伝説の樹の下で、姫君は勇者に愛を告げた。 「私を貰って下さい!」 「だが断る」 黒髪、長身、痩躯の若者は、氷の如き闇色の瞳に不興の色を浮かべると、凍える冬風のような声で、にべもなく求婚をはねつけた。金髪、碧眼の少女は息を詰まらせると、左右の手指を握り込んで、激しく問いかける。 「どうしてですか?」 「俺はほかに相手がいる」 「おねにいさまですね!?でも私だって!…おねにいさまと同じ体、同じ髪、同じ目、同じサマルトリアの血を引いています!」 「はっきり言って、女らしさが足りない」 「そんな!おねにいさまは王子、私は王女として育ったのに…どうして、どうして!」 「うるさい、元気すぎる、押し付けがましい。以上だ」 ローレシアの王子は背を向けると、齢千年になんなんとする大木の葉影から歩み出て、緑の丘を下っていった。取り残された隣国の王女は、細い肩を震わせ、うなだれて、大粒の涙を草の上に垂らした。桜桃の唇はかすかにわななき、掠れた語句を紡ぐ。 「くしょう…」 拳を持ち上げ、けばだつ皮に覆われた幹に軽く当てると、急に引いてから、勢いよく殴りつける。同時に利き脚を踏み込むと、地面が微かに揺れる。震足。下半身の力を上半身へ伝え、攻めの勢いに変える、武術の基礎にして根本の体捌きだ。 「畜生!畜生!畜生!おねにいさまの畜生!畜生!うわああああああん!!!!」 直突き、貫手、肘打ち、ぶちかまし、膝蹴り。正面に聳える森の長老へ、迅雷の速さで連撃を送ると、怪鳥音を上げて空中へ跳び、錐揉み回転しながら、爪先で樹幹を抉る。 乙女らの噂にはかくあった。都の外れ、遠く町並みを見遥かす高台の、常盤に生い茂る枝に庇われて、殿方に恋情を捧げれば、必ずや結ばれる。だが、すべては嘘だった。破れた恋、やりばのない想いを、修練を重ねた技に乗せ、役立たずの古木に叩きつける。 「王子様のばっきゃろおおおおおおおおお!!!!」 とどめとばかりに内功の篭もった掌底を放つと、くるりと踵を返して、駆け去っていった。 後ろでは、千古の昔からサマルトリアの鳥獣の憩わせてきた緑の王が、永い寿命を終え、幾百万の葉を散らしながら、ゆっくりと倒れていく。朽ち行く守護神の立てる重々しい最期の音は、しかし誰にも聞かれず、子孫たる木々に吸い込まれた。 「うわあああああん。うあわわあああん」 「おーよしよし」 盃の打ち合う音と、酩酊の呼び起こす喧騒に混じって、少女の大泣きが響いていた。連れの辛抱強い慰めも効果はなく、かれこれ小半刻ばかりは、兄と振った男への罵りや恨み言が続いている。 ところはといえば、女だけでも入れるが、さして構えもない老舗の酒楼。宮殿の正門から伸びる御成道をそれて、三つか四つは通りを跨いだ横丁のどん詰まりにあり、安くてうまい料理と柑橘を漬け込んだ葡萄酒がうりの、いわゆる穴場だ。サマルトリアの二ノ宮は、傷心を慰めに、年嵩の友人とともに忍んでいた。王子との決戦に臨んだ時の華やかな薄絹はとうに脱ぎ捨てて、快適さを優先した裕福な商人の娘のなり。相方の方は家柄を示す紋のない無地の長衣に魔法使いを示すねじくれた杖を携えていたから、うっかりちょっかいをかける不粋の客もいない。 「うう…胸か!おっぱいか!おねにいさまにあって私にないのはあれか!あの二つの脂肪の塊かあああああああ」 「それはあるかもねぇ」 「もうちょっと待ってくれれば。せめてあと一年…いや二ね…三年…」 「五年かな」 「うう…ムーンブルクの王女様はいいですよねぇ。それだけあれば!」 じろりとサマルトリアの姫が睨んだのは、差し向かいの卓に載った双つの丸み。連れがまとったゆるやかな服の上からでも分かる、たっぷりとした質量だった。 月の城の跡取り娘は、年下の友人の視線に気付くや、玲瓏の容貌を酔いのせいばかりではない朱に染め、片腕で胸の前を隠すと、手にした盃をあおった。 「ぷはぁっ…胸があったってどうにもならない時もあるよ。あと摂政な。摂政。一応、国務を引き継いでるから。臣民いないけど」 「へへぇ。摂政様におかれましては殿方の心を得るのに苦労した経験なんてないでしょう?」 「あるよ」 「うそ、いつ」 「昨晩」 答えてから、ムーンブルクの名代は相方に沈んだ視線を注いだ。見つめられた方は、どぎまぎして語句を詰まらせる。 「そ…そうなんですか?誰です?その不埒者!私が鉄拳制裁しちゃいます!」 「あなたのお兄さんだけど」 サマルトリアの二ノ宮はあんぐりと顎を落とした。いくら元々が可憐な造作とはいえ、いささか品のない顔付きになる。 「口閉じなさい。みっともない」 「うそ…だって、だっておねにいさまって…ふた…ふた…」 「あなたもそうでしょうが」 「だけど。全然合わないから!あんななよっちいの!王女…いえ摂政様にぜんぜんふさわしくないです!」 「うるさいなぁ…私は細い子が好きなの…じゃなくて好きだったの」 「だったらローレシアの王子とか」 「いや。あんな肉の固そうなの。がりがりの痩せ馬みたい」 「ええぇ!?あの人は痩せてるようで逞しいところが素敵なんじゃないですか!まるで抜き身の剣みたいな、鋭くで、凛々しくて、いつも先頭を切ってどんな危険に対しても盾になってくれそうな」 「いやホイミも使えない低能だから。あいつに幻想抱きすぎ。それを言うんだったら、あなたのお兄さんの方が、剣も使えて魔法も鮮やかで、優しいし、気配りできるし。性格ののんびりしたところも癒されるし」 「中途半端。のんびりどころか抜けててますし。だいたい外見で負けてますって。ローレシアの王子の黒くて真直ぐな髪とか、吸い込まれそうな目とか…あぁ思い出しただけでどきどきするぅ。今日は間近で見ちゃった」 「きもい。鴉みたい。それに比べてあなたのお兄さんはまるで絹みたいに細い金髪に、ロンダルキアの鋼玉みたいな蒼い瞳。デルコンダルの象牙みたいに艶やかな白い肌…そういえばあなたも同じね」 急に話の矛先を向けられて、サマルトリアの姫は耳まで紅くなった。連れはまた酒を啜ってから、最前よりやや低く、くすぐるように語りかける。 「本当。髪も目も、ほっそりしたお人形さんみたいなところも、お兄さんによく似てるのね。もっと華奢かな?あのぼんくらも、もったいない事するよねぇ。私が男だったら放っておかないけどな」 まだかさぶたもできていない失恋の傷をつつかれて、年下の少女は卓に突っ伏す。 「あー。女の人に言われても嬉しくないですー」 魔法使いの娘はくすっと笑って手を伸ばすと、友人の柔らかな山吹の髪を撫でた。 「そう?ちょっとでも?どきどきとかしない?」 「はいー…」 「残念。半分は男の子なのになぁ」 また心の柔らかい部分を掻きむしる台詞。双生の王女はやおら身を起こすと、きっと強い目付きで相手をにらんだ。 「私は女の子なんですよ!そういう風に育ったんだもん。男だなんて。おねにいさまは喜ぶかもしれないけど、私は…私は…」 憤りに任せて話す唇を、別の唇が塞ぐ。橙と葡萄、二つの果実の混じった香りが、口腔に満ちる。舌が探るように入ってきて、もう一つの舌を捕え、ゆっくりと絡ませる。 頭が真白になった少女は、石像と化したかの如く椅子の上で固まり、年嵩の友人の巧みな戯れに、ただか細い呻きを漏らしただけだった。 永遠とも思える数秒が過ぎて、接吻は解ける。わずかのあいだ銀の糸をつないで、二人は離れた。 「今度はどきどきした?」 「ど…」 酒場の燭台から落ちる光を映じて、月の顔が明るく輝いている。さっきまでつながっていた唇が際立って紅く、妖しく浮かんでいた。どきどきした。どころか、感じてしまった。思わず閉じた両脚のあいだで、男の部分は固くなって、女の部分は濡れてしまった。 「ね?お兄さんたちに仕返しようか?私たち二人で」 ムーンブルクの摂政が差し延べる手を、サマルトリアの二ノ宮はおずおずととり、やがてぎゅっと強く握り締めた。 |
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