将軍様御子息遊行記

 その日、東京の空には西からの叢雲が厚く層を為して押寄せ、背の高いビルの頂上を擦らんばかりに、低く重く垂れ込めていた。朝から大粒の雨が、地下鉄の駅前から続くアーケードの天井や、街路沿いに軒を連ねた商店に降り続き、江戸の面影を残す浅草の景色は、灰色に沈んでいる。

 五月の大型連休、その最終日とはいえ、いつもと比べれば多少人出もまばらで、売子の呼び込みも聊か空々しく響く。隅田の流れだけは、川面に絶え間ない波紋を生じながら、幾分勢いを増しているだろうか。

 滔々と海へ注ぐ緑の水を、だが今日は足をとめて眺める者もいない。いや独り、赤く塗られた鉄橋の上、海外の観光客や買物帰りの家族連れが傘を手に忙しく行き交う最中に、小太りの男が不気味な笑いを浮かべ、立ち止まったまま欄干から身を乗り出していた。

 「ぐふふ、ここが日本イルポンの首都、その中心と言われる浅草デブか。醜い資本主義の思想に毒されたこの土地を、高貴な僕チャンが自ら偵察し、そのプチブル的愚劣さの本質と矛盾を暴きだしてやるデブよ」

 彼こそは、浅草に舞い降りた裁きの天使。共産社会の生んだ理想郷たる民主主義人民共和国の貴公子、国防委員会委員長・人民軍最高司令官の落胤にして、一部では次期将軍様との噂も高い仮名帽子男である。

 「兄ちゃんは父上にねだって、ディズニーランドに偵察行ったデブが、僕チャンはもっと渋いチョイスをしたデブ。僕チャンの綿密な調査によると、ここ浅草にこそ、日帝が生んだ退廃文化の本質があるということデブ」

 独特の理論武装をしながら、ぶつぶつ独り言を零す姿は、ジーンズにワイシャツにジャンパーという(情報部によれば)完璧な平均的日本人男性の服装に包まれているにも関わらず、通り過ぎる子供達の幾人から、好奇の視線を投げ掛けられるに充分な妖しさを醸し出していた。

 「そして、5月5日の今日、ここ浅草で、日本中から人が集まる、とてつもない秘祭が行なわれてるという事前情報もバッチリ掴んでいるデブ。場所は東京都立産業貿易センター台東館。これまで海外の情報部には全く注目されていなかったようデブが、僕チャンの鋭い目は誤魔化せないデブよ。ふふ、日本人が浅草の真中でどんなことをやっているのか、楽しみデブネー」

 口から滴る粘性の涎を拭いながら、偶蹄目イノシシ属イノシシ科の肉用家畜に酷似した顔付きに、貪欲そうな表情を浮かべ、男はとことこと馬道通りを北へ歩き始めた。一歩ごとに脂ギッシュな匂いが立ち昇り、すれ違う者達の顔を顰めさせる。しかし本人はといえば、そうした歩く公害としての迷惑など、一向気にした様子も無い。

 「お、あったデブあったデブ。つか浅草寺センソージの真横やんなー。こういうイベントって、終った後すぐ近くで観光も出来るような配慮がされてるんデブかねー。だとしたら侮れないデブね。イルポンも」

 分厚い眼鏡レンズの奥で、やぶ睨みの眼が、どんよりと動き、あたりを窺うと、そのままのそゆさゆさと建物に近付き、ドアを開ける。一階は少し照明が暗いが、入るとすぐ、祭の参加者らしい人達の、昂揚した話し声が聞こえた。

 「…ほほう。賑やかデブね。子供もいるってことは、他の催しも同時に行なわれているんデブね。そういや東京ビッグサイトでも、ブックフェアと丸井のグランバザールとキャラフェスを同時にやったデブね。しかし浅草にも、公会堂以外で、いくつものイベントを同時にやれる建物があるんデブね。この辺には高校時代良く学校さぼって来てたんデブが、気付かなかったでぶ」

 無論平壌からチャーター便で遊びに来ていた、という意味だ。

 「お、七階ショタケットとでかでかと書いてあるデブねー。もっと細々としてると思ったけど、イベントの案内って意外とオープンなもんなんデブね。楽しみ楽しみたのし…っ?」

 脂肪団子のような胴体の下で、二本の脚が震えていた。別に、体重を支えきれなくなったとかそういう話ではない。身動ぎすると、服が素肌にべっとりと張り付き、汗を掻いているのが解る。

 「きききき緊張しているというのデブか。鋼鉄の霊将の息子であるこの僕チャンが…あ、やべ心臓バクバク行って来た。うわーうわー、なんだこれー」

 おかしい。すでに4月のブックフェアで、イベント参加とやらの感触は掴めていた筈だ。なんか全然勝手が違う。

 「どひー。ななななんデブかねー。この雰囲気は」

 エレベーター内の誰もが、自分を見ている気がする。まるで汚れた普段着のまま舞踏会へ来てしまったシンデレラの気分。カボチャの馬車もガラスの靴もないシンデレラだ。

 これは。

 場違い、そう場違いなのだ。会場には入る前から、他の参加者の方々は既にアットホームかつ、うちとけたムードを作っているのに、俺だけが浮いてる気がする。

 すいませんすいません。余所者が入り込んでスイマセン。

 とか考えてる内に七階到着。降りるとそこには別世界が!

 ひしめく人、色取り取りの同人誌見本。まんがの森やなんかとは全然違う、解放された活気の渦。すごい。ドキドキすんじゃん。しかもこっから見る限り全部ショタ本のようですよ!(当たり前だろ)

 周りの人達はさっさと中に入って行く。あれ、感動とかなしですか。そ、それにカウンターでカタログ買わなくていいんすかー。いいんすかー。ああそうか、皆もう事前に購入してるのか。でででも俺はまだなんだよー。一人だけ当日買うとアレかなー。よそものだってバレるのかなー。白い眼で見られるかなー。あ、受付の人親切そうな好青年だー。児童キャンプのボランティア参加の時の受付さんと似てるよ。怖くない怖くないよ。ユウキを出して話し掛けてみよう。

 「すすすいません、ボ、ボキチャンに、か、か、カタログくくくくだちゃい」

 「一部でよろしいですか?(にこ)」

 「ひゃ、ひゃい」

 「500円になります」

 「(ゴソゴソ)…うぉ…(は、早く受け取れ、受け取れー青年)」

 「(受け取り)どうぞ」

 ほっ。

 大丈夫。

 「百戦百勝の人民司令官を父に持つ僕ちゃんならこんなこと楽勝デブ、うふ、うふふふ。見たか日本人共。これが主体思想を学んだ人民代表の底力デブよ」

 とか何とか胸の内でだけ呟きつつ会場へ。

 「やっぱ、凄い人デブねー(@ロ@)」

 ブックフェアーとは相当違う。会場が狭い分、密度が濃くなるのかもしれないが。

 「昼前からこの人の入り。資本主義国とはいえ侮れないデブ。マスゲームができる人数デブよ…っと、なんか並んでるデブ…この行列、僕チャンも並ばないといけないデブかね」

 こういう時はさっき買ったカタログを見よう。確認してみると、どうやら違ったようデブ。じゃなかった違ったようだ。どうも大手サークルちゅーものには行列ができるらしい。テレビで放送されたラーメン屋みたいなもんか。

 「皆が並んでるとつい"並んだほうがいいのかな"、"並ぼうか"って気になるのはこういうイベントでも同じなんデブねー。でも僕チャンは将軍の息子だから並ぶのに慣れていないデブ。そんな屈辱はごめん蒙るデブよ」

 ってか、まずは暁本のコーナーにいかねば、予めメモっておいたブース番号をチェックしつつ…えーと、あれ、なんか一箇所に集中してるな。もしかしてジャンルである程度固めるのか?

 「これは好都合デブね。買物が容易になったデブよ。連休中は銀行がサービス停止(ATMさえも)というアクシデントがなければ買って買って買い捲ってやる所でぶが、まぁそれでも各サークルの最新本は全部抑えるデブよー!ふふふ、在庫が少なくなってても、将軍様の息子である僕チャンはがつんと強気に要求するデブ」

 もちろん民主主義人民共和国の銀行の話である。

 「まずは、る〜様のブースからデブ。以前協力して頂いたお礼とかも渡すのデブ。柱のそば、柱のそば、あ、ここデブね」

 物腰穏かそうなお兄さんが店番をしてらっしゃって。胸にはP太様との名札が。ぎょぎょぎょー、でもネットでも直接お話してないから黙ってよう。下にはずらりふぁいとの暁関連のコピー本が。と、とりあえずこの一番前に置いてるオフセット本と、こっちの左にある奴を買おう。

 「これとこれを…下さい…(札を差し出し)」

 「えーと、そっちのはうちの本じゃないですよ」

 ぎゃはー。隣のサークルさんの本だったー。慌てて片方戻し。

 「じゃ、これだけ」

 「はい(にこ)」

 笑顔。優しい笑顔ですよー。人と人が接する時の基本ですよね。あうーあうー、笑顔を返さねば。表情筋が動かねー。俺だけ汗だくのままぶよぶよした頬肉を神経症のように硬直させて、すでに相当ヤバイ客の雰囲気だ。とりあえずそうだ、お礼を。菓子折を。

 「あの、この本の製作者さんに…これ…を」

 「あ、差し入れですか」

 差し入れ。っていうんだっけ。そうそう。それです。こくこく。

 「どちらにですか?」

 「へ?」

 「それは合同誌なんですよ」

 「あー、あー」

 ご、合同誌ってなんすか?あ、作者さんが複数いるのね。ほがー、しかもオリジナルだー。ふぁいとの暁じゃない。うおー。でも、いいや面白そうだから。

 「その、以前英文…翻訳で…お世話になりまして」

 「それならる〜さんかな?」

 「はい…そうです…えーと多分(多分じゃなくてそうだろ)…その…宜しくとお伝え下さい」

 「はい…?」

 何を宜しくなのやら。逃げるように隣へ移動する俺(逃げるなよ)。

 お隣はばろん赤坂様だー。たはー申し訳ありませんでした。迷わずさっき間違えた暁本をゲット。

 「これを下さい」

 「はい」

 「…(お釣受け取り)あー、あの…」

 声をかけられて怪訝そうな表情の赤坂氏。目の前には汗だくのキムジョンナム。そりゃ怪しいわな。

 「私は、その…以前インターネットの方で…サイトに…リンクをさせて頂いた…その…」

 「…あ、そうですか。お名前は」

 名前、どうすんだ。あれか。ハンドルネームを名乗るのか。ぎゃー名乗れねー。恥かしくて名乗れねー。どうしようもねー。いや、な、名乗れ。ハンドルネームで名乗るのは今時はもう普通だ。うおー。

 「帽子…男です…」

 「あぁ。貴方が」

 覚えててくれたー。ぎゃはー。恥かしいやら嬉しいやら。

 「あれ?でも夜行性の方なんですよね」

 ああ、そんなことまで。

 「そ、その…どうしても…同人誌が欲しくて…(ごにょごにょ)…通販してないそうですし…」

 やはりディズニーランドに行きたかった某将軍令息並のダメっぷりを発揮。

 「いや、いまこの状態で通販には手が回らないんですよ」

 ぬおー。確かにすごい種類のコピー本が…ほふー。欲しい。だが今日は暁本以外は買わないのだ。絶対買わないのだ。ってか買えない。くそう銀行めー。えーとえーと。

 「あ、が頑張って下さいね」

 とだけ言い置いてまた逃げる俺。だめだー会話が続けられねー。できねー。どうした俺。

 辿り着いたのはヒロセナオヤ様のブース。

 これ下さい、はいの遣り取りがあってから、気を取り直して挨拶をリトライ。

 「以前インターネットのサイトの方にリンクさせてもらったものですが…」

 「えーと、お名前は?」

 ぐおー、言うのか。またハンドルネームを言うのか。当たり前なんだけど。くそう。健全サイトやってた頃は苗字をそのまま平仮名にしてたから、本名と同じで気楽に名乗れたんだけど。だめだ、恥かしー。いっそハンドルネームを佐藤とか山田とかにしておけばよかった。その方が名乗りやすかっただに。

 「…帽子男…です」

 「ああ、くまねこさんのサイトの方に良く書き込まれてる方ですね」

 そうですそうです。ちゃんと、はいと答えられたのか、それとも、ただ頷いたのかもう覚えてない。何を言ったのか。とにかくイタイ客に対して、皆さん大らかで、優しい言葉をかけてくださり、ありがたいやら申し訳ないやら。

 「す、すいませんこういったイベントは初めてなもので」

 「…はじめてでショタケットは辛いんじゃないですか?(ちょっと気の毒そうに)」

 はう、そうですかね。わ、解らないんですけどどうなんでしょうか(@ロ@)。えーとえーと。

 「アンソロジー期待してますので、頑張って下さい(ヨタヨタヨタ)」

 「はい…?」

 また逃げるようにその場を立ち去る俺。もはや将軍様の息子としての威厳はなく、ただのビクビクしたズングリムックリでしかなかった。

 お次はくまねこ様のブース。おお、良かった。くりす様のイラストの通りだ。何もかも間違いない。さっそく新刊をゲット。

 「…下さい」

 「はい」

 「あの、私は以前(以下同文)」

 「お名前は…?」

 …また内心悶絶すること十数秒。間違って本名を口走ったりと色々テンパリ具合も限界に達して来ているがなんとか帽子男と名乗る。

 「すいませんこういったイベント、初めてなもので(またいわんでもいい言い訳)」

 「そうですか、初めてがこれって辛くないですか?」

 ぐはー。あれか。さっきのヒロセさんといい、よっぽとテンパって見えてるのか俺。ぬおー。これでは父上に申し訳がたたん。民主主義人民共和国がなめられる。いやそんなのどうでもいいけど、そのちょっとだけアレやソレがあわわわどうする。

 「はい…(弱っ)」

 「…(にこ)、ちょっと待って下さいね…」

 小さな紙袋に入ったお菓子を頂く。なんと暁のイラスト入り。どうやって作ったんだろ…すげぇなー…とか、そういうのは後になって考えた事で、その時はお礼をちゃんと言ったかどうかも覚えてないけど、とりあえず嬉しさに小躍りしつつ逃走(逃げてばっかりか)。

 そのまま勢いアマって外へ。俺は俺はー俺はーーーーーーーーーダメ人間ダーーーーーー。と内心叫びつつ、会場から少しでも遠くへ離れようとばかり、隅田公園目指して歩いていくだった。










 …小雨になった空の下、放心すること20分あまり…。

 我ながらどうしようもない取り乱しっぷりに思い出して青くなったり赤くなったりする。

 「ま、まぁ僕チャンみたいな客だって一日には何人も来るデブよきっと。」

 いや来ねぇか…。

 「とにかく、お菓子もらったデブよー」

 ちょっと"かわいそうな子供"っぽい気分を味わいつつさっそくぱりぱりもぐもぐ。美味しいなぁ。あー隅田川がたゆたってるねー。たゆたってるねー。

 落ち着いたかな。

 「このままでは帰れんデブ。折角のイベント。もうちょっと楽しまなければ…」

 実質15分位しか会場にいなかったもんな。

 「戻るデブよ。戻るデブよ。ああ、でも逃げ捲った挙句のこのこ会場に戻ったら、またあの変なのが戻って来たっていう目で見られるデブかねー」

 んにゃ、参加者の一人一人に構ってるほど暇じゃないよな。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 「労働者の闘争は不退転の決意で進めるのデブ。資本主義社会粉砕のため、立ち上がるデブよー!」

 とか何とか己を叱咤激励しつつ、とりあえずセンターに戻る。

 二度目は他の皆さんと同様受け付けスルーで場内へ。相変らず"行列の出来るサークル"を横目に暁本が集中しているさっきのコーナーへ。殆ど無言で、身を縮めながら、ひたすら残っている限りの本を買い捲る。石ころ帽子が欲しいよーう。うおーん。

 それからぐるぐると回遊魚のように他のサークルも見回ってきました。うわー。知ってるサイトさんの同人誌がいっぱいあるよー。あるよあるよーあるよー。

 と眼を輝かせながらも特に何も買わず会場を去る。結局1時間位しかいなかったな。

 ………

 はぁ…。

 後は浅草寺で手を合わせて、線香の匂い嗅いで、あーこれだよこれ。やっと元のおれに戻って来たと、一人頷くキムジョンナム。いきなりいつもの気楽なおっちゃんになると、仲見世ひやかして、相変らず観光客相手にボってるあげまんじゅうをたっけーとか叫びつつ、伝法院通りを入る。

 吾妻橋の方にいってアサヒビールの黄金うんこ本社横の店で生ビールでもよかったんだけど、金が無いので、こっち。でも大黒家も同じ理由でスルー。天丼食いたいがぐっとこらえて、伝法院通りの奥で、十字路を右に折れると、ずらっと牛筋煮込みとホッピーの居酒屋が並んでるんですが、さすがに昼間は結構シャッター閉まってる店もありますな。

 ホッピーは飲みたかったが、お通しが出る寸前で思い直して、スタミナ丼の食事のみににしてもらう。居酒屋きて丼もの食って帰るなんて切ねーな(笑)。ま、美味しかったからいいか。

 そのあとは浅草公会堂覗いて、蔵前方面に向かって、結局秋葉原まで散歩してまった。なんか動揺するとひたすら歩くのが癖なんですね。んでラジオのイヤフォン(330円也)買って、電車で御徒町に行ってからアメ横の地下でピータン一袋値切って買って(400円也)帰った。

 あー、どっちかつーと。やっぱこっちのが落ち着くなー(るるるー)。

 という訳で華やかな場というのは何にせよ苦手だなやー。お邪魔したサークルの皆さん申し訳ありませんでしたー。

 でも、なんか悔しいのでまたイベントには参加しよう。財布と相談しつつ。

 そんな5月5日の将軍様御子息遊行記。ちゃんちゃん(全体にダメ)

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