所在不明な理由 +++++ 7 | |
† 結局、御飯はイタ飯に落ち着いて、近くのそれなりに美味しいお店に入った。二人でアラカルトを分け、ハーフボトルのワインを空けた頃には、そんなに飲んでいないのにアルコールが回って、頬が熱くなっていた。 「大丈夫?さん」 心配そうに覗き込む冴木君。 「うん。大丈夫」 ちょっと頬が火照ってるだけで、酔っている訳ではない。うん。酔ってない。ちょっと疲れているのか、回りが良いだけ。デザートのパンナコッタを口に運びながら、冴木君を見る。 本当に格好良いよね……。 久し振りに会った冴木君は前よりもずっと精悍に見えて、じっと見つめてしまう。 「なに?さん」 「何でもない」 首を振って、笑って誤魔化した。何時もだったら、そのまま『冴木君が格好良いから』って思ったことを口にしているのに、今は何故だかそれが出来なかった。前と変わらず、冴木君と一緒に居ると楽しくて、居心地良い。 冴木君は少しだけ眉根を寄せて、困ったように口許に笑みを刻んだ。そんな表情も好きだなぁと見惚れる。 他愛ない会話を交わして、お店を出る頃になっても、私の頬は熱いままだった。 「さん、今日は送ってくよ」 「ありがとう。でも大丈夫だから、心配しないで」 心配して冴木君が申し出てくれたけど、本当に足元だってしっかりしていて大丈夫だから、とんでもないと手を振ったら、柔らかい笑みで柔らかく言葉を重ねられた。 「ん、でも、俺が送りたいだけだから、送らせて」 その物言いは、ずるいと思う。性別の違いを利用するような甘え方はしたくなんかないのに、そう言われたら、無下に断れない。冴木君はそれを知っているに違いない。悔しくなって、足掻いてみる。 「でも、まだ終電には間があるし、明日も冴木君、お仕事でしょう?早く帰って休まなきゃ」 「俺は明日は一日お休み」 「え?そうなの?」 「そうなの。だから気にしないで送らせて」 一転して今度はにっこりと擬音がつきそうに笑って、冴木君は私の使っている路線の駅に向かいだした。なんか良いように丸め込まれた気がするけれど、本当は一緒にいる時間が長くなるのは嬉しいから、強く大丈夫だって断れない。 「……じゃあ、ごめんね。お願い」 後ろから追い掛け、横に並んだら、彼はくすくす笑っていた。 「なに?」 「さん、『ごめん』て口癖だよね」 「そうかしら?ごめ……あ、」 冴木君の笑い声が大きくなった。 「初めて会った時も何度も謝ってたし」 「そんなこと、したかしら?」 したした、と冴木君は楽しそうに言う。そんな恥ずかしいことを初対面でしていたかと、アルコールで朱くなっている頬を押さえて考えた。隣を見上げると笑う冴木君と目が合う。その楽しそうな笑みに、まあいいかと、私までつられて笑った。 結局、最寄りの駅どころか、家の前まで送ってもらって申し訳なさにいっぱいになった。 「ごめんね。こんな所まで送ってもらっちゃって。本当に明日お休み?」 「ちゃんとお休みです。さんは心配性だなぁ」 マンションのエントランスの落ち着いた光の中で、立ち止まる。ここからはもう、部屋まで一分掛かるか掛からないか。 「だって。あ、上がって珈琲でも飲んでいって。珈琲はインスタントしかないんだけど」 このまま返すなんて、申し訳なくて出来ない。珈琲は普段飲まないから、お菓子を作る時用のインスタントしかないのだけど、一休みの足しにはなる筈。案内するように先に立って歩き出そうとすると、冴木君は首を振った。 「さんは明日も仕事でしょ?俺のことはいいから、早く休んだ方が良いよ。今日も寝不足だったんじゃない?」 確かに、昨日はなかなか寝付けなかったし、それがワインが回った敗因かもしれないけれど、今日は気分が良いし、この時間ならまだまだ平気だ。 「そんなの。今から家に帰る冴木君に比べれば。四階だから、上がってって」 「さん」 冴木君が困った顔をして、それでも声を改めて続けた。 「一人暮らしの部屋に男を上げちゃ駄目だよ。それもこんな時間にね」 「え、でも冴木君だし−−」 思いも掛けないことを言われて、とまどった声しか出せなかった。 「さん」 冴木君は窘めるように私の名前を呼ぶ。 「……」 「信用してくれてるのは嬉しいんだけど、一応、俺も男だからね。用心するに越したことないから」 「冴木君……」 優しいけれど感情の見えない音色でそう言った後、冴木君は小さく口許に笑みを掃き、それから表情を消した。その横顔に声を失くして、私はただ彼の顔を見つめた。 ゆっくりと二人の距離を一歩まで狭めて冴木君は立ち止まった。片手をあげて、肩口で迷うように閉じると元に戻し、僅かに身をかがめて、私の左耳に音を落とすようにして囁いた。 「お休み。さん」 私はそのまま、踵を返した冴木君の背中を見送ることしかできなかった。 ヘッドボードに上半身をもたれかけ、ベットの上に足を投げ出す。ベットサイドの時計を見ると、零時をまわっている。眠気が全く催してこないのに、溜息を吐いて枕を抱えた。昨夜も睡眠が少なかった筈なのに、全く眠くならない。 頭を枕に落として目を瞑った。昨日はマニキュアを塗ったり、着ていく物を何度も確かめたり、そんなことが思いの外時間を取ってしまって眠れなかったのだ。でも、今日は違う。身体は疲れていて、あとは寝るだけなのに眠れないのだ。眠ろうとすると彼の顔が思い浮かぶ。そして今日の自分が過ぎる。 珈琲屋に足を踏み入れた途端、視線があった冴木君に、自然に笑みが零れた。笑みというより、嬉しくて仕方がないという全開の笑い顔を向けてしまって、すぐに恥ずかしくなった。どんな言葉よりも、その笑顔一つでどんなに会いたかったのかが分かってしまう、そんな表情を自分が作るとは思いもしなかった。それほど会いたかったのかと、心の隅で途方に暮れたけど、目の前の彼と話す方が大切で、そんな些細な思いはすぐに忘れてしまった。 一月振りに会っても冴木君に変わったところはなくて、なのに私一人だけが変わって浮かれたようだった。嬉しくて楽しくて仕方がなかった。この一月、鬱いでいた気持ちもどこかに消えてしまっていたことに、今の今まで気が付かなかったほど。 頭を一つ振り、ベットから立ち上がると、バックの中から貰った映画の前売り券を取り出す。 『人から譲って貰ったものだけど、さん観たいって言ってたから』 そう言って券を一枚、テーブルの上を滑らせると、もう一枚をひらひらと振ってみせ、一緒に行こうかって冴木君は悪戯っぽく笑った。私も誘おうと思っていた映画の前売りに、一も二もなく頷いて、そして、胸の動悸が速くなるのを意識した−−。 こうやって、冴木君のことを思い出すと胸の奥が痛くなって、泣きたくなる。この衝動には覚えがあって、その源を辿っていって……。苦しさのあまり、深く息を吐いた。 先週までの気鬱の原因も分かってしまった。今日の高揚した気分の原因も分かってしまった。こうやって眠れない理由も、いま、分かってしまった。 目蓋の裏が熱くなって、眼球を覆う水分が増えてくるのを感じて、急いで券を再びバック中にしまうと、電気を消してベットに横になった。 −−どうしよう。 ずっと恋愛対象じゃないと思っていた。仲の良い後輩のように区分していた。ちゃんと好きで付き合っている彼もいて、会ってて楽しい理由を気が合うからだと思っていて。そして、それはきっと彼も同じで。 なのに気が付いたら、会えなくて寂しくて、声が聞けると嬉しくて、彼の言葉に一喜一憂するようになっていた。付き合っているあの人よりも、彼のことを考えてしまう。 そんな風に、抜き差しならないくらい彼のことを好きになっていた。 何でかなんて分からない。いつからかなんて分からない。何処がなんて分からない。 理由なんて一つも分からないけど、冴木君のことが好きだった。 閉じた目の間から涙が滲んだ。 気が付いた途端、その恋が終わるなんてよくある話で、なのに胸が痛くて仕方がない。どんなに私が好きでも、冴木君は私を好きにならない。年上で、彼氏がいるだけで対象外だ。まして、いつの間にか彼氏よりなんて、そんな浮ついたことを言う相手に見向きなんかしてくれる筈がない。 止まらない涙に呆れる。泣いたって仕方がないのに、冴木君の隣にはきっと綺麗な女の子が似合うって解っているのに、どうしようもない痛みに胸が軋んだ。 胸が軋んで涙が止まらなかった−−。 |
やっと認めたヒロイン。 認めたら終わりって無意識に分かっていたのかもしれません。 泣きながら寝ると、朝、ひどい顔になっているんですよね。明日は早起きして顔を作らなくては。 20031025 |