数学・物理 100の方程式

act. 14

『茂門賀くん、こちらの方は』
言ってしまってから「これじゃ嫌がらせだ」と後悔したが、一旦口から出た言葉は取り消せない。彼の怒りを買うような真似はしたくなかったのに臍を噛んでいると、先ほどまでとは打って変わった冷静な声が返ってきた。
『ただの変質者です。すぐに帰らせますので』
これにはさすがに男も眉をしかめた。
『りく―――お前、当分俺の前に顔出すな』
『あほか! こっちの台詞だっつうの―――あでっ!』
すかさず怒鳴り返した彼の耳を花輪が引っ張りあげた。
『はい、終了』
『離せ!』
『離したら逃げるだろうが!―――んじゃ』
花輪が手を振ってみせると、男は了解したと答える代わりに手を挙げて、車に乗り込んだ。
そのまま車は走り出したが、角を曲がって見えなくなるまでの間、花輪はずっと彼の耳をつねりあげていた。
『さて、と―――りくちゃん、職員室行きましょうねえ』
『はあ?! なんで俺が』
花輪は無言で親指を立て、校舎を指し示した。つられて目をやると、職員室の窓から教師達が何人も顔を出していた。
『………判った。行けばいいんだろ。いい加減に離せよ』
ぶっきらぼうに言いながら、彼は花輪の手を振り払って校舎に向かいかけた。そこでまた出過ぎた真似をしてしまったのは、一応優等生で通してきた彼が古参教師達に叱られるのが忍びなかったからだ。
『あ、先生方には僕から言おうか』
何をどう言うあてもなく反射的に出た言葉に、彼の目が丸くなった。
『へ?』
きょとんとしたのはほんのわずかな間で、次の瞬間にはいつも通りの彼に戻っていた。
『いえ、結構です。偶然居合わせただけなのに御迷惑をおかけするわけにもいきませんし』
明るい笑顔を浮かべて頭を下げると、花輪の制服の袖を掴んでさっさと歩き出した。
『………りく、俺に御迷惑をおかけして申しわけないとは思わないのか』
『誰が今更。恨むんなら親父さん恨め』
『あー、もうっ!―――丸尾先生』
『あ、はい』
『関口先生には僕から説明しますので』
そのまま連れ立って歩き出した二人の後ろを数歩離れてついて行きながら、背後から聞こえてくる生徒達の会話に耳をそばだてた。
『俺、初めて見ちゃった! すんげえかっこいー!』
『だろ? やっぱいいよなー』
『ってか渋いわ、ホント。なんかもっとキラキラした感じかと思ってたんだけど』
遠ざかる声に、心の中で同意した。職員室を飛び出した時は、あの朝のように派手な美形が高価な外車で来たと思いこんでいた。彼も前と同じく軽くあしらうだろうとばかり。
予想と違う、年齢相応といった感じの国産車に乗った逞しい男相手に、彼は激しく怒った。
あの美形や自分に対する、どこかふざけたような態度は微塵もなかった。
………いくら鈍くたって判る。あれが本命だ。
自分といる時にふざけて見えるのは、こちらが必死なのに対し向こうが余裕たっぷりだからだろう。いつ切れても構わないと思っているか、本気になんてなれないか―――どのみち同じことだけれど。
逆に、男の方に余裕があった。彼の御機嫌を伺い続けるどころか、はねつけさえしたのだ。
彼があんなに怒っているのにさっさと帰るなんて、自分にはとてもできない。それ以前にあそこまで自分に怒ってくれること自体、ありえないのだが。別れを告げられてなおしつこく追いすがったらさすがに怒鳴ってもらえるだろうか―――むしろ不思議がられるかもしれない。たった今、そうされたように。
自分が口出しするなんて思ってもみなかったのだろう。驚いて、そしてあっという間に取り繕った彼の表情を思い出すと涙が出そうになる。
「お前には関係ない」だの「出しゃばるな」だのと怒鳴りつけてもくれなかった。完璧に部外者扱いだった。
こんなに好きにさせておいて―――と言いたいところだが、好きになったのはこちらの勝手だ。彼をなじっても困惑させるだけだろう。首をかしげる姿が容易に想像できてしまう。
ある程度気持ちを傾けてもらったならともかく、最初から遊びだと判りきった上での、体だけの付き合いなのだ。彼が飽きたらそこでお終い―――それが二人の間の不文律。
判っていたつもりだったのに、少しずつ思い上がっていた己に気づいて恥ずかしくなる。
どうしてこんなに好きになってしまったのか。目の前の背中をいくら見つめても判らない。
本来の自分の好みを挙げれば、先ほどの男こそがぴったり当てはまる。増量を主目的とし
てついた筋肉ではなかった。逞しくはあるがわざとらしさのない、素晴らしい体だった。
彫りの深い端正な顔立ち。筋肉馬鹿でもなさそうだった。年は自分より少し上だろうか。
あの彼をすっかり子供扱いしてしまう落ち着きぶりは年齢とはあまり関係なさそうな気もするけれど―――以前なら間違いなく一目惚れしていただろう。夜になったらいそいそとベッドに潜り込み、あの逞しい腕に抱きしめられたいと思いながら自慰に耽ったはずだ。
今は違う。抱きしめて欲しいのは前を歩いている小柄な少年ただ一人。あの男を思い出しても、胸に込み上げてくるのは淫らな妄想ではなく、どす黒い嫉妬だ。
―――どんな風にあの男を抱いたのか、それとも抱かれたのか。
彼の肩を掴んで問い質す勇気はない。仮に勇気があったとしても、彼を独占する権利などはなから持ち合わせていない。
涙がこぼれる前に眼鏡を外し、そっと指先でぬぐった。
職員室に入ると、二人はまっすぐに関口の机に向かった。
『関口先生、申し訳ありませんでした―――いたっ!』
殊勝に下げられた彼の頭を関口が出席簿ではたくのを横目で見ながら、こそこそと壁際に戻って作業を再開した。
もともとお気に入りの生徒なのだ。厳罰を食らうようなこともあるまい。
思った通り、それから始まったのは叱責には程遠い、からかいめいたものだった。
『そうかー、痛いかー。でも、パンジーちゃん達はもっと痛かったと先生は思うなー』
続けて数回叩かれ、閉口した彼が後じさりかけると、花輪が有無を言わさず押し戻した。
『あのね、サルちゃん。園芸部の活動目的は校内の緑化なの。サルちゃんのクッション整備じゃないの。そこんとこ、判ってる?』
そういえば関口は園芸部の顧問だったと今ごろになって思い出した。
『テスト明け―――そだな、月曜日の放課後にしとこう。二人で草むしりね』
『関口先生、二人って』
花輪が慌てるのを見て、関口が嬉しそうに笑った。
『花輪、きっちり見張れよ』
『………さいってー』
頭を抱える花輪の肩に関口の手が置かれた。
『おまえが首に縄つけとかないからだろ。りくちゃんもねえ―――彼氏とラブラブなのはいいけど、何も飛び降りなくてもいいじゃん。しかも学校の前で痴話喧嘩までしちゃって』
驚きのあまり勢いよく振り返ってしまったが、職員室の空気は至ってなごやかだった。
他の教師達は顔を見合わせて苦笑するばかりで、慌てているのは自分だけ。
生徒の同性交遊に関して、良く言えば寛容、はっきり言ってしまうなら無責任に放置する学校だと承知していたつもりだったが、まさかここまでとは―――。
肩をがっくり落として向き直り、不採用の付箋が貼られたサンプルを乱暴にダンボール箱へ放り込んだ。教師である自分と彼との関係がばれた日には、さすがに誰も笑ってはくれないだろうと思うとやりきれなくなる。男との関係を詰問された挙句に処分されたらと案じつつも、以後二人が気まずくなるのを期待していた自分のいやらしさにも腹が立った。
こんなことはあの二人にとって何でもないだろうに。
これしきのことで終わってしまうような間柄でもあるまい。次に会った時に、何事もなかったかのように平然と言葉を交わす二人の姿が目に浮かぶ。
いつ笑顔で切り捨てられるか知れたものではない自分なんかとは、何もかもが違うのだ。

あの日以来、何度も夢に見た。しがみつく自分を微笑みながら突き飛ばし、まっすぐに男の下へと彼が走る。そして二人は抱き合い、こちらに見せつける意図もなく、ごく自然にキスをして―――そこから先は、いくら夢とはいえ思い出したくもない。
夜着が重くなるほど汗をかき、自らの泣き声で深夜に目を覚ました。また同じ夢を見るのが怖くて、そのまま枕を抱えて朝を待った。

―――どうしてこんな辛い夢を見なくてはならないのか。
身の程ならわきまえている。どうあがいても彼の特別にはなれない。その他大勢で構わないから少しでも長く傍にいたい―――ただそれだけなのに。

かすかな空気の流れを素肌に感じて振り向くと、タオルを肩にかけた彼が部屋に入ってきたところだった。
「起きてたのか」
「あ………携帯が………」
口篭もって服を指差し、着信があったことを知らせる。
「そんで目が覚めちまったのか。悪かったな」
上着から携帯を取り出し、履歴を確かめるのを見て、ごそごそとベッドから降りかけた。
「―――ん? どした?」
「向こうの部屋に行くから、気にしないで掛けて」
「あのなあ、聞かれたくなかったらこっちから出てくって―――も少し寝てろ」
他の男との電話なんか聞きたくないのだとも言えず、彼に促されるまま再び横たわる。
腰を下ろした彼に頭を引き寄せられ、膝枕をしてもらう格好で上を見た。
電話を掛ける彼の喉元に目をやり、痕を残してやろうかと思ってすぐに諦める。
「あ、俺。何?」
それで通じる相手が憎いと嫉妬に駆られ、着信番号で判るのではと思い至って落ち込んだ。
こと彼に関する限り、自分の知能は著しく低下する。
「ああ、そうだけど………始まってからすぐだったと思う。十五分位で戻ってきて交代したんじゃなかったかな―――てか、なんで俺に聞くよ。本人に聞けよ、どっちでもいいから―――あぁ?………御愁傷様。今度オカズ差し入れしてやろうか―――何だよ、俺のお宝ビデオにケチつける気かよ―――アホか、“こんな子いるかな”は不朽の名作だぞ」
自分以外の人間と楽しそうに話す彼を見たくなくて、そっと頭の向きを変えて目を閉じると、彼の手が下りてきてそっと髪を撫で始めた。たったそれだけのことなのに“電話の相手が誰であれ、現在彼の傍にいるのは自分なのだ”と嬉しくなってしまう。
「んじゃ、またな」
しばらく話し込むかと思っていたのに意外と短く終わった電話に、膝枕もお終いなのかと少しがっかりした。
「おい、寝ちまったのか?」
「………ううん、起きてる」
寝たふりをして引き止めたいけれど、明日も学校がある。週末来てくれるかどうか知れたものではないのにとしぶしぶながらに目を開けたら、まともに視線がぶつかった。
ずっと見られていたのかと羞恥に顔を赤らめたが、続く質問に甘い気分もたちまち消えた。
「俺らのクラスの数学の試験監督、自分がやったって言ったんだ?」
なぜそのことを知っているのかは、すぐに彼の口から明らかになった。
「今の、浜崎。お前から聞いた後に監督の表見たら小杉になってた、小杉はあの日出勤してたはずなのになんでだって。交代したなんて初めて聞いたっつってたな」
「………勝手に代わったら、駄目だったんだ」
「単に浜崎が過保護なだけだろ。それで時間が足りなかったんじゃないかって心配してた」
おみそ扱いで試験監督を割り振られずにすんだのに急遽代役を務めたのは、本来の試験監督である小杉が呼び出された所にちょうど居合わせたからだ。印刷の不具合で読めない箇所がないか確認するため各教室を回り終え、再び彼のクラスの前を通りかかった時のことで、頼まれて十五分ほど代わりを務めた。
小杉が謝罪の言葉を連発するのを怪訝に思いながら、彼を眺める時間が増えたと喜んで引き受けた。文系クラスは前の時間に終わっていたし、その分を採点する時間が削られるのを案じてくれていたというのに。おめでたすぎる。
「まあ、浜崎の気持も判らんでもないけどな。お前、遅そうだし」
図星を突かれて言葉に詰まった。たった十五分くらいと言い返すことはできない。
そういう甘い考えと自分勝手な判断が、今日まで採点を引き伸ばしてしまった。
「うん………でも、なんで僕じゃなくて君に」
「お前に聞くと気に病みそうだから止めたんだと。俺より先に小杉に電話してみたら話をする前にはねつけられたってよ。“九時以降はワイフとのラブラブタイムだから明日でも構わない話なら断る”って」
「いくら浜崎先生と仲がいいからって、そこまで言わなくても………気の毒だよ」
小杉のところが至って夫婦円満なのは自分だって知っている。対して浜崎の方は女の気配が全くない。一応毎日替えているようだが皺だらけのシャツ、ものは悪くないのに上下の組み合わせがでたらめなスーツに身を包む彼は『いい人なんだけど』で片付けられてしまう典型だ。そんな浜崎は、しばしば妻帯者の関口や小杉に『独り者』とからかわれている。


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