Long Goodbye

 彼が彼女に告白して、ふられたのは半年前だ。理由は年の差だった。たった五歳。二十と二十五なら、結果は違っていたかもしれない。十五と二十でも、望みはあったかもしれない。でも今更、仮定の話をしてもしょうがない。現実は、たった一つなのだから。

 もっと大きくなるまで耐えて、待てば良かったのか。彼、青木たつみは、夜毎眠れぬままに、失敗に終ったプロポーズを蒸し返し、不様に煩悶した。でも、もしかするとあの人は最初から、自分を好きではなくて、いや、好きだとしても、自分があの人を好きなようには好きではなかったのかもしれない。

 どこで間違えたのだろう。家同士は隣り合っているのに二人の距離は酷く遠のいてしまった。もう、以前のように朝の挨拶を返してはくれない。気付くと登校時間をずらされていた。届け物をしても、顔を合わせるのは彼女の母親だけ。電話を掛けても出ない、メールは着信拒否。

 嫌われたんだと、鬱陶しがられているのだと、ようやく解る。答えが形になるまで、少し時間がかかった。でも省みれば、巽は元々、学校でも友達が多いほうではない。暗いし、骸骨のように痩せているし、勇ましい名前の割に引っ込み思案で、本ばかり読んでいるから、ひどい乱視で、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけないと、まともにものが見えない。

 欠点を数え上げている内、余りの多さに愕然として、頭から追い出す。代りに長所を探してみる。だって少しは有る筈だ。あの人だって、以前は微笑みかけてくれたのだから。

 国語が得意だ。社会も苦手ではない。算数はひどいが、理科ならまぁまぁ。体育と家庭科は絶望的だが、無くたってなんとかなる。

 少年はぼんやり枕を抱えながら、ぶつぶつ呟いては、また少し泣いた。馬鹿げた思いつき、国語や社会が、あの人にとってなんの意味があるだろう。背が後四十センチ高ければ、体重があと三十キロあれば。こんな弱い手足、貧弱な筋肉じゃなければ良かったのに。ランニングを続けているのに、マラソンではいつもビリになる。まるで駄目だ。やっぱりふられて当然だ。

 止そう。もう寝なければと、無理に瞼を閉じる。ふられたからって生きていけない訳じゃない。自分一人が落ち込んだからって、世界が滅んでしまう訳じゃない。けれど、想いはつい六ヶ月前までの幸福だった過去を巡り、しつこく未練を掘り起こす。

 五つ上の彼女は、橘瑞穂といった。小さい頃から男子のような格好で外を飛び回り、喧嘩では負け知らず。決して弱いもの虐めはせず、誰にでも公正で、何かとからかいの的にされ易かった巽を幾度も救ってくれた。綺麗で、強くて、完璧で、彼には女神に等しい存在だった。

 けれど、快い思い出に沈み込もうとする脳裏を、再び別の記憶が掠め、邪魔をする。守ってもらう度に、無愛想な態度で突き放したのは彼自身だった。女に助けられたのを恥じて、一丁前にいきがってみせたのだ。独りで解決する力もないくせに偉そうに振舞って、呆れられられたに違いない。そんなちびに好きだと言われたって、やっぱり嫌だろうな。

 時計が午前四時を打つ。

 少年の吐息が漏れる。

 疲労が、幼い身体にやっと浅い眠りを与えてくれる。最後の眠りを。










 未だ日輪は昇らず、ただ曙光の先触れだけが地平を染め、町々を覆う夜気を払い始める頃。少女は窓から景色を眺めながら、制服の上から外套に袖を通し、大きな欠伸を漏らし、背伸びをしていつもと変らぬ朝の訪れを迎えた。竹刀を左肩に担ぎ、鞄を右肩にかけると、猫の如く密やかな動きで階段を降り、台所へ向かう。まだ家族は誰も起きていない。昨晩弁当を用意する時、一緒に作り置いたおにぎりで、簡単な食事を済ませた。本当はこんな時間に家を後にする必要は無いが、どうしても気が急く。

 物音で両親を起こさぬよう、忍び足で玄関へ向かい、やはり昨夜の内に出しておいた革靴をつっかけた。扉を開けようとして、微かな足音が家の前の路を走り抜けていくのに気付き、手が止まる。新聞配達は五時半まで来ない。とすれば正体は解りきっている。隣に住む巽だ。

 五分ほど家の前に立ち、夢遊病のように、二階にある彼女の部屋を見上げて、ランニングに出かけていく。体の弱かったあの子に、毎日無理をしない程度の運動を勧めたのが、今となっては恨めしい。向うのコースは全部把握していたが、登校途中に偶然顔を合わせるのではないかと、いつも不安になる。

 憐憫と焦燥と困惑。最近は、やたらと自分に付き纏う幼馴染の少年を、どう扱えばいいのか解らない。昔は高い高いや、擽りごっこをしてあげれば、きゃっきゃと笑うような、可愛い子だったのに。

 あの林檎のような頬をした赤ん坊が、いつのまにか高校の男子達と同じ、熱に浮かされたような目で自分を見詰めて来るようになるなんて、想像もつかなかった。

 幼稚な真似とは知りながら、息を殺して向こうが去るのを待つ。

 橘瑞穂は本来、恋愛に晩生ではなかったし、事実片想いの相手も居るには居た。勿論、巽とは全く違うタイプだ。剣道部の先輩でエース。背が高く、鼻梁の真直ぐな整った顔立ちをしている。田舎臭いセンスのピアスと染めた髪、胡散臭い交友関係、武道をするにしては少々軽い性格などは、好みの別れる所だが、実力は本物。試合を見て、何となく良いな、と想ったのが好きになった切っ掛けだ。今では話していると心が浮き立つし、会えないと暗くなる。だから、年上の異性に強く惹かれるというのが、まんざら解らない訳ではない。

 けれど、幼馴染の、殆ど病気のような行動は理解不能だった。告白してからというもの、昔の、そっけないくらいあっさりした態度の少年と人が違ったようだった。どうしてあんな風に、思い詰めるのだろう。特に彼を嫌いになった訳でもなく、冷たく振舞って傷つけたい訳ではなかったが、会っていると重苦しくて、いたたまれない。

 あたかも敵地に潜入した兵士のように、緊張したまま隠れていると、漸く足音は遠ざかっていく。ややふらついているだろうか。母親同士が電話で話していた。少し睡眠不足のようだと。

 慎重に把手を捻り、扉を開く。まだ肌を凍てつかす二月の空気。肺に吸い込むと、涙が出そうになる。路上に立つと、道の向うで小さな背がひょこひょこ動いているのが窺えた。慌てて屋内に戻ろうとして、いやまさか、此方を振り返りはしないだろうと思い直す。

 ところが、丁度交差点の辺りに差し掛かった所で、巽はふと立ち止まり、まるで目に見えない何かに促されでもしたように、くるりと頭を巡らせた。

 硝子玉のような瞳が、濃く黒い隈に縁取られ、涙をいっぱいに溜めて見詰めてくる。けれど顔には、心の泉から溢れる喜びを抑えきれないかのように、輝くような笑みが浮んでいた。

 「瑞穂おねえちゃ…」

 彼女の視線の先で、運動着の少年が両手を広げて走り出す。

 彼の視線の先で、セーラー服を纏った少女が立ち竦み、頬を引き攣らせながら後退る。

 恐怖。

 だったのだろうか。

 あるいは、刹那の未来が、戦慄の予兆となって伝わったのかもしれない。

 其処へは、未だ来るべきではなかった存在。或る瞬間に悲劇となって、平穏な日常を引き千切っていく何かが。例えば一台の自動車。ボンネットを碧玉のように煌かせた新車のセダン。運転手が眠りこけていなければ、単に

 「馬鹿、巽、危ないでしょ!」

 叱り付けるだけで済んだ。

 けれど、明け方の空にはブレーキの音さえ響かず、ただ鈍い肉の軋みだけが一つの真実を語った。死はひどくあっさりと訪れるのだと。失恋しただけの子供にも、情状酌量の余地なく。










 巽は軽かったので、何メートルも弾き飛ばされた。医師によれば、痛みを感じる暇もなく事切れたという。轢かれたのでは無いから、額から血を流していた他は、屍は綺麗なままだった。

 日本で最も多い死因は交通事故だ。理由は、誰もが自動車を買うのを好み、運転するのを好むから。時速60km以上で走行する鉄の化物に子供を奪われた親も、多くは同じ種族を忠実な番犬でもあるかのように飼っている。運転を止めもしない。ともかくそんな訳で、繰り返し繰り返し、人は死ぬ。

 そして訴訟が起る。青木家の長男は、大学の法学部生で、弟とよく似たひ弱そうな身体つきのガリ勉だったが、友人の伝手を辿って、優秀な弁護士を見つける役には立ち、お陰で裁判は極めて短期間に、被害者の家族に有利に進んだ。

 結果として、巨額の示談金に加害者を絶句させ、支払いの代りに、とある奇妙な提案をせしめた。

 「こんなとんでもない額を払うくらいなら、息子さんを生き返らせますから。どうか」

 巽の父親は相手を殴り、双方の弁護士は遣り取りを聞かなかったふりをした。とまれ、人は取り乱すと可笑しな台詞を口走る。裁判と平行して葬儀は行なわれ、県の条例に基づき、死骸は灰にされた。家族が骨を拾い集めるのを眺めながら、死者の最期に居合わせた瑞穂は不思議さで一杯だった。

 十年という人生は、こんなに呆気ないものなのか。七十の祖母の臨終の際は、葬儀ももう少しゆっくりと執り行われた気がする。涙も出たし、悲しみむだけの余裕もあった。ところが今、姉弟のように近しかった少年の菩提を弔おうとしているのに、何も感じない。

 多分、これは全て嘘なのだろう。

 複雑に絡まってしまった二人の関係が、鋏で断ち切ったようにあっさりと解決する訳が無い。まるで、冗談みたいだ。どこで間違ってしまったんだろう。自分は、あの時滑稽なくらい真剣な眼差しで告白した巽を、軽く笑っていなしてやるべきだったかもしれない。

 「後十年経ったら、また申し込んでよ?」

 とか、何とか。そうすれば幼い心を余り傷つけないで済み、夜々の懊悩も、事故を引起すような睡眠不足も齎さず、いつまでもお隣さんとして、蟠りなく付き合えていただろう。でもあの時、実際彼女が投げ付けたのは、ぎこちなく、無慈悲で、取り繕いようもない、拒絶の言葉だった。

 "あのさ、あたし、巽にそんなこと言われても困るから"

 "瑞穂おねえちゃ…あっ、の……すぐ…、じゃ、あっ、なくて…その…"

 "嫌だよ。お願い止めてって。気持悪いよ巽"

 "…あっ……あっ…"

 "今の、聞かなかったことにしとくから"

 "待っ…僕……"

 "子供とそういう話したくないの…巽、ほら通してよ"

 もう少し、大人の応対は出来なかったろうか。優しく諭してやれなかったろうか。けれど、少年の目が恐かった。あんな目で見られたのは初めてだった。信頼していた友達にいきなり裏切られたようなショックだった。

 あれは本当に巽だったのだろうか。何だか別の知らない生き物のようだった。

 ひょっとすると瑞穂は、心の奥底で、年下の幼馴染が此の世から消え去ってくれるのを望んでいたかもしれない。煩わしく絡み付いてくる慕情を、死という鋭い刃で切り捨てたかったのかもしれない。だとすればもっと、疚しさを覚えるべきなのだが。

 取り敢えず帰宅すると、アルバムから巽の映っている写真を取り出し、全て捨てた。赤ん坊の頃から、半年前まで、十年分。驚くほど沢山の枚数だった。持っている写真全体の三分の一といっていい。町内会の主催したキャンプや、児童館の遠足。高校の入学祝いに連れて行って貰ったレストラン。色々在った。世間からすれば、青木さんと橘さんは相当親しいお隣同士だったのだろう。いつでも周りにある空気のようなもので、余り意識しなかったけれど。

 暫く経ってから、瑞穂は剣道部の先輩と寝た。向こうが望んだから、拒まなかった。彼女は、同じ十五歳の少女の中では飛びぬけに美しかったし、そんな娘から好意を受ければ、男のほうでも抱きたいと願うのは当然だったかもしれない。

 処女を失った後ベッドに横たわりながら、当り障りのない慰めと愛撫に身を任せている内、堰を切ったように涙が零れた。普段のへらへらした態度とは打って変った、先輩の細やかな優しさに触れて、漸く感情の麻痺が溶けたのだった。瑞穂が厚い胸板に頬を埋めて、誰に向けるともなく許しを乞うと、彼は特に問い返しもせず、黙って受け容れて呉れた。

 やがて身体を心の支えにして、少女はゆっくりと起き上がった。最悪の嵐は過ぎ去り、若い魂は癒しの時を迎えたようだった。

 確かに、幼馴染との、永のお別れは済んだと、想われたのだ。










 巽を撥ねた張本人が、件の緑のセダンを青木家の前に停め、おかしな話し合いを持ちかけたのは、五月も終りのある晴れた日曜のことだった。

 「四千万円!法外です。私のような一介のセールスマンに払える額じゃない。どうか、もう一度以前の条件を考え直してみて下さい」

 「家内も俺もあんたと話し合いなんかしたくない。帰ってくれ」

 「勘違いされてお出でだ。私は動く腐乱死体や出来の悪いゴーレム人形を宛がおうと言ってる訳じゃない。そもそも焼かれちまっちゃカバラ式やブードゥー式の復活は無理ですからな。しかし事故とは言えお子さんを殺した以上、きちんと責任は取るつもりだ」

 「何を言ってるんだ気違いめ!いい加減にしろ!」

 怒り狂った巽の父親からまた殴られそうになり、男はほうほうの態で玄関を飛び出した。瑞穂は丁度部活を終えた所で、こけつ転びつ階段を下りてくる相手と鉢合わせしそうになった。避けるのは容易かったが、向こうが同じ不注意で幼馴染を殺したのかと想うと憤りが込み上げ、さっと足をかけて床に倒してやった。大怪我すればいい。

 生憎と、男はかすり傷一つ負わず、片手で鍔広帽を抑え、片手で鯰髭を形を整えながら姿勢を糺すと、じろっと彼女を睨みつけた。

 「お嬢さん、いけませんな。目上の者に悪戯をしては」

 「なんのことですか。そっちこそ少し気を付けて下さいね。もう、一人殺してるんですから」

 返す語気の鋭さに、どちらも等しく面食らったようだった。少女は、いつのまにか竹刀袋を掴む指が白くなって、ぐっしょり汗を掻いているのを感じ、動揺を隠してわざとらしい溜息をついた。

 信じられない話だが、相手に殺意を抱いている。殺してやりたいと望んでいる。

 帽子の男は少女の迫力に圧された様子で、横柄な仏頂面を卑屈な追従笑いにつけ替えるや、手揉みして側へにじり寄った。

 「もしかして青木さんのお嬢さん?」

 「違います」

 「じゃぁお隣の橘さんだ。そうでしょ?いやー、瑞穂さんですね。県大会で個人優勝の?全国八位の?」

 「あなた、何ですか」

 瑞穂は不快そうに柳眉を顰めた。馴れ馴れしさより、人一人殺しておいて全く反省のない素振りが気に食わなかった。

 「私ですか?大樹石信。この通り、(株)ミョミョンガ・ホームショッピング・サービスの販売員です。はい。瑞穂さんは青木さんのお坊ちゃんとは親しかったんでしょう?いやさっきの言葉も真にお説ご最もです。面目ない。しかしあれです。なんと言ってもセールス販売と言うのは過労に成り易い職業でして、あの時の居眠り運転にしても、会社側の酷い労働条件も起因している点を、考慮頂きたいものですなぁ。残念ながら青木夫妻は、ご心痛の余り多面的な状況把握をなされないようですが、第三者である貴女にはお解りいただけるんじゃないかと。何、もちろん被害者側というのが、時として感情的且つ理不尽な欲求に傾きやすいのは致し方ないのですが…」

 「ふざっ…」

 かっとなって怒鳴りつけようとした矢先、いきなり眼前に名刺を差し出され、つい唇を噛む。熱い溶岩が血管を破って毛穴から吹き出してしまいそうだ。何だこいつは。何でこんなに、平気なんだ。巽を灰に変えてしまったというのに、あの子がもう二度と、朝ランニングに出かけたり、好きな本を読んだり出来なくしてしまったと言うのに。

 「ははぁ。ご様子からして大分心を痛めてお出でのようですね。解ります。私もとんでもない苦境に追い込まれていまして。四千万円ですからね。もしかすると私達は互いの問題解決の為に話し合えるかもしれませんな。如何ですか。お嬢さん。貴女は大変に素晴らしい資産をお持ちだ。私は貴女の欲しがるかもしれないものを一つ持っている。これは素晴らしいめぐり合わせだ。そうでしょう?そうでしょう?まぁ聞いて下さい。私は巽坊ちゃんを生き返らせて差し上げられる。貴女が私にほんのちょっとしたものを支払っていただければ、対価として格安で貴女が自由に支配し、使役できる命を差し上げるのですよ。いや、並みの取引じゃない」

「さようなら」

「待って下さい」

 帽子男は離れて行こうとする少女の肩を掴んだ。万力のような強さで。痛みに声を失っていると、鯰髭が項を擽り、頬の辺りに荒れた赤紫の唇が迫って、押し殺した声音で囁いた。

「そう急がずとも」

「離してよ!」

「いけませんな。攻撃的で性急な態度は、時々大きな間違いを産むのではありませんか?」

 少女は肩を強張らせ、訳知り顔で頷く鯰髭に、鋭い視線を投げる。

「どういう意味?」 

「断るにしろ受けるにしろ、もっと申し出の内容を熟慮してからにすべきだという意味ですよ。もう一度話を聞いて下さいませんか。私は、ちょっとした代価で、青木さんのお坊ちゃんを生き返らせようと言っているのですよ。悪くない取引でしょう?」

 きらきら光るつぶらな瞳は、さながら狸や狐のような、無垢を装った狡賢さを隠していた。精神異常者だろうか。手を振りほどこうと力を篭めたが、まるで鉄の枷で繋がれでもした如く、びくとも動かせない。

「いきなりは信じ難いでしょうな。永の別れを告げた相手に、再び会えるなどと言われても。常識からすれば非常に疑わしい。だが私共はお客に常識は求めない。必要なのは願いの強さです。貴女がもし、巽君に会いたいと心から欲するなら、それこそが大切なのです」

「宗教なら…」

「とんでもない、これは神の御業とは無縁ですよ。純粋なビジネス。契約と、お買い物です。そう、ちょっとしたお買い物だ。貴女が私にあるものを払っていただければ、私も貴女にお返しをする。実に明快な取引ですね」

 耳を貸すな。頭のおかしい奴の戯言なんかに。理性がそう訴えるが、身体はなぜか抵抗をやめてしまっていた。筋肉の緊張の具合から、態度の軟化を感じ取ってか、鎖骨に食い込んでいた男の指がほんの少し緩む。瑞穂はすかさず身を逃れ、二三歩間合いを取ってから改めて向き直ると、相手をじっとねめつけた。

「巽を殺したくせに、よくも出鱈目がいえるわね」

「責任を感じているからこそ、格安の条件にしようというんですよ。本来死者の復活というのは、準備諸々のオプション料金を加えると、相場は裕に魂一千万個を超える。帝王や独裁者でもなければ払いきれない額だ」

「へぇ…で、あたしの場合は幾らなの」

「そうこなくっちゃ!払って頂くのは、貴女の貞操になります」

 とうとう吹き出してしまった。首を振りながら、頭を抑える。何てふざけた話だろう。巽はこんな奴に撥ねられたのか。しかし帽子男は何を誤解したのか、妙なにやにや笑いを続けながら、尚も話し掛けてくる。

「如何ですかな?」

「…最低」

「残念ですなぁ。千載一遇の機会ですよ。ちょっとした犠牲だけで、生きた幼馴染を手に入れられるのに」

「一生独りでオナってろ豚野郎」

 罵ると同時に、袋に収めたままの竹刀を帽子に叩きつけた。男は鯰髭の下で口の両端を三日月型に歪めたまま、ゆらりと陽炎のように切先を躱し、しつこく口上を捲し立てる。

「誤解しないで頂きたい。私が貴女に手を出す訳じゃないんです。そんな途方もない話ではありません。ただ、貴女の心から、ちょっとした留め金のようなものを抜き取るのです。ごく抽象的な概念あるいは、タブーとか、道徳と言ってもいい」

 御託を封じようと、喉元へ突きを入れる。だが、稲妻のような剣速にも係らず、彼女の攻撃はまたしても避けられた。本能が警戒を呼びかける。おかしい。こいつは普通じゃない。ただ頭がおかしいというだけじゃなく、もっと根本にある何かが違っている。それに、さっきから宅地の真中で言い争っているのに、誰も通りかからないのも変だ。

「貴女のような真直ぐな心の、純潔の部分は、非常に高額で売れるのです。知り合いのブローカーに回せば、四千万円くらい何とかなる。どうです。目には見えないものだ。元々出鱈目なら契約してみたっていいでしょう。そちらの同意さえ貰えれば充分にサービスさせて頂きます」

「やってみろ!」

 怒りに任せた叫びに応えたのは、地獄の底から鳴り響くような哄笑だった。

「おっしゃいましたね?やってみろと。ありがたい。今度の契約は時間が掛かった。いやはやしかし、これで自動車免許を取る苦労も報われました!宜しい、では今夜丑三つ時、奇跡をお目に掛けましょう」

 カメラのストロボを何十も一度に焚いたような閃光が迸り、瑞穂の目を眩ませる。咄嗟に掌を翳すと、耳元を翼の羽搏く音が掠めていった。

 反射的に振り回した竹刀はまたも空を切り、後には嘲りに似た鳥の鳴き声だけが残る。瞼を開くと、辺りにはもう男の影も形もなく、あの毒々しい緑のセダンさえ、元々そんなものは停まっていなかったかの如くに消え失せていた。

「…いったい…」

 少女は、汗まみれになった額をコートの袖で拭いながら、悪質な風邪を伝染されでもしたかのように、激しく身震いした。










 午前二時。

 瑞穂は羚鹿のような四肢を伸ばし、ゆめうつつに睡みつつ、過ぎ去った今日の疲れを癒し、明日への英気を養っていた。深い呼吸に合わせ、パジャマの胸でお椀型の膨らみが息づき、寝返りを打つ度、円かな肉置きを微かに示す。花の香さえ漂いそうな、たおやな姿態。切長の目は閉ざされ、秀でた額には絹糸のような前髪がかかり、あどけなさを残した寝顔には、凛々しさと可憐さが同居している。

 不意に、何かが窓を叩く。カーテンが微かに揺れると、少女は飛び起き様、枕元に立てかけた竹刀を掴んだ。しなやかな手足の筋肉に力が漲り、表情も眠りから目覚めへと急激に変化していく。

 「誰?」

 カーテンの向うで窓の鍵が開く音する。内側からしか動かせない筈なのに、確かに聞こえた。やがてサッシの擦れる気配がして、いきなり羅紗の布地が夜風に激しくはためくと、朧な月光と共に低い含み笑いが仄暗い室内へ入り込む。

「お待たせしました。さぁお受け取りなさい」

 翻る羅紗の間に間に、帽子男のにやついた顔が覗く。どうやって二階の窓辺に。しかし何か声を立てようとした矢先、窓は丁度ビデオのワンシーンに巻き戻しをかけたように、元通りぴたりと閉じると、カーテンも再び力無く垂れ下がった。

 急いで照明をつける。

 言葉どおり窓の下に、置き土産があった。瑞穂は一目見るや全身に鳥肌を立てて、竹刀を強く握り締めた。歯の根が噛み合わず、背筋を百足が這い回るような悍しさで、どっと脂汗が吹き出る。

 骨壷だった。あの男は骨壷を置いていった。巽の骨壷を。

「あぃ…つぅ…」

 頭に血が逆上せ、窓へ駆け寄ろうとした途端、骨壷の後ろにも、何か一つ別のものが隠れているのに気付いた。彼女が歩いた為に起きた床の振動に反応して、此方から逃げるように動き回っている。生きているらしい。

 死者の灰を収めた陶器の縁から、ひょこっと小さな鼻面が覗き、二枚の垂れ耳がちらついて、やがて、黒い毛皮を纏った真丸な動物の姿が明らかになった。

「え、兎…」

 ロップイヤーの黒兎だ。近付いてもなぜか骨壷から離れようとせず、脅えきった様子で瑞穂を観察している。気勢を削がれて、竹刀を握った拳は脇へ降りた。

「何よ…」

 あの男の意図が読めない。ちっぽけな兎が、巽の生まれ変わりだとか、そういうつもりなのだったのか。やはりただの狂人なのかもしれない。

「どうしよ…」

 橘家はペット禁止なのだ。厄介の種を押し付けられた。骨壷の件もある。青木の家になんと言い訳して返したらいいのか。ともあれ先ずは竹刀を立て掛け、腰を屈めて兎を招く。

「ほら、恐くないよ」

 小心者らしく、相変らず壷にへばりついている。

「おいで、それ、死んだ人の骨が入ってるんだよ。巽の骨がさ…」

 巽という単語は、奇妙に間延びして零れ落ちた。灰色の靄が胸を塞ぐ。あの子の名を迂闊に口にするのではなかった。

 と、いきなり兎の耳がぴんと立ち、骨壷がごとごととおかしな揺れ方をし始めた。

「こら、それを倒しちゃ駄目…」

 慌てて手を伸ばそうとした瞬間、覚えのある閃光が骨壷と兎を包み込み、幾度も瞬いて彼女を遮った。

「また!?」

 しかし今度の輝きは、昼間、帽子男が遁走する際に放ったのとは比較にならない眩しさで、部屋中を真っ白に塗り潰して、瞼を閉じても明るさが伝わってくる程だった。

 瑞穂は無意識のうちに骨壷を守ろうと宙を弄った。だが指先が捉えたのは、固い陶器ではなく、温かく滑らかな肌だった。兎にも毛の生えていない部分があるのだろうか。この際構っていられないと、とりあえず掴んで抱き寄せる。意外な手応えと、重さがあって、胸に何か大きな質量がもたれる。

「ふぁっ…」

 弱々しいボーイソプラノ。忘れようとしても忘れられない、幼馴染の声。

「た、巽?」

 青く霞んだ視界に映ったのは、紛れも無く、三ヶ月前車に撥ねられた筈の幼馴染だった。いや違う。彼ではない。だって死んだ巽はロップイヤーの耳なんかしていない。ふわふわ丸い尻尾もない。

「え…あれ…僕…なに…何で…」

 少年は眠そうに眉を擦り、ふと自分が裸なのに気付いて、真赤になって飛び退った。凄い瞬発力だ。運動音痴の巽には出来っこない。

 でも。

「な、なんで瑞穂おねえちゃんの、部屋…あ、僕…車…あ、あれ?」

 死んだあの子と同じ様に彼女を呼んだ。










 瑞穂は、まず巽(?)を毛布でぐるぐる巻きにして、ベッドに座らせると、得意の猫歩きで台所に行き、ホットミルクを造って持って来た。

「ほら、飲みな」

「あ…ありがとう」

 少年は耳をぱたぱたさせながら受け取ると、熱い液体を一啜りして、じっと彼女を見詰める。色々質問したかったが、脅えたような眼差しにぶつかると、何もいえなくなってしまった。暫く沈黙があってから、口火を切ったのは巽の方だった。

「僕、どうしてここにいるんだろ…」

「覚えてないの?」

「うん」

「あんた、ランニングに行こうとして、車に撥ね…」

「ううん、それ、覚えてるけど…」

「じゃぁ、その後は」

「解んない…気付いたらここに居て…」

 やっぱり。何と説明したらいいんだろう。あの男が巽を生き返らせたのだ。人と兎のおかしな合の子として。なんてとても話して通じるとは思えない。瑞穂は急いで頭を働かせた。まず巽の両親に連絡しよう。向こうが状況を理解できるかどうかはさて置くとしても、真先に彼の家族へ報せなくては。

「あたしにも解んないけど。家まで送るわ」

「あ、ありがと…」

 しかし真夜中に、死んだはずの息子を連れ帰ったら、青木家の人々はどれだけ驚くだろう。騒ぎを想像するだけで気が滅入った。だがともかくも朗報には違いない。

「服…無いけど…迎えに来て貰う訳にもいかないし…風邪引かないように毛布でしっかり巻いときなさい」

「うん」

 少女は立ち上がり、彼の手を取ろうとして、また引っ込めた。びくっと小さな肩が反応し、あどけない顔立ちが、ああそうかと笑う。そうだった、僕は瑞穂おねえちゃんに嫌われてたんだと。

「ごめんなさい…」

「はぁ?何で謝るの」

「色々…迷惑かけて…」

「あっそ…謝る位なら、最初からやんないでよ。ほら、静かにね」

 変だな。私ってこんなに意地悪だったっけ。玄関へ出ると、スニーカーと革靴を出して、スニーカーを彼に穿かせ、自分は革靴を穿く。どちらも同じ寸法の女物だが、巽にはぶかぶかだ。デカ足は瑞穂の密かな悩みだった。

「行くよ。寒かったら言いな」

「うん」

 草木も眠る深夜、素肌に毛布を巻いた少年とパジャマ姿の背の高い少女が、夢遊病者の如く連れ立って歩く。家から家へ、ほんの数間の距離とはいえ、宛ら亡霊の行進のような、不気味な情景だった。

 青木、と看板のあるお隣の玄関に着くと、インターフォンを押す。返事はない。当たり前だ。もうとっくに寝ているんだろう。もう一度押す。やはり駄目。やれやれと欠伸をして後ろを振向く。少年が夜気に当てられていないかと心配したのだが、案外平然としている。

「寒くない?」

「うん」

「ふぅん」

 もう一度呼び出しをかける。反応がなければ家に戻って電話を掛けるしかない。家族を起さないようにやれるだろうか。返事を待ちつつ、焦慮を巡らせていると、数秒と待たず通話のランプが灯った。さて、一体どうしたらいいだろう。なんと話したらいいだろう。

"誰だ、何時だと想ってんだ!!"

「あの、橘ですけど…」

"え?瑞穂ちゃん?どしたの!?"

「ちょっと…あの、どうしても見て貰いたいものがあるんです…」

"明日じゃだめかな"

「お願いします。巽のことなんです」

"…。待った"

 暫くして、ドアが開く。以前より少しやつれた巽の父が顔を見せた。瑞穂は唾を飲み込んで、少年を前に押し出す。

「あの…巽…ほら」

「なに?」

 巽の父は怪訝そうに尋ねながら、じっと目を凝らした。ところが、さぁ大騒ぎが始まると身構えていると、向うはただ不機嫌そうに顔を顰める。

「兎がどうかしたの?」

「えっ…」

「お父さん?」

 少年と少女は同時に困惑の声を挙げた。

「え、いや巽…」

「お父さんどうしたの?顔すごいやつれて…」

 こもごもに話し掛ける二人。暫く戸惑いに満ちた沈黙があってから、青木家の主ははっと気付いたように瑞穂の顔を見た。

「瑞穂ちゃん…」

「あの、巽ですよ。耳とか伸びちゃってますけど。ほら巽。ちゃんと顔見せて」

「落ち着くんだ瑞穂ちゃん。巽は死んだんだよ。三ヶ月前に車に撥ねられて死んだんだ。もう火葬も終ってるんだよ。君が連れてるのは兎だ」

 辛そうに説き聞かせる父親の言葉に、巽はぎょっとして連れの方を振向いた。

「瑞穂おねえちゃん…ど、どうなってるの…」

「待って、おじさん。解るでしょ。ほら、巽です」

 瑞穂が彼の息子を前へ押し出せば押し出すほど、男の顔は痛ましげに歪む。

「瑞穂ちゃん。入りなさい。君は錯乱してる。これは兎だ。ね?一緒につれて入っていいから」

 少年は完全に血の気を失い、無我夢中になって父親の脇をすり抜けると、一気に中へ駆け込んだ。

「お母さん!お母さん!」

 悲痛な叫びに耳を覆いたくなる。なんてことだ。現実なのか空想なのか解らない。少女は自らの正気を疑いながら、巽が手を使って扉を開けるのを見遣った。父親はぎょッとした様子だ。

「あの兎、把手に飛びついて扉を開けたぞ」

 そうなのか?あれは巽でなく兎なのか。恐ろしい疑問に対する答えを示すように、奥から中年の女性が驚きの声を挙げるのが聞こえた。

「あなた、なに、何なの」

「お母さん、僕だよ。僕だったら。どうして解らないの」

「落ち着きなさい。瑞穂ちゃんのペットだ。瑞穂ちゃんは少し疲れているようでね…」

「お母さん、お母さん、僕だったらぁ…」

 父親は急いで室内に戻ると、涙ながらに喚く息子を、乱暴に母から引き剥がし、瑞穂の元へ引き摺って来た。 

「すまないが、家内は動物が全く駄目でね。ほら、犬や猫が近くに居るだけでアレルギーが起るだろう…悪いが…」

「何言ってるの?お父さん…嫌だよ…嫌だ、お母さん」

「解りました。あの、ごめんなさい。私、少し寝惚けてたみたいです。ほら、巽、行こう」

 震える声で無理矢理辻褄をあわせ、暴れる四肢を羽交い絞めにして、もぎ離す。父親は首を傾げながらも優しく尋ねた。

「もしかすると、その子の名前は巽というのかい?」

「ええ。こっそり飼い始めたんです。親には内緒にして頂けますか。ペットのことも、勿論ですけど、こんな夢遊病みたいな真似をしたなんて、知られたくないんです。すいません」

「お母さ…」

 口を塞ぐ。声は他の人間には届かないようだが、瑞穂自身がもう巽の言葉を聞きたくなかった。青木家の主は扉を閉めながら、肩を竦めた。

「ありがとう…ありがとうな…巽は…瑞穂ちゃんのことが本当に好きだったんだ」

「私もです」

 湧き上がる恐慌を抑えて、巽を抱えたまま自宅に引き返す。母を求め、狂ったようにもがく彼は、異常な程膂力が強かった。まるで獣のように。










 部屋に戻ってから、瑞穂は茫然としている幼馴染の涙を拭い、毛布をきちんと巻きなおしてやった。しかし、混乱しているのは彼女も同じだった。

「お母さん、お母さん…お母さん…」

 痴れたように同じ単語を繰り返す巽は、確かに人間の子供にしか見えない。だが、耳はどうなのだ、尾は。そして、実の両親が兎だと断言している。彼等は二人してかついでいるのだろうか。全てはあの男が仕掛けた悪い冗談で、何もかもすぐにネタ晴らしがされるのでは?。

「お母さ…ぅぐぅっ…あぅっ」

 喉を詰らせて泣き始める。やめて。耐えられない。

「巽。子供じゃないんだから泣かずに聞きな。あんたのお父さんとお母さんが言った通り、あんたは三ヶ月前に車に撥ねられて死んだの。あたしは火葬場で骨になる所まで見たから間違いないよ」

 信じられないとう目つきで見返してくる。それはそうだろう。誰に信じられる。

「だから、あんたがあの巽なのか、そうじゃないのか。あたしには解らない。耳変ったの、気付いてる?」

「え?」

 少年の指が恐る恐る耳に触れ、悲鳴を上げて離れる。何だ?ただ驚いた訳じゃない。まるで傷口に触れたみたいな。

「ひぁっ…なんで…びりびり…あっ…」

 まだるっこしい。机を探って、コンパクトを見つけ、姿を映し出してやる。

「うわぁああああっ!!耳、耳…あっ…」

「お尻にも尻尾生えてたわよ。兎の」

 吐きそうな顔をしている。だが、瑞穂にはどうにもしてやれない。巽は両手を瞼に当てて、ぎゅっと背を丸めた。そうしていると本当に兎のようだ。泣声が途絶え、石のような静寂が始まる。瑞穂は壁に寄りかかったまま、頭を掻き毟った。

 二人とも己の殻に閉じ篭って、状況を受け入れようとしていた。時計の長針が驚くべき速さでめぐり、短針もまた、着実に朝への時間を刻んでいく。まもなく最初の雀が鳴くだろう。これが夜が明けたら醒めるような悪夢であればいい。

「じゃぁ僕は…誰なの…」

 少年が、ぼそりと呟く。少女は天井を仰いだ。何で尋ねるのだろう。彼女だって、答えを知っている筈もないのに。

「あんたを撥ねた男が、あたしの所にやって来て、あんたを生き返らせてやるって言った。それで、やってみろって言ったら、夜中にあんたの骨壷とロップイヤーの兎を連れてきて…そいつが爆発してあんたになったの。解る?」

「うんうん…」

「あたしも解らないわよ…だからもう尋ねたって無駄だからね…」

 まただ。何故こんな刺々しくしてしまうんだろう。巽が、生き返ったというのに。本当は悦ぶ冪なんじゃないのか。例えどんな形だろうと、死んだ筈の幼馴染が帰ってきたんだから。

「兎に角、あんたは生き返ったの。死んでるより得でしょ?」

「瑞穂おねえちゃんは…」

「なに?」

「平気なの…僕が…そんな…生き返ったとか…おかしいでしょ…どうして…落ち着いてるの…」

 とうとう怒りの導火線に火がつく。

「落ち着いてる?そんな訳ないでしょ?もう頭の中ぐちゃぐちゃ。あんたのお父さんお母さんはあんたのこと兎だって言うし、尻尾と耳は生えてるし、あの帽子の男がなんなのか解らないし、気が狂いそうよ。これからどうしたらいいのか全然解らないし」

 溜りに溜まった憤懣を一気に吐き出すと、少女は肩で息をしながらへたり込んだ。剣幕の凄まじさに、巽は耳を真直ぐにたて、項の毛を逆立てて震えた。

「解った…」

「何が…」

「僕、行くね…」

「行くってどこへ行くのよ…」

「どっか…ここに居たら…迷惑だから」

 うわごとのような応えをして、兎耳少年はふらふらと戸口へ向かった。瑞穂は素早くその足を掴んだ。

「それ、あたしの毛布」

「ぁ…あ…返す」

 注意された方は急いで毛布を脱ぎかけ、裸を曝す結果になると気付いて躊躇う。少女は後ろから乱暴に剥ぎ取ると、裸身に冷たい視線を注いだ。

「その格好で出るの?」

 両手を股間に当てて蹲ると、白い尻の上でふさふさの尻尾が不安そうに揺れる。

「やぁっ!なんで…ぅ…服」

「貸さないわよ。ユニセックスのなんて持ってないし。第一サイズ合わないでしょ」

「ぅあっ…」

「出てってどうするの?ご飯は?お風呂は…他の人には兎にしか見えないんだよ」

「でも、僕、瑞穂おねえちゃんの、邪魔に…」

「なっても、この際どうしようもないでしょ。だいたいあんたは、私が生き返らせて欲しいって望んで、それで生き返ったのよ。その意味解る?」

 細い首が横に振れた。少女はふっと息を吐く。もう、解るとか解らないとか訊くのは止めよう。泣いて、暴れて疲れ果ててしまっているのに違いないから。

「私に責任があるってこと。私が、あんたをちゃんとした人間に戻して、お父さんお母さんと話ができるようにするから…それまでは…ここに居なさい」

 巽は、あんぐりと顎を落として、まるで地獄で鬼に情けをかけられたかのような面持ちになった。瑞穂は苦笑して裸身を抱き寄せる。

「ねぇ。私は、巽を嫌ったりしてないんだよ。ごめんね。あんたの気持には応えられないけど、でも弟みたいに大事なんだから。何も心配しないで」

「う…ん…うん…うん…」

 無心に抱き返してくる少年の、滑らかな胸に頬擦りをしながら、少女は自分が嘘をついているのに気付いた。弟のように、ではない。身体の芯に燻る燠火が、彼を欲している。あれだけ攻撃的になったのは、苛立ちや怒りの性ではなかった。

 これまで幼馴染を相手には一度として感じた経験のない情欲が、奔流となって理性の蓋を抉じ開けようとしていた。

 ―――ただ、貴女の心から、ちょっとした留め金のようなものを抜き取るのです。ごく抽象的な概念、あるいは、タブーとか、道徳と言ってもいい―――

 精神力の全てを振り絞って、危険な衝動と戦いながら、瑞穂は巽を母のように優しく包み込んだ。どれだけ我慢が利くだろうか。どうやら二人は、悍しい罠に嵌ったらしい。生と死を弄ぶあの男の、下劣な罠に。

 ―――これは神の御業とは無縁ですよ。純粋なビジネス。契約と、お買い物です。そう、ちょっとしたお買い物だ。貴女が私にあるものを払っていただければ、私も貴女にお返しをする。実に明快な取引ですね―――

 寄り添う少女と少年には、知る由もなかった。神の御業と無縁に契約と取引を行ない得るのは、地上にただ一人しか居らず、その名を、悪魔と言うのだとは。

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