夕陽より強い茜の鬣をした少年が、汀に打ち上げられていた。素肌は汐に濡れて、海藻が四肢にからみついている。瞼は閉じられ、赤児のように丸まった四肢はぴくりともしない。だが年ごろのわりに厚みのある胸だけはかすかに上下していた。 三日月の弧を描いて伸びた浜。雲間から差し込む薄日が、砂の上の生きた漂着物を照らしている。やがて砂を踏む音が近付き、ほっそりした人影が上に覆い被さった。 夜よりも昏い色の袖に包まれた細い手が伸びて、眠れる子の額から前髪を払う。すると彫りの深い面差しはかすかに強張り、目を開いた。真紅の双眸を。 「そうか、君が…」 燃える瞳を覗き込みながら、人影は、男とも女ともつかぬ声で低く呟いた。次いで屈み込むと、まだ半ば夢から覚めぬ態で横たわった裸身を優しく抱え起こす。 「お前は…誰…」 かすれた喉で、少年は尋ねる。 「佐藤といいます。このあたりの土地を調査している、四菱GMという会社の者です」 そう名乗った黒衣の人物は、片方の腕を回して、剥き出しのまま震える肩を支えてやり、もう片方の腕をはたきのように使って粗びた皮膚から砂とごみを払い落とすと、しゃんと背を伸ばさせ、長套を脱いで着せ掛けた。 「立てる?」 問いかけられた方は、初めて意志の篭もった眼差しで相手を眺めやった。臙脂の両眼に映ったのは、そう齢の離れていない、蒼褪めた顔だった。尖った顎、水鳥のような首、痩せぎすの肩。どこからどこまでも脆そうな作りに、喉にはまった古い首輪が異様に浮き立って見えた。 「さとう…なぜ…そんなに…悲しそうなんだ…?」 言葉は自然にこぼれていた。 「悲しそうかな…ごめん」 ぎこちない微笑みが返る。とても温かかな表情だった。少年は安堵したようすで、肩を抱いてくる華奢な腕に重みを預けた。佐藤は意外な力強さでそれを受け止めると、問い直した。 「立てなそう?」 「立てる」 長套にくるまった体がすっと腰を上げる。ふらつきもしない。介抱していた若者も従うようにすぐに立った。 「…ここはどこだろう」 塩のこびり付いた唇が呟く。答えは間を置かずに返ってきた。 「秋の島。日本ですよ」 「今はいつだろう」 再び応えがあったが、意味を成さない数字と年号だった。言葉は通じる。だが固有の名詞は皆、ぽっかりと穴の空いた心をすり抜けていってしまった。 「俺は…誰だっけ…」 「分からないな…それは」 申し訳なさそうに呟く佐藤を、少年は不満げにねめつけた。 「お前は…知ってるみたいだった…」 「夢で見たんです…君のことは」 「夢…」 燃える赤髪を、海から吹き付ける風が揺らした。裸身に巻き付けた墨色の長套がかすかにはためく。やがて虚空を覗いてた臙脂の虹彩が急に狭まり、輝きを増した。 「マーズ」 「それが君の名前?」 黒衣の若者が尋ねると、相手はぼんやりと頷いた。 「俺はマーズ。マーズだ」 それから時はあっというまに過ぎた。驚きと学びと、恋と戦いと、涙と笑いと。誰しもが送る人生の事々が押し寄せ、思い出を流し去っていった。やがて、いかなる奇蹟さえも霞ませる、延々とした日常が二人を取り囲み、隔てていった。あまりにも多くの義務が、課題が、責務があった。あまりにも多くの。 佐藤が、最初の鮮烈な出会いを省みたのは、ある雨の日。病室の寝台の上でだった。ちょっとした事故で負った怪我から入院を強いられ、忙しい会社経営の仕事から遠ざけられ、久しぶりの空き時間を使いあぐねていた時だった。 丁度ひまに任せて、喉元の首輪を撫でながら、手元に置かれた機械仕掛けをいじり、馴染みの占い遊びをしていた。四角い画面に浮かんだ水晶球は、いつものごとく不吉な未来の絵を投げかけていた。影法師が子供のころから、ひまを盗んでは続けている戯れだが、このところ益々、正確、精密に起こり得る災いを当てるようになっていた。事故についても数日前に暗示していたほどだ。指を伸ばせば触れそうなほど艶やかな石英の曲面に、じっと魅入っていると、あまたの滅びの景色の彼方に、かつて訪れた三日月の浜が覗いたのだった。 「…マーズ」 ”マーズのために死ぬ勇気はできたか” だしぬけに淡く光る宝珠の向こうから、女の声が問い掛けた。まるで魔法の名前に呼び起こされたように。佐藤は静かに首を振った。 「いや」 ”なぜ死なない。お前が生き続けるほどに破局は大きくなる” 「まだ仕事が終わっていない」 ”あらゆる兆は、お前が死ぬべきと告げている。先日、放たれた弾丸がただ一発でも、お前の頭蓋を貫いていれば、すべての縺れた糸は解けたであろう” 「違う。誰かが仇を討とうとして誰かを殺し、結局は争いが広がっていくだけだ」 ”誰がお前を悼むというのだ。人ならぬものよ。誰が仇を討つと” 「今はまだ少しいる…せめて…もう少し待たないと…もう少し…」 ぼそぼそと呟いていると、不意に病室の自動ドアが開いて、背広を着た丈の高い男が入ってきた。怪我人が機械をいじっているのに気付くと、切れ長の目をかすかに吊り上げ、足音を立てぬ歩き方で素早く寝台に近付き、さっと手を伸ばして、画面を閉じた。 「総裁。MECの未来予測ゲームはもうしないと約束したはずでしょう」 「…ごめん劉大哥」 いたずらをとがめられた子供の如く、ばつ悪げな佐藤に、劉と呼ばれた男はちょっと言葉を詰まらせてから、相手の華奢な肩を布団に押し戻した。 「ちゃんと寝ていて下さい。それと大哥は止めて下さい。私はあなたの秘書ですから」 「はい。劉さん」 素直な返事。しかし秘書は疑わしげに主人をねめつける。 「分かってるんですか。死にかけたんですよ。医療ロボットがあなたの胴から二十発の弾丸をほじくり出すのを、私はずっと側で見ていたんです」 「ごめんなさい」 年下の上司がするへりくだったものいいに、部下はまた語句を途切らせて、お手上げというように天を仰いだ。ややあって溜息を吐いて、頭を左右に振る。 「いえ。こちらこそ。体に障るような事を…その。今日はご家族からの手紙を届けに来ました」 「そう?」 驚いたようすの佐藤に、劉は黙って記録媒体を差し出す。 「お義母様からです。私が焼いて来ました。中身は暗号化してありましたが、総裁なら解けると」 「ああ。うん。あとで見ます」 答えてから怪我人はしばし、見舞い客を眺めていたが、おずおずと口を開いた。 「少し外の話を聞かせてくれませんか」 「だめです。仕事の話も、ほかの心を騒がすような話もするなと医師から」 「もうほとんど治ってるんです。体が頑丈なの知ってるでしょう」 「…しかし」 「じゃぁ命令です」 にっこりする主人に、秘書は憮然と相対していたが、結局は折れると、近くにあった椅子を引き寄せて座る。 「といってもどうせ、病院のセキュリティは破ってしまったんでしょう」 「ニュースと世間話を読んだだけ。ネットに出ていない話もあると思って」 「そうですね…ではいいニュースから。ラテンアメリカ委員会は、我が四菱GMと前進集団の経営統合を今週中にも承認する見通しです。オリヴィエラ委員から言質がとれました」 「すごい!シルバさんのチーム、とうとうやりましたね!」 顔を輝かせる佐藤を、劉はしばしぼうっと見つめていたが、急に視線を逸らし、そわそわと手を擦り合わせてから、先を続けた。 「その。もう一つ。インド下院には年内に”ロボットの権利法案”が提出されます」 「そっちも!?」 寝ている場合ではないと身を起こそうとする四菱GMの総裁を、側近はきつい視線で釘付けにして、また横にならせる。 「予想よりトトグループに有利な法案になりそうです。一緒にうちの整備工場を狙い撃ちにした規制を押し込みそうな勢いですね」 「採算合わなくてもバンガロールに工場を建ててよかった。うまくあおられたね」 「うまくいってるどころか最悪です。しかし総裁は口を出す権利はありませんよ。公式には昏睡が続いている状態なんですからね」 「お陰で株価は上がったでしょう」 くすくす笑う少年のような経営者に、腹心は眉をしかめた。確かに大手投資システムはそろって、四菱GMグループの一時的な首脳交代を高評価していた。永続的であれば望ましいという意見を公然と出すアナリストロボットもいた。 「恩知らずです。奴等は」 劉はさらに言い募ろうとして、急にまた口ごもった。ロボットを罵ったとたんに、佐藤の頬が強張ったのを、目敏くとらえたからだった。 「ほかには?」 主人に明るく尋ねられて、秘書はほっとして話の穂を継いだ。 「総裁を襲った奴の…背後関係はまだ掴めてません。中東植民地の帰還兵で反ロボット主義者ですが、どこの組織にも属してない。以前”人権擁護同盟”の枝に入ってたようですが」 「事故ですよ。こっちがうっかり警備の外へ出ちゃっただけ」 「機関銃の乱射は事故ではありません。いずれ調べがつきます」 「…はい…」 弱々しく相槌を打つと、四菱GMの総裁は一分以上ものあいだ黙り込んだが、しばらくして気を取り直し、また質問を投げた。 「マーズの身の上について、新しい情報は?」 「は…いえ…まだ」 「そうか…僕がおざなりだったからな…ここのところずっと」 だんだんと佐藤が暗くなるにつれ、劉は落ち着かなげになる。 「あの、そろそろ手紙をご覧になっては?マーズ君も何か書いているのでは」 「そうですね…楽しみにとっておこうと思ったんですけど…」 蒼褪めた手が機械の記録媒体を収め、画面を開くと、すぐに錠のかかった小箱の絵が浮かぶ。続いて文字盤を次々に叩いて鍵を外すと、箱の蓋がゆっくり開いた。ベッドの怪我人は小さく息を吐き、さらに操作を進めようとしたが、やおら傍らの見舞い客が立ち上がって背を向けたのに驚いて、軽く瞬きした。 「劉さん?」 「お構いなく。ご家族の私生活を覗き見するつもりはありませんので」 「別にたいしたものじゃないと思いますが…そうしていられると落ち着かないから、こっち向いて下さい」 「は、はい」 部下が慌てて向き直ると、若い上司は微笑んでまた端末に視線を落とす。象牙の箸のような指が、楽器を奏でるがごとくに動いた。 手紙の再生が始まると、紙芝居のように何枚もの写真が現れては消える。初めは緑の芝生ではしゃぎまわる双子の少年と少女。下に題名として”ちびども”と書かれている。どちらも佐藤によく似た容貌をしていた。 「弟と妹です。大きくなったな…」 佐藤が顔をほころばせたので、劉はほっとしたようすだった。 続いて画面を占めたのは、まだ若さのなごりをとどめた学者風の男。線の細さを除くと、こちらは余り佐藤に似ていない。何やら満面の笑みを浮かべ、迷彩柄の腰布と、面積の小さな水着を付けた女の子に肩を回して写真に収まっている。女の子は、無表情というか、仏頂面だった。”趣味人”と書かれている。 「あはは、お父さんと翼だ。写真を撮ってるのは潮兄さんかな」 義母の不機嫌そうな主婦姿も何枚か。特に題名はついていなかった。やがて撮り手が交代したのか、やたらと背の高い、浅黒い肌の青年も映った。肩には先ほどの二人の子供がしがみついて笑っている。”物干し竿と洗濯物”とある。 「皆元気そう」 やがて黒と白のお仕着せをまとった娘が現れる。黄金の瞳を画面の外へ向け、片手は手作りの林檎菓子を銀の盆に乗せ、もう片手でつまみ食いをしようとする双児を巧みに遠ざけていた。”家宝”。 「うん…」 とうとう赤髪の少年が現れる。家から庭へ降りる階段に座って、本を開き、撮影に頓着せず熱心に読みふけっている。”いそうろう”と題がついている。 「マーズだ。うちの大所帯にすっかりなじんだ…ね?」 「そうですね」 総裁が不安げに同意を求めるのに、側近は大人しく相槌を打つ。本当は何とも判断しかねるという面持ちではあったが。 「最初は大変だったんですよ。喧嘩ばっかりして。掃除の邪魔だとか、食べ過ぎるとか、今まで言ったことなかったのに…」 誰についての話なのか判然としないまま、ぼんやりとした台詞が続く。 「…でも、あの二人は一番似てると思うな。意地っ張りなところとか」 「そうですか…」 「はい…」 写真に続いて動画が始まる。家庭の宴会。皆が仮装している。双児は犬と猫の着ぐるみ、翼という子供は空挺部隊の兵士、一家の父は普段着に白衣という手抜き、義母は男ものの背広を鋭く着こなし、山吹色の目をした娘は、黒を基調に褶飾りをふんだんに使った西洋人形のような衣装、赤髪の少年はあっさりと学生服だ。 全員そろって札遊びで王様を決めて命令をする、という戯れに興じている。 やがて王様に選ばれた双児の片割れが叫ぶ。 ”イチバンとヨンバン。キスする!” どよめき。だが名ざしを受けた二人は不機嫌そうだ。 ”はぁ?俺にこいつと、口をくっつけろって?” ”マーズとは、拒否いたします” ”だめだめ!するの!するの!ゼッタイする!オウサマゲームなんだからしなきゃだめ” 駄々をこねる女の子に、赤髪の少年はうっとうしげな眼差しをくれてから、つかつかと黄金の瞳の娘に歩み寄る。 次の瞬間。一方が一方を抱き寄せて、唇を塞ぐ。画面がかすかに揺れる。 ”ほら。これでいいんだろ…っ!?” 動画は烈風の音を拾っていた。不意打ちを受けた娘は、表情を凍りつかせたまま、すさまじい迅さで平手打ちをしたのだ。だが少年はあっさりと手首をとらえて攻撃を止める。 ”な…なんだよ” ”マーズ。お前を破壊します” ”またそれかよ。何で口をくっつけただけで破壊されなきゃいけないんだよ” ”手を離しなさい” 娘の髪が蛇のようにのたうつと、少年はけげんそうに握った指を開いて、一歩離れる。だがさらなる修羅場が始まる前に、双児は歓声をあげると、画面に向かって突進した。 ”潮ニイちゃん、とったよね!やったー。これでマーズと ”ちがうよコイビトじゃだめだよ。ケッコンするんだよ!そしたらマーズはずっとうちにいていいんだよ!どこへもいかなくていいの!” 双児の男の子の方が、容と呼ばれた娘に駆け寄る。 ”するよね?ねぇマーズはケッコンしたら、キョウセイタイキョにならないんだよ” ”該当の法律はロボットには適用されません” ”えー。ダイジョウブだよ!ヨツビシのソウサイさんにメールしたもん。ロボットとにんげんがケッコンできるホウリツをつくってくださいって” 容はますますしゃちこばった。 ”一企業の代表者に立法権はありません” ”でもへんじきたよ。じかんはかかるけど、やってみるって、かいてあった” ”そうですか。ところで、そろそろ料理をお持ちします” 黄金の瞳の娘は顔を背けて歩き去っていった。不審げに見送る赤髪の少年に、後ろから双児の女の子が頭突きする。 ”もう!はやく容ねえちゃんおいかけて” ”何で?” ”いいからはやく!おてつだいしてきて!いそうろうでしょ!” マーズは首をひねりながら足早にあとを追っていった。画面は暗転する。 ばさっと音を立てて、佐藤は枕に頭をもたせた。額に相当な脂汗を掻いている。劉は気の毒げに見守っていた。 「すいません…こういう内容とは…」 「え?別に…ホームビデオじゃないですか…ふつうの…」 「はあ。あの女…いえ、お義母様らしいやり方ですね」 「何がですか?そんな、妹が…ちょっと…ゲームでキスしたぐらい…何てことないですよ…はははは…」 声が震えている。世界に冠たる企業帝国の長らしくもない動揺ぶりだった。上司と部下の関係になる前から付き合いの長い相方は、”妹”への過剰な思い入れを把握しているだけに、益々申し訳なさそうになる。先ほどの動画はどんな毒よりも銃弾よりも危険な代物だったと、察しがついていた。 「どうして…総裁は帰省されないのです…?」 「…え…いや忙しくて…」 「家族と長く離れているのは健康によくありませんよ。せめてお側に使い慣れた家庭用ロボットを置かれてはいかがですか。実家から送ってもらえばいいでしょう」 「いえ…自炊は得意ですし…」 業界最大手のロボットメーカーの経営者が、実は身の回りに一体のロボットを置かないというのは、世間体が悪いですよと畳み掛けようとして、劉はしかし、結局やめた。代わりに怪我人にはあまりすべきではない話題を持ち出す。 「以前にもありましたね」 「はい?」 「うちの整備本部が匙を投げたバベル大学の高度科学実験用ロボット。他社が手がけた特別製のモデルを、総裁はご自分で修理された。まるで不可能を可能にする天才外科医のようでしたよ」 「ああ。あれはサハドさんでもできたんですけど。ちょうど大阪に出ていて留守で。ほかに間に合う人がいなかったから」 「総裁はロボットを助ける時はいつも一生懸命です。ケープタウンの反ロボット暴動の時も真先に現地入りされた」 「いや劉さんが先でしたね」 「茶々を入れないでください。総裁がロボットを愛しておられるのは分かります。でも問題が片付くとすぐにロボットの側から離れる。バベル大学の件でも、ケープタウンの件でも。何故ですか?」 「忙しいからだと思いますけど…」 真直ぐ目を合わせて返事をしない。すぐ嘘だと分かるくらいには、秘書は主人を知っていた。 「マーズ君にしてもそうです。迷子の仔犬みたいに拾ってきて。身寄りを探すよう手配して、あれだけ世話を焼いていたのに、落ち着いたらすぐ家族に預けて」 「いや、僕だと何もしてやれないから」 「何を怖がってるんですか?」 「別に怖がってはいないですよ」 「この劉献まで遠ざけようとしていませんか。つまらない伝言役をさせられていなければ、狂った反ロボット主義者がお体に傷を付ける前に、この私が奴を仕留めていましたよ」 「偶然です…」 「いや、あなたはあの銃撃を予測していた。私を巻き込まないためですか?私を信頼していないのですか」 「信頼しています」 さらりと総裁が口にした台詞に、側近はもう詰問を続けられなくなる。 「まったくずるい方だ…」 「すいません」 「手紙は処分しておきます」 部下が腕を差し延べるのを、上司は軽く首を振って断った。 「いや、まだ続きを見てませんから」 「まだ見るんですか。こんなもの」 「家族が映っているんです。大切なものです」 ”おにいちゃん。じゃなくてヨツビシのソウサイ、でいいよね。容ねえちゃんとマーズはいまおなじコウコウにかよってます。容ねえちゃんはコウコウではチカラをだしちゃいけないから、マーズにまけちゃうみたい。おこってる。でもなかよしだよ。おべんとうをふたりで、おくじょうでたべたりしてるの。マーズがおのこしするとすごくおこるの。マーズってどうしておべんとうおのこしするのかな。容ねえちゃんのおべんとうおいしいのに。でもおにいちゃんのスブタもおいしいからまたかえってきたらつくってね。じゃあね” 双児のうち、女の子の方が、両手の人差し指と中指を蟹の鋏のように動かしてにっと笑う。押し退けるようにして男の子の方が割って入った。 ”容ねえちゃんとぼくがケッコンしようとおもったのに、きょうだいはだめだっていわれた。はやくホウリツつくってね。あと、こいつがマーズとけっこんすればいいのに” ”マーズはあたしじゃだめなんだもん。容ねえちゃんみたいなオトナのオンナノヒトじゃないとだめなの。それに容ねえちゃんだってマーズのこときにいってるんだよ” すぐにまた声が混じる。よく似ていて聞き分けるのが難しい。 やがて画面が切り替わった。今度はやや年嵩の少年、翼が敬礼して立っている。 ”総裁閣下。自分は先日、戦闘機形態での実戦訓練に参加しました。新型の機体で飛ぶのは意義ある体験でした。自分は、閣下の護衛に配備されない理由を理解できておりませんが、ご命令に従い、お呼びがあるまで訓練を続けるとともに、博士と閣下の家族を守ることに全力を挙げます。しかしながら、博士の兵装に関する趣味はやや偏向がみられます。特にあのブラジル水着という装備は効果が今ひとつ明らかでなく…” 言い終える前に次へ移ってしまった。丈高い青年、長兄の潮が立っている。 ”総裁。あなたの選択が正しいと私は思っていないが、ロボットは人間を止める力はない。しかし覚えておいて欲しい。あなたの亡くなったお母様も、あなたのように秘密を抱え込んで、結局家族を悲しませた。同じ間違いを犯さないで欲しい” さらに表示が切り替わる。白衣の父が立っている。 ”やぁ総裁。っと呼ばなくちゃいけないんだな。今でも実感がないよ。息子の出世には。愛妻とともに、すっかり基礎研究にのめりこんで、あまりそっちには貢献してないが、活躍はいつも聞いてる。ロボットのことをここまで考えてくれたのは嬉しい。だが、たまには帰ってこい…そうだ。すっごい似合いそうな服を買ったんだ!チャイナドレス!もうスリットがきれいでさ!ぜったいにお前の脚にぴったりなんだ…あと、アオザイの薄い奴も買っ…” どうやら編集した人間は、うっとうしくなると尺を詰めてしまうらしい。また画面が変わった。赤い髪の少年が立っている。 ”佐藤。いつになったら迎えに来る。翼はちょっと変な奴だが、言ってる事は正しい。今のお前の部下じゃ、お前は守れない。最初の頃みたいに俺が守ってやる。そっちが何もしないなら、こっちからいくぞ” 言葉を切ると、まだ撮影が終わらないのに戸惑ったようすで、視線を泳がせ、またおもむろに話し始める。 ”ところで容って本当にお前の妹か?すぐ暴力を振るうし、喧嘩ばかりしてる。この前もゲームセンターというところで不良とかいうのにつっかかって殴ってた。相当荒れてるぞ。出力調整とかいうのを受けてるの、忘れてるのか知らないけど、サイボーグ手術受けた奴にむかっていって、やられそうになったから、助けてやった。でお礼もしないし。何でも俺のせいにするし。この前も弁当でヒジキとかいうの残したら怒った。容のやつ、お前なら絶対残さないとかいうけど、喰えないよな。あれは” ようやく別の人物へ。 妹の容が立っている。いつものエプロンドレスで。黄金の瞳はひたと画面を見つめていた。 ”お体を大事になさってください。もし…” 途切れて暗転する。 義母が立っていた。歪んだ笑みを浮かべて。 ”総裁。下らん自己満足のために駆け回っているそうだな。しかし貴様の小細工は噴火寸前の火口に蓋をして、溶岩が飛び出さないようにしているだけだ。抑え込めば抑え込むほど、最後の爆発が大きくなる。まあ好きにしろ、その会社は自由に使え。だが契約を忘れるな。お前は権力を得るために家族を差し出した。立場の交換を提案したのはそちらなのだからな” 咳払いして先を続ける。 ”マーズという小僧の正体は俺にも分からん。お前の望み通り、それとなく調べてみてはやったがな。だが奴の中には何かが隠れている。危険であるのは間違いない。ふん。たいした爆弾を放り込んでくれたものだ。奴がうちの家宝にちょっかいをかけるのは気に食わんが…貴様にしてみれば地獄の苦しみだろうと思えば溜飲も下がる。せいぜい指を咥えていろ。だが約束は守れ。お前が責務を捨てて帰って来るなら、この茶番は終わり。ロボットと人間の戦争を防ぐ救世主ごっこは幕引きになるのだ” 「心配症だな。怪我をしたくらいで、僕が心細くとなると思ってるんです」 佐藤は笑って肩を竦めた。劉は返事のしようもなかった。 不意に画面が点滅し、水晶玉が浮かんでは消える。突如、画面に会社からの手紙が一斉に浮かび始めた。 「緊急…?」 「くそ。絶対安静の意味が分かってないのか。総裁をわずらわせるなと…」 秘書は己を棚に上げてほかの社員を罵ると、主人と頭をぶつけ合わせるようにして、小さい画面に映った手紙を斜め読みし始める。 「”ロボットの権利法案”準備の中核、ラマヌジャン議員…反ロボット主義過激派の車爆弾で死亡…」 「オリヴィエラ委員が方針転換。二日前に欧州電機連合の使節と会談…腰の座らない人だな…」 「エジプトで正体不明のロボット目撃例。スフィンクスに似ており、大型で高い破壊力。”マーズ問題”に関連ありと」 「前にもエジプトではそんな噂があったが…」 「…ニュージーランドでコンピュータウイルス変異。養蜂ロボットが反乱…三百体規模」 「あそこに反乱ロボットを拘留するような、うちの施設はなかったね。対策部隊も置いてない」 「現場担当は地元の軍に協力を要請すると言ってます」 「いけない。ロボットたちはすべて破壊されてしまう」 佐藤は起き上がると、寝間着のまま床に降りた。劉は焦って制する。 「だめですよ」 「四菱GMの総裁はここで昏睡を続けてるんだ。だから向こうへいくのは、秘書の劉献と”その弟”でいい」 「そんな…分かりました。着替えを用意するから、少し待っていて下さい」 部下が風のように立ち去ったあとで、上司は床にへたりこんだ。肩が大きく上下し、脂汗が量を増していた。ゆっくり呼吸を整え、気息の巡りを落ち着かせて、痛みを散らしていく。 「大丈夫。大丈夫」 秘書が戻ってくるまでに調子を取り戻さなくてはと、練功にもやや力が入る。だが徐々に脂汗は引き始めた。 「マーズ…」 すべての重荷を片づけたら、あの赤髪の少年を迎えに行くとしよう。佐藤はそう独りごちて、頷いた。それからうつむいて、ほんのわずかのあいだ、捨ててきた家族に思いを馳せ、別の誰かの名前を浮かべる。練功では抑えられない痛みが胸を貫く。 「ごめん…」 指で首輪をなぞって、謝罪を口にする。だが脳裏に古い夢が過る。人間とロボットの狂った戦争。四菱GMの総裁が号令するもとで、灼熱を浴びて無惨に溶けていく黄金の瞳をした娘。泣き叫ぶ赤髪の少年。現にしてはいけない。決して。たとえ周りに悲しみばかり与えるとしても、自己満足に過ぎなくても。究極の破滅だけは避けなくては。 ”では死ぬ勇気はできたか” 画面の奥で、水晶玉が問い掛ける。 「まだだ…もう少し」 |
[小説目次へ] | ||
[トップへ] |