおうと実体は同じであります。あの子はどうなりますか?」

「本国に強制送還だな」

「身よりも無いのに?本官の推測するに、日本の生まれのようですが」

「同じようなストリートキッズを既に大量に送還している。向うの入管は嫌がってるがね。治安が乱れるという理由で」

「どこへ行っても厄介物と言う訳でありますか…」

「しかし、日本国籍が無い者を置けないのでね」

「施設は?」

「条例で、外国人は入れない」

「そうでしたね…」

 また沈黙。本題に入れず、田島警視が少し焦れているのが解った。別に気にならなかった。焦れさせておけばいい。

「あの子を幇の連中に返してやっては?」

「幇?あの子はどこかの幇とつながりがあるのか。それは口を割らなかったぞ」

「臓器だそうです。飛行機に乗れない日本の子供のために、闇の臓器を国内で提供しているとか」

「ほぅ…興味深いな。どこの幇だね」

「赤鯨幇とか聞きましたが」

「初耳だな。しかし、調べてみる価値はありそうだ。よし、疲れたろう、ゆっくり休みたまえ」

 いそいそと立ち上がる公安部の男に向け、飯綱は少し抑えた口調で尋ねた。

「養子として引き取るということは出来ますか?」

「何?何だって?何の話だね」

「本官が阿明を養子として引き取る事は可能でしょうか?」

「正気かね?外国人、それも大陸人だぞ?」

「正気であります。あの子は重要な情報源でしょう?警察関係の施設に入れるか、さもなくば名目をつけて拘置所に軟禁。だったら本官が引き取る形で監視下に置いてもいい筈です」

「君を捜査に噛ませろと?」

「お邪魔でありますか?本官自身も貴重な情報源になる意欲は充分にあるのですが」

「…いいだろう。何故かあの子は君の心配ばかりしていたからな。君に我慢が出来るなら丁度いいかもしれん。しかしどんな心境の変化だね。個人情報台帳では思想的に…」

「別に、ただ…」

 ただ、何だろう。

「性的搾取を受けた子供に対する、警察官としての義務だと思っただけであります」

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