数学・物理 100の方程式

act. 11

「丸尾先生、来てすぐに永沢先生に何か言われたでしょ?」
「ご存知だったんですか」
「永沢先生の性格を、少しばかり。そんな子じゃないって僕から言うのは簡単でしたが、丸尾先生を混乱させたくなかったし、授業が始まれば判って貰えると思って。永沢先生の件は生徒達も怒ってましたから、今度何かあれば職員室にすぐ来るだろうし………去年は、小テストまで茂門賀君が余計なこと言うなって全員に口止めしてたそうなんです。そこで花輪君が黙ってたのが解せないんですけどね。逆らえないってわけでもないし。親友の頼みだったからかもしれませんが………彼が堪りかねて直訴してくれたおかげで明るみに出ましたが、でなけりゃどこまでエスカレートしたか」
「逆らえない、って」
「だって、あの顔で頼まれたら大抵の男は聞いちゃうでしょう」
明るく笑う山根に、彼もまたここの卒業生だったのを思い出した。
「それと茂門賀君には一昨年卒業したお兄さんがいるんですよ。凄く人気があったんです」
山根によると彼の兄は中等部・高等部いずれにおいても生徒会長を二期連続で務め、内部進学者なら上下五年に名が知れ渡った有名人で、いまだに在校生に影響力があるらしい。
「外の大学行っちゃったけど―――ああ、丸尾先生の後輩ですね」
そこで山根は言葉を切って立ち上り、両腕を伸ばした。
「こっちもこっちで頑張ってますが、生徒の方でもちゃんと見てくれてます」
―――だからお前も永沢を見張れと言いたいのか。発覚した件は処分を下すほどでもないというのが学校側の見解で、決め手になるような重大事をしでかすまで警戒し続けろと。
「納得いきませんよね」
すぐには動かなかった自分の肩に山根の手がかけられた。急いで立ち上がり、扉を目指す。
「すみません、すっかり遅くなってしまって」
「長話したのはこっちですよ。あ、そうそう。永沢先生の伯父さん、ここの理事です」
さらりと言ってのけた山根の表情は、辺りが暗くなりかけていたため良く見えなかった。
「それで永沢先生は何の処分も受けずにすんだんですか」
「二回とも、しっかり横槍が入りました。僕が同じことしでかしたら、間違いなくクビでしょうけどね。授業中の暴言に関しても生徒の証言が多々ありましたし」
「でも、そんな、いくら決定的な証拠がないからって、成績の改竄までしようとしたのに」
「丸尾先生、僕達が腹を立ててないと思わないで下さいね」
「………すみません、言い過ぎました」
「いえいえ。実際、ろくな縁故もない一介の教師なんて無力なもんですし―――あーあ、永沢先生はいいよなー。伯父さん理事で、お父さんの従兄弟は蕾銀行の副頭取だもん」
茶化した言い方で永沢の背景を語る山根は、昨年度どんな想いで彼を見守り続けたのか。
「蕾銀行がメインなんですか」
「他とも付き合いあるし特にメインってのはないみたいです。でも今、私学はどこも経営厳しいから。名門と言われてるとこでもね―――銀行さんにはいい顔しておきたいでしょ」
階段を下りる山根の背中を見ながら、昨年度彼が担当していた生徒の総人数を思い浮かべて溜息をついた。彼もまた、浜崎と同じ本物の教師なのだ。
自分だったら彼の答案を守るのに必死になり過ぎて他の生徒のまでは手が回らないだろう。
「―――こんなややこしい話、しなくて済めばよかったんですけど」
つい洩らした溜息を山根に誤解されて気遣われてしまい、話題を変えようと試みた。
「山根先生は、どうして教職についたんですか?」
唐突な質問だったが、あのまま永沢の話が続くよりはと思ったのだ。山根も同じ気持ちだったのか、すぐに答えてくれた。
「他になかったんです。理論系でIT関連避けようとするとロクなとこないでしょ。たまにあったかと思うと、よくよく見ればやっぱりシステム関係の部署だったり―――そんなの成績悪い奴だけだってのは言わないで下さいね」
山根はさばさばとした物言いで、決して教職が第一志望ではなかったことを打ち明けた。
「親父が古い人間で、デモシカ教師なんて生徒さんに申し訳ないと思わないのかって叱られましたよ。僕自身、こんな奴が教えていいのかなーってビクつきながら母校に出戻りしたわけで―――そこで他の学校に就職できなかったあたりがまた情けないんですが」
職種も勤務先も、揃って不本意な就職だったということらしい。しかし山根が生徒に対して極めて誠実なのは、今日の話を聞くまでもなく日ごろの彼を見ていれば判る。
「なんだかんだで三年目ですが、まだまだ慣れませんね」
「卒業してからだと七年経ってるんですよね。山根先生が教わったことがある先生って、今どのくらい残ってみえますか?」
「そうですねえ………僕が卒業してから戻ってくるまでに退職された先生って五人かそこらかなあ………最初のうちは恥ずかしかったですよ。昔叱られた先生達に『先生』って言われるんですから。関口先生なんか、それを判った上で用もないのに大声で何度も呼ぶし。教育実習の時もそうだったんです。ほんとに意地が悪いったら―――わっ!」
廊下を曲がったところで腕を組んで待ち構えていた関口に出くわし、山根は大声を上げた。
「意地が悪くてすみませんでしたねえ―――バスケ部、今日は六時半で終わりますってさ」
「いや、あの、わざわざありがとうございます。あ、今のは冗談ですから」
「冗談でも本人のいないところでそういうこと言うのって、どうかなあ」
「………勘弁してください」
「いやいや、感激したよ。偉くなったもんだ―――ああ、偉いのは昔からか。修学旅行の自由行動も凄かったもんな」
「せ、関口先生―――丸尾先生の前でそんな」
慌てふためいて関口と自分を何度も振り返る山根に、笑いながら手を振って見せた。
「僕は何も聞いてませんから。これからも聞きません」
「面白いのにー」
「面白くないです!」
肘をぶつけ合う二人に続いて、笑いながら職員室に入った。
山根が学生時代に何をやったかは知らないが、この先知ることになったとしても本人の目の前でだろうと思った。そういう人達なのだ。永沢についても言いたいことはいくらでもあったはずなのに、今日まで何も言わなかった。今日までずっと、自分が先入観を持たないように、永沢の手にも乗らないようにと気を配ってくれた。
みな、大人なのだ―――永沢と自分の二人だけが、幼稚なまま彼らに甘やかされている。
「しっかし、数学も満点は一人だけだったんだなあ」
関口はこちらを見ながら肩をすくめた。
「数学も、ということは物理もそうなんですね」
「ええ、りくちゃん一人です。平均点はそんなに低くなかったんだけど―――たまにああいう子がいるんですよ。何年かにいっぺんのご褒美って感じで」
「ご褒美ですか」
「だって楽だもん。ほっといても出来るし、こっちの遊びにもつきあってくれるし」
「関口先生、そういう言い方って教師としてどうなんですかねえ」
山根が先ほどの意趣返しとばかりに関口に絡みだした。
「できない子ができるようになるのは、ご褒美じゃないんですか、そうですか」
「ご褒美じゃありませんー。当たり前のことですー。それが僕らのお仕事なんですー」
関口は嫌味たらしく語尾を延ばして山根に詰め寄った。
「それとも山根先生は、できない子まで放っておいて『できるようになったらラッキー』って思ってるんですかー」
「ああもう、すみませんでしたっ!―――丸尾先生、僕、体育館行ってきます。まだ何かあったら」
「誰かさんと違って、丸尾先生はもう帰る時間ですー」
「………関口先生、くどいですよ」
「だって性格悪いもん」
まだやり合っている二人を苦笑混じりに眺めつつ、机の上を片付けた。
「お先に失礼します。山根先生、今日はありがとうございました」
「いえ、どういたしまして。お疲れ様でした」
「お疲れー」
他の教師達にも挨拶しながら職員室を出て、足早に昇降口に向かった。時計を見ると既に六時を過ぎている。いつもより遅くなってしまった。

まだ彼が来るような時間ではないけれど、もし来ていたらと思うと焦ってしまう。鍵は渡していないし、そのまま帰ってしまうかもしれない。
来る保証もないのに急いで駅に向かう自分の愚かさから目を背けて、テスト前に『明日から問題を作るから部屋に来ないでほしい』と言った時のことを思い出した。
既に殆ど出来上がっていたし、彼が来るようになる前から学校の資料は極力持ち帰らない
ようにしていた。仮に問題目当てで彼が近づいてきたとしても、部屋からは何も出てこないはずだった。にも関わらず彼の訪れを拒んだのは、自分に歯止めをかけたかったからだ。
一時までと時間を区切ってみたものの、来るか来ないか判らない彼を待ち続ける生活に疲れかけてもいた。
もう二度と来なかったらどうしよう、と泣きそうになるのを堪えて、必死の思いで告げた。
幸いにも、テスト終わったらまた来ると言ってもらえた。
それが今日とは限らないが、来ないと決まったわけでもない。運がよければ会える。
ならば幸運を信じて急ぐだけだ。来なかった時のことを今から考えても仕方がない。
もし彼が来てくれたら、何もかも忘れてセックスに溺れる。先のことは勿論、今の状況についても深く考えない。そんなものは後回しだ。時間が惜しい。不安や焦燥に駆られて泣くのは一人の時にいくらでもできる―――彼が帰った後や、来ないと判った夜にでも。
刹那的かつ即物的だが、致し方ない。そういう男を好きになってしまったのだから。
扉が閉まる寸前に電車に飛び乗り、階段に近い昇降口を目指して車両内を移動する。目的の位置に辿り着くと、扉に凭れて目を閉じた。
最後に彼に抱かれたのは先々週の金曜の夜。範囲の発表は先週の月曜だった。そして今週の月曜から水曜、即ち今日までの三日間を費やしてテストが実施された。
理系の四クラスは数学の授業がA・Bの二つに分かれており、自分はAを、山根はBを担当している。それに加えて文系の四クラスも山根と二クラスずつ分け合う形で担当しているけれども、今回文系クラスの問題はすべて山根に作成して貰った。期末は少しでも手伝えたらと思うが、そのためには理系の方を今回よりも早めに仕上げておかねばならない。
早めにと心掛けねばならないのは採点もだ。自分の担当科目の試験はどちらも月曜日だったし試験監督もやらずにすんだのに、今日まで答案の採点が完了しなかったことを考えると頭が痛くなる。初めての採点だったからと己を慰めつつ、期末の試験日程を案じた。
四月に、私立なのに試験休みがないと知った時は当てが外れた気分だったが、最後の夜の彼の言葉に『無くてよかった』と思った。しかし今はもう単純に喜べない。
答案返却は時間割を変更して木・金の二日間に集中的に行われる。明日は自分も合計六クラスを一日で回らねばならない。にも関わらず、今日の夕方までかかってしまったのだ。
予定は立ててあったし今朝までその通りに進んでいたが、昨年度より平均点がかなり低いのに気がつき、つい採点済みの答案を一枚一枚見直し始めてしまった。まずは採点を終えてからにすればいいものを、要領が悪いにもほどがある。
浜崎も気が気でなかったのでは―――やはり自宅に持ち帰ってやるべきだったのだろうか。
他の教師達は、試験が終了して答案の束を受け取るやいなや物凄い勢いで採点を開始したが、夕方になるとぱたりと手を止め、答案を金庫に預けてさっさと帰りだした。
誰も持ち帰る様子が無いのを見て、安心して後に続いた。答案の持ち出しはよくないらしいと勝手に思い込み、自分のスピードも分からないうちに立てた予定に従い呑気に帰った。
持ち出しの可否を浜崎に確認するなり居残るなりすれば良かった、と思っても後の祭りだ。
今日の午前中に終わらなかったのには流石に慌てた。浜崎に促されてからは周囲のペンの速さにプレッシャーを感じてしまい、理科準備室に逃亡を図ったのだ。気軽に鍵を渡してくれた小杉は、こちらの焦りを察していたのかもしれない。
振り返ってみれば身の程知らずの大馬鹿者としか言いようがないが、やっている最中は目先のことで手一杯で自分の愚かさに気がつかなかった。できることなら後ろから蹴りを入れたい。………恐ろしいことに、あれでも自分は真面目にやっているつもりだったのだ。
自分の高校時代は、水曜日にテストが終わってもその週のうちに全部返ってこなかった。
下手をすると翌週末に間に合わないルーズな教師も―――などと拗ねてみても始まらない。
一緒する方がおかしい。採点の素早さを見て、長閑な母校とは違うと気づくべきだった。
関口はもう採点を終えていたが、二年生の物理のテストは今日の一限だった。


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