尻に当る粘って水っぽい感触で,老爺は浅い睡みから覚めた.また夜の間に大便を漏らしたらしい.
瞬きをして,上方に広がる虚空へと視線を投げる内,眠気は冷たい潮の如く引いていく.後に残されたのは,恥と怒りとどうしようもないみじめさ.体の自由を失うと共に沸き起こり,長らく頭の奥を占めていたために凝って,もはや和らげられも忘れられもしない黒々とした情念の岩場.
深く窪んだ鎖骨の下で肋を動かし,長年の酷使に傷んだ肺を圧すと,弱々しく咳をして喉から大きな痰の塊を追い出した.ようやく新鮮な酸素が気管に入り,血がざわめいて意識がはっきりと澄む.だが息を吐こうとすると,胸の内側を,針で刺すような鋭い差し込みが襲った.
ぜぇぜぇと呻き,きつく瞼を閉じ,下唇を丸めて歯の抜けた口を噤む.大丈夫だ.堪えられる.
何も解らなくなるよりましだ.最近は,夢から抜け出ても,己が誰で,どこにいるのかを把握できないまま,寒々とした不安に苛まれる時があった.まるでほんの五つか六つの子供か,あるいは,母猫から引き離されたばかりの仔猫にでもなったかのように.
ともかく今朝は違う.少なくとも,この薄暗い寝室に力無く横たわる,痩せ衰えた人物が誰なのか解っている.広岡源三.七十五歳.生物学,遺伝子工学,動物行動学修士.元エデン財団人類研究所特別研究員.元バベル大学特別客員講師.代表論文は,原/新人類の遺伝子異同に基づく行動様式の類似性に関する諸問題,ほか.八年前息子夫婦と死別.血縁者は十歳になる孫娘が一人….
無機的な事実や,専門用語,固有名詞を足がかりに,意識の幽冥から現実へよじ登ろうとする.そう,ここは自宅の寝室だ.厚いカーテンを通して染み込む淡い陽射しはまだ,霞んだ目にとって部屋の様子を覗うのに充分な光源とはいえなかったが,闇の彼方にある壁や天井は,沈黙によって空気を重く淀ませていて,視覚によらずとも存在を確かめられるようだった.
不意に激しい関節の痒みが訪れ,自我を再び混乱に陥れる.この頃しじゅう彼を悩ませる原因不明の症状の一つだ.本能の命じるまま四肢の筋肉を動かし,肘と膝をシーツに擦りつけようとすると,ベッドはまるで水銀の池になってしまったかのように捕えどころなく変形し,丁度太った母親が子供を抱き締め,たっぷりした贅肉の間に埋めさせるが如く,骸骨のような身体にまとわりついた.
どこかの有名な医療機器メーカーの手になる,床ずれ防止用ジェル化ポリウレタン素材の敷布.先端技術を駆使して作られた製品は,企業が謳うたいそうな宣伝文句「寝たきり高齢者の生活をいつでも快適に」にも関わらず,泳ぐに不快きわまる泥沼のような代物と化していた.