|
どこかで山犬が吼えた。 月は今し方、密雲に隠れた。地上には闇と炎が相混じり、赤々と照し出された曠野の道を、胡服の娘が独り、手にした剣の脂を拭いもせず、倒れ臥す骸の群を抜け、足早に進んで往く。 熱せられた木が爆ぜ、肉の焦げる匂いが鼻を突く。屍々累々たる光景は、野盗の強襲を受けた貴族の末路か。鎧甲に固めた侍衛と、弯刀を握った匪賊とが互いに折り重なって真紅の沼に溺れ、傍らでは灼熱の舌が豪奢な乗物を舐め尽し、細かい羽毛の様な灰を舞い上げて、天を汚している。 では此の煉獄を独り駆けるのは、何者だろうか。質素ながら小奇麗な衣服は、緑林（犯罪世界）の輩とも、官軍の兵とも異なる。流れるような所作や辺りの惨状にも動ぜぬ豪胆さは、或いは江湖の侠客といった風格だが、容貌の輪郭はまだ円かで稚なかった。 布靴の底が乾いた黄土を踏み締める度、結った髪が黒蛇の如く揺れ、殺戮の残香に濁った大気を掻き回す。煤を被った紅頬には返り血の痕があり、桜桃の唇は硬く引き結ばれて、年不相応の厳しい表情をしていた。僅かに地を摺る抜身の白刃が、時折切先から火花を散し、紅蓮を映じて、酷く冷たい閃きを放つ。 猛禽を思わせる双眸が、鋭い視線を注ぐ先、松明の投掛ける光よりほんの少し外で、一台の馬車が横転し、虚しく車輪を空に突き出している。ふと、死の静けさを破って、幼い子供が泣くのが耳へと入り、娘の歩みを止めさせた。 研ぎ澄まされた感覚が、荷台の裏に縮こまる、微かな命の存在を捉える。蹲り、背を低く屈め、石の如く固まって、恐ろしい戦闘を生き延びようとする、二つの忙しい呼吸。うち片方は刻々と浅く、短くなり、儚く消え去らんとしていた。 「もし、何方か居られるのか」 少女は凛と通る声で、そう尋ねる。返事を待たず跳躍すると、恰も飛燕の如く宙を滑って、車輪の軸へ爪先立って降りた。颯っと辺りを睥睨し、すぐさま眼下で小柄な影が動くのを認める。 錦糸の刺繍が星屑の輝きを零して、富貴の所在を告げていた。覆った馭台が焔を遮る衝立の役目を果したお陰で、略奪を逃れたのだろう。薄手の絹衣を纏った婦人が一人、青褪めた様子で横倒しの底板へ凭れていた。まだ若く、容貌は際立って美しかったが、眦を覆う翳りからして、余り先が永くなさそうだった。白い矢羽が左腕の付根から突出し、肩口より胸元へと黒ずんだ染を拡げている。だが焦燥の浮ぶ瞳は、此世への強い未練を告げていた。 見れば、すぐ近くで、目鼻立ち良く似た童児が、宝石を鏤めた玩具の短剣を握り締め、主君を守る歩哨の如く構えている。恐らく母子であろう。娘が側へ音も無く舞い降りると、喉を震わせつつも、臆せずと叫んだ。 「…来るな！母上には触れさせないぞ」 小さな勇者の果敢な言葉が、可憐な剣士の胸を刺したのか。象牙の箸のような指は、刃鳴りもさせず得物を鞘に収めると、双つの拳を作り、袍を打たせて丁重な礼をした。戸惑った童児は、依然頼りない武器を向けたまま、涙を浮かべて後退る。 遣り取りを眺めていた母親は、一寸咳き込んでから、穏やかな調子で諭した。 「阿林、およしなさい。そのお嬢さんは連中の一味でありません」 刹那の躊躇が在ってから、刃が引く。婦人は頷くと、首を捻って、相手に微笑みかけた。 「これの、無礼をお許し下さい…その血、きっと貴方は、夫の仇共を倒して下さったのですね…なんとお礼を申せばいいのか…」 かそけく呟く内にも、肺を塞がれ、激しく喀血する。もう幾許も措かずして、黄泉の門を潜らんとする母はしかし、我が子が慄然として駆け寄ろうとするのを、蝋細工のように白くなった掌で、弱々しく制した。 形ばかりの慰めすら浮ばず、剣士は唯愁眉を顰め、首を振る。 「怪我に障ります、お話になってはいけません」 すると婦人は毅然と顎を引き、瞳に異様な精気を漲らせて囁いた。 「ああ、どの道助かりませんわ。もし私を、哀れと想うなら、最期の望みを聞いて下さいまし…その若さであれだけの敵を仕留められたのです…さぞや優れた武術を修められたのでしょう……宜しければ御尊名を…」 娘は立居を改めて答えた。 「劉靜、字は蘭圭と申します。武術の腕前は誇る程のものではありません…」 「ああ、奇縁です。劉は私の母方と同姓…お願いします…うちの阿林を、どうか赤の他人とお見捨てにならず、そう、貴方のお弟子に…」 意外な嘆願に驚いて、童児の方を振り返るや、其方も訳が解らず声を失っている。母はまた赤いものを吐きながら、拝むようにして掻き口説いた。 「どうか…お願いします…どうか…」 切々と迫られ、劉靜は承諾しかけたが、ふと、ここで安堵させては却って命脈を絶つのと同じだと考え直し、半歩引いて辞退した。 「いけません。奥様は、お見受けしたところ、何れ旗人（清朝の旗本）の御家柄。私は漢人ですし、しかも学んだ武術は邪派、とてもご令息にお教えできるものではない」 ぞっとするような笑いが婦人の口元を掠めた。 「旗人ですって…ほほほ…そんな肩書きが何になりましょう。夫も私も居なくなるのでは…そもそも満州族に生まれさえしなければ、不幸に遭わずに済んだかもしれないというのに…」 「…それは…」 「ええ、ご覧になりまして？あの男達の胸に刺青された反清復明の四字を。私たちが何者かを知って襲ったのですわ…盗賊とはいえ、白蓮教徒の…ごほっ…」 「母上！」 凝っと沈黙を守っていた薄桃の唇が、終に堪りかねて叫んだ。肺を塞ぎ、歯を食い縛っていたの為か、親を慕う一句は、韻々と谺を引いた曠野に響いた。 「董林、劉靜様に叩頭なさい。母の命令です。お前からも弟子入りをお願い…しなさ…」 張り詰めた糸が緩むが如く、がくんと首が項垂れる。劉靜は不憫さに、つと視線を逸らした。悼ましい慟哭が後へ続くかと想われたが、豈図らんや、董林は短刀を捨てると、年嵩の少女の前に額づいた。 「董閲が一子董林、劉靜様を師と仰ぎ、有らゆるお言いつけに従い、決して背きません。どうか弟子入りをお認め下さい」 「何を云うのです。さぁ立ちなさい、お母様を弔う方が先でしょう」 だが童児は地に頭を打ち付けながら同じ文句を繰り返すばかりだ。娘はすっかり窮して拳を閉じては開き、婦人の躯を一瞥した。死顔は穏やかで、我が子を案じる懊悩からは全く解き放たれたかのようだ。 劉靜は陰鬱な面持ちで腕を組んだ。 「お聞きなさい。先程お母様に述べた言葉に嘘はありません。我が宮冥派は天竺の淫祀邪教を流れとする外道の剣。武林でも化物扱いされているのです…学んだとしても」 董林は尚も叩頭を止めない。額が割れ、鼻梁を血が伝い、背を起す度にふらつきながら、朦朧と台詞を誦じるばかり。涙が、頬を汚し、塵埃があどけない容貌を蔽っていく。 「…どうか弟子入りを…」 「解った、解ったから、もう止めなさい。死んでしまう」 もしかすると、母を喪った子の真の願いは其だったのかもしれない。だが劉靜は、華奢な身体をしかと抱き上げ、自傷を抑えてから、覚束ない手付きで痩せた肩甲骨の間を撫ぜた。なんと軽いのだろう。満達子は小さい頃から福々と太っていると聞いていたが。此の児は、貧しい農民の家の生まれでも通りそうな位だ。 人肌の温みに触れ、疲労困憊した董林は、眠る様に意識を失った。おかしな成り行きで弟子を得た武術家は、袖で白い額にこびり付いた血を拭いつつ、己の天命の不思議さに、深い深い溜息を零した。 刻は乾隆帝の御世の末である。後に十全武功と呼ばれる相次ぐ外征によって、国土は疲弊し、重税に喘ぐ人々は、永らく忘れていた夷狄の君主への憎悪を甦らせた。彼等が拠り所としたのは、古来から為政者へ抗する旗印として連綿と受継がれた、白蓮教なる宗門である。同宗は肉食葷酒を慎み、救世済民を説くのは浮屠（釈迦）の理と似るが、弥勒下生を信仰の軸とし、俗界を救う大王の光臨を謳う為、正統派仏教からは久しく異端とされてきた。 非難も一面では尤もである。そもそも白蓮教は、仏法伝来より昔、赤眉、黄巾、五斗米道の遥か基迄遡り、唐代に道教として体系化される以前の始祖・天父・地母崇拝まで系譜を辿れるのだ。だが、怪力乱神を語らず、礼を以って社稷の支えとする儒家の書き残した正史では、叛徒、土匪、畜生にも劣る連中と罵られる。 三国志を読めば、太平道が如何に都合の良い悪役として描かているのが解るだろう。曹操や董卓ら腐敗しきった朝廷の手先となって大衆反乱を押し潰した軍閥が、やれ乱世の英雄よ、仁君よと奉られる片方で、張角達は、狂人か、良くて添え物、武勇を誇るための試し斬りの相手に過ぎない。 事実はどうだったのだろうか？なぜ黄巾党は此処迄大勢力へと成長し、邑という邑で官吏や富豪を震撼させ、都の皇帝から憎まれたのだろうか。書に記された"賊"こそが、実は人民そのものだったからではないか。幾度踏み躙られても、また繁茂する草莽だったからではないか。洪門、天地会、絶えず名を変え、百の頭を持った龍の如く、支配の軛に繋がれてもがく想念の渦。歴史の輝かしい物語の影で、常に生き延びつつ、永遠の闘争を定められた真の主人公。 其はまた武術の歴史とも表裏を成す。俗に神拳の伝統という。例えば、全ての武は少林寺より発し、武の真髄は武当派の太極であるというのは双つながら有名な言葉だが、何れも仏か神の違いこそあれ、根底にあるのは宗教である。武門における師弟の礼は仙道と相通じ、練功は即ち練丹であり、経絡へ気を巡らすに当って陰陽・五行・八卦を頼りとするのは両者の分ち難い繋がりを示している。 従って、武林は絶えず白蓮教の影響下にあった。白蓮教はまた、波斯由来の明教（マニ教）とも縁が深く、嘗ては共に朱元璋を助けて蒙古を追い払った功があり、「明」の国号は明教より取られたのだという説さえ在る程だから、「反清復明」は、嘗て明教がそうしたように、武林の諸派が団結して満州族を山外関の向うへ放逐し、再び漢族の王朝を打ち立てようとする動きでもあったのだ。 とはいえ千五百年余を越える民間宗教と武術門派の歴史は、数多くの異端をも生み出した。表社会から色眼鏡で覗かれる江湖にも、更に邪派と呼ばれる闇の住人が居る。 劉靜の属する宮冥派は、忌み嫌われる邪派の内でも際立った畸形であり、天竺密教の影響を受け、正道を離れた怪異な流儀故、武術家同士の集会にもおいそれと姿は顕せなかった。お陰で、門弟は皆、反清復明の大義にも疎くなり、他との衝突を避けて市邑へ入るのも避けがちであったから、却って深山に篭る修験者の趣が備わり、江湖の武侠が囚われる妄執や愛憎と無縁の境涯に達していたのである。 闇の剣士が幼い弟子と共に俗塵から逃れ、隠処と選んだのは、湖北（洞庭湖の北）の辺境、霞のたなびく渓谷、せせらぎが去りし日と変らぬ曲を奏で、小鳥が相聞詩を囀る静謐の地であった。雅を好む神仙が植えでもしたのか、柑の木が水面に枝を延ばし、清かな風に揺れて、山間にほんの一時だけ差し込む陽光を、千々に散らして煌かせる所だ。 劉靜は小川の中程に突き出した岩に趺座し、瞼を半ば閉じて思索に耽っていた。山に入ってより、月日は流れ、もう、小娘とは呼べぬ年頃である。元々丈は高かったが、四肢が羚鹿の如く伸び、清潔な青杉の胸を、円かな膨らみが二つ息づかせていた。 憂いを含んだ吐息が零れ、岩の周りで水が泡立ち沸き返る。邪派とはいえ内功（呼吸によって生じる力）の凄まじさは並の武術家など足元にも及ばぬ。 「やはり、弟子に取るのではなかった」 花も咲き綻ぶような美貌を悔悟の色が染めるのは、初めてではない。春の訪れと共に、もう四度も、同じ呟きが漏れているのである。 「あれも宮冥派に入って四年…もう、先延ばしには出来ないか…」 正面の浅瀬で魚が跳ね、鱗が陽射しに煌くのを、漆黒の双眸が疎ましげに見遣る。喜びに溢れた季節の訪れを倦むように、肩が揺すれ、また肺が大きく上下する。布地の上からでもはっきり解る程豊かな乳房は、微細な動作にも存在を主張して、悩ましい衣擦れをさせる。無人の谷でなければ、怪しからぬと謗られかねぬ婀娜な風情だった。 日輪が少し傾いただろうか、東の峻嶺から、午を告げる軽やかな声がする。 「師父（女性であってもこう呼ぶ）、お食事の用意ができました」 子供にしては良く通る喉だった。女剣士は、岸壁に撥ね返る残響へ、快よげに耳を傾けてから、はっと現に戻って、唇を噛む。己のはしたなさを恥じて、掌で軽く両目を覆うと、素早く座禅を解いて、足元を蹴った。 重さを持たぬかのように、崖へ翔ぶと、爪先を小さな凹凸に掛けて垂直に駆け登る。武林広と雖も、匹敵するような軽功（軽技）の持主など、十指に足りぬのは疑いもない。息を止めたまま天辺まで辿りつくと、掠り傷も負わず笹の茂みを抜ける。柴で結んだ粗末な庵の前まで来て止まり、軽く鬘を整えて、戸を推す。 飯炊きの香が満ち、小さな卓に並べられた、根菜の煮物と、干魚という倹しい料理が目につく。劉靜は、隅で釜から米をよそう弟子の姿を認めるや、微笑を隠しつつ茣蓙に腰を降ろした。 遅れて、師の帰宅を悟った董林が、慌てふためきつつ茶碗を置くと、深々と礼をする。大粒の瞳が愕きの光を点すのは、飽きさせない可笑し味があった。丁度、団栗をぶつけられた栗鼠か野鼠のようだ。 弱輩を導くべき長上としては余り宜しくないのだが、つい若者らしい茶目心に逆らえず、いつも気配を断って忍び入ってしまう。修行の為とか理屈を捏ねても、要は悪戯を仕掛けてみたいだけのこと。 「迂闊だぞ。董林」 興の赴くまま、わざと厳しく叱り付けてみる。 「申し訳ありません」 頬を染めつつ縮こまる弟子は、四年前と比べればかなり大きくはなったが、まだ大人を疑うなどは考えても見ぬような子供だ。いや、素直さは年とは関わりないのかもしれぬ。四年間、麓へ買出しに行く他は、二人きりで過し、遊び仲間もなく育ったのだ。ひたすら劉靜へ懐き、幼い全身全霊で崇めるようになったのは環境の所為とも云える。 辛さが込み上げ、女の顔を翳らせた。箸を掴むと、小さな掌から茶碗をもぎ取るようにして、米を掻き込む。いつになく乱暴な態度に困惑しつつ、董林は己の分の飯を持って、頂きますと押戴いてから箸をつけ始めた。特別赦されてのこととはいえ、師父と席を共にするのは遠慮があるのか、卓から離れがちな場所に茣蓙も敷かず座して、滑稽な程固くなっている。 格式に則れば親子の間柄とは云え、実際は年の離れた姉弟のようなものだ。ずっと共に暮らしていれば、もっと打ち解けても良かろうが。童児は奇妙な頑なさで、弟子の分を守り、召使のように甲斐々々しく働きこそすれ、甘えは見せなかった。 劉靜にすれば、子供の世話という骨の折れる仕事を覚悟していただけに、有難くもあったが、最近は時々、度を越した礼節を鬱陶しく感じた。からかいの回数が増えたのは、四書五経を人型にしたような董林の振舞いを崩してやろうという意図を含んでいた。 惣菜を口へ運ぶ手を止めて、雑念を払う。下らないままごとだ。武の道を修めんとするなら、捨て去るべき情である。 「董林」 「はい」 曇のない、真直ぐな返事。師は動揺を抑えつつ、真剣な面持ちで待つ弟子と向き合い、ゆっくりと口火を切った。 「私に師事して何年になる？」 「四年です」 「そう。随分経ったが、実は今までお前にずっと尋ね様と思いつつ果せなかったことがある」 「何でしょう」 答えようとして舌が重くなる。沢山嘘を吐かねばならない。だが通らねばならぬ道なのだ。劉靜は、預けられた責務を全うするため、予め用意して置いた問を放つ。 「お前は、何故武術を学んでいる」 「えっ…」 突き放すような言葉に、董林はまごついた。女剣士は隙を見せた敵を攻め立てるように、空かさず話の穂を接ぐ。 「復讐の為ではあるまいな。お前の両親は満州族の旗人。お前達を襲ったのは滅満興漢を掲げる幇会（秘密結社）の刺客だった。お前は、漢人の武術を学んで、それを漢人に使おうとしているのではないか？」 「っ…？」 「この四年間、良く修行に打ち込んだのは見てきた。だが所詮は満人。私は型は教えたが、内功は伝えなかった。同胞を危険に晒さぬ為だ」 つまり、弟子としては信用していなかった、と暗黙の内に告白しているのだ。敵意を含んだ台詞が、柔らかな魂を切り裂き、絶望の淵へと押しやるのが、いたいけな少年の表情から、如実に読み取れた。 劉靜にしても、喉を震わせぬようにするのがやっとだった。短いながら幸福であった生活は、過去となる。董林の本心がどうであるにせよ、もはや芝居の幕は降りたのだから。 「師父」 呼びかけは、しっかりしていた。泣いたりしないだろう。小さな額に残る痕は、弟子入りの時に付けたものだ。師は弟子から視線を逸らさず、離別の宣告を待った。 「僕が武術を学ぶのは…、復讐の為では在りません」 「嘘を吐くな」 「嘘では在りません！一度は、復讐も考えました。けれど、父母を殺めた仇は師父が討って下さいました。僕は、漢人全てを恨むことはできません…今日まで御恩を受けた師父をどうして憎めましょう…」 歓喜が背筋を通り抜けていく。劉靜は必死で流されまいとした。拳を膝に乗せ、白くなる程握り締めた。焦燥が胃の底をひりつかせ、嫌な汗が全身から噴き出す。 「では祖先に背くというのか。敢えて不孝を選ぶというのか。考えてもみよ。私はお前の母の末期の願いを受けて弟子入りを認めたが、ずっと後悔していた。お前が恨みを解くとも、私の方は、不信のしこりを消せぬ。所詮、満人と漢人は折り合えぬ。袂を分かち、お互いの道を行くべきではないか」 「何故ですか師父！落度がありましたら必ず矯めます。僕が満人だから、破門なさるというなら…それなら、下僕としてお側にお置きください。武術は教えて下さらずとも構いません」 悲痛に上擦った声。涙を堪えているのが解った。夜半、寒さに寝付かれぬ董林が、幾度同じように目を潤ませ、薄い麻蒲団の端を握り締めていたろう。暖衣飽食に慣れていた筈なのに、厳しい山の天候や、修行の合間の野良仕事にも、決して不平を漏らしはしなかった。子供じみた涙は、師父から受けた恩を汚すのだと、思い込んでいる節があった。 其でも劉靜は偽りを語らねばならない。 「お前は利発だ。たった六つの時に、四書五経を諳んじだたろう。今からでも学問に励めば、権門の後ろ盾がなくとも、挙人となる見込みが…」 「どうしてお側に居てはいけないのですか。満人がお嫌いだというのなら、どうぞ、命を御取りください。師父…」 細首が打ち拉がれる。滑らかな肌。若竹の如く撓る四肢。未熟な骨格に、将来どう筋肉がつき、どう成長していくのか、日々稽古の指導をする劉靜は手に取るように解った。だからこそ傷つけたくなかったのだが。 「解った。どうしてもというなら、本当の訳を教えよう」 俯き加減だった頭が上がり、希望の片鱗を求めて師を仰ぐ。だが、女剣士はかたえを向くと、絡みつく視線を無情に払って、続けた。 「宮冥派は邪派の剣。しかし、何故そう呼ばれるかは詳らかとされていない」 「はい」 「それは、武林全体の恥にも繋がりかねぬからだ」 「はい」 劉靜は唾を嚥むと、大きく呼吸した。やはり話さねばならないのか。 「武林に措いて、師と弟子とは親子と同然の間柄。忠孝を重んじるは勿論、如何なる間違いもあってはならぬ…だが、宮冥派では天竺の密法より、内功の修練として閨房の業を取り入れた。師から弟子へ、つまりは親から子へ、奥義を伝えるに男女の営みを以ってする。禽獣にも劣る習わし故に、武林正派の名門は揃ってこれを秘し、影響が及んで秩序が乱れぬよう、追放したのだ」 董林の、少女のような容貌が蒼褪める。 当然だ。物心ついて以来、科挙合格を使命として儒学の書籍を宛がわれ、弟子入りしてからも男女の営みについての知識など何一つ教わらなかったのだ。今更打ち明けられた所で、禁忌と未知への恐怖しか抱き様があるまい。 苦い満足が、劉靜の身体を疼かせた。 「私は師父、つまりお前の太師父から、お前と同い年の時に性の手解きを受けた。まだ初潮も迎えていなかった。冬に始まり、春を過ぎ、夏の盛りの間、秋の霜が降りても尚、昼夜の別なく抱かれたよ。三年。子を作る為ではない。気を練り、内勁を養う為、自然の交合を道具にしたのだ。終りを迎えることもなく、官能は高まるばかりで、私は師父に抱かれる為なら何でもする、家畜も同然だった」 己を、観音菩薩か仙女のように伏し拝んでいた弟子の、淡い憧憬を砕くのは、後ろめたさを通り越して、愉快ですらあった。 「意外だったか。初めてあった時から、私はお前の思っているような女ではなかった。毎晩お前が寝てから己を慰めていたのだ。幼いお前を組み敷くのを思い描きながらな」 「師…父…」 「怖いだろう。膝が震えている。これだけ言っても私の元に留まるなら、かつて私がされたことを、そのままするぞ。ほら、お前の歯の鳴る音が聞こえるな」 小さな身体が立ち上がり、きっ相手を睨みつける。 「こ、怖くなどありません！」 「何？」 「だ、男女の営みなど、万人がすることです。蜻蛉や蝸牛がするのなら、幾度も見ました。里の子とて、色々教えてくれました。僕にも出来ます！」 「教えたと…なにをだ」 「だ、だから…その、男と女が、裸になって」 顔を鬼灯の実のようにし、挑むように喉を張り上げる。頭の頂きから蒸気を立ち昇らせる董林の様子が、あまりに滑稽で、可愛らしくて、延々と煩悶し続けてきた劉靜は、急に何もかもが馬鹿らしくなって仕舞った。 「ほう…それで」 「触るのです」 「どこをだ？」 意地悪く尋ねると、少し詰ってから、裏返った声音が答える。 「手、や足を…です」 怪しくなってきた。当てずっぽうを言っているのだと解る。 「それでどうする？」 「ですから、手や足を触って、互いに、触る場所を変えながら、間合いを取ります」 間合いを取ってどうする。吹き出したいのを堪えて、神妙そうに頷くと、先を促した。 「それで、その、何度か…誘いを掛けるのです。すると…」 「解った解った。ではやってみせろ」 いきなり命じられて、弟子は暫く茫然となったが、のろのろと上着に手を掛けると、眺め入る師へ、怯えた視線を投げた。 「あ…あちらを向いていただけますか…」 楽しげだった劉靜の表情が強張り、代わって羞恥の色が浮ぶ。 「…っ、もう良い。やはりお前には無理だ…出てゆけ。早く、私がまともでいる間に」 「違、できます！」 嗾けたつもりはなかった。だが、童児は素早く上着を剥ぐと、 「全て取れ…」 劉靜自身、凝とする程掠れた声だった。董林が許しを乞うように震えた。 「必要なのですか」 本当に何も知らないのか。兇暴な悦びが理性の箍を齧り取る。そう言う風にしたのは己だった。だから私のものだ。私だけのものだ。私が命を救い、育て、鍛え、作り上げた作品だ。私の手で壊し、貪り尽す権利がある。 「当たり前だ」 衣擦れがして、幼い弟子は、産れたままの姿になる。細くとも、鋼のようなしなやかさと剛さを併せ持つ筋肉。耐えられる筈だ。何をしても耐える筈だ。いや、耐えられないからといって、どうだというのだ。 「隠してはいけない。両手を頭に載せて、そのまま回ること」 逆らえはしない。ゆっくりと青みがかった双臀が此方を向き、また雛菊を備えた股間が前を向く。まだ小さいまま、誰も触れたことはない場所。 「脚を開いて、腰を突き出せ」 「師父…」 「言いつけに背けば破門する」 「…っ、はい」 「では…私から目を逸らすな」 「はい」 劉靜は青杉を脱ぐと、品を作りながら肌着を外した。たわわな乳房を外にまろばせると、ぶるっと快さそうに打ち振り、片腕で押し上げて、董林に見せびらかす。相手がどぎまぎして、視線を移そうとするのを、短い舌打ちで封じると、腰から下につけているものを取り去っていく。 引き締まった太腿の間で、濃い茂みがしとどにそぼっていた。 「濡れているだろう、お前と違って上品には出来ていない。ほんの切っ掛けさえあれば、欲情できるような身体だ…そう、私が選んだ場合はな…」 「……」 「何か言え」 「っ…ぁっ…」 語句を探す弟子を励ますように、師の優しい微笑みが注がれる。 「うん？」 「…き…れい…です…」 漸く其だけ搾り出すと、畏れと恥じらいで居堪れなくなって、童児は俯いてしまう。女は、小枝のような手首を掴んで、華奢な身体を引き寄せると、頭を乳房の間に埋めさせた。 「だが震えているぞ」 「こ、怖くなどありま…っぁ！！」 固い尻を鷲掴みにされて、絶句する。劉靜は前にも指を差し入れて、幼茎を摘むと、尖端を抓りながら、嘲るように囁いた。 「強がりがどれだけ持つかな」 「ひっ…ぐ…平気で…」 指の跡が残るような掌力で固い肉を揉み解しながら、皮に包まれた亀頭を器用な指使いで剥いて、弾く。喘ぎは丁度、肋の当りにぶつかって、彼女の心臓へ届きそうだった。 「痛くても尻を振るな。真直ぐ立っていろ」 わざと腰を左右に揺すぶりってやりながら、無理な要求をする。言いつけを懸命に守ろうとする様がいじらしい。そろそろ唇も貰っておくとしよう。舌なめずりをして、尻から指を離すと、なだらかな弧を描く、脊椎から頚骨へかけて、点穴（神経巣を突いて刺激する武術の技）を施す。 「ぅっ…！？」 「良く聞け。武術の肝要は呼吸だ。呼吸が血に活力を与え、筋肉の働かせる。逆に呼吸が乱れれば身体は狂い、呼吸を封じられれば死へ至る。打突は全て息を止めるか吐く時に行い、吸う時は無防備となる。呼吸によって生じる力を内功という…さぁ」 顎を掴んで引き上げ、唇を塞ぐ。まず一つ征服した。呼吸を制すれば、その身体の半ばを支配したことになる。董林の痺れた舌を、劉靜の舌が絡め取り、玩ぶ。歯茎を舐り、頬肉を擽り、反応を愉しみつつ、肺へは息を吹き込む。 「はっ…はっ…やめ…」 「息を乱すな、喋るな。鞴で焚き付けられる竈になったつもりでいろ」 「はぃ…んむっ！？」 吸って吐く、惟其れだけの動作に、どれだけの力が篭っているか。間隔を変え、長く遅く、短く早く、疾駆する悍馬の如く、眠れる象の如く、導息によって少年は体温を増し、女の腕に抱かれて汗みずくになり始めた。 「焔の固まりを抱いているようだ」 額から、甘い香りのする汗を舐め取ると、弛緩した身体を横たえる。牝豹のように上へ圧し掛かると、滝のように汗の流れ出る脇の下や、臍の当りへ舌を這わせる。 「塩辛いな。今日も沢山稽古をしたからな」 「師父、汚っ…」 艶めいた唇が、勃起し始めた陰茎にまで辿りつくと、逡巡の素振りさえせず飲み込む。小さな陰嚢ごと口腔へ収めると舌で左右の重みを図るようにし、からかうように上目遣いをする。されている方はもう何が何だか解らず、甲高い悲鳴を上げては、初めて味合う性の快楽に翻弄されていた。 「次だ…、お前はまだ精通を迎えていないが、兎に角気をやってはならない」 「あ゛ぁっ…ぁ゛っ…」 「聞いているか？あれだけ啖呵を切っておいて、もう降参では困るぞ。まぁ、初めてなのだから、私が按配してやろう…」 首筋に指を宛てて、点穴する。小さな肢体が若鮎のように跳ねて、痙攣した。劉靜は点穴と愛撫を組合わせながら、自らも嫣然と腰をくねらせ、両腿を擦り合わせると、媚びた嬌声を漏らした。 「もう、ぐしゃぐしゃだな董林。だが達したくても達せないぞ。性感と性欲の方は、私の相手を出来るようにしてやったがな。そう、不公平の無いように」 女は己にも点穴を施すと、汗孔を開き、油を塗ったように全身を照からせながら、秘裂を指で開く。ふっくらした童児の唇へ、麝香の匂いをさせた女陰を押し付けると、もどかしげに擦る。 「私のも舐めてくれ」 師の黒髪が海藻のように拡がると、弟子の鼠蹊部を隠す。拙い舌使いが茂みを弄るのを感じて、女は恍惚に酔い痴れる。師弟は互いの性感を貪りながら、滑る肌を擦らせ、絡みつき、溶け合って一つの肉塊と化した。 半刻ばかりが過ぎたろうか。劉靜は消耗しきった董林を解放して起き上がると、位置を変えて、鼻と鼻を突き合わせた。 「まだ大丈夫だな」 朦朧としながらも、肯定と取れるような頷きが応える。たっぷりと男を知った尻が擡げられ、女を知らぬ秘具へ狙いを定めると、造作もなく咥え込む。 「ひぁあっ！！！」 「嬉しいな…ちゃんと…感じてくれるのか…董林…お前は私の中に…居る…これから…始める事は…お前を変える…」 恐怖と悦楽で瞳孔を一杯まで開いた少年。女は両の指同士を絡ませると、命綱のようにしっかりと握り締め、長い長い騎乗を始めた。 断続的に嬌声が迸り、そう待たずして、並足から駆足へと速度は変わる。絶頂という出力手段をれ与えられないまま、無限に快楽を入力され続ける。内功の修練の為とはいえ、昨夜まで性のいろはすら会得していなかった董林には、耐え難い責苦だった。唇の端から泡を拭き、涙と洟を垂らし、汗で水溜りを作りながら白目を剥くようになる。 「まだ、失神するな！」 劉靜は気付け代わりに、弟子の肛門へ指を捻じ込むと、妖しく笑って腰を速めた。弓なりに反り返った胴が彼女を突き上げ、脳裏に火花を散らせる。 「っはんっ！まだ、元気だな…ここが好き、なのか、ほら」 官能に溺れながら、陵辱する指を増やし、直腸を掻き回しながら、肉の椅子のように童児の身体へ腰掛け、尻を打ち付けては蹂躙する。血が沸き肉の焼けそうな、灼熱の抱擁の内、小さな弟子の意識が焼き切れたと確信すると、師は狂おおしい愛を囁いて、華奢な肩へきつく噛付いた。 雲を曙光が染め、峰々を茜に彩り、大地の褶曲が作った皺が、夜の裳裾を引きながら、徐々に朝の世界へ陣地を引き渡す頃。 山間の小さな庵で、一組の男女が目覚めを迎えようとしていた。先に夢から現に還った劉靜は、己が胸を枕に睡む董林を眺めながら、目を細め、そっと手の甲で、滑らかな頬を撫ぜた。 「私の…董林…」 思いのままを口にすると、堪えきれず両腕に力が篭る。息苦しさに起きた少年は、眼前に盛り上る大きな乳房に茫然としてから、漸く昨夜の記憶を取り戻して、真赤になる。 「師父、いけません…ふぇっ…」 「ふん、逆らうと破門するぞ…ここはもう、勃っているしな…」 指が素早く性器に絡みついて、扱き始める。 「ひっ…」 急激な変化が童児を襲う。血液が逆流したように、快感が甦ると、あっという間に息が浅くなって、双眸は焦点を失う。劉靜は満足げに笑うと、緩んだ肛孔へ指を埋め、腸液を捏ねながら弄り回す。董林は淫ら過ぎる己の反応に当惑して、泣きじゃくりながら、師の胸へ縋りついた。 「そんな…そんなぁ…」 「董林の泣き顔は可愛いな…だから余り我慢せず、泣きたい時には泣け。それに、これから最低でも一年は、どんどん淫らになっていく。今までのように遠慮していると、身体が持たないぞ。私が欲しい時には強請れ、いいな」 「あぅっ…きゃぅうっ」 師がそう耳元へ囁くと、弟子は恥らって、嬰児のように丸くなる。剣士は悪戯の手を休めないまま、無防備な項を甘噛みすると、獰猛な猟獣が、獲物の所有権を主張する時のように、小さく歯型を残した。 「お前が、宮冥派の秘密を知って、それでも…私を選んでくれて嬉しいぞ…そうしてくれると思わなかった…てっきり怖がって逃げると…」 「ぁっ…師父…泣かないで…下さい…」 「大切にする…きっと…だから…」 言いさした所で、いきなり弟子の方から接吻をされて、劉靜は少女の如く頬を染める。同じ位真赤になった董林が、無言で見詰め返してきた。嗚呼、自分はもう二度とこの子を手放すなどとは思うまい、女はそう心に決めて、生涯の伴侶をしっかりと抱き締めた。 |
| [小説目次へ] | ||
| [トップへ] | ||