夜更け、小さな男の子が細い路地を歩いていた。どこまでも続く、高い煉瓦塀の傍らを、とぼとぼと進んでいく。 小学校低学年くらいだろうか、幼げな丸顔は不安にくもり、華奢な腕はおんぼろのリュックサックをしっかと抱き締めている。大きく開いた瞳で、きょろきょろと周囲を見回しながら、人気の無い暗がりを進むと、ややあって甲高くかすれた声で、誰かの名前を呼んだ。 「ぎんこ、ぎんこ」 煉瓦塀の尖った忍び返しを、なにか黒い塊が跳び越えて、ふわっと道路に降りて来る。青い照明に、灰がかった白い毛並みがきらきらと輝いた。猫だろうか、犬だろうか、はっきりとしない獣の姿。 美しい流線形を描く背が、波打つようにうねる。まるで、生ける水銀のような輪郭。けれど、なめらかで気品ある仕草には、ほんのかすか、ひきつるようなぎこちなさがあった。見れば片方の前足に不恰好な包帯が巻かれ、動きの自由を奪っている。 「ぎんこげんきだったか?」 ほっとしたような呟きに応え、それは、確かに猫の如く喉を鳴らし、童児にすり寄った。くだんの足をズボンの膝に載せて、はやくほどいてと催促するように見上げる。左右、色の違う赤と緑の双眸が闇に燃えた。 子供の指が、そろそろと布の端をつまんで、慎重に結び目を解き、手元に巻き取っていく。かすかな傷跡が露になる。男の子はほっと息を漏らすと、縦に切れたような怪我のなごりをよく調べてから、リュックサックを開け、透明なビニール袋に包帯をしまった。 それから、紙皿を出して地べたに置くと、50mlパックの牛乳を取り上げ、口を切って中味を注ぐ。ぎんこと呼ばれた獣は、即座に皿へ頭を突っ込むと、瞬く間に舐め尽くしてしまった。 「おなかへってたのか?」 保護者ぶった問いかけに、ぎんこは短い唸りで応じる。左の、血の色をした眼が、怒ったような火花を散らせた。童児はちょっと黙ってから、パックと紙皿を別のビニール袋に入れると、なだめるように相手の首のつけねあたりを掻いてやった。 「…じゃぁな」 しばらく、ぎんこの尖った毛を撫でてから、おもむろに別れの挨拶を口にする。古びた背嚢を胸に強く引き寄せてから、ゆっくり腰を上げると、そのまま後退る。 言葉を解さない獣は、とことことそれに付いて行き、やがて子供が立ち去ろうとしているのを察すると、今度は右の翡翠の瞳を煌めかせた。 男の子はふらついてしゃがみこむと、軽く頭を振って言葉を重ねた。 「おれあしたひっこすから」 ぎんこは緋と碧の双眸を瞬かせ、脅すようにひしり鳴いた。童児はうずくまったまま、しばらく金縛りにあったように固まっていたが、やがて苦労してまた立ち上がった。 「ぜったいまたくるからな」 そう約束する声の調子から不安を聞き取ったのか、獣は真紅の左眼に焔を点すと、すごい勢いで相手の周りを巡って、留まれ、と命令するように低く喉を震わせた。赤い灯が妖しく旋回すると、子供はまたぐらっと体を揺らし、危うく膝をつきかけた。 「じゃぁな。ばいばい」 急いてそう言って、惑わしの瞳を見ないよう顔を背けると、きびすを返し、必死に走り出す。 唸りが追いかけてくる。男の子はさらに足を早めた。すぐ後ろからアスファルトを、羽のように軽いなにかが疾る気配がする。同時に遠くから、せきこむような排気音が大きくなってきた。 「ばいばい、ばいばい」 必死になって呪文を唱えると、ぎゅっと目を閉じて体を前に傾け、つんのめるように駆け続ける。唸りは、いっそう激しさを増した。 せつな、ヘッドライトの閃きが、子供を襲った。まぶたごしに眩しさを感じ、はっとして目を開けると、いつのまにか大通りに踏み出しており、すぐ近くの交差点から一台の軽トラックが走り込んで来ようしていた。 いっさいを白く塗り潰すような明るさの中、男の子はすばやく振り向くと、大きく腕を広げて、背後から弾丸のように追いかけてきた獣を抱きとめた。そのまま無我夢中で、元来た路地の方に飛び込む。 車は、怒りのクラクションを残して通り過ぎた。 辛うじて受け身をとった少年は、懐にかばったぎんこの無事を確かめる。獣はまぶたをとじたまま四肢をだらんと弛緩させていた。凄まじい音と、光と、衝撃を一度に受けて、失神してしまったらしい。 「ばいばい…だってば」 細い道を奥へ戻り、意識を無くした連れを、最初に会った煉瓦塀のもとへ横たえる。不意に肘のあたりに痛みを感じて、腕をもたげると、大きなずるむけができて、鮮血が滴っていた。 男の子は泣きそうになってから、口を開けて深呼吸し、何とか声を殺すと、リュックサックからハンカチを出して傷口にあて、音を立てずにその場を離れる。 獣はかすかに身動ぎして、誰の耳にも届かないほど弱々しく、悲しげに鳴いた。 悪夢にも似た夜の記憶は、浅い眠りとともに溶けて消えた。 ”つぎは、まがめもり、まがめもり。しんせんえんにはこちらがべんりです” 合成音声が聞き取りにくい停留所の名前をアナウンスする。がら空きのバスに、一人だけ乗っていた少年は、まぶたをこすってから、急ぎ降車ボタンを押した。ほどなく、ディーゼルの溜息を吐いて車両が止まる。 支払いボックスに小銭を落として、空調の利いた車内から外へ出るや、たちまち湿りをふくんだ暑気が肌へとまとわりついた。曇天から、午後の太陽が、道路に淡い影を投げかける。 少年は、縁の錆びた金属板に「曲目杜」と書かれた標識を見上げた。瞬きして、帽子の目ひさしを直し、四方に視線を走らせてから、街路樹の影を選んですたすたと歩き始める。 六年生くらいか、背は高めで、手足は長く、所作は大人びていた。服装は、スニーカー、青いカーゴハーフパンツ、野球キャップと、ごく普通の子供らしい。ただ、長袖のシャツだけが季節にそぐわなかったが。 態度からして、よく知った道筋を、久しぶりにたどるという風だった。大通りから離れ、住宅地を縦横に分かつ小路に入ると、一つ一つなじみの景色を確かめ、あるいは見知らぬものを目にしては、以前何があったのか思い出そうとするように、立ち止まり立ち止まりして、足を運んでいく。 緑濃く茂る庭木から、ジーッジーッというアブラゼミの合唱ばかりかまびすしく、一度、自転車をこぐ小学生の群とすれ違ったきり、街にはほとんど人影がなかった。 空には密雲が厚くたれこめて、日差しは強くないのに、大地をおおうコンクリートは、焼けたフライパンのようだった。足元から立ち昇る熱にあてられて汗を掻き掻き、いくつかの角を折れると、とうとう長い煉瓦塀の続く小径に出る。 少年は頭をもたげて辺りを眺めやると、しばし歩みを止めた。眼差しは何かを探すように、落ち着き無く動き回る。 「ぎん…」 名前を呼びかけて、ためらいがちに後を濁した。おんぼろリュックサックの肩ひもを掴み、煉瓦塀に沿って再び進み出す。上下左右に忙しく首を巡らせ、誰か居ないかというように様子を窺ううち、塀のもとに花が供えてあるのを認めて、ぎくっと凍りついた。 過ぎ去った出来事の記憶が蘇り、不吉な予感が背筋を這い登る。頭の芯が痺れたようになって、恐る恐る側へ近付くと、しゃがんで橙の花を生けた瓶を凝視した。 「ぎんこ…」 うつむいて、咳き込むように囁きをこぼす。 「ひとん家の塀で何やってんの?」 いきなり頭上から、誰かが尋ねかけた。 声のした辺りを仰ぎ見れば、塀の向うから、同い年くらいの少年が頭を出して、こちらを覗き込んでいた。 老爺の如く灰がかった白髪が、ほつれて肩までかかり、色素を欠いた顔立ちと相俟って、幽霊のようだった。丸いレンズをしたサングラスをかけ、唇には子供らしくない皮肉っぽい笑いをたたえている。骨ばった両手は、痛みなど感じないかのように、尖った忍び返しを掴んでいた。 「おまえ、泥棒?」 問われた方は言葉を失って、茫然と見返す。 「…ねぇ訊いてんだけど」 「泥棒じゃねぇよ」 答えは、動揺で少し震える。 「は?びびってんの?ちょっと、逃げんなよ」 塀の向うの住人は、嘲るように告げるや、宙に跳び上がってくるっと前転し、軽々と道路に降り立つ。相手がぽかんとして眺めていると、傍らににじり寄って肘を掴み、強引に立たせた。 サングラスを光らせて、紙のように白い顔が迫る。 「名前」 「え?」 「名前言いなよ」 「なんでだよ…」 当惑した少年は、そっと手を払いのけようとしたが、逆に煉瓦塀に押し付けられた。白髪の子供は、背丈はこちらの胸元までしかないのに、力はなかなか強かった。 「…言えないの?まじびびってんの?」 「はぁ?なんでっ…」 「違うなら言いなよ。僕、 男同士で”僕”なんていう奴は薄気味が悪い。少年は怒りを込めて、曲目と名乗ったチビをにらみつけ、小さく唇を咬むと、ぶっきらぼうに答えた。 「 「ゆきひと…ゆき…ふーん」 曲目は、行人の二の腕を解放して、ぷいと白い容貌をかたえに逸らせる。頬を拳でこすり、塀のもとに供えた花へ視線を注いでから、こちらもつっけんどんに語句を接いだ。 「分った。いいよもう帰れば?もうすぐ雨降るし」 行人はむっとして黙り込むと、掴まれたところを服の上からさすりつつ、色素を欠いた少年の容貌をねめつける。曲目は知らんぷりで、花を生けた瓶を爪先でつついてもてあそんだ。 「はやく帰んなよ。許してやるから」 「…あっそ」 うんざりした行人が歩み去ろうとすると、いきなり背後から、わざとらしい大声が上がる。 「あーあ。花枯れてる」 先ほどの泥棒呼ばわりに懲りた少年は、もう構いつけず、帽子のまびさしを下ろし、足を大股にした。すると、白髪の子供はさらに台詞を続ける。 「こいつ超かわいそ。誰かに殺されて、捨てられて。おそなえの花も枯らされたんだ」 行人が愕然として振り向くと、曲目は作りものめいたしかめ面で応じた。 「なんだよ」 「別に…」 「あー。もしかしておまえ、こいつのこと知ってんの?」 うわべは厳めしく、腹ではおかしがるように、アルビノの少年は言葉を紡ぐ。訊かれた側はひどく心を乱された態で、口ごもってしまった。曲目は目を細めると、ここぞとばかり舌を振るう。 「こいつさ、五年前にさ、ここでさ、殺されたんだ。死にそうだったのを誰かが置いてったんだよ。そしたら朝カラスに生きたまま喰われたらしいよ。超かわいそうじゃん。」 「…っ…ぁっ」 「すっごい痛かったろうな。目玉とかつつかれて、内臓とかもドバッて出てた」 子供らしからぬ艶を帯びた赤い唇が、ひどく愉快そうな調子で、どぎつい単語を並べ立てた。青磁の色をした相貌は微かに楽しげな色さえ浮かべ、サングラスごしにじっと、獲物の狼狽ぶりを観察するかのようだった。 「置いてった奴、ひどくない?最低だよな。こいつ絶対あの世で恨んでるよ」 いつのまにか行人の面差しも、曲目に劣らぬほど真っ青になっていた。 「何おまえ?顔青いよ。もしかしておまえが犯人じゃないの?」 とどめの一撃を受けて、こわばっていた頬が歪み、潤んだ双眸からせきを切ったように涙が溢れ出る。抑えのきかない悲痛のうめきが、路上にこぼれた。 流石にアルビノの少年も慌てて、背の高い相手に近付くと、下から見上げるようにして、口早に囁く。 「ばか、泣ーくなっ。ちょっと…なぁ…ゆきっ、泣くなって」 「…るせ…ひっく…」 行人は、涙が流れるのを防ごうと天を仰ぎ、煉瓦塀にもたれた。大きく口を開け、嗚咽に打ち勝とうとするように、無理矢理深呼吸を試みる。 曲目は、複雑そうな表情で口をつぐむと、幾らか後ろに退いて見守った。しかし、相手がどうにか感情の昂ぶりを鎮めおおせたと分るや、すぐにも唇をとがらせて呟く。 「いきなり泣いてんなよ、キモいやつ」 かっとした行人は、ものすごい速さで相手の胸倉を掴んだ。次いで、尋常ならざる膂力を発揮して、同い年ほどの少年の体を宙に十センチばかり吊り上げる。 今度は、曲目がびっくりする番だった。 目元を赤く張らした少年はしかし、すぐ恥じるようにまぶたを伏せ、絶句する白髪の子供を下ろして、襟から指を引いた。そのままきびすを返して、駆け足に場を離れようとする。急かすように、ひんやりした風が背を押した。 「待てよ!今からだと雨…」 我に返ったアルビノの少年が、金切り声に近い叫びを放つ。 行人は押し黙ったまま、リュックサックから折りたたみがさを取り出して広げる。柔らかいねずみ色をしたナイロン布に、最初の水滴が当たった。次いで無数の水の箭が、道路や家々の屋根を、一斉に撃ち始める。 曲目の予言通り、暗雲が破れ、滝のようなにわか雨が街並みに襲いかかった。煉瓦塀も、コンクリートの舗装も、送電線も、またたくまに白いはねあげにおおわれる。 「ばーかっ…ゆき……おまえな…か…しね…」 白髪の子供の喚きは、雨音に掻き消される。 傘をさしても、しぶきを避けられないほどの勢いだった。さらに、すぐ近くで雷鳴が轟き、あちこちから稲妻が閃いて、天の様相は刻一刻と凄まじさを増していく。 背の高い少年は、唇を一文字に結び、ぐしょ濡れになったスニーカーを引きずって歩き続けたが、やがて唐突に立ち止まると、大きく深呼吸し、また後ろへ向き直って、煉瓦塀のところへ駆け戻った。 どしゃ降りの中、曲目は亀の如く身を丸めてうずくまっていた。走り寄った行人は傘をさしかけ、シャツを張り付かせた背中に手のひらで触れる。 「おい」 「ぅ、ぅっ…」 「おい、病気になるぞ」 「ぅっ…ひっ…」 電光が走り、ごろごろという音が響くたびに、アルビノの少年は痩せた肩を痙攣させた。本当に怖がっているらしい。行人は急いで抱き起すと、傘ですっぽりと頭上をおおう。 「ぁっ…ぅうううっ」 「家、どこから入るの」 象牙細工のような指が、震えながら指差す方向に、引きずるようにして連れて行く。アルビノの少年は、くずおれそうになりながら、うながされるまま足を運んだが、稲妻のたびに硬直して動けなくなり、連れの胸にひしとすがりついた。 行人は、唇を咬むと、自分の帽子を取って、相手に被せる。目ひさしを深くおろして、なるたけ何も見ないで済むようにした。 「…ほら、いくぞ」 「はっ…はっ…う…」 二十メートルほど歩いたところで、大構えな門の前に出る。金枠のはまった重そうな扉は、把手を引くだけで、滑るように開いた。煉瓦組みのアーチをくぐり、砂利敷きの車寄せを辿ってゆくと、雨に霞む中庭の向こうに、ぼんやりと屋敷の輪郭が浮かんでくる。 「もうちょっとだから」 先導役の少年がそう囁くと、曲目は無言で頷いた。最前のやかましさが嘘のように弱りきっている。唇は紫がかり、拳は石のように固くなって、連れのシャツを掴んで離さなかった。 館の戸口には、傘を手にした女性がたたずんでいたが、遠くから二人の姿を確認するや、ずんぐりした胴を揺すって走ってきた。黒と白のエプロンドレスといういでたちで、どうやら家政婦らしいと分る。運動不足ぎみに息をあえがせ、大きな胸を上下させながらも、アルビノの少年に向かって、メガネごしにいたわしげな眼差しを投げ、小声で話しかけた。 「透様、透様。真美です。分ります?すぐ中へ入りましょ」 肉付きのよい腕を伸ばし、行人からひったくるようにして、震える体を抱き寄せ、玄関へ向かっていく。独り残された少年は、もう大丈夫らしいと考えて、館に背を向けようとした。 「ゆき…かえんな…」 かすれた声が呼び止める。振り返れば、家政婦に手を引かれた曲目が、はりつめた面持ちで見詰めていた。行人がためらっていると、真美と名乗ったエプロンドレスの女性が、安心させるようにうなずいた。 「あなたも入って」 少年は招かれるまま、戸口を潜る。扉が閉まると、驟雨はそれを合図にしたように、ひときわ勢いを増し、芝生を、砂利道を、館を、景色のすべてを暗い水のとばりに隠した。 「すごい雨ですね。迎えにいかなくてごめんなさい」 館の中には、もう一人別の女性が待っていた。外から入ってきた三人にそれぞれバスタオルを渡して、子供らが靴を脱ぐのを手伝おうとする。筆で書いたような細長い目と、面長の顔立ちをして、同僚とは対照的に痩せがちで、動作はきびきびしている。 「透様、シャワーは」 「今すぐは…いい」 真美が訊くのへ、若い主は白髪を振り乱して拒絶の意を示した。家政婦たちは、どちらも強いて勧めなかった。アルビノの少年は、代わりにとでも言うように、丈高い少年を指差した。 「弥子。こいつ、案内してやって…」 「…俺もいいよ」 行人は、すばやく手を挙げて断ろうとする。しかし、弥子と名指された細目の女性は、得たりとばかり、見知らぬ少年に告げた。 「風邪引くから、シャワーぐらいした方がいいですよ」 「あの、いいです」 「お願い。風邪引いたら、こっちがあなたのお母さんに怒られちゃうから。ね」 「そしたら、あの、そっちの方が」 曲目を見ながら言うと、向こうはまぶたを伏せて答える。 「僕、おまえのあとで入るから」 「こっちですよ」 細身の家政婦は、急かすように先に立って歩き始める。行人は仕方なく後に続いた。延々と続く廊下を渡って、角を二、三度と折れ、ようやく浴場と思しき扉の前につく。 「ここです。着替えはシャワー浴びてるあいだに持ってくるから、ゆっくり入ってください」 「あの」 「ん?」 「ありがとうございます」 行人は混乱しながら頭を下げると、女性はただでさえ細い目を糸のようにして笑った。 「気にしないで。すごい雨だからしょうがないですよ」 扉を開けると、こじんまりと、洗面所を兼ねた脱衣所がある。家政婦はずっと奥へ進んで、ま新しい藤かごを指差した。 「服はここに入れといて下さいね」 「はいっ」 次いで、曇り硝子を張った浴室の戸を引く。トイレほどの広さの空間に、シャワーと、ボディソープやシャンプーを置いた鏡台があった。 「シャンプーとか、適当に使って。あとお湯はこっちひねって、お水はこっち。いっぱい熱いお湯かけて、体温まるようにした方がいいですよ」 「はいっ」 「それじゃ、なんかあったらここのインターホン押して下さい」 家政婦がいなくなると、行人はびしょびしょの服を脱いで、タイル貼りの狭い個室に入った。ガラス戸がぴったりと閉まり、外と内の空気を完全に遮断するや、換気扇が回り始める。 自宅の風呂との違いに初めは少しとまどったが、市民プールのシャワー室と似たようなものだと思い至って、蛇口を回す。熱い湯が肌にあたると、とても快かった。 冷え切った四肢の筋肉が緩み、自然と溜息がこぼれる。しばらくそうして温水に打たれていると、不意にまた涙が溢れた。 「ぎんこ…」 色々なことが一度に起きて、考えがまとまらない。ただ、あのサングラスをかけた白い顔の少年の言葉が、胸に刺さって、ずきずきと痛んだ。 肩を震わせてへたり込むと、しゃっくり混じりにむせび泣く。シャワーの音で、声は漏れないと分っていたから、もう我慢する必要はなかった。お湯と同じくらい熱い涙が頬をつたってタイルに落ちる。 何故こんな風になったのだろう。行人は以前、本当に道端で死んだ犬を見たことがあった。カラスに突つかれた無惨なむくろが、頭の中で幼い頃いっしょに遊んだ友達の姿に置き換わる。 「…っ」 少年は唇を咬み、罪の意識を振り払うように、腹の底の怒りを掻き立てた。 あいつは、どういうつもりなんだ。初めて会った相手に、嫌な話を聞かせたりして。おまけに、うるさくつきまとって、むかつくくらい偉そうで、何でも知ってるみたいにあれこれ言って。雨が降るのまで当てたくせに、雷が鳴ったらめちゃくちゃ怖がるし。 くるくる変わる表情や仕草が次々と脳裏によみがえり、いつのまにか、なまいきであまったれの、小さなぎんこと重なった。 「ちげぇ」 慌ててらちもない幻想を打ち消す。全然違う。ぎんこは、すごくかわいかったし、訳の分らないところなんかなかった。五年前に引っ越すまで、ずっと、ふたりだけの仲間同士だったのだ。あんなやつと似ているなんて、絶対に思えない。 ”殺されたんだ” アルビノの少年の嘲るような台詞が、疲れた心を打ちのめした。悔しさと情けなさで、涙が後から後から沸き上がる。 どれだけの時間、そうしていただろうか。行人は少しのぼせたようになって、壁に手をついて立ち上がり、きちんと体を洗おうと、いったん蛇口を締める。 お湯が止まり、狭い室内にこもった静けさが訪れる。ボディソープを取ろうとして、かすかな違和感に気付く。扉の向こうに誰かが居る。シャワー室は完全に締め切られ、曇り硝子ごしでは外の様子も分らないが、うなじがちりちりして、確かに何かの気配を感じた。 ゆっくり扉を開け、隙間から脱衣所の方を窺う。 藤かごの側に、アルビノの少年がかがみ込んでいた。行人は初め、向こうが服を脱ごうとしているのだと思って、まだ自分が入っているのを伝えようとしたが、口を開きかけて、言葉を失った。 曲目が、濡れた下着を鼻に当てて、嗅いでいる。ジーンズを半ば下ろして、手は秘具を掴んで懸命に扱いていた。 「ゆき…ゆき…」 行人が覗いているのにまるで気付かないまま、とろんとした淫蕩な表情を浮かべて、腰を振っている。練絹のような生成色の頬は、興奮に紅く染まっていた。 「なにしてんだよっ!!」 背の高い少年は、怒りと驚きで声を裏返しながら、裸なのも忘れて、シャワー室から駆け出る。曲目は首を竦めて飛び上がり、サングラスごしにも明かなほど取り乱した。 「うぁっ!なっ、なにみてんだよ。のぞいてんなよ!へんたい!」 逆に変態呼ばわりをされた方は、腹立たしさの余り真赤になる。 「お…おま…おまえぇ!おまえがっ」 「うるさいうるさい!ゆきが悪ぃんだからなっ、ゆきがっ」 アルビノの少年が、下着を握り締めたまま後退るのへ、行人はかっとして詰め寄った。 「返せよ!おれの服っ、なに考えてんだよっ。なんでいきなり会ってこんなことすんだよ」 「はぁっ!?ふざけんなっ!」 小柄な相手が殴りかかるのを、手首を掴んで止め、下着をもぎ取ろうとする。 あっさり腕を封じられた曲目は歯を、食い縛ってもがき、抗い切れないと悟るや、いきなりサングラスをかなぐり捨てた。 とたん、赤と緑の色の違う双眸が現れ、眩い光を放った。 視界がねじれて、現実感を失い、壁も床も天井も、空気までが彩りを変じた。柘榴石の如く赤く、冷たく燃える左の瞳と、孔雀石よりも深く、暗い緑をした右の瞳が、爛々と輝いて、丈高い少年を射すくめ、よろめかせた。 心のすみずみまでを看破し、掌握し、屈服させるような恐ろしい眼差しが、行人を打ち据え、組み伏せた。曲目の姿が、鋳型から溶け流れる熱した銀のように崩れ、白い毛並みの獣となり、再びアルビノの少年へと戻る。 「…ぎんこ…」 「ようやく気付いた?にぶすぎ」 「…なんで…」 「僕は、ゆきのこと絶対許さない。許してないから」 「…なっ…んっ…」 白髪の子供は、獲物を追い詰めた獣の如く歯を剥き、柳の細枝のような両腕で硝子戸を叩いた。 「ゆきが悪いんだからな。あの時、逃げたから」 「ぎん…こ…」 裸の少年は、全身の骨を抜かれたかの如く、ずるずると床に崩れ落ちる。 「その名前むかつく。透にしろよ」 「…とおる…」 行人は己の舌がひきつるように動き、おうむ返しに相手の名を呼ぶのを聞いた。曲目、ぎんこ、いや、透はくすりと笑うと、自分より大きな少年の顎に指を当てて囁いた。 「キスしてよ」 おぞましい命令に、首をよじって拒もうとするが、唇が勝手にすぼまって、アルビノの少年の頬に触れる。すると透は、不満そうに眉をひそめて告げた。 「口にだよ」 否応もなく、そうしてしまう。歯と歯がぶつかって、かちんと音をさせる。かすめるだけのような接吻。白髪の子供は、おかしそうに語句を接いだ。 「キスするのはじめて?」 行人は顎を締めて答えまいとしたが、赤緑の双眸に見詰められると、意に反して言葉が喉からせりあがる。 「っぐ…はい」 「もっとしたいよね」 馬鹿げた質問でも、声に出して返事をしてしまう。剣のように神経を切り裂く凝視の前で、黙っているのは耐え難い苦痛だった。 「はい」 透は、恥ずかしさで真赤になった相手を、じっと眺め、今度は無言で口付けを求めた。再び唇が重なり、互いの口腔に舌が入る。行人のつたない奉仕に応えて、邪眼の少年は巧みに舌をつつき、歯茎を舐って、唾液を啜り飲む。 丈高い少年の相貌が、憤怒の真紅から、恍惚の薄桃に移ろうころ、白髪の子供は、ようやく長い接吻を解いた。呼吸を荒くする獲物の顔を悠然と見下ろすと、口元の涎を指で拭いとって、ぺろりと舐める。 「ふふ…へたくそ…これから調教するからいいけど。うれしいでしょ?」 「っ…っ…は…っぅぎ…はい…」 「そう…ねぇ、ゆき。ゆきのち○こ、勃ってるよ?」 行人が、朦朧とした目付きで下半身を見ると、いつのまにか性器が固くなっていた。酸欠ぎみの頭に、痺れるような衝撃が走る。 「やっぱ、変態じゃん」 「ぅっ…」 「ゆきは変態ですって言ってみて」 「ざ…け…」 烈しく罵ろうとする相手に、透は不思議そうな視線を注いだ。 「やっぱ、ゆきって、あんまり利かないんだ。真美とか弥子より強いかも」 「な…ぁっ…?」 裸の少年が、うめくように問い返すのへ、白磁の容貌は邪気の無い笑みで応じる。 「でも言ってね。ゆきは変態ですって」 「ぅっぅっ…ゆき…は…変態…です」 「もっかい」 「ゆきは…変態…です」 「もっかい」 「ゆきは変態です」 「もっかい」 「ゆきは変態ですっ」 「すらすら言えるようになったじゃん。しかもち○こ、大きくなってるし」 行人は信じられない思いで、己の股間を見やった。確かに陰茎はまた一回りかさを増して、腹を打たんばかりに反り返っている。 「それじゃ、変態のゆき、オナってみせてよ」 ためらいもなく卑猥な台詞を口にして、アルビノの少年は緋と碧の双眸を輝かせた。雷に怯えていたときとは別人のような余裕を取り戻し、完全な支配者として振る舞っている。 何一つ逆らうことのできない奴隷は、すらりとした両脚を引き寄せ、隠すようにしながら、たどたどしく自慰を始めた。食い縛った歯の間から、唸りとも喘ぎともつかない声が漏れる。 「だめ。ちゃんとこっちに見えるようにしろよ」 裸の少年は言われるがまま脚を開いて、痴態を露すしかなかった。 「お尻もいじりなよ」 次々と過激さを増していく命令に、行人の知識はもう追いつけなかった。どうしてよいのか分らず、視線を上げると、透はわざとらしく溜息を吐いて洗面所のハンドソープを取り、しゃがんで相手に差し出す。 「ほら、これ指につけて…そう。指をお尻に入れんの」 「!?…いやっ…だぁっ…」 理不尽さに対する怒りよりも、未知の行為を強いられる恐怖が勝り、背の高い少年は弱々しい泣き言を漏らす。 「やりなよ。ゆき変態なんだし」 「ひっぐ…ぅぅっ」 本人の嫌悪などお構いなしに、人差し指はゆっくりと排泄口にめり込んだ。全身に鳥肌を立て、歯を打ち鳴らしながら、少年は菊座と秘具を弄っていく。 「気持ちいいでしょ。どんどん気持ちよくなるでしょ?」 邪眼の少年の煽るような問い掛けにあわせ、行人の喘ぎは次第に艶めいていった。 「なっ…ぁっ…ひっ、ひぁっ…あんっ…ふぁっ」 「やっぱり感じてるじゃん。んっ…僕も」 透は舌なめずりすると、緑と赤の瞳を潤ませ、たまらないというように半ズボンから性器を引き出して、再び扱き始める。小さな体に似合わぬ、魁偉な逸物だった。真白く、無毛の肉幹は、何か病んだ虫か魚のようでもある。は鮮やかに赤い唇から、はっはと息が漏れる。 「ゆき…ゆき…えろいよ…ゆき…」 行人はもう聞いているのかいないのか、焦点の合わない眼差しを虚空に遊ばせながら、直腸を穿り、先走りに塗れた屹立をこすった。やがて絶頂の前兆を示すように、背が反り返って、肋がくっきりと浮き上がる。 白髪の子供は手淫にふけりながら、眼下にくねる痩躯のわずかな変化さえ見逃さなかった。 「はい、ち○この手ストップ」 解放の寸前で、そこに至る行為を禁止された奴隷は、狂おしい餓えの表情で、小柄な主人を見上げる。 「あ、お尻はそのままでいいよ。あと、乳首んとこも弄りなよ。つねるのとか、こするのとか」 「ぃっ…ひっ…」 「ほらほらお尻の指動かして、ゆきは、そこだけでイけるようにならなきゃだめなんだから」 指示の通り、きつく充血した陰茎から指を離し、胸の突起をつねる。快楽の中心に触れられないもどかしさで切なげに鳴きながら、少年はいびつな自慰を続ける。 「指、そろそろ二本入るんじゃない?」 右の碧眼に渦巻くような燈を点して、透が囁く。行人は蒼褪めて叫んだ。 「やだっ、入らないっ」 「入れなよ」 「ぃやっ…ふぎいぃいいっ!」 裸身が弓なりに反って、肛門をこじあける痛みに筋肉を張り詰めさせる。しかし手は止まらなかった。止められないのだ。 「ひっ…がっ…おしり…こわ…れ…」 「このくらいで壊れないよ。それに壊れてもいいじゃん。ゆきのお尻なんて。ほら、もっとめちゃくちゃに動かして」 「あ゛ぁ゛っ!ぅ゛ひ゛ぃっ!あっがぁっ!!」 操り人形と化した少年は、己の菊座を掻き回しながら、嫌々をするように首を振った。白髪の子供は赤ん坊のように指をしゃぶると、愛しげに語りかける。 「気持ちいいんでしょ?指三本入れちゃえば。自分で自分のお尻壊しちゃいなよ」 「うぐぁあっあっ!!」 白目を剥き、舌を突き出して、行人は烈しく痙攣した。透もまた官能にわななくと、自ら秘具を扱く腰を突き出し、焼けた石炭のような左眼から火花を散らせて吠える。 「あっは♪イっちゃえぇぇっ!」 「ひぁぁっ!!」 丈高い少年がひときわ大きな嬌声をほとばしらせると、自分と相手と二人分の精液が、汗ばんだ裸の腹や胸、肩、顔に飛び散った。 異常な形で絶頂に達した行人は、なおも腸液とボディソープでどろどろになった後孔をほじりながら、壊れた機械仕掛けのように背を引き攣らせ、か細い喘ぎをこぼす。 アルビノの少年は緩く肩を上下させ、呼吸を整えると、白濁に汚れた奴隷のもとへと近付いた。赤と緑の双眸は、いまだ凶々しい焔を消していない。 「…絶対許さないって言ったよね。今度は逃げらんないからな」 絡みつくような声音で告げる白玉の容貌には、どんな獣よりも獰猛で、残忍で、妖艶な微笑が浮かんでいた。 |
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