アンケートのお礼に……
 ほんのりよりももう少し、いつもより上気した頬に潤み目で、さんが俺を見上げてくる。右手と左手で繋がれた互いの距離から、柔らかい体温が感じられて、このまま攫って帰ってしまいたくなる。
 それなのに、彼女の可愛い口は困ったように結ばれているのだった。

 仕事の都合でこの二週間というものすれ違いばかりで、やっと週末の二日間を確保出来たかと思ったら兄弟子からの仕事が回ってくるし、耐えきれなくなった俺は無理を言って出張帰りのさんに夕食の約束を取り付けた。
 となれば、美味しいものをご馳走したいから、ちょっと奮発をしたお店を選択した。そういうところはさんは聡いから、気を遣わないで良いのにと口にしながらも嬉しそうに笑ってくれた。久し振りのその笑顔にしみじみと、自分がさんに首っ丈なのを再確認した。
 逢えて嬉しかったのは多分二人ともで、離れがたくて食事の後も店を重ねた。

 バーカウンターで、二杯目のカクテル−−ホワイトレディも残り少しなった時、さんが溜息を吐いた。
「−−これを飲んだら帰らないとね」
「まだ終電までは時間があるのに?」
「冴木くん、明日の朝、早いんでしょ?」
「少しだけだから、大丈夫だって」
「駄目です」
「寝過ごして遅刻なんてしないから」
「そういう問題じゃなくて、冴木くんは自分の腕一本の世界の人だから、お仕事には万全の体調で行って欲しいの」
 さらりと口にされた殺し文句は自覚あってのものか、そうでないのか。見極めは難しいけれど、朱く艶めく口唇から、おそらく無自覚なのだろう。俺は諸手を挙げて、降参した。
「了解。さんの仰せの通りに」
「うん」
 そう言って微笑ったさんは何処か艶めかしくて、やっぱり確信犯なのかもしれないと訂正した。

 バーの二階から先に立って階段を下りきり振り返ると、あと二、三段で地上という所で手摺りに手を掛けて、さんが悩める顔をしていた。
「どうかした?」
「えーと、ちょっとばかり、飲み過ぎちゃったみたい」
 苦笑を浮かべて軽く口にしているけれど、残りの階段を下りる足許はいつもより頼りない。
「大丈夫?」
「あ、大丈夫は大丈夫。ただちょっと真っ直ぐ歩くのに集中力が必要なだけ。あーあ、失敗したわ」
 左手に持っていた彼女の出張用ボストンバッグを右手に持ち替えると、目の前に立った彼女の頬に空いた手で触れる。紅潮した頬は指先に熱を移した。見上げる瞳はいつもより水分が多く見える。くらりと欲が眩暈のように襲ってくる。柔らかい皮膚が掌に吸い付くように感じるのは錯覚だと言い聞かせる。
「どこかで酔いを覚まそうか」
 何でもないように頬から手を離すと、彼女の右手を取った。いつもと違って僅かばかり重心が俺に寄ってくる。
「ううん。本当に大丈夫だから、帰りましょう」
「こんな状態のさんを一人でなんか帰せない」
「あはは。心配性ね、冴木くん。この位は良くあることだし、本当にちょっとだけなんだから大丈夫よ」
「じゃあ、送っていく」
「それは駄目」
さん」
「それは私が自分に課した決まりに触れるから、駄目」
「それを言うなら、さんが危ない目に遭う可能性を排除するのは俺の役目だから、譲れないけど?」
「冴木くん」
「なに?」
 にっこり笑って、退かないことを表明する。
「……なら。取り敢えず、駅まで歩いて行って、その時の状態で判断してちょうだい」
「了解。それじゃあ、行きましょう」
 手を繋いだまま、駅に向かってゆっくりと歩き出した。

 ゆるりとした速度で歩くと、人波に飲まれては取り残されてを繰り返し、雑踏の中なのに二人きりのようだ。行き交う人の邪魔にならないように、なんていう気配りはどこかに消し飛んでいて、繋いだ手と左側の温もりだけに意識が向かう。いつもは一足運ぶ度に触れる彼女の肩が、今日は俺に寄り掛かるようにして触れている。
 このまま彼女を帰したくなんてなかった。
 改札の前まで辿り着くと、柱の陰に寄って、さんの顔を覗き込んだ。
「−−大丈夫。一人で帰れるわ」
「駄目。送るから」
 彼女の可愛い口は困ったように結ばれる。
 ほんのりよりももう少し、いつもより上気した頬に潤み目で、さんが俺を見上げてくる。右手と左手で繋がれた互いの距離から、柔らかい体温が感じられて、このまま攫って帰ってしまいたくなる。
「だって、ちゃんと真っ直ぐに歩けてたでしょ?降りる駅を乗り過ごすなんてことしないし」
「顔が朱いし、目が潤んでいる」
「……そんなの。外見だけのことだし、鏡がない電車の中では関係ないでしょう」
「関係あるって!」
 周囲の視線を集めているのに、それに気が付かないのはさんだけという最悪の状況が有り得そうで、絶対にこのまま帰せない。
「家まで送る」
「一人で帰る」
 二人で睨み合うようにして黙る。
 どうやって納得させようか、思考を巡らせている内に、さんが小さく、降参と両手を挙げた。
「冴木くんの強情には負けたわ」
「じゃあ−−」
「近くの喫茶店で酔いを醒ましてから帰ることにするわ。冴木くんが心配しないくらいまでちゃんと醒ますから、それで譲歩して」
 上目遣いに困ったようにお願いされて、譲歩しないでいられるくらいなら、こんな押し問答が発生する訳もなく、俺は敢えなく陥落した。

 温かいカフェインを摂って酔い醒ましをすることにし、駅ビルの最上階にあるカフェへ向かった。最上階までノンストップのエレベータの乗客は、神様の計らいで俺とさんだけ。
 繋いだ手を僅かに引いて、俺は身を屈めた。何の警戒もなく顔を上げるさんにキスを一つ落とす。驚いて目を見張る彼女にもう一つ、今度は深く口唇を合わせる。
 二週間ぶりのキスは甘くて、そしてレモンの味がした。ファーストキスみたいだと心の内で苦笑する。純白の淑女から奪うキスはいつでもファーストキスの味なのかもしれない。
 エレベータの速度が落ちるのを感じ、名残惜しさを抑えて彼女の口唇を解放した。恥ずかしげに俯く彼女の耳が朱くなっているのが可愛くて堪らない。
「こんなに速くなくて良いのに」
 ドアが開いて、先に歩き出したさんが前を向いたまま囁いた。
「……うん。そうね」
 その簡単な言葉は、恥ずかしがりのさんは普段、絶対に示してくれない感情で、俺は思わず、彼女を腕の中に引き寄せてしまった。
「冴木くんっ!」
「うん。久し振りって結構良いかも」
「私は嫌。冴木くん、恥ずかしいことするんだもの」
「それは諦めて。さんの所為だから」
「諦め切れません!」
 さんはより一層、頬を紅潮させて俺を批難した。

 結局、カフェにいる間中、さんは拗ねてしまって、そのお陰かすっかりアルコールの酔いは醒めたようだった−−。





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アンケートのお礼に書いていたのですが、間に合わず、こんな形になってしまいました。お答え下さった方、みなさんがここまで立ち寄って下さっていればいいのですが。
その前に、こんな話でお礼になっているのかが疑わしいのですけれど(沈黙)。
いつも拙サイトに色々お心くださっている方々に感謝を込めて……。
                                     20041101

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