爆発が起こったのは白昼の大通りだった。 後に憲兵が現場を調べた所、犯行に使われたのは僅かニ十ヘイリンの雑な作りの聖霊球で、ただ数ばかり十五個程、夜の内に舗装路の下に仕込んであったのだそうだ。 とはいえ派手な音と光にも係らず、小さな地霊の群は然したる被害を齎さなかった。衝撃で跳ね上がった石畳の欠片が、馬車の馭台を破り、哀れな御者の命を奪ったのを除けばだ。 だから、暗殺そのものは、その後に起きたことになる。 客席に座っていたのは例の宗教監察官―アルクス地方の陰語で赤犬―と、天領の代官―新設のもっと大層な名前がついていたが、ネゲンの町民はただ代官と呼ぶ―の二人で、どちらも改革の象徴たる 帝都フィルバルトの三文新聞が伝える通り、行列に襲い掛かったのは討伐僧だった。 折しも不法教会の一斉摘発の後で、衛士は皆、殺気だっていたにも係らず、空を斬る唯二振りの鉞に余りにもあっさり薙ぎ倒され、あのグルド戦役を潜り抜けていたという隊長でさえ愛剣を鞘疾らせる暇もあらばこそ、首を刎ねられていたという。 アルクス駐屯地からの言い訳に拠れば、最初の爆発に伴う光と音は、人間の五感を混乱させるよう、極めて巧妙に按配されたものだったそうだが、口さがない連中の間では、隠れイフラ信徒狩りの成功を祝う宴で、全員が些か酒の度を過したのではないかというのが専らの噂だ。 実際、一番果敢に抵抗したのは、皮肉にも中央から派遣された高官二人だったかもしれない。四年前のハルバ山の土一揆以来、常に調律剣を離さないで居た代官は、エコール仕込みの手の速さで、賊の片割れを返り討ちにしたという。 事件発生の三日後、"フィルバルト市民の朋"は、三面記事でその下りについて、まことしやかに語った。 「暗殺者の熱く滾る心臓に、ライオルト閣下の手になる冷たい細剣の刃が深々と突き刺さったのである」 後に続く描写は、益々信憑性がない。何せ場に居合わせた衛士の証言は、狂ったような哄笑と、真っ白な閃光を述べるのみで、実際に命を狙う側と狙われる側にどんな遣り取りがあったかについて詳細は知りようがないのだから。 だがともかく"市民の朋"の解説を信じるならば、 「急所を抜かれた討伐僧はしかし、唇の端から鮮血の泡を噴きながら凄絶な笑みを作ると、素早く套衣の前を開いた。何と、薄汚れたイフラ神官の衣の胸 に、腰に、ずらりと小さな聖霊球が巻きつけられているではないか。勇ましき閣下もこの時ばかりは蒼褪めたろう。手首の震えは、恐怖の為に非ず、聖霊の警告 であった。ああ遅かりし!次の瞬間、禍々しい共振が火霊の唱和となって天へと昇り、爆焔は馬車を飲み込んだのである」 この胡乱な文章に信ずべき点が一つあるとするならば、討伐僧の自爆攻撃が複数の聖霊球の異常共振によって引起されたという下りだ。焼跡の形、焔の燃え広がり方などを元に憲兵隊が確かめたと、アルクス代官所の御用新聞"ネゲン日報"も公式に認めている。 尤も、件の記事を最後に、同紙は検閲を受ける運びになり、政府筋からの有用な情報はもはや期待できなくなった。 無理からぬ話である。 ハルバ山に設営されていたイフラ教徒鎮撫軍の基地で、旧アルクス女伯マリ・ルフォン配下の歩兵八百余名がルフォン家の遺児"敬虔伯"ジョフロワとイ フラ教会マラク派アルクス管長オビリムの扇動により蜂起、これにマラク派の討伐僧二百、及び、ハルバ周辺六十五ヶ村の農民六千五百名以上が加わって、公然 と皇帝に反旗を翻したのだ。 規模では前回の一揆を下回ったが、多年に亘る掃討と棄教の強制に耐えて、士気は高く、しかも此度は旧領主の嫡子、さらに異端とは言え同地に根強い支 持のあるイフラの教父という神輿を戴いての行動であった。租税の運搬が滞り、関所が破壊されるに及んで、危急の報せはたちろどころに、フィルバルトへ達し た。 一揆側の要求は三つ。 第一に、先帝の御世に課され、負担となってきた人頭税の撤廃。 第二に、ルフォン家の所領回復。 最後は信仰の自由である。 古よりの特殊な土地柄とはいえ、天領の変事となれば、直接の処理に当るのは当然、天領総監であるイシュナス卿であった。時に温柔、時に苛烈な施策を以って知られる帝国の宰相は、いつも通り間を置かずして答えを返した。 即ち、イフラ神官と不平貴族の指導により、クリオン陛下の帝国改革に反対せる一揆は悉く討つべしと。動員令は皇帝の署名を得、月を移さず、第二回アルクス鎮撫軍派遣が決定された。 少年は礼拝堂の聖壇に跪き、両手を組んで黙祷を捧げていた。 高さ二十ヤードの岩の天蓋は、明りの弱い獣脂の蝋燭で照らすには、余りに広大で、静寂という名の世界で最も大きな音ばかりが、良く響いた。飾り気の ない寒々とした堂内は、ある種の荘厳を湛え、故にこそ、薄茶の野戦服を纏った童児を、いっそう、ちっぽけで、みすぼらしく見せた。 背後にかすかな靴音を聞きつけ、祈りの姿勢が解かれると、稚い頭が巡らされ、はしばみ色の双眸が、長衣を纏った老僧の姿を捉える。 「猊下」 「何を祈っておられましたルフォン卿?」 青銅の鐘のように深く通る声に、少年は身動ぎして居を正した。信仰の師に向かう際の恭順を示して、深く礼をすると、少し喉をつかえさせながら、言葉を紡ぐ。 「いえ…たいしたことでは…」 「どうぞ仰ってくだされ。主イフラへの祈りに何で恥かしいことがありましょうや」 山羊のように長い白眉が笑皺に合せて端を下げた。ジョフロワ・ルフォンはますます畏まって項垂れる。栄養不良で森烏の雛のように瘠せた矮躯が、さらに縮んだようだった。 「はい。今年の寒さが、五星の慈悲を以って少しでも和らぎますようにと」 「…おお。それなら、アルクス中の猟人や炭焼き、百姓は皆日毎に願いますじゃ。卿が同じことを乞うて何故いけませぬ」 「あの…地上の安楽を求めるようで…」 「はは。何々。確かにハルバの峰々のやまおろしも御業には違いありませぬが、炉の火をお与え下さったのもイフラ。ご慈悲は、幼子や老人を労わり給うに違い在りませぬ…とは申せ…」 ハルバ連山に蟠踞する異端マラク派の管長オビリムは、六十八年間種々の手業に使い込まれ節くれだった指で、豊かな顎髯を撫ぜながら、仄闇に両眼を煌かせた。 「今年は雪の深さと空の荒れこそ、御恵みとなるやもしれませぬわい」 少年の顔立ちから、あどけなさが抜け落ち、叛乱の首領としての厳しさが浮び上がる。 「…嵐の気配は?」 「風見の話ではあと五日…」 「鎮撫軍の先遣隊が到着するのは十日ばかり。糧食の運び入れと、人々の移動が終わるのにはあと四日あれば充分です」 「それでもやはり、ぎりぎりですな。神速を誇る第一軍ならば六日で来るかもしれませぬわい。だがわし等田舎の気違い坊主風情には…」 年に似合わぬ咳き込むような嗤いをして、高僧はしばし語句を途切らせ、瞬きしてから、傍らに居る小さな盟友の存在を忘れでもしたかの如く、独りごちるように先を続けた。 「智慧深きイシュナス卿が精鋭を差し向ける筈がありませぬ。前回も、第五軍のニ師団が牛歩の進みでやってきただけ…卿は覚えておられるかな。あれは」 「秋の初めでした。母上の訃報から三年で、私が十の時」 「恐るべき秋でしたわい。村々の教会が取り壊され、神官は追い出された。わし等マラク派にとっては二百年変わらぬ御上のやり方じゃったが、中央から逃れ来た正統派の僧は此の世の終わりのような顔をしておりましたじゃ」 深い傷を負った心にだけ聴こえる、過去からの声が、少年を揺さぶった。年寄りのようにかさついた唇が、遠い日に叫ばれた鬨をなぞる。 「ウーレー・クリオン」 「左様。あれほど熱狂した兵士を観るのは初めてでしたじゃ。昨日まで五星を崇め、救済を信じていた男女が、新たな現人神に酔って、古い事々を破壊する。まるで」 「ハルバのやまおろしのようにすべてを吹き飛ばした…」 ジョフロワの口調には、どこか夢見るような響きがあった。フィルバルトの玉座に、黄金の髪を靡かせ君臨する半神半人の帝は、辺境生まれの若い地方貴族にとって、敵すべき相手として些か複雑な存在であった。 オビリムは溜息を吐いて側の長椅子へ腰掛けた。 「…卿にはエコール・ド・ポリテクニックへの道もおありになった、と聞いておりますがな」 「入るには信仰を捨てねばなりませんから」 「…厄介ですの。アルクス生まれは」 「ええ…血と同じで…その…なんていうか…」 翁は掌と掌を合せて、呪文を詠じるように呟いた。 「アルクスの冬は長く、夏は短い。屋根に増し行く雪の重みに怯えながら、民草が縋るのはただ聖マラクの御名と五星の加護ばかりじゃ…この郷がジングリットの版図に組み入れられる前から、ベルガインの忠臣ルフォンが遣わされるより前から…息苦しい話じゃて」 ルフォン家の遺児は覚えず胸の鼓動で許された暇を数えながら、尚も祖父にも等しき男の側に留まって、問わず語りに耳を傾けていた。 「猊下は…」 「ふふ、マラクの教えを戴く者は、卿を教えられた正統派の神官とは少し違った考え方をいたしますでのう。とはいえ、地上の主権より五星の全能を敬するは同じ…」 「ルフォンもです。始祖は異郷の生れと雖も、私も母も、血肉は聖マラクの眠るアルクスの土から成った!この土地は私達のものです。イフラを信じるこの心が私達のものであるのと同じように!」 高僧は頷く。 「…じゃが皇帝にとっては、どことも変わらぬ己の土地じゃて。蒙を啓く務めと権を有しておると、考えておるのじゃろう。イシュナス卿は、イフラ退治に例外は認めぬという理由でそれを肯んじるに違いない…」 「では、此度のことが、彼等の蒙を啓く助けになるでしょう」 「うむ。たとえ皇帝に、如何なる善意があっても、アルクス人のひとりびとりから、信仰を奪うわけにはいかぬとな」 淡々とした説法に漬されるうち、若干十三歳の領主は思春期特有の昂揚に頬を火照らせ、興奮に細い肩を震わせて、固い覚悟を現すよう唇を引き結んだ。 半世紀以上も年嵩の男は、胸を刺す微かな痛みを敢えて無視すると、じっと峻厳な眼差しを注いで、頼りない痩身を強い意思でもって支えてやる。 老若は、向かい合って互いの心を噛み締めあった。 やがて不意に、礼拝室の扉が大きな音を立てて開くと、高位の騎士らしきいでたちの壮漢が踏み入ってきた。モールと縁飾りだらけで、神前には相応しからぬ程の美々しい服装だが、質素な格好の二人を前にしても、ごく泰然として羞じる風はない。 「オビリム猊下、若。ここに居られたのですか。ムスタンドの名代とか申すのが面会を求めております」 「ムスタンド…ああ。取り潰しにあった南の鉱山領主だな。ゲスハリンの北海塩田の件と同様か?」 「大して違った顔はしておりませんな、とまれ、ウナシル卿以下、既に広間に集まっております。出来れば猊下にもご出席願いたい」 「無論じゃとも。ただムスタンドは正統派の盛んな土地じゃからな。異端の儂を見ていい顔をするかのう」 不安そうに眼をしばたいてみせるオビリムに、騎士は呵々と嗤って首を振った。 「あやつが見るのは、猊下の命令一つで、黄色頭めの犬役人を始末する討伐僧一千騎にござりますよ」 「ハノサット、口が過ぎるぞ」 太眉を釣上げる少年領主に、ハノサットとよばれた伊達武者は形ばかり謝罪をして、すぐ、羊を追い立てる牧犬ようにして、二人を礼拝堂の外へと導く。 「ささ、お急ぎめされい」 磊落な喚きと共に二枚戸が閉ざされると、空気の流れに煽られて燭台の灯は危うく揺らめいた。無人となった礼拝堂では、ただ、牧犬を従えた聖マラク像の、蒼褪めた石の貌だけが、庇護すべき子等の去りし跡を、もの思わしげに見守っていた。 天領アルクスは、広さで云えば帝国でも十指に入るが、聖マラクと、彼女を崇める異端派を除けば史書に殆ど現れない郷である。山がちな地形にも係らず鉱物資源に乏しく、通商の要路もない。厳しい冬のために人口も余り多いとは言えなかった。 三百年前、帝室の忠臣にして正統派イフラ教会の善き信徒アントワ・ルフォン辺境伯が遣わされたのは、ただ独立の気風の強さを慮ってであったろう。民 族もフィルバルト周辺とはかなり異なり、質の剛い黒髪と、訛りの強いアルクス弁といえば、しばしば都での典型的な田舎者としてお笑い種になる位だったか ら、そもそも西方の出で、一介の武弁に過ぎなかったルフォン伯は、統治に難渋した。 唯領域のほぼ中央にある穀類集積都市ネゲンを首邑と定め、第二夫人に地元の大豪族ハノサット家の娘を迎えてからは、奇妙な風習や、独特な食物にも馴染み、子宝にも恵まれ、一門は接木の巧くいった果樹のように栄えた。 正統派の学僧の間には、血筋尊きルフォンが異端の半蛮族に汚染され、篭絡されたと見るむきもある。これは三代ロムロックの頃から、伯位の継承に際し て聖マラクの御名を唱え、"アルクスの領主にしてハルバの岩の玉座にいまします山々の王"なる称号を戴くようになったからだが、元来文化の違う土地を威伏 せしめる為の苦肉の策として、滅ぼされた王権の儀式を取り入れるのは止むを得無いという説の方がより有力である。 とはいえ歴代辺境伯はいずれもフィルバルトの教会から直接神官を迎えて嫡子の教育に当らせ、継承の儀式を除いては公の場にマラク派を寄せ付けなかった。その儀式とて、いわば、帝室の認可を得た後のごく私的な催しに過ぎず、ことを荒立てるほどではなかったのである。 やがてフィルバルトの正統派イフラ教会の力が絶頂期に差し掛かると、辺境でぬくぬくと教えを説くマラク派も閑視されざる所となって、大神官の請願に よってしばしば異端狩りが行なわれた。はじめ陣頭に立ったのはルフォン家の手勢であったが、派遣された討伐僧が、伯爵と邪宗との結託を指摘したので、終に は帝国陸軍による掃討が度々繰り返された。 マラク派は聖地であるハルバの連峰に立て篭もり、しばしば激しく異端審問軍や帝国軍と干戈を交えた。大の男四人が並んで歩けるような広い洞窟が幾つ も、それこそ蟻の巣の縦横に走り、交わる山岳の地形は、天然の城塞となって猛攻を阻み、冬中降り頻る雪がどんな聖霊武器より強力な働きをして、外敵を追い 返した。 将軍は揃って戦果を吹聴し、伯爵の証言も赫々たる武勲を裏書したが、二百年の永きに亘り、異端が誅滅されたことは、結局ただの一度も無かった。 アルクスは、帝国領内にありながら、フィルバルトとは別の信仰、別の君主、別の秩序に従って生き続けて来たのである。 ゼマント四世の代までは。 まつろわぬ輩への寛容さなど欠片も持たぬ支配者の登場は、貧しい雪国のささやかな安定を覆しかけた。マリ・ルフォン女伯は、異端、反骨の謗りを免れ んと、忠義を示す必要に駆られ、若い人手を掻き集めて鋤の代りに槍を持たせると、相次ぐ戦争に我先にと馳せ参じる破目に陥った。 いついかなる召集にも(ゼマントは春秋の隔てなく軍を集めた)真先に応え、民生の荒廃を省みず戦費の調達を図る辺境領主の姿は、嘗てのアントワ・ル フォンを髣髴とさせ、家臣の鑑として表向きは、なおざなりな賞賛を受けもしたが、裏ではエコール出の心有る改革派貴族から、旧弊の筆頭として槍玉に挙げら れた。 この健気な田舎者の一族が皇室に背を向けたのは、グレンデルベルト大禍以降、イシュナス卿の大胆な天領拡大策と、新帝クリオンによる廃教令に遭ってからである。 自治と信仰。全てを犠牲にして護ろうとした二つをあっさり踏みつけにされたアルクス領は、激しく中央に牙を剥き、五星旗を掲げて独立の狼煙を上げ た。それは、仇敵である筈の正統派イフラ教会の残党にとっても希望となり、また不平貴族達の影の支援もあって大きな運動となりかけた。 だが当時、マリの嫡子ジョフロワは僅か九歳に過ぎず、またマラク派のアルクス管長オビリムが一揆への参加を拒んだ為、叛乱は中核を欠いたまま大騎士 グスタフ・ハノサットの元で流産した。クリオンの長き腕たる第五軍は僅かニ師団を送るのみで、身の程知らずの烏合の衆を叩き潰し、降伏を拒んだ統領の首級 を獲って都に送った。フィルバルトでは地方のちっぽけな反動を益体もない有象無象と一緒に片付けた。 しかし、この不完全燃焼が、却って問題を長引かせてしまった。慧眼レンダイク公爵は、民衆叛乱の兆候を嗅ぎ取って平民身分の有能な官僚を送り、事態 を収拾させようとしたが、生憎フィルバルトの都会育ちの彼等と、骨の髄まで農民気質のアルクス地主連はまるで折り合わず、ネゲンの市民層を取り込めたとは 言え、統治は完全に宙へ浮いてしまった。 税制の革新や女子の服装改定、フィルバルト市政を範とした児童教育の導入など、全ては、有難迷惑として受け取られるのみであった。アルクスが望むのはただ二つ、信仰の自由と、政治の独立であった。 宰相としても、それだけは与えるわけにはいかなかった。アルクス程声高にではないにせよ、同じものを求める輩は、天領であるないと関わらず、あちらこちらに犇いて居たからである。 更に事態をややこしくしたのは、正統派教会の討伐僧や神学生からなる、叛徒の流入だった。帝国中の鼻摘みとなったイフラ心酔者の群は、唯一虐げられ ずに済む避難所として、暮らし難い山郷に流れ込んだのである。富貴や権勢ではなく、信念に拠って神官たり続けんと欲する若者は、理解不能な言葉を喋る役人 より、容易く土地に受け容れられてしまった。 かくて第二次アルクス一揆の鎮撫は、啓蒙対狂信、皇帝が代表する新しい正義と、イフラ教会が代表する古い邪悪の相克として描き出されようとしていた。 「で、結局、ムスタンドは我等にどのような援助を約束されるのか?」 苛立った様子で、一揆の参謀役であるコーリン・ハノサットが卓を叩く。主からの書状を読み終えたばかりの小太りの密使は、思わず目を丸くすると、顎肉を震わせつつ、用意していた台詞を急ぎ暗誦した。 「我が君は、護教の一念固く立たれたアルクス伯の壮挙に深く心を動かされ、激励と忠言を持って…」 「我が君にはな、既に優れた助言者が多く居られる。それとも貴公はこの場に連なる者では不足だと仰られるのか」 そう唸って、孔雀のように着飾ったまま身を乗り出す騎士に怯え、密使は椅子の背を倒して後ろへ退く。列席の騎士や、地主、討伐僧の面々は、上掛けの下に纏った鎖帷子をじゃらつかせながら、笑いを噛み殺した。 絞め殺されかけた豚そっくりの裏声が、何とか返事を搾り出す。 「わ、私はあくまで主君の名代として」 「ならば貴公の言葉がムスタンド侯の言葉。さ、答えられよ」 「その…我が君からルフォン卿への贈物がございます。友好の証として」 座に失望の影が広がるのをハノサットは憂鬱な面持ちで眺めた。わざわざネゲンからここまで苦労して連れ込んだというのに、賄賂を渡されて友好の証とは。 「入らせても宜しいでしょうか」 伊達武者が何か言おうと口を開くより先に、隣に腰掛けていたジョフロワが頷いた。 「どうぞ…」 出入り口を護っていた討伐僧が、扉を開いて廊下へ合図すると、衣擦れがして、白い被衣ですっぽりと身を覆った人物が、室内へ歩み入った。小太りの男は早速、えびす顔になって、連れへ手招きをする。 不審を誘う格好に、ハノサットの眼が細まった。 「おい、斯様な者を砦に入れるとは…」 と、声変わり前の喉から放たれた語句が、再び臣下の話を遮る。 「構わぬ。侯の使いに違いはなかろう…したが、顔を見せて戴けるかな。その方が我等も落ち着く」 密使が目配せすると、ハルバの山裾に積る雪より白い繻子の布がはらりと床に落ちた。 刹那、オビリム管長を除く全員が息を呑んだ。覆いの下から現れたのは、赤銅の肌をした娘だった。神は縮れ、焔のように紅くちらつき、切れ長の双眸は 冬晴れの空のように冷たい青に輝き、薄絹が砂時計型の胴を柔らかく包んで、たわわな胸や張った腰、太く長い腿や盛り上った肩をほっそりと見せていた。遠く ムスタンドの豊かな山々から掘り起こされた柘榴石のような、あえかな艶を帯びた唇は、賛美の視線を浴びて、微かな笑みを浮かべている。喉元、手首、足首、 臍の周りに、鋼玉をはめ込んだ黄金の鎖細工を帯びた様は恰も聖マラクの再来のようだった。 「ガーネットと申します。この者はムスタンドの産める金と石との化身として、お側に仕えましょう。我が山々の加護をお受け取りください、ルフォン卿」 「成程ハルバの山でこれほど見事な石は採れぬ…何せ貧しい土地でな。ここに居並ぶのも我が母の代からの武弁ばかりで、かような宝の扱いは知らぬ…折角だが」 輝く衣裳に目を釘付けにしながらも、ジョフロワは抑揚のない口調を保ったまま、年齢に能う限りの重々しさで、首を横に振る。しかし、マラク派の高僧は、若い伯爵と、異郷の娘を比べて、穏かに口を挟んだ。 「さてもルフォン卿。ムスタンドの玉は傷つき難く、また硬きと、この遠くなった耳にも聞えておりますじゃ。ガーネットと仰られたましたな。如何か、石の化身とあらば身に付けておられる品々にはさぞ詳しかろう。一つ教えて戴けますかのう」 女は驚く程快活に笑って会釈した。 「ええ。ありがとうございますお坊様。その為に来たんですもの。初めまして、アルクスの殿様方、と尼様方!」 中年の女討伐僧が二人、皮肉っぽく会釈を返した。ガーネットは華やいだ微笑を浮かべて卓を見渡し、滔々と喋りだした。 「こちらはパイロープ、これはアルマンディン。ともに戦士の護符として名高うございます。私は石と金属の細工師、ついでに鉱山と土木の技師ですの。 ちょっとばかり化学者でもありましてよ。黄色頭めを玉座から叩き落すべく手を差し延べたムスタンドの、友好の証として相応しいかどうか、良ければここで試 して貰っても構いません」 「これは威勢の良い女子じゃ。試すとは?」 ハルバ東麓の十五ヶ村を代表する地主が、むっつりと尋ねた。慌てふためく密使を尻目に娘はにっこりして腕を卓上に伸ばした。 「御覧なさい。ムスタンドの石と金を組み合わせて出来る業です」 男のように太く長い指が、指輪の石を二つ掌の側に回すと、素早く打ち合わせた。 次の瞬間、眩い閃光が広間を満たし、旋回する焔の尾が卓に落ちて踊り始めた。驚愕の絶叫と共に、椅子が蹴られ、飛び退った一同は、残らず山猫のように背を丸め、戦いに備えて身構えた。 「聖霊武器!」 誰かが息を喘がせながら呟くと、すぐに別の誰かが罵りと共に否定する。 「いや違う!おい、光を消せ、気違い女め!」 「すぐ消えましてよ、ほら」 熱のない光炎の迸りが始まりと同様唐突に掻き消えると、後には嫣然と佇むガーネットと、周囲を取り巻く諸将、唯独り座ったまま目を瞬いているオビリム管長、彼を護る為に傍らに留まったジョフロワが、其々互いの顔を見交わす態となった。 「火打ちとマグネシウムを遣った簡単な手品です。ムスタンドでは種が割れて誰も驚きませんけど…」 「魔女め…」 取り乱したのを恥じる面持ちで、戦装束の尼が元の席にどすんと座り込む。やや遅れて卓へ戻ったハノサットは、軽く首を傾げると、贈物としてやって来た娘の表情を窺った。 「子供騙しが戦の役に立つか。帝国軍はムスタンド以上に玩具の扱いを知っていよう」 ガーネットは整った眉の片方を擡げて言葉を返す。 「あら、今のは石と金を組み合わせて出来る事のほんの一つに過ぎませんわ。目隠しをして参りましたけど、今さっき、砦の中を見る機会を戴けて、驚きましたの。貧しいどころではありません。ここの資源は、遣い方さえ知ればムスタンドに劣らぬ宝の山ですわ」 「ほう?」 騎士の独りが、椅子を直して尻を落ち着けながら先を促す。既に全員の注目はもう、冴えない密使ではなく、このよく喋る女に集まっていた。 「そうですねぇ。鉄の鎧でも溶かす酸の液とか、火霊よりも激しく爆発する粉なんて如何です?ハルバが単なる褶曲山脈でなく死火山だと知っていれば、 もっと色々考えられたのですけど、ここにある設備だけでも、皇帝の軍隊に対抗する武器を作れますわ。冬の篭城の間にじっくりとね」 半信半疑のざわめきの中で、オビリムの穏かな、しかし通る声が響いた。 「ムスタンドでは女子までこのように博学なのですかな?」 己に話し掛けられていると悟った小太りの密使は、愛想笑いを浮かべて手揉みする。 「いや、無論ガーネットは特別。我が君の掌中の珠で、それを遣わした厚意の程を…」 「…結構。よく解りました。彼女にはもう下がって戴こう。では我等信徒の同盟が取るべき道を決めようではありませんか」 ジョフロワの台詞に、密使は大人を前にしたように卑屈に頷いて、ガーネットへ顎で命を下した。赤褐色の娘はしおらしく頭を垂れて退く。 「まず…ムスタンドとアルクスの定期的な連絡手段について…」 悠々と腰を振りながら去って行く女の背を、老僧は子供の様に煌く瞳で見送った。 オビリムの告げた通りに、雪は五日後から降り始め、山の登口を閉ざした。ハルバ近郊の村々は無人となり、到着した帝国陸軍は肩透かしを喰らって、食糧を徴発する当てもなしにネゲン周辺まで転進し、冬将軍の攻勢に耐えるしかなかった。 だがアルクスの雪は、一度本格的に降り始めると、平野でも旧正月を過ぎるまで絶対に融けなかった。時たま嵐が止むと、エピオルニスに乗った斥候が山々の間を翔んだが、足跡は消え、人も獣も影なく、調律具は聖霊の反応を捕えられなかった。 飢えと寒さを諸刃の剣として、一揆勢は大陸最強の軍隊に無言の攻撃を試みていた。 モグラ穴では、まるで地栗鼠のように糧秣を蓄えた、アルクスの農民や討伐僧が、けちけちと固い麺麭を齧りながら、笑いの少ない日々をやり過してい た。祈りは日増しに高まり、弥撒の終わりには、遥か天の高みを往く巨鳥騎に気取られるのを恐れて、神官が声を抑えるよう諌めねばならない位だった。 人々は洞窟の闇と、雪山の薄暮を行き来する影法師のような生活を、ただイフラへの信仰だけを支えに紡いでいった。慰めといえば、もはや五星の喪失を眺める必要がなくなったことだろうか。 ムスタンドのガーネットだけは、真夏の太陽のように明朗、溌剌として、入組んだ山塞の内部を闊歩した。彼女の進む所、子供等ははしゃぎ、年寄りも皺 んだ貌を緩めて、早い春の訪れを迎えたように陽気になるのだった。炉辺には、聞き慣れぬ唄を歌い、誰知らぬ物語をし、何より人の話に耳を傾けるのが得意 で、男女を問わず悩みの相談相手として優れた才があった。 実際、ハノサットもジョフロワも、いけすかない日和見勢力からの贈物に、価値を認めざるを得なかった。崩落しかけた隧道や、瘴気溜り、危険な落し穴 をいちはやく見つけ、被害に遭わないよう報告してくれたし、黒色火薬の発破や、硫酸の製法、投紐で飛ばしてエピオルニスや軍馬を狂わせる臭気弾といった、 強力な武器を発案してくれたのも有り難かった。 鉱山の乙女が、騎士や、神官、百姓から狩人まで、信頼と友情をかちえるのに一月はかからなかった。翳さえ拝んで歩く崇拝者も現れたが、本人は色恋や不和の原因となるような真似には一切係ろうとせず、誰彼となく心許せる友人としての線を保った。 例外があるとすれば、幼いルフォン伯爵を相手にする時だろう。ガーネット嬢は、叛徒の長として多忙を極める少年にだけは、機を捉えては、親すぎる位に近づくのだった。 丁度こま鼠を負い回す仔猫にも似て、微笑ましくもあり、後見役であるオビリム翁の黙認もあって、周りもあまり強く注意はできなかった。ムスタンドと しては、側女という含みも持たせた贈物ではあったが、固く不犯の誓いを守る敬虔伯の、もの知らず故の潔癖さを幾らかでも和らげられるとは、誰も本気で信じ ていなかった。 「若様、朝早くからどちらに行かれますの?ご一緒してもよろしくて?」 「すみませんがガーネット。今日は遠出をするのでお相手はできません」 洞窟の一画を、鞣革の垂幕で区切っただけの、仄暗い居室。いつのもまして厚着をし、水筒と背嚢を担いだ童児に、ありえない程薄着の娘が、にこやかに身を寄せる。 「まぁお独りで?珍しいこと。他の方はご存知ですの」 「ええ勿論。母の代から、毎年旧正月前にやることですから」 すげない答えにもめげず、ガーネットは質問を重ねた。 「何をです?」 「大掃除です」 はぐらかすような言葉に、いささか柳眉が逆立つ。 「ちょっと、どこを掃除されるんですか?このとっちらかった洞窟すべてですか?だったらまずお部屋からされたらどう?ほら埃が…」 「それはきっと、眼の中に溜まったゴミですよ。ここは昨夜のうちに済ませておきました。私が行くのは"山々の玉座"です」 娘の蒼い瞳が好奇に輝いた。 「まぁそれってどんな所です?ハルバは隈なく歩いたつもりでしたけど」 ジョフロワはちょっと小馬鹿にしたように鼻息を吐いて、背嚢を揺すり上げた。 「あなたがウロウロしたところが、我々の隠れ処のすべてだと思ってるんですか?ここは異端狩りの頃、多い時には一万人のマラク派が寝起きしたんですよ…途は長いから、下手をすると野宿するかもしれませんし、ご婦人の身には辛いでしょう」 赤銅の肌をした技師は、ズボンの布地越しにも筋肉のつき方が分る、己の太い両腿を一瞥してから、幾分わざとらしく、がりがり亡者のようなチビ助を眺め回した。 「まぁ子供なら平気なんですか?どこかで物凄く天井が低くなって、ちょっとでも身長が高いとだめだとか?」 叛徒の長は反駁しかけて、思い留まり、降参の印に肩を竦めた。 「いえ…でもついて来られるなら、きちんとした装備が要りますよ」 ガーネットは、得たりとばかり微笑んで、踵を返す。 「すぐ用意します」 「すみませんが時間が余り無いので」 「あら、待たせません」 四半刻も経たぬうちに、娘はしっかりと遠出用の格好をして戻って来た。ハルバの山羊革を、黒杉の渋で鞣した薄く軽い緞帳は、洞窟内で眠る際に空気の 流れを遮って、天幕の代わりを務める。岩璧に打ち込む鉄釘と木槌、やはり山羊革を鞣して糾った貴重な紐まで、どうやって借り受けたのか一通り揃えていた。 少年領主が憮然としてそれぞれの道具を点検していると、ムスタンドの女は気持を宥めるように囁きかけた。 「オビリム様が貸してくれました」 「…そうですか」 「眉間に皺を寄せると、お爺さんみたいですよ」 「…そうですか。じゃぁ行きましょう。私の後ろについてください。苦しくなったら、すぐ教えて。かなり登るので、空気も薄くなります」 「はーい」 二人は暁闇も曙光も知れぬ洞窟の闇を、角燈の照らす光輪を頼りに歩き出した。いつの時代に刻まれたともしれぬ古い階段を登り、無数の分れ道を記憶の地図に沿って辿って、次第に居住区から遠ざかっていく。 「寒くなりますからね」 童児の注意を、年嵩の娘は朗らかに打ち消した。 「動いていれば平気ですわ…でも夜は辛いでしょうね…この革の緞帳は本当に便利。薄くて軽くて、洞窟の中ならどこでも寝られますものね。これをもっと沢山作って、隙間風の吹き込む所に吊るせば、居住区は快適でしょうに」 ジョフロワは早足になりながら、瘠せた肩を聳やかす。 「そうしたら、三日もしないうちに我々の大半が死にます。以前マラク派の一部がそうなったように。あなたが隙間風と呼んでるのは、わざと設けられた空気穴ですよ」 「あら…私としたことが、考えが足りませんでしたわね」 珍しく謙虚な言葉を吐くガーネットに、幼い伯爵はつい振り返って、目をぱちくりさせた。 「窖の暮しを、外の人間が学ぶのは難しいですよ。あなたはとても物覚えがいい。それに、隧道の補強や、発破の作り方などで、本当に助かってますから」 切れ長の目元に笑皺が浮かぶ。 「まぁ…光栄ですルフォン卿。私の知識が役に立てるなら…でもそうね。正直な話、解らないことが多くて戸惑うばかりですのよ…」 女の語尾は、突如頭上に開けた、吹き抜けに吸い込まれ、意外に大きく谺した。二人は円筒状に開けた螺旋階段にぶつかったのだ。煙突のように伸びるそ れは、しかし温度と気圧の差によって生じる気流の勢い和らげるよう、ねじれながら高みへ伸びており、視線を巡らせても、天辺や地底がどうなっているかは窺 えなかった。 小さなルフォン卿は躊躇いもせず、終わりの知れぬきはざしを踏んで、登り始める。 「風の唸りがしないでしょう?わざとこんな作りになってるんです」 「誰が作ったんです?」 ガーネットが投げた奇妙な問に、ジョフロワはしばし立ち止まり、後ろへ頭を巡らせた。 「伝説では、山々の玉座への道を刻んだのは、聖マラクだそうです。オビリム管長は、後になってマラク派の神官が、少しづつ掘りぬいたんだって考えてますけど」 「どちらにしても、すばらしい建築技術ですわ」 「すべては五星のお恵みです。彼等に試練を与え給うたイフラに栄光あれ」 唱句に篭った真摯な響きに、技師は吹き出すのを堪えて、咳払いをした。 「…そう。アルクスの方々は本当に信心深いのですね」 「ムスタンドではどうか知りませんが、ここでは徳とされています」 会話を除けば、規則正しい足音だけが響く。予想通り、階段は一定の勾配で延々と続いているようだった。壁の所々には聖マラクとイフラに捧げる祈りの言葉が刻まれていた。それを指でなぞりながら、娘はじっと考え込むようだた。 「ハルバに来て初めて、討伐僧が歓迎されているのを、見ました。鉱山では、落盤のあった時の慰霊をしてくれるほか、お坊様に用はありませんもの」 「そちらでは正統派教会が盛んだって聞きましたけど」 「街では、確かにね…長者様の寄進で大きな星拝堂が幾つも。大きなドームが町中に見られましてよ。中もて広くて、パイプオルガンが綺麗に響きます。弥撒になると、お坊様の衣裳も、ダイヤモンドやルビーや黄金でごってりの豪華なものですわ」 「雪が降らないのでしょうね。ここでは余り屋根が広いものは建てられません」 「きっと、それもハルバの山塞が聖地となった理由の一つですわね」 童児は唇を結んで大股になった。連れはさして苦労もせず追いつく。 「ごめんなさい。何か気に障るような…」 「別に…」 沈黙が訪れると、肘や膝の屈伸に合わせた微かな布の軋みや、呼吸の響きがやたらとはっきり聞え、ニ、三度、螺旋階段の遥か下方から、何か人の笑い声に似た音が昇るのが聞こえたようだった。 ガーネットはばねのように弾みをつけて足を進めながら、頬には笑窪とも怒りの強張りつかぬ凹みを作って口を噤んでいたが、心臓が百鼓つのを数えると、ややつっけんどんな調子でまた小柄な先導役に話し掛ける。 「聖マラクについて教えてくださいません?」 ジョフロワは聴き容れる徴もなく、些かも歩みを緩めないまま、ただ肺からほぅっと蒸気の塊を吐き出して、ほんの僅か瞼を閉ざすと、舌に唾を溜めて、ごくんと嚥下した。 「聖マラクは、貧しい山羊追いの乙女でした。祖父母に従って、牧笛を片手に、ハルバの峰々を角のある獣を連れて跳び渡り、地上には、太陽と五星の瞬きより輝かしいものなど何一つ知らずに育ちました」 段差が急になったので、少年は謳いを区切り、とんとんと爪先を蹴って、足元に注意を促した。異郷の娘はすぐ合点して、どうも聖マラクだか彼女の神官だかが手を抜いたとしか思えぬ岩の刻みを、しっかり踏み登る。 「友といえば、巨きな犬がただ一頭あるばかりでした。賢い雄で、仔犬の時分から彼女の兄弟として護り手として、昼となく夜となく側を離れませんでした」 いったいどこまで続くのか、途は蛇のようにのたくりながら、同じところをぐるぐる回っているかのように、変り映えのしない姿を、角燈の光に浮かばせていた。退屈した聞き役は、抑えきれず、嘴を入れる。 「んもう…その田舎娘、いつ聖者になるの」 「え?あ…ふはっ…ぷははっ」 いきなり伯爵が笑いの発作を起したので、技師はぎょっとした。 「まぁ…可笑しなこと、いいましたかしら」 「私も、子供の頃、この出だしが、うっとうしくて、母上に先をせっついたんです」 ガーネットは他愛ない他人の想い出語りを、微笑で受け流した。今でも子供でしょう、などと指摘するような愚は犯さなかった。 「乳母が?」 「ああ…いえ。母上が私を育てました。乳やりから、歩き方から、剣の握り方まで。あの人が宮廷から帰れば、地主達との会食も、領地の見回りも、いっしょでしたよ。仕事は全部直に教えてくださった」 グレンデルベルト大禍までは。幼いルフォン卿がそう付け加えるのを、女は身震いしながら待ち受けたが、後に続く台詞は違った。 「アルクスでは、万事が変わっているでしょう」 少年は、懐かしむような、楽しがるような、どこか陰気な雪国生れには相応しからぬ、きらきらした笑顔を、連れへ投げかけただけだった。 「ええ…とっても」 「話が逸れましたね。ある秋の終わり、山羊を連れたマラクは、いつもより早い雪に降り込められて、犬の導くままハルバ山の巌屋に難を逃れました」 ちょっと耳の奥が痛くなって、空気の薄さに気付き、もう随分な高さなのだと合点する。 「それがここで、山羊と牧犬と乙女が憩うた仮の塒が、山塞の基になったのです。マラクの入った口はかなり前に岩で塞がれましたが」 「異端狩りを防ぐ為にですね」 「オビリム管長は、帝国軍が、叛徒を生き埋めにするためにやったと仰ってました。その頃はまだ、ハルバの洞窟は、一本道の横穴だと想われていたって」 「そんな馬鹿な話ってあるかしら?幾ら余所者だとしても…」 ガーネットの疑わしげな呟きに、ジョフロワの口元がちょっと得意げにひくついた。 「あなただって、ここへ来るまでは、山の中がこれほど広いとは信じなかったでしょう」 「ええまぁ…確かに…」 「それに、帝国軍も馬鹿にしたものではありませんよ。たった五人の騎士が、入り口を護る武装した農民百人を鏖にして、調律槍で天井を落としたのです」 ぞっとする程冷静な口調で、廃せられたアルクスの君侯は民の死を述べる。技師は眉を顰めて、着膨れした少年の背をねめつけた。 「ひどい話ね」 「帝国の秩序を維持する為、犠牲にした人々の魂を慰めるため、後になってフィルバルトでは盛大な弥撒が行なわれました。当時二十歳で即位したばかりだった皇帝は、私の曽祖父の手をとって涙を流したそうです」 「あら、慈悲深い方…」 「その後で彼は、改宗を拒んだマラク派一千人を焼き殺しました」 ガーネットは、ジョフロワの舌に宿る棘を聞き取った。 「それはオビリム様が仰られたのですか」 「母上です。丁度オビリム管長と、私と、あの人で話をしていたんです。こう仰っていました。帝は民草の為に涙を流す仁篤き心と、掲げた軍旗を下ろさぬ剛毅な腕を持たねばならぬと」 「若様もそう思いますか?」 訊かれて、童児はまた貝のように唇を閉ざしてしまう。だが、返事を待つ娘が、首に疲れを覚えて俯こうとした時になって、酔っ払いががなるような具合でまた叫んだ。 「いいえ!…ところで!聖マラクは、山羊の餌を探してここを登りました!さ迷う内、くたびれて壁にもたれると、掌が触れた所から、岩が溶け崩れ、上へ上へと道が開き、やがて山々の玉座に着いたんです」 赤銅の肌をした娘は、強引な話題の転換を受け容れ、ころころと笑いを零す。 「まぁ、なのに、女の身では辛いなんて」 「だって、そうですから。途中からマラクは犬の背に乗ったんだろうって、想ってました。初めてオビリム管長と一緒に登った時はおぶってもらったし」 漏らしてから、しまったと顔を顰める少年に、相方はまた吹き出した。 「ご心配なく、私は若様におんぶして戴かなくて大丈夫。玉座ではどんな奇蹟が起きましたの?」 「ああ…ええ。あの。玉座の高みで倒れて気を失った彼女に五星が話し掛けたんです。あそこが、あまりに天と近かったから、地上の子がそこで何をしているのか、驚いて尋ねたといいます」 「ふふ。アルクスは、イフラの恵いと深き…よそでは、そんなにお茶目をしませんのに」 冒涜もすれすれの台詞に、ジョフロワはぎくっとし、すぐ諦めたように首を振った。 「…そういう訳で、マラクは、御言葉によって目覚め、山を降りて人々に教えを広めるようになったのです」 「山羊は?」 「ああそうでした。帰ってくると、山羊は、ちゃんと岩に生えた苔を探り当てて食んでいました。マラクと犬は、雪解けまでその乳で生き延びたのです」 「それもお恵みかしら」 ルフォン伯爵は怒るどころか、けらけら笑って、自分の鼻を指で圧した。 「うーん…山羊はここが利きますから…御手を煩わさなくとも…さて、そろそろ道のりの半分ですよ」 往きあたったのは、ちょっとした部屋位もある踊り場だった。角燈の光の届かぬ闇が、奥にある空間の広がりを告げている。 朝から歩き詰め、喋り詰めのガーネットは、"まだ"半分という事実に、げんなりして脚を止め、不本意ながら休息を乞おうと少年の方を向いて、いきなり恐怖の悲鳴を上げた。 灯火の照らす岩壁に、仔馬ほどもある肉食獣の姿が浮かび上がっていたのだ。天井と床から伸びる、石筍の顎の奥、天然の壁龕の如く窪んだ暗がりに、三角の耳と、尖った鼻、長い牙を生やした獰猛そうな怪物が、今にもジョフロワを食い殺さんばかりに身を撓めている。 「若様!!逃げて」 必死の警告に、童児は刹那、あどけない容貌を強張らせたが、すぐニヤリとして、恐るべき野性の巨躯へ明りを握った拳を振ってみせた。 「これですか?大丈夫です。聖マラクの犬は、信仰のある者を襲いません。オビリム管長は、信仰のない者も襲わないと、冗談を飛ばされますが」 技師はしばらく息もできず、何度も瞬きをして犬が凍りついたように動かないのを確かめると、額から脂汗を拭って、ようやく掠れた答えを返す。 「こんなものがあるなら先に仰って下さい!」 「ああ。いいませんでしたっけ?すいません」 ルフォン卿の表情で、肝試しに嵌ったと知ったガーネットは、震える膝を抑え、憮然として側へ寄ると、角燈をひったくって高く掲げた。 「死蝋…?」 「これは、今でも山々の玉座を護っているんです」 大柄な娘は、得々とした連れの駄弁を制し、唇を噛みつつ、獣の像を調べた。やはり直観は誤まっていない。膚に吹いた粟は危険を報せている。 違う。 これは違う。 死蝋ではない。光沢が似ていない。毛皮は星霜の降り積むうち薄い石灰の殻に覆われているが、奥には奇妙な生命の所在が残っている。白く膜に覆われた所為で、濁ったような両眼は、幾多の巡礼や神官を素通りさせて来たのだろうが、決して見張りとして盲いてはいない。 「聖マラクがイフラの御言葉を聞いたのはいつ?」 「何百年も昔ですよ。誰もきちんとは知りません。ルフォン家の年代記が最初の一項を記す前です」 獣を覗き込む、ムスタンドの碧玉より深い色合いの瞳は、更に図り難い彩りを帯びて、虹彩を狭めた。 「…生きている?…待って、ここに何かある…我…マラク…」 「古い言葉が読めるんですか?凄い…オビリム管長でも苦労されていたのに」 「静かに!…記録の間に…防ぐべく…最愛の友…もし…これを読めるは…心せよ…汝…プ…ジ…!!何てこと…離れて!」 切羽詰った警告が、恰も復活の呪文であったかの如く、硬い無機質の表面に亀裂が走ると、細かな罅割れが蜘蛛の巣のように広がり、止っていた時が砕け散る。 マラクの犬が咆哮するのと、二人が床を蹴るのは同時だった。 踊り場の反対側の壁に背をぶつけながら、驚愕に目を見開くジョフロワ。殺気を漲らせるガーネットを前に、魔獣は幾世紀に亘る眠りより醒め、鉤爪を伸ばし、牙を剥いた。 「…ガーネット、これは一体…」 「何故永らえている!?お前の親は、クリオン陛下の手にかかって死んだのよ!さっさと後を追うがいいわ!」 激情に満ちた女の叫びが、少年の動きを止める。伯爵が、憤怒と困惑の入り混じった眼差しを投げ、技師が慙愧の念に駆られて視線をそむけた一瞬に、怪物は獲物に跳びかかった。 角燈が落ち、階段を転げて遠ざかる。暗黒に戻った洞窟の、渇ききった空気に、鮮血の匂いが立ち込め、突如閃光が辺りを薙ぎ払い、苦悶の吠え声が続いた。 柘榴石の名を冠する、赤き娘は、左腕に傷ついた少年を抱えたまま、右腕に眩い光の塊を掴み、鼻面を抑えて蹲るマラクの犬を脅すように突きつけた。 「近付いて嗅ぐがいい。見るがいい。聞くがいい。"遷ろう者"の最後の一体よ!。お前の牙や爪を試してみなさいな。私の肉がこの坊やと同じ位柔らかいかをね!」 魔獣は痛みを堪えて、威嚇の態勢を取り、仇敵を前にした戦士のように、昏い双眸に憎悪の炎を揺らめかせたが、特別に調合された化学物質の燃焼と拡散に阻まれ、神経と五感を狂わされたまま喘ぐばかりだった。 技師は、美しい面差しに、畏ろしい嘲りの嗤いを湛えたまま、掌中の輝きを振り回し、虚空に円弧の軌跡を作る。怪物が、妖しい耀いの輪舞に魅入られて動きを止めると、軋り、嗄れた声が呟いた。 「お前がここに居るのなら、マラクはやはり…」 その名が口にされた途端、古代の犬は躊躇を振り切って再び女に挑みかかった。 煙を伴わぬ焔が、開いた顎へ擲げ込まれる。たちまち伝説の獣は宙で生きた松明となってもがき、床へ落ちる。肉の焦げる臭いが広がり、火葬のゆらめきは茜から、橙、緑、紫とめまぐるしく彩りを変える。 やがて、犬としての輪郭は、ねじれほどけ、何か正体の定かならぬ畸形と化して、芯の焼き切れた蝋燭のように溶け崩れて、生れたのと同じ、無へと還った。 ガーネットの荒い呼吸だけが後に残った。 「…何てこと…すべて台無しだわ」 すぐにも童児の軽い肢体を触診し、指で傷口を探り当てると、弱々しい呻きと、おののきを感じ取って、どうにか胸を撫で下ろす。 「若様?若様?」 「イフラよ…」 朦朧としたままやき。娘は舌打ちして、明りを灯した。燐のような光を点す細い棒で、武骨なアルクスの角燈とは似ても似つかなかった。厚着のお陰か、爪痕は浅く、肉もさして抉れていない。だが瘧のような痙攣と、意識の混濁は何か他の種類の危害を加えられたのを示していた。 「毒…っ…」 光る棒を横に置くと、また新しい筒を出し、怪我人に向かって、霧吹きのように中味を吹き付ける。薄い布状の絆創膏を貼り、冷たい床へ横たえる。 「ぅっ…」 歯を鳴らして、寒さに戦慄くジョフロワを、ガーネットは落ち着いた声音で励ました。 「大丈夫ですよ。今、温かくします」 背嚢に吊るした鉄釘の袋を開きかけ、思い直して光の棒で壁を照らすと、既に等間隔で打ち込まれた釘の頭が幾つも見出された。数条の革紐を掛けて、ぴ んと張ると、鞣し皮を吊るして寒気を遮る繭を作る。今度は慣れない所為もあって応急処置のようには捗らなかったが、初心者としては、洞窟の旅に長じたマラ ク派の討伐僧でも驚くような手際だった。 娘は繭の内側に皮布と毛布を敷き、少年を運び込むと、頭上の紐に光の棒を提げて、隙間をきっちりと閉ざした。まだ震えが治まらないのを見て取ると、 溜息を吐いて、また別の品を手品のように服から取り出す。丁度握り拳二つ分程の四角い箱で、磨いた黒曜石のように艶やかな表面には、Panasonic portable heater "MicroSun"と、滅びた時代の文字が記されていた。 「ああ…使い切ってしまったら、ここでは太陽の熱を蓄えられない…バカね。何で庇ったりしたんです。私に己の身を護る力がないとでもお思いですか?」 土壇場で要らぬ騎士道精神を発揮した幼い連れを詰りながら、それでも技師は逡巡せずに、箱を作動させる。忽ち、熱の輻射が、密閉された空気を暖め始めた。 アルクスの失われた領主、ジョフロワ・ルフォンは、全身を、柔らかく湿った襦袢に包まれ、揉みしだかれるような感覚に、浅い睡みから覚めた。ハルバでは、しばしば黄金や宝珠よりも貴重なものとある温もりが、溢れるように周囲を満たし、雪山の寒さを完全に締め出している。 「ははうえ…」 寝惚けた呟きを、接吻が塞いた。理性が異常を察するより先に、熱い舌が口腔を荒し、呼吸を塞いで、また譫妄の闇に鎮めようとする。 「んっ…んぅっ?」 甘い汁が喉へと流し込まれる。昔、母が帝都から持ち帰った砂糖菓子より甘く、春に咲くマラキオイの花より薫り高く、胃の腑へ落ちると、焔のように体を内側から灼いた。 「ふぁっ…え…なに?…ゃっ!!」 「お目覚めですか若様。悪戯しても起きないので、心配していましたのよ」 股間に妙な温かさを感じて、瞬きすると、くすくす笑いが鼓膜を弄い、女の舌が、今度はいきなり右の耳へ差し入れられる。 「ひっ!?…うひゃっ、あひゃはひ、くすぐった…やめっ…」 「んっ…あら残念」 「あ、あ、ガーネット、これはいった…」 淡い蛍光に、大小二つの裸身が浮かぶ。漸く事態を悟った童児が凝然と凍りついていると、鼻先にたわわな乳房の谷間がおしつけられて、後頭部を掌で押されて、顔を埋めさせられる。 「若様のここ、こんなに小さくて…おもちゃみたいですこと…」 「んむぅっ!!むぅっ」 「…そろそろ強壮剤が効いてくる頃なんですけど、あはっ、やっぱり ♥」 ガーネットは、指で玩んでいた幼茎が硬くなるのを確かめて、ゆっくり扱き始めた。 「ふぅっ!??ぷはっ…なひ、なひをぅっ…らめ…」 初めて味わう性の快楽に、ジョフロワは怯え惑って、知らぬうち年嵩の娘のがっしりした胴にしがみついていた。 「もう、そんなにぎゅっとされると、手が動かせませんことよ」 「やめ、やめな…」 「やめないで?」 女の白い歯が、柔らかな耳朶に食い込んで、小さな唇から悲鳴を誘い出す。 「い゛ぎぃっ…ひぁっ…なんっ…こんっ…なっ…」 瞼をきつく閉ざし、幾ら煩悩を払おうとしても、ハルバの鋭鋒に凝る万年雪さえ蕩かすような囁きが、十三年間、ルフォンの"敬虔伯"を護ってきた節制の鎧を役立たずのがらくたへと変えて行く。 「んっ…おいし…先ほど飲んで戴いたあれ、体力を回復させるには、とても良い薬なんですけど、副作用がありまして…こちらもご無沙汰ですし…夜伽も勤めましたのに、若様が連れないから…」 「わ、わぁたしはっ、しょ、生涯ぃっ…ゃっ…不犯のっ…ちか、誓いを」 「ふふん…何ですのそれ?マラク派は神官の妻帯も許しているでしょう?最後の大神官キンロッホレヴン猊下がフィルバルトでおふれされた聖旨はご存知?」 少年は半泣きになって首を振り、力の入らぬ身体で何とか押しの強い敵娼の抱擁を振り解こうとした。頑なな反応に、やがて蛾眉にも寄り、形の良い鼻に皺ができる。 「そう、そこまで、拒まれるのでしたら…」 「ぁ…ぅっ……」 「抵抗する子を無理矢理組敷くのも楽しいかもしれませんね」 「なっ!?」 娘は嫣然と頬を窪ますや、両腿の間であがく棒切れのような太腿に、鋭く爪を立てた。薄桃の胸飾りの片方を啄んで、歯と歯で挟み込むと、痛みの悲鳴には構わず引っ張り上げて、擂り潰す。 次いで片手で、もがきのたうつ痩躯を掻き毟りながら、片手で秘具の尖端を摘んで抓り、肋や臍にキスマークを刻むと、鼠蹊部まで降りて、苺のように色づいた幼茎に軽く一舐めした。 すでにジョフロワの諌止は、嬌声の混じる啜り泣きに変わっていた。ガーネットは蛇のように獲物の急所を舌で擽りながら、優しく希う。 「じっとしていて戴けますか。暴れられると、噛み千切ってしまうかもしれませんの」 「ひっ…」 「お返事を…」 「ぅあっ…やっ…」 「ふぅっ…まぁいいでしょう」 唇が開いて、濡れた口腔が幼茎を捉える。女が舌先で亀頭を転がし、閉じた鈴口を吸うと、少年は背を弓なりにして、声もなく哭いた。 発育途上の薄い尻を赤銅の手で支え、丁度、青白い琺瑯引きの瓶から、葡萄酒を呷るように、柘榴石の化身は喉を鳴らす。豊かな胸が首の動きにつれて揺れると、ほっそりした身体は官能の強さに耐え兼ねて二つに折れた。 「っ…ガーネッ…ト…も…変に…だっ、ぁっ?」 少年の腰がびくんと前後すると、蒼い瞳が見開かれ、すぐ嗜虐に煌く。娘は、量の少ない精通の験を嚥下すると、やっと秘具を解放し、指で口元を隠しながら、唇を舐めた。 「ご馳走様です…」 「な…え…」 「…若様って…どうやって世継を作るおつもりだったのです?」 「わ…うっ…わ、私はっ、あのっ」 右手の指と指を絡め、肩で毛布の上へ抑えつける。伯爵の瑞々しい肌には、二つ三つ、刀傷が見えた。稽古でついたようではない。 今はどうでもいいが。 ガーネットは、これから仔鹿へむしゃぶりつく牝豹のように、背を丸め、脚を曲げて、ジョフロワの上へ跨った。欲望にそぼった真紅の茂みから蜜が滴って、すぐ下、半勃ちのままでいる幼茎の天辺に撥ねる。 「ね、懺悔なら、後でたっぷりできますわ」 指で秘裂を開き、紅唇を寛げて、未熟な屹立へ宛がい、ゆっくりと腰を降ろす。 「ひっ…ぅっ…」 「はっ♪」 左手を肋の浮いた胸について、すこし均衡をとってから、肩、二の腕へと滑らせ、最後に掌を合わせる。両の指を堅く結ばせて、女は幸福そうに少年を眺め下ろした。強壮剤の齎す酩酊は、接合の圧迫感を和らげ、脳へ、無限に昇り詰める恍惚の予兆を伝えていた。 「動きますわ」 騎乗の初めは並足で。締まった双臀にゆっくりと輪を描かせなて、ほんの数分まえまで穢れを知らなかった華奢な肢体から快楽を搾り取る。 「うわぁっ!ああっ」 「ほら、もっと鳴いて…」 次第に律動を早めながら、拍車代わりに腰を跳ねさせ、燃盛る丹の鬣に汗の珠を鏤めて、異郷の娘は、雪国の童児を尻に敷き、征服と歓喜の舞いを舞った。 「ふぁっ、きゃぅっ、死っ、んじゃっ、ぃやああっ!」 「まだっ、序の口、です」 八千余の叛徒を統べる長は、涙で頬を汚しながら、切なげな吐息を漏らし、脊椎に電流が疾り抜けるような痺れに細い手足を引き攣らせ、奏でられるまま、節のない歌を囀った。 やがて少年が二度目の絶頂を迎えると、女は瞼を閉じて、体内に注がれる精を感じ、まだ硬さを失わないのを確かめてから、余韻に浸ろうともせず、また動き出す。 休むを許されず、声変わり前の喉は、次第に音階を高めて、殆ど聞き取れぬ迄に悲鳴を裏返らせた。はしばみ色の瞳は限界まで開ききって、尖った顎をと めどなく涎が伝うようになる。ガーネットはジョフロワの四肢が弛緩しきるまで駆足を続け、完全に抵抗がなくなってから速度を落とし、己の好みのペースで、 ゆっくりと騎乗を楽しんだ。 「若様は、何故一揆の統領に?」 「ぁっ…ふぁっ…それは、んっ…待っ…て」 鞣革の天幕の中、赤銅の肌をした女が、胡座を掻いた膝に青白い少年を載せ、秘具を扱きながら、低く耳元に囁きかける。答える方は息も絶え絶え、常は凛々しい双眸は余り焦点が合っているとはいえず、舌も縺れがちのようだった。 「アルクスのっ、まつりごとは、ルフォン家の勤め、ぅ…むっ!?」 肉置き豊かな技師は、幼い領主の顎をねじ向け、接吻を奪う。たっぷりと口腔を貪り、唾液を流し込んでから解放し、酸欠気味に喘ぐ唇に、別の答えを求める。 「若様自身のお気持をお教え下さいましな」 「ぁっ…ぅっ…それ、は…お願…止め…ちょっと…」 「駄目です。こうしていないと、正直な若さまでなくなってしまいますもの」 意地悪く笑いながら、肩の傷口を舐め上げる。ガーネットが用いたのは、いかなる妙薬なのか、獣の爪痕は速くも塞がっていた。ジョフロワは皮膚の薄いところを刺激されて、しばし息をとめてから、ぼんやり呟いた。 「みんなが…私に…頼ってるから…私がやらないと…」 「皆って?ハノサット様や、ウナシル様?」 こくんと、小さな頷きがある。少年はまだ何か言いたそうにして、結局お得意のだんまりを決めた。女は少し考え込んでから、光る棒を取って、疲労で半ば朦朧としている、あどけない容貌の前に差し出した。 「若様、これ、見えますね」 「はい」 「珍しいものでしょう。この光を眺めていると、とても心が安らぎますのよ。深呼吸しながら、よく御覧なさい」 素直に、胸が上下する。 「深く息を吸って」 また膨らむ。 「吐いて」 戻る。 「段々眠くなってきたでしょう。さぁ瞼を閉じて、もう眠ってしまいましたわね。静かになって、静かに…」 言葉通り、伯爵は寝入ったようだった。だが呼吸は一定で、どこか緊張が残っている。 「眠っていても、私の言葉は聞えますのね。でも、もう何かに心乱されることはありません。ただ、さっきまでの気持のよさが、ずっと優しく身体に残っているだけ」 ジョフロワの面差しに、安らぎが浮かぶ。ガーネットは幼茎を離し、そっと胸や肩を撫で回しながら謳いかけた。 「何を聴いても、もう穏かなままでいられる。もうぐっすり眠っているから…痛みも、悩みもない。だから起きている間のことを、じっくり考えて、自由に話し合うこともできる。そうして話し合えば、何でも解決できる。言ってごらんなさい。何でも解決できる」 「何でも解決できる」 「そう、その通り。ところで、若様が起きている間、一番心に罹っていたことですけど。何でしたっけ」 「マラクの犬」 恐怖の翳が入神状態になった少年の容貌を過った。女は素早く、しかし穏かな調子を崩さず、口を挟む。 「そうでしたわね。でも大丈夫。マラクの犬は居なくなりました。あなたは、ここで、温かくて安全。もう怖いことはありません。マラクの犬はもういない。ほら、言ってみなさい」 「マラクの犬はもういない」 良く出来ましたというように、髪を撫ぜてやると、童児は赤ん坊のように微笑んだ。赤銅の娘は宥めの効果が高いのを看てとると、撫でる手を止めずに語句を接いだ。 「マラクの犬はもういない。解決ですね。それでは他にどんなことが気になりましたか?」 「ガーネット」 「ガーネット、ガーネットの何が気になりましたの」 ルフォン卿は、熟慮の為に眉間へ皺を寄せ、記憶から答えを汲み上げた。 「どうして、何百年も動かないでいたマラクの犬が、ガーネットを襲ったのかが気になる」 技師はがっしりした裸身を緊張させ、やがて抱き人形のように小さな領主を優しく揺すぶって、また囁いた。 「マラクの犬は、確かにガーネットを襲ったのですか?傷を負ったのは若様ですよ?」 「私が庇った。だから間違いない。彼女は何かを隠している。良く考えなくちゃいけない。何故マラクの犬は…」 尋問者は素早く相手の独白を遮った。 「マラクの犬はもういない。そうでしょう。そういったのは若様ですよ」 「マラクの犬はもういない」 「だから、ガーネットのことに戻りましょう。ガーネットは好きですか」 「好き」 「じゃぁガーネットと話していると楽しいですね」 「楽しい」 「それはどんな楽しさですか、気持ちよくて?どきどきします?その全部?」 「全部」 赤銅の掌が、そっと幼茎を包む。 「こうして触られるのはどうですか。気持ち良いですか」 少年はびくっと痙攣し、答えを躊躇うようだった。 「大丈夫。想ったことを口に出していいんですのよ」 「気持ち…いい…でも」 「話すのと同じように気持いいのでしょう?これは話すのと同じ。触れ合うだけ」 「でも」 「大丈夫。ほら、温かいでしょう。お母様もこうして抱っこしてくれたでしょう?」 「ははうえ…」 安心したように、ジョフロワはまたガーネットの裸身に凭れた。髪を撫ぜてやると更に穏かな面持ちになって、幹を扱く指にも構えなくなる。 「じゃあ触れ合いながら話を続けましょう。気持ち良いですから」 少年の頬が上気し始める。 「どんどん気持良くなって来ましたわね。ガーネットと話をすればする程、こうして気持ち良くなって行きますの」 言葉の通り、次第に息があららぎ始める。 「ガーネットと話すのは気持ち良い、そう仰ってみて」 「ガーネットと話すのは気持ち良い」 「ガーネットに触られるのは気持ち良い、ね?」 「ガーネットに触れられるのは気持ち良い」 「気持ち良くて、抵抗できなくなる。さっきのように…いつもの若様ではなくなります。牧犬が飼い主にだけ甘えん坊になるように…でも二人きりの時は幾らでもこうして、甘えて構いません。他に誰もいないのですから」 童児はぎゅっと娘の胸にしがみついて喉を鳴らした。 「二人きりになった時の合図を決めておきましょう。"ガーネットの犬"といったら、遠慮せず甘えてくださいね」 ルフォンの裔は、些か不満そうになったが、頭を撫でられて大人しくなった。 「犬は賢くて立派な生き物ですわ。そう教わったでしょう?アントワ・ルフォンはベルガインの忠犬と呼ばれていましたし、聖マラクも犬を頼りにしていました」 尚も、言葉を重ねようとするガーネットだったが、二人の篭る鞣革の繭を、小さな体積で暖めつづけていた四角い箱が、とうとう熱を失い始めると、急ぎ方針を切り替えた。 「でもそれ以外の時は、このことは忘れてしまう方が宜しいですね。一揆を成功させる為に、公私の区別をつけなくては。いいですか、今眠っている若様が目を覚ますと、ガーネットと二人で居る間に起きたすべては、明け方の夢のように心から消える」 ジョフロワは淋しげにべそを掻く。女は、己が飲ませた薬の過剰な効果に、いささか鼻白みながら、ゆっくり少年の瞼を覆った。続きはまたいずれ、だ。 「それではお休みなさい。若様」 山々の玉座から、技師を連れ戻った伯爵は、少し大人びたようで、臣下の色々な憶測を呼んだが、仔細は本人の口からは語られなかった。 マラク派の討伐僧は、純潔の誓いを破って、側女を作ったと断じ、盟主を疎んじたが、オビリム管長が厳然として権威を保つ限り、文句は言わなかった。 ただし、心の底で異端と折り合えずにいた正統派討伐僧の間では、ルフォン家の裔が堕落したという風聞は、それだけで激しい動揺を呼んだ。 水面に広がった、疑念という波紋の下で、不和の暗流が生れようとしてた。だが渦中のジョフロワは謹厳さを失わず、長上の意見に従い、万事を怠り無く処断していったので、非難は不審は未だはっきりした形にならなかった。 ガーネットは、多少後ろ指をさされても、相変らず活発に働き、少年領主の寵愛については、否定も肯定もしなかった。ただ、時折、二人揃って何処かへ消えるのは、否定しようもない事実であった。 他方、帝国軍は動く気配を見せなかった。エピオルニスは依然天を哨戒したが、それだけで、益々稀になった晴れの日にも、峡谷の奥へ入り込もうという無謀の挙には出なかった。持久戦は、思いのほかクリオンの兵に打撃を与えていない恐れがあった。 時間はじりじりと過ぎ、食糧が減るにつれ、人々は短気になり、些細なことから諍いが起きるようになった。どれだけ換気を良くしても、淀んだ空気を吸 いすぎて、体調を崩す者は後を絶たず、寒波の到来が愚かしくも洞窟内での焚火を誘発し、しばしば騎士や討伐僧が消防に駆り出された。 三日ごとに開かれる有力者の会議もだらけ、地主の何人かは欠席が常となった。 イシュナス卿の政策で、一揆に加わった農民の土地を、春には他領からの植民者に割り当てるという、根も葉もない噂が広まり、信じやすい男女を絶望に陥れた。 弥撒も、外部の脅威が曖昧になると、徐々に熱を失っていった。暦のうえでは冬至を過ぎ、新年を迎えたが祝祭はなく、旧正月の宴に向けて、恒例となっている神劇の練習だけが、宗教が生活に与えるめりはりとして、神官、貴族、平民の別なく人気を博していた。 全体としては、彼等は良く耐えていた。分けても古参のマラク派神官は、前回もこうした篭城の中だるみを経験しており、オビリム管長に象徴されるような、静かな、しかし揺るがぬ決意を以って、一揆の意義を確信し、周囲を励ましていた。 こうした情報は逐一、ムスタンドから来た技師の元に集まり、篩にかけられていた。山々の玉座へと続く螺旋階段の踊り場が、彼女の基地だった。 鞣革の天幕の中、裸になったまま片膝を立て、頬杖をついた娘は、じっと状況の分析を続けていた。下腹部の真紅の茂みには、やはり一糸纏わぬ少年が鼻先を埋め、懸命な奉仕を続けている。 良く揉まれた所為か、以前より少し肉がつき、やや丸みを帯びた双臀は、今も女の手に割り裂かれ、二週間前まで排泄しか知らなかった菊座に、三本もの指を咥え込んで、粘膜を掻き回されるままに、だらしなく腸液を滴らせている。 聖マラクと牧犬の、悪趣味な戯画のようでもあった。 「それで、ハノサット卿は何と」 「わぅんっ、雪解けと共に山を降りてぇっ…一揆に参加せぬ村を略奪すべきだっ…てっ」 ジョフロワ・ルフォンは、頭を擡げ、甘ったれ声で話す度、革紐でぎちぎちに縛られた秘具をひくつかせながら、肛孔への刺激に狭い肩をわななかせた。 暗示と薬品の度重なる併用で、すっかり"ガーネットの犬"としての別人格が仕上がっている。抑圧の強い子供には、催眠の効果は覿面だったらしい。 鹿爪らしい騎士や神官に傅かれる日常から解放され、優しい女主人の膝にじゃれつく態度には、あの敬虔伯の面影はない。 「ジョフィはどう答えたの?」 「わん、帝国軍を恐れて、無神の輩に従っていても、同じ信徒には違いないから、攻撃よりは懐柔を試みた方が…きゃうっ…いいって…もぉっ、らめぇっ、ご主人様ぁ…」 根元を堰止められて、射精を許されず、拗ねたように懇願する仔犬を、飼い主は優しくいなした。 「お利巧ね。それで、ハノサット卿は何て、討伐僧は?」 「ウナシルや、正統派の討伐僧はハノサットに賛成だった…あんっ…みたい。オビリム管長とぉっ…ひゃふっ…地主の三人が首を横に振ったから…」 「そう、でももう半々ね。マラクの犬については何か分った?」 ガーネットは、排泄口から指を抜くと、ジョフロワの背の、もう殆ど目立たなくなった爪痕をなぞった。"お利巧のジョフィ"は嬉しげに鼻を鳴らして丸くなる。 「ご主人様が、オビリム管長に訊いちゃダメっていうから…犬の屍も消えちゃったし」 「あれは私が消したの。ジョフィもお利巧でいないと薬で骨まで溶かしちゃうわよ」 勢い良く平手で尻を叩かれて、少年は情けない悲鳴を上げて跳び退った。幼いながら、帝国に刃向かう戦士として鍛えられた反射神経は、一瞬女に息を飲ませるほどだった。 「ほら、今は大丈夫よ。いらっしゃいな」 片臀にくっきり紅葉を残したまま、童児は年嵩の娘のもとへ寄る。叱らない?と潤んだ眼で見上げられて、一瞬ガーネットは、天幕を閉ざしているにも係らず、寒気を覚えた。 「あのね、ご主人様」 「なぁに」 「オビリム管長が、ジョフィとご主人様仲良くしてるかって、訊くの。嬉しそうに」 「どういうこと?気付いてるの?」 「ううん?あのね。若い者は、お互い学ぶことが多い筈だからって。ご主人様から、色んなことを教われって…」 女の眼差しから、楽しげな光が消える。長い腕が、また何か失策を犯したかと怯える少年を抱き寄せ、命を奪おうとでもするように、きつく締め付けた。咳き込む愛犬を、じっと眺めながら、ほんの僅か震えを含んだ声音で独りごちる。 「そう…あのお爺様を見くびっていたようですわね…」 「きゃぅ…わぅ?」 「さぁ服を着るわよ」 ジョフロワが期待を裏切られた様子で唇を尖らせる。 「だってご主人様、今日はまだ…」 「着るの」 「はい」 召使いのように甲斐甲斐しく、女主人に多量の衣服を着付けると、自分の衣服をまとう。幼茎につけた拘束具だけは、ガーネットが解いてやる。射精を許されず、残念そうでは合ったが、敏感な器官に触れてもらえるだけで、少年は嬉しそうだった。 技師は、吊るしていた緞帳をすべて畳み、紐を外して背嚢に詰めると、じっと伯爵の顔を覗き込み、急に恭しく呼びかけた。 「お目覚めですか、若様」 童児の双眸が昏くなり、すぐ理性の光を取り戻すと、欠伸をしながら、どうも頭がはっきりしないという具合に、こめかみを抑えて、瞬きを繰り返す。 「…うっ、また寝てしまったんですね」 「疲れが溜まっているんでしょう」 「ええ、それは皆そうでしょう。さぁもう戻らなきゃ。今日も玉座までいけませんでしたね。春の巡礼までには掃除に行かないと…ああもう」 「私はいつもご一緒できて楽しいのですけれど」 ふわっと笑うガーネットに、ジョフロワは無理に年寄りくさく、むっつりしてみせた。 「降りますから」 「はーい」 二人は連れ立って、踊り場を後にする。暗闇の中、マラクの犬が残した、幽かに黒い焦げ跡だけが、虚しく真実を伝えようとしていた。 マラク派のアルクス管長の中で、アストラジャ・オビリムほど変わった経歴の持主はいなかった。まずもってアルクスの生まれではかった。実はマラク派の最古参の神官さえ、翁が正確にはどこの出身なのかを知らなかった。 初めてハルバ山を訪なったオビリムは、既に三十代半ばの壮年で、フィルバルトの都会訛りで話した。確かなのは、かつて彼が討伐僧に武術を教える師範 であり、その証拠に、マラク派に加わってからは、粗野なアルクスの斧槍を、帝都の精鋭が誇る高度な技術にまで研ぎあげて、組織の面でも、命令系統や部隊編 成の洗練に大いに貢献したという事実である。 だが元々争いを求める性質でないのか、人となりは温厚篤実を以って知られ、同門の信望も篤く、老境を迎えてからは信徒の子供等からよく懐かれていた。 山塞での管長の日課は、居住区を巡回して、人々の苦労を聞き取り、及ぶ限りの範囲で手助けや慰めをかけながら、窮乏のを和らげることであった。 不思議な魅力を備えたガーネットや、そのほか弁の立つ若い神官のように、てきぱきと仕事を進められはしなかったが、辛抱強く、また記憶力に秀でてお り、一度話をした相手のことは決して忘れなかったから、オビリムが通る度、刺々しい空気で充たされた洞窟にも、一陣の暖風がそよぎ、皺の刻まれた老若男女 の顔にも、少し余裕が現れるのだった。 皆が眠りにつくと、老僧は独り地下星拝堂の書斎に篭って、研究に勤しんだ。若い頃は武芸に明け暮れ、あまり学問ができなかったと謙遜するが、マラク 派の神学はもとより、正統派の神秘主義哲学や、アルクス外の伝承に該博で、フィルバルトから逃げ込んだ神学僧でさえ、ど田舎に住む異端の長を、鶏群の一鶴 として認めていた。 ガーネットは、あちらこちらから仕入れた心許無い予備知識を綜合し、何とかオビリムの像を捉えようと苦労しながら、書斎の扉を敲いた。 「お入り」 「失礼します」 中に入ると、法衣の翁は上機嫌で夜来の客を出迎えた。天井まで届く本棚に、ぎっしり山羊皮の巻物を積んだ壁は、机にある蝋燭を引っ繰り返しただけで、大火事になってしまいそうで、危なっかしい。 「ささ、座りなさい。寒かったかな?温石がありますぞ。まだ熱い」 娘はにっこりして手を広げた。 「遠慮しますわ。厚着し過ぎて、汗を掻いている位ですもの」 「そうですか。もうここの気候に慣れられたようで、何よりじゃて」 頷く管長に勧められるまま、技師は小さな木の椅子に腰を降ろした。 「これでも二ヶ月半おりますもの」 「いや、若い方はうらやましい…さてと。今夜はどのような要件で参られたかな?」 蒼い瞳が蝋燭の火が踊るのにあわせて、煌く。 「お尋ねしたいことがありますの」 オビリムは顎鬚を撫ぜながら頷いた。 「儂のような田舎者の老人で宜しければ、出来る限り答えましょう」 「若様と私が仲を喜んでおいでとか」 萎びた相貌にいたずらっぽい笑いが浮かぶ。 「ははぁ、ルフォン卿から聞かれましたな。善いことですじゃ。外の人と交わりを持って新しい風に触れるのは」 ガーネットは唇の端に艶めいた嗤いを湛えながら、目は穴でも穿とうとするように、じっとマラク派の領袖に凝視を注いだ。 「お坊様の中には、私を汚らわしいと考える方もおいでと、噂で聞きましたわ」 オビリムは苦笑して、云った。 「あなたが、そうした噂を気にされるとは想いませぬわい。自分が汚らわしい行為に手を染めておらぬ確信があれば、他人の口など放って置けば良いのです。いずれ治まります」 「まぁ…私のことを良くご存知のような口振りですのね」 年降りて尚炯々とした双眸が、いっそう輝きを増す。 「知っておりますとも。いや、知っておるつもりですじゃ」 「あら」 「少なくとも、あなたがムスタンドの技師風情でないのは分りますでのう」 赤銅の肌をした娘は、かすかに身構えた。 「どうして?」 「細かな言葉、振舞い…何より、披露された様々な技芸の腕からですじゃ。種明かしをすれば、儂はひところムスタンドを旅しましたがの…どの鉱山にも、あなたと肩を並べられるような職人は居ませんでしたのう」 「それにはちょっと自信がありましてよ」 顎を反らすガーネットに、オビリムはおかしそうに目を細めて、また言葉を紡ぐ。 「言い方が悪かったようですじゃ。儂が申しますのは、あなたの技芸は、ムスタンドはおろかフィルバルトにも、大明にもない、高い水準を示しておる、ということ」 「まぁ、褒めすぎですわ」 「いや、事実ですじゃ。儂は、あなたのような不思議な人々が暮すという伝説の都市について聴いた覚えがありましてな…名前は秘せられておるが…」 女は両肘を抱いて、豊かな胸をそらせた。 「でも、もし私がその都市の住民だとして、何故オビリム様は、最初の刻、お歴々の前でそれを言い当てなかったんですの?」 神官は長い眉を上下に動かして、節くれだった指を組み、膝に置く。 「左様…自信が無かったのが一つ、今一つは、このことは伏せておいたまま、あなたに、ハルバの山の暮しを知って貰うのも悪くは無いと想うたからですわい」 意外な答えを聞かされて、娘はしばし話の穂を接げなかった。 「それ…それはどういう意味ですの?」 「む…」 オビリムは考え込んだ様子で顎鬚を撫ぜ、脳に収まった思念を表現すべき言葉を探るようだった。 「諍いというのは、半ばは無知から起こりますじゃ。ある人間にとって正しいと考える行為が、別の人間にとっては正しくない。これは、互いが、何を正しいと考えて居るか、きちんと知らぬから起る」 「ええ」 教会の説法を拝聴しに来た訳ではなかったが、ガーネットは内心の苛立ちを示さず、じっと耳を傾ける。 「もし儂らの行為を正しいとは認めぬ人が居たとして、その人に何らかの形でこちらの意図が、きちんと伝わるなら、向こうは考えを改めて、争いの鉾を収めるかもしれませぬ。お分りか?」 「…ええ」 「逆に、儂らにとっても、考えの異なる人が側に居れば、自分達のどこに、人と相容れぬ部分があるかを知り、諍いを起こす前に直せるかもしれませぬのう」 「本当にそうなら、どれだけ素晴らしいでしょう」 「まったく。現実はそう上手くはいかぬ。考えの似た者同士で纏まって、外と角付き合わせるばかりじゃ…じゃからこそ、あなたのような方は貴重ですわい」 「買いかぶりですわ」 「少なくとも、儂はあなたがルフォン卿の目を開かせてくれると信じておりますじゃ。そしてまた、あなたを通じてどこかの誰かに、儂らの偽りなき考えが伝わればいいと想うておりますじゃ」 語句に篭る感情に技師は唇を噛み、老僧の貌に現れた何かを恐れて視線を逸らす。 「…そうなれば、良いですね」 異郷の女が席を起ち、礼をして部屋を辞すのを、マラク派の長は静かに見送った。 翌日、山々の玉座へと続く、螺旋階段の踊り場で、ガーネットはジョフロワに贈物をした。 「これは、ジョフィのお守りね」 紐に編み込んだ小瓶を、首飾りのように胸へ掛けてやり、そう言付ける。 「わんっ♪」 くすぐったそうに首を縮める伯爵の頭を撫ぜ、技師は真面目な顔で諭した。 「よく聞いて。今まで言ってなかったけど。もし、ガーネット以外の誰かがジョフィのことを知って、"あの言葉"を口にしたら、もう二人で遊べなくなるの。会えなくなっちゃうわ」 仔犬が恐怖に目を丸くする。ご主人様と会えなくなるなんて、此の世の終わりも同然だった。飼い主は満足げにその反応を眺め、震えながら縋りつく瘠せた背を叩いて、安心させるように告げた。 「そんな時が来たら、この蓋を開けなさい。そうすると皆、もうジョフィのことは考えなくなります。また二人っきりになれるわ。大丈夫よ」 項を掻かれると、少年は肩の力を抜いて甘え声を出した。 「きゃぅんっ♪」 「いい、覚えてね。ガーネット以外の誰かが"あの言葉"を口にしたら、蓋を開ける。言ってみて」 「ガーネット以外の誰かがあの言葉を口にしたら、蓋を開ける」 「そう、良い仔ね。ご褒美をあげる」 唇を重ね、舌で舌をつついて、絡ませあう。抱き上げると、いまさらながら獣のような青い汗の匂いがした。沐浴のためには雪を採って溶かさねばならず、燃料の貴重な山塞では、ちゃんとした風呂など夢のまた夢だった。帝国軍が突入したら、まずこの悪臭にやられるだろう。 接吻を終えた娘は、ペットになりきってぺろぺろと顔を舐め回す相手に辟易してか、急に首を捻って、無邪気な舌責めから逃れた。 「こらっ…もう…さぁお利巧なジョフィ…もうおしまい」 「わぅっ…」 「離れて…そうお眠ね…眠ると、すべては夢になる、夢から覚めると、あなたはジョフロワ・ルフォンに戻る…」 アルクスの領主がゆっくり覚醒する。技師はいつものように微笑んで、幽冥から戻った若君を迎えた。 「今日もよくお休みでしたわ」 あどけない顔立ちは、むしろ老人のような疲労を滲ませて、欠伸をする。 「…ああ、済みません。なんだか私は、最近あなたと居ると寝てばかりいる…」 「構いませんことよ。寝ている間の若様はとても可愛らしくて、飽きませんわ」 少年は頬を紅潮させ、ぷいとそっぽを向いた。つい先刻まで浅ましい性戯に耽っていたとは信じられぬような羞恥心の強さである。 「戯ればかり仰る…ああ、また玉座へ行けなかったな…旧正月まで幾らもないのに…」 「お掃除はお手伝いしますわ。でも明日はまた会議がございますでしょう」 「ええ、戻らなくては。明日の会議は…旧正月の祝のことですよ…いつもの実りの無い戦の話より、ちょっとは話も弾むでしょう…」 「存じておりますわ。さっきも仰ったでしょう」 ジョフロワは驚いて、口を開け、また閉じた。ガーネットが慌てて手を振る。 「寝言で」 「…寝言…むぅっ…」 幼い貴族は、唇に拳を押し当てて、眉間に皺を寄せ、階段を降り始めた。技師は背後からちょっと心配そうについていく。先導役は何かに囚われた態で、帰途、どんなに水を向けても、もうあまり雑談に乗ってこようとしなかった。 やがて道筋も終わりに近付くと、年嵩の娘は、急に思いついたように口を開いた。 「若様。最近私達のほかにも螺旋階段を行き来する方がいらっしゃるようですが」 少年は声の大きさにぎょっとして振り返り、すぐ答えた。 「かもしれませんね。ここは神官なら皆知っていますし」 「でも、いつも私達が通ったすぐ後をつけているようですわ」 力ない笑いが零れる。 「まさか。何のために?」 「もしかしたら、若様の見張ろうとしているのかもしれません。どこの馬の骨とも知れない余所者の女といっしょで、堕落しないようにと」 「そんな事をして何の意味があるんです」 ガーネットは嫣然と嗤って頷いた。 「ええ、本当。だって若様はとっくにガーネットの犬なのに。ほら、靴をお舐め」 ジョフロワは瞳から光を失なって、背嚢を落とすと、女の足元に蹲り、嬉々として長靴の縫目に舌を這わせる。 「本当に、ガーネットの犬になるのが好きなんて、ジョフィはおかしいわね。お返事は?」 「わんっ♪」 「側女にこんなことをさせて喜ぶお殿様なんて、滅多にいないわ…おほほほ」 ガーネットは高笑いを続けながら、どこか壁の向こうに隠された秘密の通路で、足音がひそやかに遠ざかっていくのを聞きとり、浅薄な情婦の仮面を外して呟いた。 「もういいわ、離れて、目を覚まして…」 少年が、尻餅をついたまま真っ暗な天井を仰ぎ、次第にまた我へ返っていくのを、女は虚ろな眼差しでじっと見守った。 翌日の会議は、朝も早くから催された。 議題が旧正月の祝とあって、広間の円卓には久方ぶりに全員が揃った。ジョフロワ・ルフォンは、一同を眺め渡し、奇妙な感興を覚えていた。 普段は、いずれものっぺりと死霊のように精気のない、似たり寄ったりの顔が、今日は華やいでいるのやら、塞いでいるのやら、浮ついているのやら、怒りに耐えないでいるようなのまで、そろって生きた人間のものになっていたのだ。 イフラの祭典が持つ影響力を今更ながら実感したのである。少年はしばし五星の玄妙なる働きに思いを馳せかけたが、盟主としての立場を思い起こし、口火を切った。 「さて旧正月の祝についてだが、食糧の蓄えも尽きかけており、あまり派手にはできぬ。とはいえ、篭りきりで楽しみも無い信徒の…」 「お待ち下さい」 鴉の嘴のような鼻をした尼が、我慢ならぬというように席を蹴った。列席の男女が一斉にそちらを向く。老いたる処女は、殆ど蒼白な顔色で、統領を睨みつけた。 様相只ならぬのを悟ったオビリム管長が、横合いから尋ねかける。 「どうなされたかな。レナ師妹。まだルフォン卿の話の途中じゃが…」 「私は、このような悖徳の悪魔と会議を行なうのを認めません!!」 どれだけ腹を空かそうと、煌びやかな服装を止めぬハノサットが、聞き捨てならぬという風に立ち上がる。 「レナ師、気をつけられよ。血の巡りの遅い輩には、あなたが、我が君に向かってその言葉を吐いたと誤解…」 「誤解ですって。いいえ。確かにこの悪魔に言ったのです。恥知らずの冒涜者に!」 ジョフロワは、真青になって祖母とも慕ってきた尼へ向き直った。 「何ゆえそのような呪いを投げつけられる。私に至らぬ点が…」 「しらばくれようというの?いいえ、ま、回りくどい言い方は致しませんわ。私たち正統派は、ずっと我慢して参りました。帝位を僭称するあの罰当たりと戦うと想えばこそ、このような背信と堕落の温床での日々にも耐え…ですがもう限界です!」 「我が君にそれ以上の愚弄は許さんぞ!!」 ウナシル卿が、巌のような拳で卓を叩いた。剣呑な空気が場を支配する。自ら帝国軍ニ十人の首を刎ねたレナは、些かも怯まずルフォンの旧臣をねめつけ た。恐らく、素手の組打ちなら、男二人掛かりでも、この老女を抑えられまい。相棒の、ずんぐりした尼ファーナが加われば、殺されるのは伊達武者とその同僚 に違いなかった。 共に討伐僧三百を指揮する女丈夫を、母の武芸の師として、また親友として知る伯爵は、何とか執り成そうと身を乗り出した。 「さがれウナシル、ハノサット。レナ師母。私の行状に非があるなら、どう遠慮なく、ここで仰ってって下さい。私はいつも師母の導きを要する仔羊です」 「黙れ穢らわしい!口にするのも悍しい…あの…あの」 激情のあまりレナが喉を詰らせると、連れに喋るのを任せていたファーナが代わって糸のように細い目を開いて、後を受けた。 「あの女。ガーネットとルフォン卿のふしだらな関係のことです」 地主連が互いに目配せを交すのを、独り蚊帳の外へ置かれたマラク派の長は素早く見て取り、内心臍を噛む。老爺は、二十年来の付き合いのある正統派の女神官が、ここまで愚かだとは信じられなかった。 アルクスの領主は、戸惑いながら尼二人を交互に見比べる。 「いったい何を仰っているのか…」 鼻腔から火を吹かんばかりの勢いで、痩せぎすの女は息巻いた。 「私の下でイフラに仕える若い師妹が目撃したのです!あなたとあの女の、罪を!夜目の効く優秀な射手です。間違えるはずがありません!」 少年は、脳裏に何かが閃くのを感じて、瞼を抑える。朧な記憶が、いきなりでたらめに浮かび上がってはまた忘却の沼に沈んだ。幼い唇が、喃語のように切れ切れの言葉を紡ぐ。 「…ガーネット…マラクの犬……ルミィ?そうだ。ルミィ師妹ですね?」 レナの短剣のように尖った容貌が紙のように白くなり、平手が鞭のように童児の頬を張った。席から弾き飛ばされて、床へと転がった軽い身体を、急ぎハノサットが助け起し、凝然とする一同に吠え猛った。 「若に手を挙げたな!もはや尼でも許さん!剣を持て!叩き斬って…」 オビリムが、青銅の鐘のように通る声音で遮った。 「よさんか、皆頭を冷せ」 ファーナは連れを羽交い絞めにして耳元になにごとかを囁き、どうにか乱闘を防いだ。ウナシルは敵意に爛々と双眸を燃やしながら、尼達に食いつきそうにしていたが、辛うじて抑制しているようだった。 ようやく教友を座らせるのに成功した、ずんぐりむっくりの討伐僧は、比較的落ち着いた感じの、しかし決して穏かではない口調で述べる。 「…そうです。ルミィ師妹です。ルフォン卿はどうしてご存知」 血といっしょに奥歯を吐き捨て、ジョフロワはすっくと立った。 「…以前、雪にカルバの館が閉ざされた時、スキーを履いて独りで狩りに行き、羚鹿を仕留めて、僕等の飢えを癒してくれた…レナ師母の下におられる弓使いといえば、他にない…会わせて下さい」 レナがまた叫びを迸らせる。 「いけません!うら若い師妹をこんな…」 だがファーナは承知した印に、掌を挙げ、扉に向かって合図した。 「いいでしょう。外に待たせてあります…お入り、見張りは人払いを。会議が終わるまで、誰も近づけないように」 一揆の指導者達は、何とも惨めな内輪争いに幻滅しきって、それでも仕方なく証人を待ち受けた。扉を開いて入ってきたのは、小柄な、まだ少女の域を出ない尼で、騒ぎを聞いてか、すっかり眼を泣き腫らしていた。 年上の尼はきっちりと戸締りをしてから、弟子の手をとると、皆に話すように促す。ジョフロワは、ルミィの視線を捉えようとしたが、向うは項垂れたまま、呟くだけだった。 「私…見たんです…ジョフロワ様が…あの…あの女の」 ハノサットが頬を真赤にして喚く。 「はっきり言え小娘!」 十三歳の主君は、きっと忠義の男を見詰めた。 「静かに、ハノサット。彼女の言葉が聞えない」 ファーナは、苦虫を噛み潰したような渋面で、囁く。 「あの女の…なに?」 「靴を…靴を舐めたのです…犬のように」 少年は気が抜けて、笑い出しそうになった。周囲も、緊迫の度を緩めるのが分る。ウナシルが勝ち誇ったような、些かわざとらしい哄笑を放った。 「靴とな?若が誰かの靴を舐めると?聖マラクのおみ足に口付けならしようが…なんと言う他愛も無い…娘っこの見る夢じゃ…」 嗤いのさざめきが場を充たす。レナとファーナは顔を見合わせて、怪訝そうに若い同門を窺った。ルミィは、深く傷ついた様子で師母達見返した。ただ一人、オビリム管長だけは、何か恐ろしい幻視をしたかのように、凍り付いていた。 「もしや…ムスタンドの…密使は…いや…まさか彼等がそのような非道を…」 老人の口から零れた台詞に、ジョフロワが、頭を巡らせようとした瞬間、屈辱に震える乙女の声が、空気をつんざいて届いた。 「夢なんかじゃない!私聞いたもの!若様は"ガーネットの犬"って、あの女が」 伯爵の背骨を電流が走り抜けた。 粗びた指が、瓶の栓を捻り、ゆっくりと引き抜く。 無味無臭の毒瓦斯が広がり、最初にルフォンの最後の血筋を殺めると、わずか数十秒のうちに、皇帝に刃向わんとした騎士、神官、平民から、次々に命を奪っていった。 恐らくは、イフラの御許へ。 山々の玉座。 岩戸によって閉ざされた巨大な円筒形の広間に、"山師"のガーネットは立って、半ばは失敗に終わった任務の仕上げを済まそうとしていた。 壁中に記された古代文字に腐蝕性の液体を付着させ、聖マラクの残した遺言を消し去る"大掃除"は、中々独りでは骨が折れた。 下方では今頃、指導部を抹殺された一揆の残党がてんやわんやの騒動を繰り広げているだろう。大人しくしていれば、瓦斯は広がらないが、彼女が通風孔に施した鞣革の封印を一つでも破れば、被害は甚大なものになる。 どちらにせよ、ここまで上がってくる人間は居ないだろう。先程上げた狼煙で、迎えのエピオルニスが来るまでにはまだ時間がある。 赤銅の肌をした娘は、霧吹きを引く手を止め、どうやって脱出に適した、嵐の合間の晴天を予測出来たのか、仲間に説明するのは骨だろうと、つらつら考えた。 異端マラク派には、風見と呼ばれる気象予報士が居て、湿度や気温、風向きを元に、何の器具も使わずに予測が立てられると、話したところで信じるだろうか。ともかくそう楽だった訳ではない。 薬品の調合や、領主の洗脳、工作の下準備ができても、定例会議に全員が出席し、尚且つその日が晴れという条件が重なるまで、暗殺は待たねばならなかった。 討伐僧のように、敵を始末すれば、己も果てて構わないという子供じみたやり方をする連中にはこの苦労は理解できないに違いない。 「ああ…身体が臭い…早く帰ってお風呂に入らないと…」 ぼんやりとそう呟いて、伸びをする。もう少しだ。それにしてもマラクという女は、何故こんなに沢山の文を書いたのか。まぁ実際追手が証拠隠滅に難儀しているのだから、嫌がらせの意味はあった訳だが。 「どこへ帰られるおつもりか。プロセジアの御方」 嗄れ声が、気怠さを打ち破る。ガーネットは素早く振り返って、戸口に斧槍を肩掛けた法衣の老爺を認めた。 「オビリム様…お丈夫ですのね」 齢六十八を数える討伐僧は、憔悴しきり、幾らか息を切らして、刺客に向かい合った。 「儂の愚かさが、あの子等を殺したようじゃな」 「まったくですわ。あなたが何故私を信じたのか、初めさっぱり合点が行きませんでした。アストラジャ・オビリム。疑うようなら、最初に殺して置いたのですが…」 ガーネットは両腕を広げて、玉座の間全体を示した。 「ここへ来てようやく分りましたわ。聖マラクが何者だったのかも」 「儂は、あんたも同じだと想っておった…儂の目は曇っておった…プロセジアの民はすべて峻厳であるとともに慈悲深いと…」 からからと女は嗤う。 「民草の為に涙を流す仁篤き心と、掲げた軍旗を下ろさぬ剛毅な腕を持たねばならぬ」 マラク派の長は、呻くように言った。 「…ファーナやレナの方が、ハノサット卿の方が正しかった…教えてくれ。お前達が、本当にグレンデルベルト大禍を?」 「ええ」 「何故?」 「人類をグルドから救う為」 討伐僧は斧槍の重みに耐え兼ねて、膝をつく。プロセジアの暗殺者は、憐れむように衰えたる戦士を眺めた。 オビリムは、咎負いのように、項垂れる。 「では、誰がお前達から人類を救う?」 「私達が人類を護る為に居るのです」 「誰が頼んだ…少なくともアルクス人ではないな…マラクは違うことを言っていた。かつて、人類を滅ぼしかけたのは、傲り昂ぶった心と、進みすぎた技術であったと」 「マラクは愚かな反逆者です。遷ろう者に魅入られ、同胞を裏切った」 「あんたがマラクの夫を殺したんじゃな…気の毒に…妻の帰りを九百年も待って…」 「嬌惑体に心はない」 翁は急に立ち直った。心なしか、先程より背が高く見え、動きも矍鑠とし、声には張りが増したようでさえあった。 「何故そう断言するのじゃ?」 「科学的分析の結果です」 「わしは独り、心を持った遷ろう者を知っておる」 「ええ、マラク派にとっては仇敵でしょう。フィルバルトの大神官だったんですもの」 オビリムは苦笑して首を振った。 「それが、生憎儂の前の上司じゃて…」 ガーネットは面白そうに小首を傾げた。 「そうなんですか?」 「儂の任務は、マラク派に入り込み、掌握し、来るべき復活に備え、忠実な兵士を育て上げることじゃった」 「…おやまぁ。私の本当の敵は貴方でしたのね」 「儂は、異端審問官じゃった…コルキドゥス派、マラク派、シッキルギンのエディオ派を拷問したことさえある…内情には詳しかった…詳しすぎるほどじゃった…」 「その癖、あんな感動的な説法を。素敵ですわ」 美貌の刺客は、数歩後退った。何故なら、敵の体躯はもはや老人とはいえず、筋骨逞しい壮年のそれとなり、身の丈は六フィートを悠に越えようとしていたのである。 嘗て様々な階級に擬態した嬌惑体を処分してきた彼女には、相手が確かに人間であるのが分ったが、奇妙な変身の謎は解けなかった。 「どういった仕掛ですの」 巨漢は恥らいの笑みにも似た表情を浮かべた。 「キンロッホレヴンの実験の数少ない成功例でのう…体内に埋め込まれた聖霊球は精々四百ヘイリンに足らぬ代物じゃが、望まぬ程の剛健さを与えてくれる…」 「毒に耐えたのもそのお陰…」 「うむ…じゃが、十三歳の子供一人救えぬ…イフラの教えには程遠い」 ガーネットは霧吹きを投棄てると、両腕の袖を打ち振って、小さな丸薬を無数に取り出し、十本の指に挟み込んだ。 「それだけ事情が分って、尚イフラの教えを信じるのですか?」 オビリムは斧槍を斜に構え、じりじりと間合いを詰め始める。 「あなたは教えを何だと想っておるのかね?教祖や、教会や、憐れなキンロッホレヴンのような連中の私有物とでも?良いかな…人の心がそれを信じた時、教えは、他の誰でもない、その人のものになるのじゃよ…それは誰にも奪えぬのよ」 「ゼンモンドーですわね」 「儂が拷問で殺した、ある尼僧がそう教えてくれたのじゃ」 刃圏が触れた瞬間、研ぎ澄まされた鋼鉄が真空を巻き起こしながら、横薙ぎに払われた。しなやかな刺客の体躯は猫の如くとんぼ返りを打って躱すと、丸薬を投げつけた。 斧の平が奇妙な礫を受け止めると、破裂音と共に液状の焔が討伐僧を押し包む。だが灰となったのは法衣だけで、鎖帷子を纏ったオビリムの巨躯は紅蓮の渦の下を疾り抜けると、一気に敵の喉下へ肉薄した。 ガーネットは横跳びに避け様、石突に顎を砕かれかけ、息を呑んで、背後に並ぶ石筍の影へと隠れた。懐からまた丸薬を掴み出して、呼吸を整えようとした矢先、再び斬撃が襲い、岩の牙ごと彼女の胴を断ち切ろうとする。 目眩ましの焔を撒き散らし、必死の走りで石筍の林の奥へ遁れると、僧兵はまるで飴の棒でもへし折るように、障害を壊しながら、まっすぐ直進してくる。 「思い出したましたわ!嘗てザナゴード聖槍隊に在りしという、狂信の僧兵の伝説を!」 「そう呼ばれた頃もあったのう…」 聖霊の齎す仮初の活力で若返り、怒れる獅子のような形相で迫るオビリム。 ガーネットは、追い詰められて、ごくりと息を呑んだ。 「私を殺して、若様方の恨みを晴らすんですの?イフラの教えに悖るんじゃなくて?」 「いいや。何でわしに、復讐の資格があろうか?命を奪う理由は他にある」 死なばもろともよと、火炎の種を掲げながら、暗殺者は微笑む。討伐僧は斧を地擦りにして、必殺の機を窺った。 「ああそう。どんな?」 「マラクの遺言を読んだじゃろう。プロセジアの民以外では、あの文字を読める神学僧は、たとえフィルバルトにも殆ど居らぬが」 「魅入られた者にありがちな、グルドとの共存説しかありませんでしたわ」 「いや、残念ながら、そこまで不注意には見えぬぞ…コルキドゥス、エディオ…他にもたくさんあったじゃろう。プロセジアを棄てた者の名が。もはや儂はあなたがたを信用できぬのだ…マラクだけでなく、彼等の教えを守る者を殲滅せぬという保証は無い」 ガーネットは唇を舐めた。まだ、だろうか。オビリムの殺気が細く束ねられ、線のように張り詰めるのが分る。 「…ええそういえば。マラクの仲間が。叛乱は一人で起すわけにいきませんからね」 「一人で去ったのも居るのではないかな。流出は、先祖がえりのように起る。コルキドゥスは"議会民主制"とやらを求めた…エディオは古代の技術を独占する知的選民主義に反対した…マラクはそう書いておる。どんな結束の固い集団でも…必ず違う考えの持主は出る…これからも…」 「今のプロセジアには皆無です」 「…皆が同じことを考えるのかね?だとすれば…」 狂信の僧兵は嗤った。 「うぬらが第二の教会じゃな!」 エピオルニスの鉤爪が閉ざされた巌を引っ掻いた。ようやく狼煙の源へ辿り着いた帝国軍斥候の、調律槍から放たれた共振が、討伐僧の心臓に埋め込まれたもう一つの聖霊球を狂わせた。 「愛しいイフラの元へお行きなさい!!」 礫が鋼鉄の如き体躯を打ち、灼熱が鎖帷子を嘗め尽くす。火柱と化したオビリムが、最後の斬撃で虚しく空を切るのと、ガーネットが、身を縮めるのはほぼ同時だった。 雷を受けた大樹が燃えながら倒れるように、老戦士は山々の玉座の床へと倒れる。 刺客は肉の焦げる臭いをさせる亡骸の傍らをすり抜け、岩戸の側の石筍を押した。九百年前に作られた機巧は滑らかに動いて、雪に覆われたハルバの峰々と、蒼穹、そして溢れる程の陽光を招き入れる。 女騎手が神業めいた操縦で愛鳥を滞空させながら、片腕を伸ばしていた。 「乗って!」 口がそう動くのが、分る。ガーネットは、今滅ぼしてきた闇の世界を省みもせず、同胞の待つ昼の側へと跳躍した。 ネゲン日報の伝える所に拠れば、一揆勢はハルバ山中に沸いた有毒瓦斯のため、首魁であるジョフロワ・ルフォンを含め、人数の四分の一を喪い、頭を潰された蛇のように死に体となった。 鎮撫軍は雪解けを待って隧道に突入し、まるで完璧な地図を持っているかの如く、山塞を攻略した。冷静な指揮官の采配により、農民の大半は投降。狂信的な討伐僧は抵抗を試みたが、自爆攻撃に用いようとした黒色火薬が点火せず、得意の戦法を封じられたまま各個撃破された。 旧教会勢力の牽引役であったマラク派の不様な敗北は、各地に高まっていた信仰復興運動を大きく減退させ、予想されていた大反乱は防止された。 帝国府は、アルクスに柔軟な文治策を採った。ロムロック・ルフォンの代まで系図が遡られ、同家と血縁を持ち、国立汎技術学校の生徒で、行政官志望の 若者が"発見"された。彼女の卒業は繰り上げられ、試験も(優秀だったので)滞りなく済むと、任地はフィルバルトを遥か離れた雪国となった。 イシュナス卿か、彼の後継たるべき若手官僚か、ともかく帝国府内でも頭の切れる人物が、地方がイフラを捨てきれぬ最大の理由は貧困であると喝破し、すぐにも現地に、慣例を無視した投資優遇制度を設けた。 幸運な偶然とは重なるもので、さる筋の調査により、ハルバ連山には、南方のような金属鉱床は見当らないものの、かなり有望な硫黄鉱床があると分っ た。金属精錬に使われる硫黄は、未だ需要は定まっていなかったが、ジングリットきっての大資本ビアース商会が、蛮勇とも言える名乗りをあげ、さっそく鶴嘴 が入れられる運びとなった。 エコールで教育を受けた天領代官ルフォン閣下は、ネゲン日報の取材に答え、あと数十年後には、ハルバの山はすっかり様変わりし、あそこが異端の聖地であったことを覚えている者は居なくなるだろうと述べた。 "山師"のガーネットは、フィルバルトの目抜き通りにあるカフェのテラスに座り、帝国府が打ち出す電光石火の政策を、わざわざ取り寄せた地方新聞と合わせ読み耽りながら、長い休暇の終わりを待っていた。 染色を落とした肌はもう赤く無い。黒い樹脂のレンズをはめ込んだ丸眼鏡は、正確にはジングリットの技術を越えた品だったが、鼻が重くなるのを嫌がって、こっそりかけている。マラク派退治で強いられた闇の中での生活が、目を弱くしたのだ。 頼んだ飲み物が運ばれたすぐ後で、連絡役の男が、向かいの椅子に腰掛けた。刺客は春の日向のような笑みを浮かべて挨拶した。軽い会釈が返る。 「私の休暇は終り…」 「不足ですか」 「いいえ。次は?」 「ゲスハリンをご存知ですか?」 美貌が強張る。 「また寒いところですのね」 「泥炭が腐るほど取れるので、暖房は安くあがりますよ。あそこの参事会が近々新しい市憲章を発布するそうですが、それを止めて頂きたい」 「何故?」 男は溜息を吐いた。彼も同じく、今は失われた隠顕都市の出ではあったが、内心この殺し屋を嫌い抜いていたのだ。グレンデルベルトからハルバまで、何故こうした精神の拗けた戦争屋に頼らねばならないのか、いつも情け無くてならなかった。 「その市憲章は、とある法制家の手によって書かれたもので、反逆者コルキドゥスに持ち去られた古代文書を参考にしているからです」 「分りませんわ。何が一番問題です?」 「主権在民」 ガーネットは吹き出して、新聞の衝立に顔を隠した。連絡役の男は歯噛みする。ちゃんとした理由があるんだ。お前には馬鹿げて聞えるかもしれないが。 「法律は、科学技術と同じテクノロジーです」 「心理歴史学師はどんな推測を立てましたの?」 「セルダン定理に基づいた短期的展開では、沿海都市の商業同盟が、反帝政的秘密結社の正確を帯びます。そこに手工業組合の支持がつくと…」 「クリオンの何代か後に革命が起きるかもしれない?別にそれはいいでしょう」 「変化はもっと急激に起きるかもしれません。それに…」 「それに?」 「ゲスハリンは、無料の市立図書館の所為で、法制家の楽園になっています。中には非政府主義だの、集産主義だの…おまけに市憲章はかなり過激な言論の自由を含んでいて、参事会は愚かにも出版業の誘致を宛てこんでいるらしいのですが」 「聖コルキドゥスも困った人ね。分りました。精々頑張りますわ」 ふと、思いついたように付け加える。 「皇帝や天領総監が私のことを知ったら…処刑なさるかしら」 「いやそれは…」 「別にどうでもいいですわね。どうせ私そのうち仕事中に死んでしまいますもの」 男は虚ろな表情になるまいと勤めながら、胸裡では正にそうあってくれと願っていた。 「あんまり長生きすると…用済みになったからって…同僚の手を煩わせますし」 "山師"の薄笑いは、明るい陽に照らされたテラスを、ハルバの洞窟より寒々とさせる。 そう。いつかね。ガーネットはサングラスを外して、眩しく霞む世界を見回しながら、徒然に空想を遊ばせた。 いつか私も、反逆者になるかもしれない。マラクは宗教学、エディオは社会学、コルキドゥスは法制学を持ち出した。私は、殺人学?悪くはない。あの だが、それまでは、彼女はプロセジアの民に仕える尼。科学と理性とに額づく、狂信の僧兵なのだ。 |
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