The end at home

少年は久しぶりに帰宅するところだった。

退院の日の朝。医師に車を呼んでもらった。真赤な髪をした、ちょっと恐ろしげな、しかし親切な先生で、わざわざ病院の敷地の外まで見送ってくれた。

広い後部座席に一人で収まり、窓に寄って硝子の向こうを覗くと、通り過ぎていくのは知らない街。建物のあいだには緑が多い。けれどしばらく走っているうちに灰がかった、やや荒れ果てた感じに変わっていった。廃屋や打ち捨てられた公園、ひび割れた路面が目に入る。まるでよその国のようで、恐ろしいけれど、どこか惹き付けられた。

飽かず眺めているうちに瞼が重くなってくる。幾度か瞬きをしているうち自然に、うとうとしてしまう。しばらくして目を覚ますと、あたりのようすはすっかり見慣れたものになっている。通学路、近所の家、標識や電信柱の広告まで、出かけてきたときとそっくりそのままだ。

「ここでいいです」

そう告げると、景色は流れるのを止めた。降りる時に運賃は求められなかった。先に病院が払ってくれたらしい。外へ出ると、空気の味は少し違った。やけに乾いていた。車は背後で扉を閉ざすと、滑るように走り去っていった。

うんと伸びをして、歩き始めると、足音がやけに大きく響いた。立ち止まると、かすかな谺がある。呼吸さえもひどくうるさく聞こえる。

陽射しは西から斜めに差し込んで、頬や手に温かく当たる。いつもなら騒がしくなる時間だった。だが下校する小学生のお喋りもなく、食事のしたくをする匂いもしてこない。

しん、と静まり返っている。墓地のように。

少し急ぎ足になって、家路をたどる。曲がり角を二つ折れて、坂をちょっと登って、突き当りを左。何千回も繰り返してきたように。でも視線は靴の先に落として、もうなるたけほかは構わないようにして。やがて覚えていた場所へ着く。恐る恐る顔を上げると、玄関は、そこにあった。

取手を握ると、日光を浴びていたせいか、ほのかに温かい。だが回らなかった。鍵がかかっているのを忘れしていた。ポケットを探ったけれど、携帯電話がない。思案してから、傍らに置いてある空の植木鉢を引っくり返して、隠してあったカードキーを拾う。表面はつややかで、工場で作られたばかりのように新しかった。父が替えたのだろうか。

不意に、病室で医師に聞かされた言葉が脳裏に蘇った。

”お前の父はもう随分前に亡くなった。母や弟や妹も。家には誰も待っていないかもしれない。それでも帰るというなら止めない”

かすかに胸の奥が締め付けられる。途中から駆けたせいだろうか。あまり無理をすると、体はその分早く駄目になると注意を受けたのだった。ぼんやりしていたせいで、教わった話がだいぶ頭から抜け落ちていたようだ。まだ眠けが残っているのかもしれない。

鍵を開け、戸口をくぐる。

「ただいま」

普段そうしているように、靴をきちんと下駄箱に入れて、スリッパを履くと、洗面所に行って手洗いとうがいをする。水はかすかに潮っぽかった。水道の調子が悪いようなら、管理会社に連絡しなくては。忙しい父の代わりに家事を担っていた立場からそう考えてから、確かもう雜務をしなくてもよくなっていたはずだと思い直す。

「変なの」

側に誰もいないの時間の多さから、くせになっている独り言を呟くと、居間に向かう。食卓の椅子を引こうとして、埃に気付き眉をしかめる。留守番役は掃除を怠っていたらしい。ハンカチで背と座席をぬぐってから、あとでちゃんと綺麗にしようと心に留める。よじ登るようにして腰かける。脚の高さのせいで、いつも苦労していた。だがお気に入りの場所だった。父を待つ時の。だがもういないのだった。

ぼんやりと天井を仰ぐ。

母、弟、妹。父以外の存在はあいまいだった。ひどく懐かしいのに容貌が浮かんでこない。年の離れた双子のはしゃいだ笑いや、しがみついてくる体温は覚えていた。しかし部屋のようすと重ならない。こめかみが痛んだので、軽く抑える。小さな二人と遊んでいた時、自分は今よりずっと大きかった気がする。だがはっきりしない。

テレビと長椅子の方に視線をやる。どれもうっすら埃をかぶっている。

徐々に、雨が土に染み込むように理解がやってきた。

そうだった。ずっと昔に、ここの子供の一人が家を捨てたのだった。つまらない夢を追いかけて遠くへ行き、長いあいだ戻ろうとしなかった。だからもう誰もいないのは当然だった。あの子供にしても、やがて大きくなり、年老いて、死んだはずだった。

どうして帰って来たんだっけ。少年は不思議そうに首をひねった。そうだ。ほかに居るべき場所が分からなかったのだ。記憶は毀れた嵌絵細工モザイクのよう。幾ら項を繰っても、目的の章にゆきあたらない本のよう。

胸の痛みが大きくなる。急に咳が出た。食卓に小量の血が飛び散る。粘膜が弱っているので、油断しないようにと、医師は忠告していた。うがいだけでは不十分だったようだ。

この体は本物ではないと悟る。かつては力はなくても、疲れやすくても、回復はとても早かったし、病にもなりにくかった。特別に頑丈だった。変わってしまった。置き換えられてしまった。いつのまにか。

周囲も同じだった。内装も家具もそっくりのようで、わずかずつ違う。

まるで忘却の果てに消えた時代を、うわべだけ蘇らせるために、人と家の亡霊を連れてきたようだった。

少年は肩を抱いた。寒けが襲ってくる。独りぼっちで待つのは得意なはずなのに涙が抑えきれなかった。だが我慢する必要はなかった。もう泣きはらした目を訝る相手はいないのだから。


「取り戻せた記憶は半分より少ない。でもあの爆発でほとんど消し炭になったところから再生した割には、うまくいっただろう」

「そうだな」

漆黒の肌をした女が淡々と語るのへ、赤い髪をした男が白衣を脱ぎ捨てながら生返事する。

「向こうは自分が罪人だったことさえ覚えていないはずだ。裁くべき側としては不本意じゃなないのか」

「あいつが罪人だったとしても、昔の話だ。もういい。今はひどい目にあった重病人だ。直してやる必要があった」

「だからといて、やりすぎじゃないのか。お前が大事にしていた古い時代の別荘に案内して。おまけに一番の宝物までお供につけてやるとは」

赤い髪の男は肩を竦めると、むっつりと腕組みをして、部屋の壁に映る治療記録を眺めやった。女は低く笑うと、後ろから肩を抱いた。

「そんなもの見て分かるのか」

「少し」

「ふん、どうだか。ところで、なぜあの罪人の体を直させる時、わざわざ幼い姿にした」

男ははじめ返事をためらう風だったが、やがてゆっくりと語句を紡いだ。

「あの頃が、あいつにとって一番幸せな時期だったと聞いたからだ」

「てっきり、記憶を取り戻しても、おかしな真似ができないようにという用心かと思ったが」

「…違う」

「まあいいさ。どうせ寿命はほとんどない。見慣れた環境で最期を迎えられるなら、幸福だろう。国としては罪人にできる限りの治療を施した。もう十分だ。食事でもしよう。何が食べたい」

男はぽつりと答えた。

「揚げギョウザ」

「何だそれは?」

「知らないか…昔、あいつが作ったんだ」

「あの罪人がか。いつだ」

「二人で暮らしてた時だ。短いあいだだけどな」

男の告白に、女は幾度か瞬きをした。

「それで医師でもないお前が、わざわざ治療現場に割り込んで、そんな格好をして世話を焼いたのか」

「多分な」

「で、うまかったのか。その揚げギョウザとやらは」

「うまかった」

「あの罪人に料理ができたとは意外だな」

「掃除も洗濯も、家事は得意だった」

「おとなしい子供の姿だけ見れば信じられもするが。過去の凶状と本性を知っているとそぐわんな」

「そうかな。あいつの本性は、どちらなんだろうな」

「まさか実は、それを知るために子供の姿にしたというのじゃなかろうな」

「さあな…向こうについて行った連中なら知ってるだろう」


泣くだけ泣くと落ち着いたので、少年は掃除を始めた。これから、どうなるか分からないけれど、部屋を汚いまま放っておく訳にもいかないと考えたのだ。家電の類はほとんど駄目になっていたが、雑巾、箒、ちりとりなどは無事だった。買い換えられてから随分経つようだが、強靱な素材でできていたので、使うのに支障はなかった。

照明もついたので、夜っぴての作業ができそうだった。また血を吐いたりして綺麗にした床や家具を汚すのも癪なので、体を騙し騙しに働いたが、とにかく手を動かしているあいだは沸き起こる不安を脇に押しやっていられて、気持ちは楽だった。

かすかに鼻歌を歌いながら、はたきをかける。高いボーイソプラノ。音感はよかった。テノールになってからは歌う機会もなくなったけれど。今はまた昔の喉に戻り、古い曲を口遊んでいる。

喉が渇いて冷蔵庫を開けると、こちらもちゃんと機能していた。駆動音がしないので壊れているのかと疑ったが、単に以前とは別の仕組みに変わっただけらしい。

ただ入っていたのは、小麦粉を固めたような四角い棒状の菓子の類だった。試しにかじってみると甘いようなしょっぱいような、妙な味がした。ほかに幾らか色の濃い円盤も沢山入っていたが、食欲をそそらなかった。嗅いでみて、いやな匂いがするのではないが、どうも、口にすべきではない、という印象を受けた。

喉を潤すのは塩けのある水道の水で済ませ、空腹を覚えるたびにちびちびと棒をかじり、頻繁に休憩を入れながら働いているうち、あっというまに宵が訪れた。どこにも灯が点らず、ほとんど完全な闇になる。だが代わりに、天には燦然たる煌めきがあった。少年はしばし室内の明かりを落として、秋の星座に魅入った。

やがて夜空の絢爛にくらくらして、地上の暗黒へ視線を戻してふと、芝生の向こうに何か影が動いているのをとらえた。目を凝らすと、丸い輪郭が星明りに揺れている。ずっと生き物の気配などなかったというのに。後退って壁の操作盤に触れる。光をつければ向こうを驚かせるかと思ったが、危険なものでも困るので、ままよとスイッチを入れる。

照らし出されたのは、亀だった。とてつもなく大きな。しかも甲羅には小鳥が一羽止まっている。絵本にでも出てきそうな組み合わせだ。

「あは…あはははは!…んっ…けほんっ…」

咳き込んでまた赤い滴を零すと、合図にしたように小鳥が飛び立って、まっすぐ突っ込んでくる。硝子に当たって跳ね返るが、しかしこりずに何度もぶつかる。少年は慌てて庭の戸を開いた。

華奢な翼は激しく羽搏きながら部屋の中に入ると、狂ったようにぐるぐると家の主の周りを回ってから、肩に止まり、激しく頬へ頭をこすりつけた。

「わ…なん…なに…」

やや遅れて、重い鎧を背負った爬虫類も上がりこんでくる。たちまち重さで床が軋んだ。そのままかなりの早さで足もとまでやってくると、ぴたりと止まって、見上げてくる。

少年は、柔らかな羽毛のくすぐったさに身悶えしながら、笑い混じりに尋ねかける。

「…ちょっ…君たち…一体…」

昔、このあたりの誰かに飼われていたのだろうか。だとしたら住民がいなくなって、どのくらい長生きできるものなのだろうか。

餌はどうしただろう。そう思い至ると、取り敢えず冷蔵庫から、白い棒と黒い円盤を取り出して、どちらかでも食べるかと、差し出してみる。小鳥は黒い円盤に興味を示したようだったが、嘴を近づけようとはしない。亀も円盤を眺めやったが、動かなかった。

「どうぞ?」

床に置いて勧めてみる。すると小鳥は素早く少年の肩から舞い降り、一片を欠いて飲み込んだ。続いてもう一片、機械のような正確さで、同じ大きさだけを徐々に削り取っていく。亀はなおも固まったまま、ちっぽけな相棒の食事を見守っていた。

どうやらもう一つあったほうがよさそうだと、円盤をまたとってくる。今度は甲羅の主もためらわず、餌を受け取った。やはり無駄のない動きで咀嚼していく。

観察しているうちに、直観が働く。

「ロボットなんだ。ペットロボット」

白い棒は人間用の糧食。黒い円盤はロボットの動力源。少年ははるか昔にも、ロボットと生活していたのを思い出した。かつて周りにいた機械は、強力な内蔵発電機を持ち、滅多に外部から補給を受ける必要はなかったが。

「そうだ…似てるな…なんか…前にも…」

刹那、亀は小さな瞳をきらりと光らせたようだったが、それ以上の反応は示さなかった。小鳥は食事を終えると、また飛び上がり、鎖骨のあたりへ止まる。すっかりなついたようだった。

「もっと要る?」

どちらももう要らないようだった。しかし二体のロボットは尚も、食い入るように少年を見つめていた。前の主がそういう設定を施しただけかもしれないが、ひどく落ち着かなかった。

耐え切れず眼差しを逸らすと、またしても庭先に別の生き物がいるのを見つけた。

猫だ。特大の猫。もしかすると豹か獅子かもしれない。艶やかな黒い毛皮と、しなやかな長い四肢、流線形の輪郭は、獣というより走るための機械を思わせる。獰猛そうな顔をしていたが、不思議と恐怖は感じなかった。

猫は一跳びで屋内に入ると、いきなり少年の胸へ飛び込んできた。勢いに押されて床に倒れ込み、頭を打ち付ける羽目になる。小鳥は非難するように鳴いて離れ、亀の背に移った。

「いったぁ…もう…なんで次々…わぷっ」

広い舌が顔に触れてくる。猫科にはありえない滑らかな感触。まるで人間のような。しかし以前に誰かに舐められたことなどあったかと、少年は訝った。

「ぷわ…もぉ…こら!」

たしなめても、じゃれつきは止まない。三番目に現れたペットロボットには、単に人間を恋しがっているというより、何か貪るような激しさがあった。

「いいかげんにしないと怒る…よ…?」

さっきよりきつく叱り付ようとしてから、黄金に輝く猫の瞳が涙を流しているのに気付く。銀の涙。機械も泣くのだ。輝く液体は床に落ちる寸前で、黒い毛皮に吸い込まれて消えていた。

山吹の双眸を覗き込んでいるうちに、少年はずっと続いていた胸の痛みが薄らぐのを覚えた。もう一人ではないのだ。最期の時間を、一緒に家で過ごせる仲間を得られたのだから。

「ただいま」

何とはなしに、改めてあいさつをする。

すると猫は口を開き、淑やかな、労りに満ちた、しかし悲しげな声で答えた。

「おかえりなさい」

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