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笑顔の多様法則
 家路を急ぐ夕刻の雑踏の中、改札口に立っていると、目の前を目まぐるしい程の人が行き来する。こんな大勢の人の中から、よく待ち合わせの相手と会えるものだと感心しながらも、そのうちの一人であることに苦笑する。
 改札の中を視界に入れ、彼女の乗ってくるだろう電車のホームから人が溢れてくる度に、視線を彷徨わせる。人の波の合間から、見覚えのある姿が目にとまった。目を凝らすとやはり彼女だった。自然に笑みが浮かび、いつ視線が合うかと姿を追っているうちに、隣りに見知らぬ連れがいるのに気が付いた。スーツを着て彼女よりも年上そうな、見るからに会社員という雰囲気の相手と、楽しそうに話しながら笑い合うのに、自分でも顔が強張るのが判った。小さく手を振って改札の向こうで別れるところまで目に納めると、視線を逸らして、何も見ていない振りを見繕う。
「冴木君、お待たせしました」
 微笑みながら近付いてくる彼女に、いま気が付いたような素振りで応じる。
さん、お疲れ様」
「冴木君もお疲れ様……。どうかした?」
「何が?」
「ううん。何でもない」
 さんは少し考えるように傾げてから、首をふるりと振った。
「じゃあ、そろそろ行こうか?」
「うん」
 彼女と肩を並べて、イタ飯屋に向かいながらも、さっきの光景が頭を過ぎる。さんと並んで違和感のないスーツ姿と、彼女を何のこだわりもなく甘えさせられる年齢を持つ、知らない男の姿が胸に刺さった。楽しそうに笑う姿は惚れた欲目でなくても可愛くて、笑顔を向けられてその気にならない男は少ないはずだ。それに、嬉しそうに話していたさんの様子に、もしかして本当はさんは年上の人が好きなんじゃないかとか、会社員みたく土日定休の恋人が欲しかったんじゃないかとか、色々と頭の中を巡る。だからといって、今さら身を引くなんてことは出来ないけれど、気になって苛々して仕方がない。
「−−冴木君?」
「え?」
「ここ、だよね」
 彼女の声に我に返ると、予約を入れておいたお店の前を通り過ぎようとしていた。
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「疲れてる?大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。疲れもさんの顔見たら、吹き飛ぶし」
 いつの間にか眉根が寄っていた表情を慌てて解して、笑って見せた。
「冴木君てば」
 心配そうに覗き込む彼女に笑ってそう言うと、はにかみながらもいつも通り返してくれる。
「もう、時間だし入ろうか」
 想像の域にも入らない彼女の気持ちに気を取られて、目の前のさんを放っておくなんて、本末転倒もいいところで、さっきの情景はきっぱりと忘れることにした。


 コース最後の珈琲を飲みながら、他愛ない話もちょうど途切れた時、ふと隣の席が目に入った。仲良さそうに話しているカップルはサラリーマンとOLらしく、つい眺めてしまった。さんとさっきの男だったら、きっと似たような光景になるんだろうと思うと、またも苛々する。さんはあまり飲まないので、ほぼ一人で一本空けたワインに悪酔いしたのか、さんは、もしかするとさっきの男と付き合いたいんじゃないかなんて、莫迦な考えまで浮かんでくる始末。尖った気持ちを落ち着けようと、珈琲を飲み干して顔を上げると、さんと視線がかち合った。
「冴木君。何かあった?」
「え?」
「今日、会った時から、心ここにあらず、だよね」
 俺の顔に何かを探すような表情で、口にしていたカップをゆっくり下ろして、さんが口にする。言葉に詰まりながらも、そんなことないと否定しようとすると、誤魔化しても駄目、と言葉を封じられた。
「それくらいは分かるんだからね。ねぇ、私、何かした?」
 不安げにそう続けるさんに何て返せばいいのか。冷静じゃない頭でも、俺のこの気持ちがヤキモチに他ならないのは流石に判る。どう誤魔化したらいいものか。
「どこか、俺、おかしかった?」
「ぼーっとしたり、溜め息吐いたり、ワインのペースも何時もより早いし、それに−−」
 彼女が挙げる俺の状態に心の中で溜め息を吐き、精神修業のなってなさに師匠の怒る顔まで浮かんでくるのを慌てて振り払って、言葉を止めたさんに続きを促す。
「それに?」
「−−冴木君、逢ってから一度も笑ってくれない」
「え? 俺、笑ってない?」
 特に仏頂面をしたつもりもなく、いつものように笑って話していた覚えしかない。
「そりゃあ、普通に笑ってはくれてるけど、違うもの。いつもと」
 小さく寂しそうに笑うと、続けて、何時もどんなに大切にして貰ってるか分かった、とさんは呟いた。その言葉にノックアウトされた。口許を片手で覆って、あらぬ方向に視線を逸らす。完全にお手上げだった。
「ごめん。さん」
 もうこれは正直に話すしかないと、頭を下げた。
「冴木君」
「見たんだ」
 連れだって歩いていたことに、何の意図もないさんには、思い当たることはないんだろう。考え込むような不思議そうな表情を見せる。
「さっき、俺に会う前に、誰かと歩いてたでしょ?」
「冴木君と会う前?……会社から改札の前までは会社の先輩と居たけど、特に誰かと会ったりしてないけど」
 本当に全く気にしていない彼女に苦笑するしかない。あまり大きな声で言えたことでもなく、心持ちテーブルに近付いた。
「その先輩」
「え?先輩がどうしたの?」
さんがその先輩と楽しそうに歩いているのを見てね、ヤキモチ妬きの冴木君は気が気じゃなかったのです」
「え、えっとー」
「うん?」
 確信犯的な罪を懺悔するクリスチャンの気分を味わいながら、言葉の意味を理解するに連れ、困った顔になっていくさんを見る。俺はさんの言葉を待ち、さんは断罪とも許しとも違う、自らの申し開きを必死に探す。
「ただの先輩なんだけど」
「うん」
 そうか、ただの先輩か。
「先輩にもちゃんと彼女いて」
「うん」
 それで彼女持ちと。でも、安心出来ない。
「本当に何の関係もなくて」
「うん」
 さんにはそういった気持ちなし。よし。
「冴木君、……本当に?」
 上目遣いで頬を朱くさせて、本当に妬いたのかと訊いてくる。そんな可愛い表情はあの男には見せたくない。
「うん、本当。めちゃめちゃ妬いてね、相手の男に手袋投げつけようかと思ったくらい」
「冴木君てば」
 さんは冗談だと思ってくすくす笑っているから、かなり本気なことは黙っておこう。言わなくてはいけないことは他にある。
「だから、ごめんね」
 声を改めて、さんに伝える。
「勝手に不機嫌になってごめん」
「ううん。私もごめん」
 二人で顔を見合わせて今度は心の底から微笑う。
「でも、冴木君にヤキモチ妬いて貰えるなんて嬉しいかも」
 さんはほんの少し頬を紅潮させて、照れ隠しのようにテーブルに置かれたカップに触れた。
「そう?俺、結構いつも妬いてるよ?」
「そんな風には全然見えない」
「それは努力です。実を言えば、さんには他の男と話して欲しくないし、笑いかけても欲しくなかったりするんだよね」
「冴木君、それはあからさまに無理」
 さんが可笑しそうに笑う。
「ん、だから、我慢してる。本当は会社にだって行って欲しくないし、満員電車になんか乗って欲しくないし」
「冴木君て、独占欲強かったっけ?」
「執着心は薄い方だったんだけどね」
 本当にさんに逢うまでは広く浅くだったこと、薄々分かってはいるだろうけど、決して言わない。それくらい大切でならない。
「そうよね」
さんの所為かな?」
「うーん、でもそれはちょっと嬉しいかな?」
「そう?」
「そう。でもね、それって全然要らない心配だって知ってた?」
 悪戯っぽく瞳を輝かせると、勿体ぶってさんは一度言葉を切った。
「だって、冴木君が傍にいるのに他の人に目なんか行く訳ないじゃない」
 ちょっと自慢そうに告げるさん。本当に判っていない。今の言葉は俺への讃辞ではなくて、超弩級の殺し文句だ。このまま抱き締めてしまいたい。
 口に手をやって、緩む口許を隠す。もう、さっきの男なんて、どうでも良くなっているのは、自分でもゲンキンだと思う。
「それは誘い言葉と取って良いのかな?」
「え?」
「折りしも今日は金曜だし、明日の予定は俺だしね」
「え?なに?冴木君」
 にっこりと、下心いっぱいの笑みでもって告げる。
「今日のこの後の予定は全てパスして、さんの家にお送りしましょう。それとも俺のところが良い?」
「冴木くんっ!」
「うん」
 意図するところを悟って、焦ったように名前を呼ぶさんが可愛くてならない。とっておきの声と笑みでさんに囁いた。
「だから、今日、逢ってから今までの分、埋め合わせさせて」
 俺はさんがちょっと拗ねながら、首を縦に振るのを確信しながら待った−−。





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今回はヤキモチ冴木さん。元々は淡泊で執着心、薄い人だと思うんですよね。あ、碁は別で。そんな冴木さんに妬いて貰いたいな、と。
またしても甘々です…。                      20031115

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