伊角は会場に続くエレベータの前で隠しようもない溜息を一つ吐いた。無機質で綺麗なビルのエレベータホールには、本日催されるイベントの名前が会場の階数と共に掲示されていて、伊角の手の中にある小さなメモと共に、彼が行くべき先を告げていた。
九星会の先輩である桜野にお願いと頼み込まれ、断れずにここまで来たが、こういったことが不得手である伊角は、何が何でも断るべきだったと早くも後悔していた。いや、後悔なら、頷いた瞬間からしていたのだが、色々と世話になっている桜野の頼みを断れる道など、仕事が入らない限り、殆ど無きにも等しかった。その喉から手が出るほど、欲しかった仕事も天から恵まれることはなく、土曜の午下がり、伊角は指定時間の十分前に会場の一階に着いた。
伊角はもう一度大きく溜息を吐くと、自分の意思でもって了承したのだからきちんと役目は果たさなくてはと悲壮な決意をし、上階へ行くボタンを押した。
「−−あれ、伊角?」
後ろから聞いたような声で名前を呼ばれ、伊角は驚いて振り向く。
「……冴木さん」
院生時代から仲の良かったライバルであり友人でもある和谷の兄弟子で、前から和谷の延長とはいえ、何かと伊角のことも気に掛けてくれていたプロ棋士の先輩、冴木が意外そうな表情をして自分を見ていた。
「お前も、女史の合コン?」
「あ、え、冴木さんも、ですか?」
改めて伊角が冴木を見ると、堅すぎず、砕けすぎず、雑誌で見掛けそうなセンスの良い服を身に纏っている。棋院で見掛ける時はまた違った雰囲気で、成る程、和谷が言っていたように自分達には縁の無さそうな方面に強そうである。それはつまり桜野の得意とする方面と一致するのだが。
「そう。お気に入りの伊角まで駆り出されているとしたら、今日は男の人数、足りなかったんだな」
“お気に入り”という言葉には同意は出来ないが、人数が足りないというのは事実なので、伊角は何と答えようと逡巡して、それから無難な方を選んだ。
「どうしても一人足りないって言っていました」
「で、伊角の登場か。大変だな」
「はあ……」
憐憫を含んだ眼差しで労られ、はい、と答えようもなく、伊角は曖昧な返事を返したところ、エレベータの到着チャイムが鳴った。
「ほら、乗るぞ」
「あ、はい」
会場の11階を躊躇なく冴木が押すのを、伊角は地獄の宣告を受ける面持ちで見詰める。
「なに、そんな悲愴な顔してんだよ」
「冴木さんは慣れているから良いかもしれませんけど、俺はこういうの苦手なんです」
今日一日で幾つの幸せを逃したか判らないほど吐いた溜息を、伊角はもう一つ、増やした。
「慣れ、ねぇ」
「……って、冴木さん!良いんですか!?彼女はこのこと知っているんですか!?」
この場に冴木が居る可笑しさにすぐ気が付いても良かったのに、冴木があまりにも自然に振る舞っているので、惚けたことに伊角はこの時になって気が付いた。
「彼女って?」
「さんです!こんな合コンなんて出たら、さん、ショックを受けるんじゃないんですか?」
どうするつもりなのか、他人事ながら伊角は心臓が痛くなった。犬も食わない喧嘩をしたのだろうか。それとも……と伊角が心配を巡らせる。
「受けないよ。は彼女じゃないし」
「え……?」
さらりとした冴木の言葉と共に、エレベータは11階に着いた。伊角がその言葉の真意を問い返そうとすると、早く降りるよう促される。そのまま、受付へと流れていってしまい、伊角の頭の中には疑問だけが残された。
『さんが彼女じゃないって−−』
それではあれは何だったのかと、伊角は先月のことを想起した。
数えれば片手で足りる回数しか訪れたことはなかったが、駅からの道順は割に覚えていた。駅から徒歩十分の距離にあるマンションが、改札の出方とその後の方向さえ間違えなければ、迷わずに行き着ける簡単な道筋にあることも大きな理由だが、伊角は何故かこの道を良く覚えていた。
そんな立地の良いマンションに住むのは友人の和谷ではなく、その兄弟子である冴木だ。
伊角が何かの折に話したマイナーな映画のビデオが手に入ったから見に来ないかと、冴木から和谷経由で誘いがあったのだ。同じ門下でもなく、接点の少ない伊角の漏らした取るに足らない話まで覚えていて、こうやって場を作ってくれる冴木の面倒見の良さに、伊角は尊敬の念を抱かずにはいられなかった。自分のことだけで精一杯で、伊角には到底、真似出来ない。そんな兄弟子がいる和谷をほんの少し羨ましく思ったりもするが、その分、苦労もあるのだろうと伊角は自分を無理矢理、納得させる。
マンションが視界に入り出した頃、自分の前を同じように駅から歩いている人影に気が付いた。後ろ姿に見覚えがある気がして思考を巡らすと、呆気ないほどすぐに思い当たる。先程、駅の混み合う改札前で、伊角を列の中に入れてくれた女性だ。顔の造作までは覚えてはいないが、口許に浮かべた小さな笑みが白い花のようだったと、伊角は思い返す。
見るともなく前方の彼女を視界に入れて歩く。あと僅かな冴木の家までの道程を、彼女を追い掛けるようにして辿った。ちょうどマンションの前に彼女が差し掛かり、ここでお別れだと少しだけ残念に思った時、エントランスから和谷の姿が現れた。
「−−和谷くん、久し振り」
「久し振り、さん」
いきなり始まった会話に、伊角は呆然と立ち止まった。
冴木の家に上がって紹介された彼女は件のビデオの持ち主とのことだった。
「です」
「あ、伊角慎一郎です。今回は、えーと、有難うございます」
駅で覚えていたのは印象ばかりで、改めて対峙すると何を言えばいいのか判らなくなり、ありふれたお礼の言葉を頭に浮かぶのみだった。
「でも、珍しいのね。この映画、本当にマイナーなのに」
「この監督の静かで淡々とした映像が好きなんです」
「伊角くんは、ああいうのが好きなんだ」
「ええ、まあ」
通りすがりの人と知り合いになることなど、伊角にとっては初めてで、外見と実際に話してみての違いに驚いた。と言っても、良い方の驚きで、のさっぱりとしたところは女性があまり得意ではない伊角にとって話しやすかった。
「趣味が合って嬉しいなぁ。光二くんなんか少しも興味を示さないのよ。和谷くんも守備範囲外だろうし」
「えー、さん。俺、苦手な映画?」
「というより、お前は寝るな、絶対」
「ひどいよ、冴木さん。そんな断言」
「まあ、見てからのお楽しみ、かしらね」
はバックから出したテープを片手に、テレビ台の下に設置されているビデオデッキへと向かった。慣れた手つきでテープをセットするとテレビを点け、用意を整える。ダイニングチェアに座っている面々を振り返ったのを合図のように、みんなソファへと移動をし始めた。
伊角がソファの端に座ろうとすると、冴木にお前はここ、と真ん中に座らされる。端で充分だと立ち上がろうとするのを難無くいなされて、伊角はそのままソファに座った。
リモコンを持ったがソファの背を回り、伊角のすぐ脇に立つ冴木の側に来る。頭一つ分、冴木の方が高いんだと思ってから、伊角は僅かに顔を赤らめた。冴木との距離は十五センチあるかないかで、一般的には至近距離と言われる近さだった。
「は?」
「今日はいいわ。光二くん、たまにはちゃんと見てね」
首を緩く振ると、はリモコンを冴木に差し出した。冴木は受け取った左手での額に掛かった髪を掻き上げた。
「努力はする。パソコン脇に資料積み上げてるけど、退けて良いから」
「Thank you。有難く、お借りします」
一瞬、冴木がの額に口接けたように見え、伊角は小さく息を飲んだ。見てはいけないものを見た気がして、伊角は自分の顔が熱くなるのを感じた。今更のように目を逸らし掛けた時、こちらを見たと目が合ってしまった。
「それじゃあ、私は席外しているけど、気にしないでね」
「さん、見ないの?」
言葉を慌てて探す伊角の横から、和谷がに尋ねる。
「今日のところはパス。結構、長いから和谷くん、寝ないようにね」
「寝ないよっ!」
小さく笑いながらがリビングを出て行く姿を見届けると、伊角は小さく息を吐いた。左隣の和谷に視線を向けると、和谷が気が付いて伊角の方に身体を傾け、耳許でぼそりと呟いた。
「気にしない方が良いぜ。この二人、いつもだから」
もう少し早く教えておいて欲しいと思いつつ、伊角は小さく頷いた。
「伊角?始めて良いか」
冴木が隣に座りながら、伊角の顔を覗き込む。
「あ、はい。お願いします」
冴木がビデオを操作する中、今更のようにソファが三人掛けであることに思い当たったが、伊角にはもう誰に何と言えば良いのか分からず、砂嵐から始まる画面を見詰めるしかなかった。
画面に引き込まれていた意識がふと息を吐いた時に、伊角の目の前にグラスが置かれた。視線を動かすと、が隣の冴木の前に同じようにグラスを置くところだった。ちょうど喉を湿らせたい頃で、有難く思いながら伊角はグラスに手を伸ばした。そして画面に戻そうとした意識がふと引き止められる。潜めた声が伊角の耳朶を打った。
「……ちょっと、光二くん」
「座って」
「これ位、一人で見れるでしょ」
「」
「もう……」
視界の端を動くものがあり、それからソファが軋んで、伊角と冴木の間の空間が消滅する。伊角には触れないまでもすぐ傍にが座ったことは明確に感じられて、恐る恐る隣に視線を向けた。向けた途端、後悔が伊角を襲う。
は冴木に抱き込まれるようにして座っていた。
「いつまで経っても子供なのね」
「まあまあ」
「全く……」
二人の顔を伺うことも出来ず、すぐさま前へと首を戻したが、映画の音よりも二人の会話の方が耳に飛び込んできて、伊角は困ったまま画面を見詰めた。
冴木がこんな様を人前で見せるのは意外だったが、それだけが冴木にとって大きな存在であるということなのかも知れない。こんな熱々ぶりを目の前で展開されれば、冴木からは友人と紹介されたが、彼とは恋人同士であることは明白だ。気なんか遣わずにはっきり言ってくれればいいのにと、少し寂しく思ったが、それは冴木に対してなのか、に対してなのか、分からない曖昧なもので、伊角はそっと溜息を吐いた。 ちらりと見た和谷は完全に眠りの世界に入っていて、伊角は恨めしく思いながら目の前の映画に専念しようと心砕いた。
「−−冴木さん。さんが彼女じゃないって、本当なんですか!?」
ドリンクを貰って空いている席に着くと、伊角は小声で冴木に問い質した。
「どうした、伊角?すごい剣幕だぞ」
「すごくなんてないです。それより、話を逸らさないで下さい」
「まあ、長い付き合いだけど、そういう意味で付き合ったことはないな」
「そういう意味でって……」
「もしかしてに惚れた?老婆心ながら言うと、止めた方が良いぞ。あの外見からは想像つかないだろうけど、伊角とじゃあ、歳が一回り以上違う」
「え?」
冴木の突拍子もない言葉に、伊角は毒気を抜かれたように声を漏らした。
「冴木さんと同じくらいじゃないんですか?」
「違う、違う。は俺の中学校に教育実習で来たんだから、俺よりずっと年上。っと、俺がの歳をばらしたことは内緒な」
悪戯っぽく笑う表情に伊角はただ頷くしかなかった。自分の頭が混乱しているのが、よく判る。は自分より十は年上で、冴木とは付き合っていなくて、それでも友人と言うには親密すぎる気がして、伊角は何と言っていいか分からないまま、冴木の顔を見遣った。
「俺との心配より、伊角は自分の心配をした方が良いんじゃないか?」
冴木は和谷にやるように、伊角の髪をくしゃりと掻き回した。その感覚は柔らかく、和谷がくすぐったそうに首を竦める気持ちが、ようやく伊角にも判った。それと同時に気が落ち着いてくる。
「俺の何の心配をするんですか?」
「今から二時間をどう乗り切るか、だろ」
「あ……」
「仕方ないな。骨は拾ってやるよ」
楽しそうに笑った冴木を伊角は恨めしく見詰めた。
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