どこかで山犬が吼えた.
月は今し方,密雲に隠れた.地上には闇と炎が相混じり,赤々と照し出された曠野の道を,胡服の娘が独り,手にした剣の脂を拭いもせず,倒れ臥す骸の群を抜け,足早に進んで往く.
熱せられた木が爆ぜ,肉の焦げる匂いが鼻を突く.屍々累々たる光景は,野盗の強襲を受けた貴族の末路か.鎧甲に固めた侍衛と,弯刀を握った匪賊とが互いに折り重なって真紅の沼に溺れ,傍らでは灼熱の舌が豪奢な乗物を舐め尽し,細かい羽毛の様な灰を舞い上げて,天を汚している.
では此の煉獄を独り駆けるのは,何者だろうか.質素ながら小奇麗な衣服は,緑林(犯罪世界)の輩とも,官軍の兵とも異なる.流れるような所作や辺りの惨状にも動ぜぬ豪胆さは,或いは江湖の侠客といった風格だが,容貌の輪郭はまだ円かで稚なかった.
布靴の底が乾いた黄土を踏み締める度,結った髪が黒蛇の如く揺れ,殺戮の残香に濁った大気を掻き回す.煤を被った紅頬には返り血の痕があり,桜桃の唇は硬く引き結ばれて,年不相応の厳しい表情をしていた.僅かに地を摺る抜身の白刃が,時折切先から火花を散し,紅蓮を映じて,酷く冷たい閃きを放つ.
猛禽を思わせる双眸が,鋭い視線を注ぐ先,松明の投掛ける光よりほんの少し外で,一台の馬車が横転し,虚しく車輪を空に突き出している.ふと,死の静けさを破って,幼い子供が泣くのが耳へと入り,娘の歩みを止めさせた.
研ぎ澄まされた感覚が,荷台の裏に縮こまる,微かな命の存在を捉える.蹲り,背を低く屈め,石の如く固まって,恐ろしい戦闘を生き延びようとする,二つの忙しい呼吸.うち片方は刻々と浅く,短くなり,儚く消え去らんとしていた.
「もし,何方か居られるのか」
少女は凛と通る声で,そう尋ねる.返事を待たず跳躍すると,恰も飛燕の如く宙を滑って,車輪の軸へ爪先立って降りた.颯っと辺りを睥睨し,すぐさま眼下で小柄な影が動くのを認める.
錦糸の刺繍が星屑の輝きを零して,富貴の所在を告げていた.覆った馭台が焔を遮る衝立の役目を果したお陰で,略奪を逃れたのだろう.薄手の絹衣を纏った婦人が一人,青褪めた様子で横倒しの底板へ凭れていた.まだ若く,容貌は際立って美しかったが,眦を覆う翳りからして,余り先が永くなさそうだった.白い矢羽が左腕の付根から突出し,肩口より胸元へと黒ずんだ染を拡げている.だが焦燥の浮ぶ瞳は,此世への強い未練を告げていた.
見れば,すぐ近くで,目鼻立ち良く似た童児が,宝石を鏤めた玩具の短剣を握り締め,主君を守る歩哨の如く構えている.恐らく母子であろう.娘が側へ音も無く舞い降りると,喉を震わせつつも,臆せずと叫んだ.