月が笑ったおくちみたいにお空で泳いでいた次の朝のことデス。
ワタシはジブリール様のお部屋に新しいユリを飾ってカラ、中のお庭に出てペルム・プリントの苗木にお水をあげていまシた。近くに植えてあるムーンリル――サラ様がつけて下さったワタシと同じ名前のお花デス♡――の中に一つだけまだ花の閉じきってないのんびりやさんがいたデス。
サラ様が救世使と共に行かれてモウどのくらいになるでしょうか。サラ様のこと思い出しマス。サラ様、お元気でしょーか。ワタシいなくても平気でしょうかね?
早く早くジブリール様がお目覚めになればいいってお祈りシマス。またもう一度サラ様とお茶が飲みたいデス。いっぱいいっぱい聞いて頂きたいコトありマス。デモ他の〈聖巫女いうデス。『ジブリール様がお目覚めになるときはサラ様が亡くなったときなのよ』っテ……。
ジブリール様に会えるときはサラ様が亡くなったとき。ジブリール様目覚めて欲しいですケド、サラ様に早く亡くなって欲しいだなんてワタシ決して思ってないデス。
どうしたらいいのかワカリマセン。
開きっぱなしのムーンリルの花の傍にしゃがんでいたらちょっと涙が出てきたです。気づいたらそのお花も閉じていて、ワタシ長い間そうしていたみたいでした。ベールの端っこで涙ふいて、立ちました。
こんなことじゃいけないデス。サラ様に笑われてしまいます。救世使様と一緒で、きっとサラ様はお幸せデス。だからワタシの寂しさなんかどーってありまセン。我慢できるデス。サラ様は長生きして幸せに過ごされて……いつかジブリール様として戻っていらっしゃいます。ワタシはジブリール様のおそばで、ずっとずっと待っていますデス。
ガッツポーズして、大きくなったほうのペルム・プリントの木にお水をあげようとしたら影がかかりました。雲が出てきたのかと思って見あげたデス。ペルム・プリント、お日様にヨク当たらないと綺麗な色が出まセン。
デモ違ったです。雲じゃなかったデス。
ソレは羽を広げて舞い降りてきた天使様デシタ。
「よっと」
着地なさって、肩に担いでいた女の方降ろしマシタ。
赤い髪で、ほっぺたに龍の刺青がしてある、男の方としてはチョット身長の低い方で、見たことある方デス。救世使様と一緒にいらした方。怒ってラファエル様を殴ってらした方だったです!
お名前は確か四大天使の――
「ミカエルさまー、目が見えませーん」
そう、ミカエル様デス。お連れになった金髪の方はクラクラして目をまわしてらっしゃるようでした。手の甲を顔に当てて上を向いてマス。
「ブラックアウトだ、ほっとけ。そのうち見えるようになる。おい、お前!」
ミカエル様ワタシを呼びました。
「ジブリールどこだ」
「エエット」
ワタシ迷いましたデスけどご案内いたしました。ミカエル様がお先にたたれたので金髪の女の方、急いで追いかけようとなさったデスがお目のほうがヨク見えていないらしくてふらふらしてたデス。
「大丈夫デスかー? 歩けるデス?」
傍にいって支えて差し上げたら、片目開けてワタシを見上げて、
「ごめんなさい。ありがとうございます」
びっくりしました。とっってもジブリール様に似ておいでデシタのです!
「〜〜、ミカエルさまー」
「とれーんだよお前は。待ってるか、来んならさっさと来い!」
よーく見てみるとそれほど似てもいないみたいデス。この方瞳の色濃くて髪も薄い金ですし、お鼻のすじもジブリール様の方が際立ってます。一瞬同じお顔をしているかのように見えましたけど、
面差しがひどく似てる感じなのでそう見えるみたいデスね。
その方はしばらく歩くともう大丈夫、と言ってワタシの手離しました。瞳の横のほうでみるとやっぱりジブリール様に似てるデス。背丈はずっと低くても、姿勢とか、歩き方とか
、これで髪を隠してジブリール様ととりかえごっこしたら、ワタシより長くバレないかもしれまセン。
「あ、そこのお部屋デス」
前を歩いていたミカエル様に教えて差し上げますと、ミカエル様は扉を開けて中に入っていかれマシタ。その金髪の方も入っていかれました。ワタシも入ったデス。
ジブリール様は椅子に腰掛けてらっしゃいマス。今朝みたのと、昨日みたのと、一昨日みたのと、一年前みたのとも同じ表情で、少し憂いを秘めたようなお瞳も伏せがちにお美しいままで座ってらっしゃるデス。
ミカエル様はそんなジブリール様の傍まで行って、お話しかけになったです。
ワタシもジブリール様に話しかけることありマス。けれどジブリール様はお答えしてくれることありまセン。ミカエル様はジブリール様のおことばきこえてるのでしょーか?
金髪の方ドアの傍に佇んでジブリール様とミカエル様を眺めてらっしゃいマス。目を細めて、それはいとおしそうに、微笑みながら眺めてらっしゃいマシタ。小さく、おことば発されたデス。小さすぎて聞こえなかったデス。
「んじゃ貰ってくぞ」
と言ったミカエル様ジブリール様の髪の毛を一本抜かれマシタ!
「えっ!?」
ワタシ慌ててジブリール様にかけよりましたデス。ミカエル様は早足に身を返して、
「おっしゃ、行くぜ」
金髪の方にお声をかけられて出て行ったデス。金髪の方、ついていこうとなさりました。開いたドアの向こうまでいって、振り返って頭を下げられたデス。ジブリール様にだったのかワタシにだったのかはわかりまセン。とても丁寧に頭下げられました。あげたお顔は優しい優しいご表情だったデス。サラ様がわらったときとはマタ違った感じの……そうデス、ワタシが精霊天使だったころに一度だけ見たジブリール様の微笑みかたに、そっくりだったのですわ。
そして、行ってしまわれマシタ。
ワタシはボーっとしながらジブリール様の前で膝ついてジブリール様をみたです。
「ジブリール様……」
お返事はやはりなかったデス。一点を見つめていて。ワタシを見てくれなくて。笑ったり怒ったりしてくれていたのが嘘だったみたいに。ワタシ何度も何度も話しかけましたわ。
でも、ジブリール様のおことばは、ワタシには全然聞こえなかったデス。
脳天に、叱責ともなう手刀を頂こうとも、褪せぬ喜悦はなにゆえか。
と、言えば実に単純なことである。
『神の如し者』の名を戴く能天使の長であり、四大元素、炎を司る天使ミカエルは数日間非常に忙しくしていた。珍しいことに、事務作業的な面倒を片付けていたからだ。活字を読むのが大嫌いである彼が進んでその面の仕事をやりたがるはずもない。
溜まりに溜まった処理すべき書類と他部署との連動ごとの膨大さは放置していた日頃の賜物、片づけるのに一日や二日の時間では到底足りる道理がない。
それでも優秀なカマエル副官が、大部分を肩代わりして行っていて、彼に届いている仕事の実際はその倍以上だということを踏まえれば、まだしも楽と言えぬこともないはずであるが。
その間、彼の預かり女、ルシアはちょこちょこと
手伝いに仕分けや済んだ書簡と期限切れの書契廃棄と掃除に勤しむかたわら、緑茶に入れないミルクの謎に挑戦していたが、結局理を得ることはなかった。
ようやく、ほとんどに決着がついた夕べのこと。
「明日、物質界遊びに行かねーか?」
この言葉を喜ばずして、一体何を喜ぼう?
本当のところ。実際のところ。彼女は記憶が戻らないとされているが、たまに一人で考え事をしている折には思考にかかる靄の向こうに確固たるものがつかめそうになることもある。
たぶん、それをしかとつかんだなら、いまは脳から出せぬ様々な秘密が既知のものとして把握することができるのであろう。
だが、手はのばさない。
記憶などいらない。
彼の傍にいられなくなるなら、そんなものカケラだって要りはしない。
そうして彼女は薄く、笑った……。
「行って来いよ」
「え……でも……」
ただようバニラとチョコレートの甘い香り。
ルシアは表面的ばかりは戸惑いを見せながらもちらちらっと視線を送って、だがすぐ我慢しきれない顔を隠しきれずに肩をあげる。
「すぐ、すぐ行ってきますから!」
身を返し、子供っぽくたたたたっ、と軽い音を立て舗道を靴底で叩き走り行く。先ほど例の店を見かけてから通り過ぎ、この地点まで来る中、ずーっと気にしているのを気づかれていないとでも思っていたのだろうか。
移動クレープショップ。
欲しいなら欲しいと言えばいいのに。初めて見る物質界に興奮しきって人目を引くほどはしゃいでいるのに、静かにしろと放った手刀が効いているのに違いなかろうが。
雑踏の往来に突っ立ってるのもなんなので、端によって戻ってくるのを待つ。
物質界に来るのは幾年ぶりか。前に来たのは地球の時間が止まっている最中だから――動いてる物質界に来るのはたいぶ久しぶりということになる。
何も、権天使以上の位には禁忌の物質界へ遊びに来るのにまで、いくら保護観察対象物だとはいえルシアを伴わなくてもいい。留守番をさせて、誰ぞから通信や訪問があったなら手が離せませんとでも言わせておけば。なのに彼女を誘ったのは、それほど、大した理由があるわけじゃない。
(すっげぇ喜ぶんだろうなって、思っただけだよ)
誰とはなしに言い訳をする。なんでもないようなことで無邪気に感嘆する様子が面白いから。からかったりちょっとした間違いを指摘してやれば豊かな反応を示して落ち込んだり不思議がったりして。……あえていうなら
、横や後ろに彼女がいる居心地が別段悪くないことは、あげてもいい。
遅ェ。列を作っている様子だった店でクレープ一つ買うには釣りが返ってくる時間が過ぎた頃、ミカエルは顔を上げて彼女の軌跡を見やった。
見なかったことにして、通り過ぎるだろう。もし、関係がなかったならば。
「あの、馬鹿」
経過も事情もへったくれもなく、場景ままを述べると、彼女は、ナンパされていた。
中学生くらいの男三人に女が一人では明らかに数が合わないだろうに、キャンピングカーの類似品のようなクレープショップの前で背丈のひっくい少女を囲み、男たちは馴れ馴れしげに肩に触れたり腕をとったりと。
今でさえ、その男たちのように生まれ持った黒色の髪が気に入らないらしい若い男女が染めて明るい色をしていのが稀少でないゆえ、この国を普通に歩くこともできるけれど、ミカエルがそうであるように染色、脱色では決して出ない色合いの髪はなにをせずとも目立つ。並んで歩けば輪をかけて目立つので、せめて、結い上げようとも半端ない長さの髪だけは
肩口すぎまで短かくして、ジブリールの髪をより混ぜた紐で結び、伸びないよう抑制している。とはいえこの国の人間にしてみたらルシアはまるきり外国人。柔らかい物腰や拠り所なさそうなそぶりはいかにも世間知らずのそれであり、だますにしろ遊ぶにしろ言語が通じるならてごろに感じられるだろう。
ルシアは事実をよく飲み込んでなく、困惑よりむしろ怪訝そうに彼らを見返している。
ミカエルの視線に気づいた。ミカエルさま、と彼の耳には届かない声で名を呼び、彼らの隙の抜けて戻ってこようとする。が、腕を掴まれてそれも叶わない。
あんなクソガキのどこがいいんだか。
嫌だが、仕方ない。
「俺のツレになんか用か」
行くとルシアはうろんげに周りの男たちを見上げ、ミカエルに顔を向けた。笑ってる余裕があるなら自分でなんとかしろ。思うがしかし笑みの中にも薄く念が込められてるのを気が付かないわけにはいかなかった。
どーすっかな。殴りあいになっても困らないが人通りで騒ぎになるのはまた面倒だ。
男たちはミカエルの存在を特に重視もせず、自分たちだけで話を続ける。
「ミカエルってあれじゃん? エライ天使の名前だろ? なに、こんなのにそんな尊大な名前ついてるわけー?」
本人だ、バーカ。
「しかも様、だってよ。もしかしてなりきりってやつ? 私は前世が天使だとかいってるネットで集まってるデンパ」
「やーだな、痛い子ちゃんー?」
「ま、かわいーからいいじゃん。ねー、こんなのよりさあ、俺たちと遊ぼうぜ。いいところいっぱい案内したげるからさ」
ルシアの表情があっけにとられていた。まま、言う。
「お断りします」
「つれねーなー。そんなにこっちのガキがいいの?」
「こいついっちょまえに龍のタトゥーなんかしてるぜ」
「ペーパータトゥーだろ。すげーな、ガイコクじゃこんなのも売ってんだ」
「おいお前」
身長差の加減でどうしてもミカエルが見上げる形になるのがいっそう調子づかせるのか、ミカエルに対して哀れなほど軽率にその肩に肘を乗せる男一人。ニヤニヤといやらしく笑みながら、耳元に口を寄せて囁く。
「痛い目みたくねーだろ? あの子置いて、どっか、行け」
ミカエルは黙って腕を払いのけた。さほど力を込めてはいないが――
「いってぇなぁ。ヒトがせっかく穏便に済ましてやろうとしてんのによぉ」
「ちょっと調子に乗りすぎなんじゃないのー?」
もう一人寄ってきて、一人がルシアの腕を掴んで拘束している。不穏な空気に辺りは人が避けて行き過ぎていく。男たちは既に何事もなしにこの場を収める気にはない様だ。
背のある男二人に詰め寄られても、ミカエル自身はわずかたりとも動揺や引けをとるような態度はない。当然ではある。こんなただの人間など。
拘束された手の中でルシアがばたばたともがいている。不快も露わにきっぱりと、
「触らないで」
彼女の腕をつかんでいる方は酷いなあ、などと気楽にせせら笑っている。
「んだその目。人の国に来て礼儀がなってねーんじゃねーのー?」
「女連れで呑気にガイコク見物か? ナマイキなんだよ、 さっさとひっこめば怪我しなくて済んだのによぉ」
交互につけてくる因縁も所詮はサルの戯言だ。受け流して隙をつき、当て身でも喰らわせてトンズラすればいいやと思っていた矢先。
「なんとか言えよこの、チビ!」
殺そう。
先に練っていた思惑を全部覆す。殺そう。
「お? 怒ったのか? 何度でも言ってやるよ、ちーび、ちびちび、おちびちゃーん」
いくつかのことが同時に起こった。
ミカエルの肩を押しやった男の手に火花が爆ぜる。
凛然と言い切る声は高く。
「その人に、触らないで」
と。
男の――ミカエルにとって左にいた――頭がもとあった場所から体ごと、跳ぶ。右の男は一瞬では状況が理解できない。ルシアを捕らえていた男は向こうで鼻から血を噴出して膝を突いている。
ミカエルも思わず瞠目する。顔を朱に染めたルシアがいる。蹴り飛ばしたのだ。
「んなッ!?」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!
」
ルシアは、彼女に向かって猛抗議をとばそうとした右の男の顎を跳躍と共に殴りつける。体制をくずした腹を蹴り、とどめに振り払うような裏拳。
女の悲鳴。
何やってんだ? あいつ。ミカエルは、怒りも忘れて妙に冷静になって、ことを眺めていた。いい動きだ。戦闘訓練もあながち無駄ではないらしい……。
地に伏していく男をなにか言葉にならない言葉で絶えず罵りながらルシアは下から背中に手を回した。神経質そうにその手が震えている。
マズい――
起こり得ることがわかったわけではないが嫌なものを直感して、ミカエルは彼女の腕を掴んで引いた。ルシアはまだ責め足りぬとばかり、引きずられながら掴まれていないほうの腕を振り回して真っ赤な顔で今度こそもうめちゃめちゃに喚き散らす。
一秒唾を飲む間を置いて、発声のいい甲高い叫びが響き亘る。
「呪われろ!」
なんだそりゃ。
「許さない! 絶対許さない! 絶っ対に許さないッ!!」
後ろ向きにたたらを踏むような格好で腕を引かれるルシアは興奮しきって先ほどからぶつぶつと、というにはあまりにも大きな声で怨嗟の声を散々に振り撒く。時々『呪われろ』とか、『地獄に落ちろ』とか程度の低い、しかしやたら怨念のこもった言葉も吐く。
おかしい。
ミカエルは、どちらかといえば、騒動に巻き込まれるよりはその中心にいるほうであり、仲裁に入るよりはむしろ仲裁をされるほうに属するはずだ。決してこんな、キレて大騒ぎしている女を引きずって走るようなことは今まで一度だってあったことがない。
ズレている。意識に上らないまでもそれはしっかり感じていた。
大分離れて追ってくる者もなく、人気のない公園の一角まで来て、ミカエルは掴んでいた彼女の腕を離し――握りこんだ鉄拳を打ち下ろした。
短い悲鳴。の割りに大して痛くもなさそうな顔で頭を抑えるルシア。
「バカかお前は! いきなりなにしてんだ!」
「アキエルの喧嘩用の必殺コンボでうまいこと決まると3日はご飯が食べられないそうです!」
「誰がンなこと訊いたァッ!?」
二度目。さしものルシアもこれには少々眉をしかめた。
「この国は治安がいいぶん騒ぎがあっとすぐサツが来やがんだよ! おかしなマネすんなって言っといただろ!?」
「だって!」
珍しいことに口答えされる。
「ミカエルさまを侮辱されて黙っているだなんて!」
忌々しげに路を踏み、怒りに燃えた瞳が薄く紫がかって朱をのぼらせた頬を飾る。
「たかがただのいち人間が軽々しくミカエルさまに触れて! でもそれだけなら許せましょうとも! あんな下卑た男にミカエルさまが侮辱されるなんて! チビだなんて! チビだなんて! それは仕方ないことじゃない、躯がお若いのだから! 背が他の男性よりお低いのは当然じゃないの! 比べるのが悪いんだわ! それをさもミカエルさまが劣っているかのように背の低さをバカにするなんて! 許さない! チビだなんて!」
「連呼すんな!」
三度目でようやくの沈黙。
「ミカエルさまだって」
怒りのあまりか三度の鉄拳がためか、目端を滲ませながら、すん、と鼻を鳴らすルシア。
「お怒りにはなられていたでしょう?」
「俺は……いいだろ」
疲れて――少なくとも精神的には疲れた気分になって、近くのベンチに腰を落とす。
「俺のことで俺がキレんのはいいだろが。そこでてめえが口挟むことじゃねぇだろ」
大きく息を吐く。そういやァ、そもそもなんでこいつが怒ってやがんだ?
騒ぎを起こすと言う点ではややずれた返答に、ルシアはつんけんながら真面目に言う。
「いーえ。私は私のことよりミカエルさまのほうがだいじですもの。それで贖って私は怒らせていただきます」
「……はあ?」
今、なんつった?
場違いなセリフを聞いた気がして目をあげる。彼女はかなり薄くなったものの、まだ熱っぽい顔をして口を軽く尖らせていた。
「だって……だって、そうじゃありません? ありえないわ。大事なひとを貶められて怒らないなんて」
「………………」
思った。この女は、ばかだ。しかも掛け値なしの。口にも出した。
「バカだなお前」
「そうですね」
即座に肯定された。一つ間があって付け足される。
「でも、阿呆じゃありません」
顔はもう元の白さを戻していた。
表情に出ないように、ミカエルはうつむいてそっぽを向く。
ミカエルに対し、彼女と同じように思っているものは、控えめにも少ないなどとはとんでもない数がいる。だが面と面をあわせてそういうものは、いない。そういったことは本人に言うものではない。礼儀の筋からいっても。実情がどうあれ、ミカエルの地位では下のものはそうであって然るべきなのだから。
ルシアは馬鹿だ。身の程知らずというより、無知だ。自分とミカエルにある立場の遠さをわかってない。こんなことも平気で当人を前に言う。
ルシアは、馬鹿だ。
だから……。
……アホらし。
無言で、両足をあげ、下ろした反動で立ち上がる。歩き始める。
「ミカエルさま?」
「あの菓子」
うつむきがちに振り返る。陰になって、顔色が彼女に見えないように。
「欲しかったんだろ? ……あんなとこじゃなくたって買えっから」
嬉しそうに表情を明るめたのをみて、ふと思い出す。
「お前、拳平気か?」
相当力を入れて殴ったはずだ。戦闘訓練をしているとはいえ、純粋に殴り合いの稽古をしているではない。それなりの経験者ならともかく、素手で殴れば傷めもする。
案の定。
「でもこれ」歩きながら彼女は小さく肩をすくめる。「私がやっても治らないですよ」
どういうわけか痛みを感じないようで、うっちゃってしまってもかまわなそうに言う。
だからといってほっといては悪化するだろう。ミカエルは嘆息する。
「俺、治療系は苦手なんだけどな」
「風に属するちからですものね」
ルシアは首を傾ぐ。確かにそうだが、使えないことはない。
なんとなく彼女の頭を撫でると……殴ったあたりが、腫れていた。
「……悪かったな」
「なにがです?」
「なんでもね」
こいつは馬鹿だ。
でも、悪い奴じゃない。
記憶を失くす前は一体どんな奴だったんだろう?
*
心の淵が呟く。いくたびも。とめどなく。仄かに。
偽るな。
誰が? 私。
何を? さあ。
誰に?
偽り。嘘。何のための嘘? 騙す嘘。保身の嘘。慰めの嘘。
……守れないとわかってする約束、嘘。
違う。
……自覚がない。私は私にさえ嘘をついている?
ありうるはなし。記憶を閉じ込めたオルゴール箱。鍵を持ちながら、差し込んでまわしてみることができずにいる。
だって怖い。
今≠ヘかりそめのモノ。それでも私は幸福を感じている。今≠失うのは怖い。
だから、箱の中で昔≠ェ『出せ』と。お前は自分を得て完全なモノになる。だから出せと、出して本当の自分になりなさいと言うのだ。
それが正しいのだと、本当は私もわかっている。
でも嫌。
おそらく元の私は何もない天使。いなくなっても誰も気づかない程。悪ければ、悪魔。
どうであれ、私にいくべきところがあれば、帰るべき場所があるなら……いいえ、なかったとしても。
ミカエルさまのそばに、いられなくなってしまうでしょう?
今≠ヘ一変して、であうことの出来たみんなとは離れることになる。少数とは関係を続けていくこともできるだろう。けれど、けれど、いと高きに座す大天使さまとはもう、話すことも一緒にお茶を飲むことも、背中を追いかけて歩くことも、笑いかけてもらうことも、ぜんぶぜんぶなくなってしまうでしょう……?
そうなるくらいなら不完全なままでいい。
たとえいつか箱の開く日が来るとしても、せめてそれまでは一秒でも長い時を。
嘘をついて自分を騙しても、この心をつらぬくためにはそれでいい。
それで、いい。
*
時間とともに隅に追いやられていった太陽が、最後の抵抗に空の半分を薔薇色に燃えあがらせたのもすっかり藍に喰いつぶされて、今は情けばかりにチラチラ光る星々をちりばめた黒の天蓋が
、堂々たる様子で人の世の頭上を覆っている。
我先争うように吹きつける強い風。彼女は舞う髪を押さえ、初めての眼に映る光景にほぅ、っとため息をついた。同じようなものを見たことがある。
『とても綺麗よ。よく行くの。あんたにも見せてあげたいわ』
そういったシャルが代わりにと収めてきてくれたグラフに映っていた、メギドの丘に咲いた輝く花たち。夜ごとに死者を慰む幾千もの花々だ。美しかった。あたたかい光はなるほど、死者のみならず、悼むものの心さえ癒されよう。
しかしこちらはまた性質の違った美しさを誇る。まるで艶やかに飾った宝石。悼みではなく昂揚を誘い、心を躍らせる。雲が光を照り返し、街は明るく夜を制した喜びにか、不思議に昼より高く賑う。
反面、とりどりの色を持って強大な闇を払うさまは、一応には人ならぬ身である彼女にはひどく健気にも映るのであった。
月が悲しいのだ。親指の爪大の月は小さい。月面の模様もしっかりみないとわからない。あんなに小さな月だから、闇に差す光がたりないから、人は電飾で夜を照らすんだわ。星明かりも微かにしか見えないし。
「月も、昔はもっとでっかくって綺麗だったんだけどなァ。いつのまにあんなにちっこくなっちまったんだか」
たったひとりの彼女の光は後ろから言う。
「ミカエルさま」
「ん?」
「恐竜みたことあります?」
「……ねぇな」
期待したのだが。ミカエルは白亜紀にはまだ生まれていないらしい。ではいつ生まれたのか、御年は幾つなのか。尋ねても教えてはくれない。
タイミングを計っているうちに日が暮れてしまった。
あれから、喧嘩の際背中からだそうとしたもののことを訊いたら、ルシアはあからさまに目をそらしたので、逃げる彼女の背中に手を突っ込んだらナイフが出てきた。刃渡り十数センチの赤い刀身に金字で『ルビスト』と銘打たれたナイフは、
クレステルに賭けで勝って貰ったとか。賭け対象は、
『あのー、ハンデ付きの、百メートルダッシュ……』
さすがに少しあきれた。ハンデつきで賭けをしてはぶんどってるらしい。賭けというよりはレベルアップの褒美として恵んでやってるのだろう。ほかの奴らはともかく賭けをしたり必殺コンボを伝授したチームにはなぜかやたらと気に入られていて、能天使たちと混ざるときはいつもそいつらが引き取っていく。道理で鍵を渡した部屋とは別の彼女用の部屋にモノがたまっていくはずだ。
気を取り直して、場所を変え、霊気のポイントでアストラル力を溜めたり街で物を買ったりと一日遊んでいたのだが。
気づいたのだ。
無邪気にわらう彼女が時折、砂時計のあるひと粒が落ちゆくようにほんの一瞬だけ、ひどく――痛そうに目を細めるのを。
まだどこか痛むのか? と問おうとしても、言葉に出す前に流し去られてしまう。
殴っても蹴ってもそんな顔はしないのに。
いつも笑っているから、逆にその一瞬がひっかかる。
気にせぬように努めても、一瞬が不意に心臓をたたく。
強い風の中、ビルの屋上で、月が小さいと嘆いていた。星がたくさん見えないと不満そうだった。そして今は興味深そうに、たかい手すりにかかとを上げて夜景を眺めている。
「あら?」
かかとを下ろして、彼女は顎を上げた。
「なにかしら? この香り」
「潮だな」
海が近いのか。まだ連れていってない。
「塩?」
「海のにおいだよ」
「海?」
浮いた調子で振り返る。ミカエルは小さく苦笑した。
「行くか?」
「はいっ!」
すごい。
海。砂浜。強い風。高い波。
すごい。
「まっっっくろですね!」
「夜だからなァ。でもま、このへんは昼間でも大して青くみえねーけどな。もっと南の方にいきゃあ、遠くまで底がみえっけど」
「わぁ……」
彼女は靴を脱ぎ捨てた。寄せては返す波間に足を差し入れて、水に浸って弾力のある砂を踏む。
冷たい。ばしゃばしゃと蹴散らすと飛沫があがる。波がうちまくところまで歩くと膝が洗われて真直ぐたっていられない。頑張っていたがどうにもこらえきれず、強い波に足をとられてやっぱり転んだ。
素敵。
頭までどっぷり海につかって、息をはいた。
ここには元素の全てがそろっている。
風。水。土。……火。
素敵。
背中の中心がちりちりと痺れる。今なら翼ものばせそう。
浅瀬に、腰をついて水面に顔を出す。濡れた頬に風が冷たい。波が体を横向きに過ぎていく。うつむいた。
泣きたい。
声をあげて泣きたい。
みんなみんな涸れ果ててしまうまで。心も涙もことばさえも。
だめ。泣いてはだめ。まだ、だめ。
まだ悲しくない。まだ痛くない。まだ私は。
まだ。
目を開けた。
波打ち際に、ミカエルはいる。
このひとのそばにいる。
知っている歌を唄うことはあまりない。ほとんどがミカエルの知らない歌であり、詩だって不明瞭で、唄うというより口ずさんでメロディをなぞっているに近い。
ごくごくたまには、庭先に出て木の手入れをしているときなどには、根元に腰かけて朗々と吟じていたりもする。ほそっこいからだのどこから出しているのかと、不思議になるほどしっかりと落ち着いた声音で。
下半身を潮に落として、つまさきを海面に出してみたり、バタつかせてみたり、水を掬っては流し、掬っては落として遊びながらの唄は前者。
唄い始める前も、あの一瞬が浮かんだ。今回はほかより長かった。
でも、必ず笑う。
理由をきいてみたいが、言葉にしてみると妙にばつが悪い感じがする。
まァ、いいか。考えるのも面倒だ。聞いてどうにかなるものでもないだろうし。
「お前さ、よく唄ってるよな」
「……私には唄しかありませんでしたから」
首を傾げ、遠い彼方を見つめる。
「言葉も何もわからないころに、私が持っていたのは唄だけでした。どうして知っているのか私にもわからないけれど、吟じるべきものが自分のうちにあることだけはわかっていました。だから唄ったんです。たくさん。それしか、できなかったから」
「記憶がねェのに唄だけ知ってんのか?」
「ええ。詩の意味は言葉を覚えるまでわかりませんでしっ……んっ」
顔までの高さの波がぶつかって、言葉が途切れる。彼女は立ち上がって首を振った。
唄う。
みんな何かを持っている みんな何かをもっている
後ろから来る女の一列 みんな何かを持っている
一人は右の手の上に 小さな青玉のほうとう
一人は薔薇と睡蓮の 馥郁と香る花束
器用に、つま先で弧を描きながらターン。
一人は左の腋に 革表紙の金字の書物
一人は肩の上に地球儀 一人は両手に大きな竪琴
わたしにはなんにもない わたしにはなんにもない
身一つで踊るよりほかに わたしにはなんにもない
「……さしずめ私なら、身一つで唄うよりほかに」
「ふーん」
「もしかしたら、私ってものすごい唄好きで、世界中の唄を集めては全部覚えていたのかもしれませんわ」
「そいつァすげぇ」
まだあがってくる様子はない。ミカエルは波の届かないところに座った。
「ミカエルさまは、あんまりおうたいになられませんわよね」
「お前ほど歌なんか好きじゃないんでね」
「あら。お上手なのに?」
「……聞いたことねぇだろ」
彼女の前で、というか歌った記憶自体とんとない。
返答は予想外だった。
「ありますよ。えーと……昔々催された、上級天使が神の御前でうたうイベントの中に四大元素天使の重唱が……」
「はぁ?」
確かに、昔そんなものがあった。しかも、あれは。
「とても綺麗でしたよ。神の前でうたえるのは男性だけでも、ジブリールさまだけは特別だって……」
「待て。それ記録残ってんのか!?」
「はい」
マジでか。
あれは実に拭い消したい記憶だ。しばらく思い出してみたこともなかったし、誰かの口にのぼっているのも聞いたことはない。とうに忘れ去られているものだと。
「書物にもたくさん称賛が残ってましたわよ。『中でも驚くべきは炎の天使ミカエル、その歌声である。私はかの堕天使ルシファーがかつて栄華を誇った時分に、たった一度だけ彼の歌を聴いたことがある。それは今となっては悔しいほどに美しく感じられたものだ。だから、四大元素天使の重唱と聞き、自然と双子の弟君のミカエルの歌はそれに相似するものだと、思った。ああ、私は恥じ入るべきだ。なんという愚かな思い込みだっただろう。かの方の歌声は決して堕天使と相似などするものではなかった。他のどの天使と比べようと、誰に劣ることもない素晴らしく美しい調べであった』……とか」
暗記すんなそんなもん。
「あれはなァ……」
そうだ。あれはジブリールのアホが。
『あなたが言い出したことですもの、約束をたがえたりはしないわよね?』
クソが。
「……賭けに負けたんだよ。忘れろ」
「はあ」
ルシアは体中にへばりついた服を引っ張り、空気を通した。垂れた髪を根元から絞っているうちに、手を止め、頬をかく。
「質問してもよろしいですか?」
「なんだ?」
歌のことかと思って、ミカエルは眉をしかめた。
彼女は幾度か深くうなずいて、脈絡もなく酷く無神経な質問を発した。
「ミカエルさま、背丈が低いこと、気にしていらっしゃる?」
ガクッと、肩の力が抜けた。
決まっている。百六十センチに満たない少年の姿は、永い間彼の深いところに刺さった爆弾つきのナイフ。爆弾はミカエルが自分で設置した。これ以上奥まで差し込むつもりなら、触った途端に爆破してやると。
が、あまりにもあっけらかんと尋ねられたので、怒る気にも――むろん彼女を傷つけるつもりにもなれず、かといって答えをはぐらかして済ますような芸当も得意じゃない。
「……悪ィか」
仕方なく認める。
「ですよね」
ルシアが頷く。
「私思うんですけど、ミカエルさまが背丈など気にする必要なんてありますの? 私もいい加減……見ればわかる通り小さいですけど、気になんてなりませんのに」
「てめぇは女なんだからいくら低くたってかまわねえだろ」
「では世界に一人しかいないあなたの背丈がいくつでも、かまいやしないじゃありませんか。背の高さで価値が決まったりはしないでしょう? ミカエルさまは、ミカエルさまなんですもの」
無邪気に、ナイフを押し込んでくれる。この女は一体何考えてやがるんだろう。
「俺は俺、か」
遠い言葉が、懐かしい声で、耳元で繰り返された。
『他人にどう思われようと、構わないじゃないですか』
「昔、同じこといった女がいたぜ」
自嘲めいた笑みがこぼれる。
真っ直ぐな髪。落ち着いた物腰。喋り方。死に顔すら見たのに、記憶に思い出す姿は昔のまま。
彼女は、去った。兄を選んで。いや、初めから選択などされていなかった。彼女には、道は一つしかなかった。
兄の為には、自分を殺すことも厭わなかった。
『お覚悟を! ミカエル様――っ!』
「そいつは、悪魔になっちまったけどな」
ルシアはなぜか楽しそうにふふふ、と笑う。
「悪いひとですねぇ。
……それで? そのかたの裏切りが、私と同じ言葉の否定なのだと思われたのでしたら、それは違いますよ。絶対に違う。そのひとが何をおもってあなたを裏切ったのだとしても、最後には私がぜんぶ否定します。違う」
彼女が沖に向かって歩くと、急に腰まで沈んだ。胸に波の力を受けて、次に顔を洗われて、まっすぐ振り返る。まるで詩でも奏でるように、柔らかい声は続ける。
「あなたがあなたである価値は、あなたでなくば得られない。外見が同じでも、声が同じでも、同じ遺伝子を持っていようとも、そんなことは全然関係ない。
あなたがあなただから、ミカエルさまが世界で唯一のミカエルさまだから。
だから、私は――」
「お前っ! 後ろ……!」
気づいて飛ばした喚起も時遅く、ひときわ高い波が、彼女を呑んだ。
同じ波がミカエルの足元に届いたとき、目前の海には誰もいなかった。
*
天が裂け地が破れ海が零れ太陽が失われた。
闇の絹はそれぞれの亡骸を抱き鎖の終わりまでうたい続けた。
全ては同じものとなり個の意味は尽きた。
巡れ。巡れ。巡れ。
数ではなく環。理由のない全。永遠なる不変。
あるのは記憶。願い。力。
故に沈黙を殺し産まれ出よう。
さて、楽園はどこだ?
(どこだ――!?)
タールめいて黒い夜の海。浜辺を打つ波。
すぐに顔を上げるだろうと、暫時静観していたのが間違いだった。彼女はある一定以上ショックを受けると体を動かせなくなるよう処置されている。突如として呑み込まれた衝撃は驚愕と合わせて充分だっただろう。でなくとも泳げるかどうか知れたものではない。やっと思い当たって海に目を凝らしても黒以外の影はなく。これだけ経ってうちあげられない。
離岸流に流されたのだ。
潮水が浸入して重い靴を、脱げばよかったと思った頃には時間を争った。経てば経つほど流される。見つけにくくなる。
(いらねぇことしやがって――)
痛罵する。
(あの女が悪魔なわけねーだろに!)
いくら睨もうと目の前に変化はない。もう目を使っても無駄だ。
閉じる。
感覚を鋭敏に。出来るだけ鋭く尖らせて。
どこだ? 彼女の気は。まだ近くにはいるはず。さんざ連れていたのだ。探せる。
幻視するように感触を探して気を這わす……。
「――っ!?」
右の額に鋼線で貫かれたような痛みがはしる。
いた。あれだ。けれど、あれは彼女の気というよりは。
「痛ッ!」
ツン、と額にもぐりこんだ鋼線にひっぱられる。考えるのは後だ。
誰も見てんじゃねえぞ――!
人間達に見つからないよう祈りながら、力をこめて海の水を噴き上げさせる。
見つけた。掴んだ方向まで一線の噴水の中。
水を蹴って翼をのばす。彼女のからだを抱き留めて、羽をとじる。
一瞬の落下感。海に沈む二人ぶんの衝撃。
波に結い具を奪われて、彼女の髪はすっかり元の長さに戻っていた。ようやく上半身が水面から出て、抱きあげたからだから垂れた金髪は一歩ごとにゆらゆらと波間に揺らぐ。
「ルシア」
乾いた砂面に降ろし、肩を支えて白い顔にはりついた前髪を除ける。額の中央に刻まれた青と緑の菱形と三角の徽。
そっと手を当てて、消してやる。
「ルシア。目ぇあけろ」
冷たいからだ。力なく上向く顎。液滴を含んで重い睫。
「ルシア」
名前を呼ぶ。
光。ヒカリ。私の世界を照らす、ひかり。
強くまっすぐなあなた。あなたのため。あなたのため。あなたのため。
存在
クズレナイヨウニ
コワレテモ
私
憎悪より激しく
ヘイキダヨ
あなたを
絶望より強く
悲しみよりも深く
……大丈夫
あなた
怒りよりも鮮やかに
呪いよりも想いを込めて
あなたのため
私
あなたがいるから
閉じた円環がひろがりまわりはじめる。
光明に映し出された。ここにあるものは。
私
祈り
6
ピリオド
証
ヌル
徽
メッセージ
命
形
コトバ 元素の
知らない。
嫌。
(――そんなことは知らない!)
何も知らないよ。知らない。
……綺麗なあなた。
あなたの髪。深紅に燃える髪は炎を紡ぎだした糸。
あなたのめ。瞳は黄玉。
あなたの顔貌。少年のあどけなさを残したかおだち。その身分が決して卑しいものではなく、ひいてはただの天使の有象無象とは明確に一線を引かれた存在だと示す。
あなたの手。戦う……手。剣を持ち、幾度となく血に濡れてそのたびに勝ってきた手。
あなたの匂い。強く高く激しく、盛る灼熱の焔。なにもかもすべてを焼き尽くして灰にする火の香。
二人となきたっとき御方。世界を形作る元素、炎の預かり手。
天使ミカエル。
あなた。
知っているよ。辛いこともあったんでしょう? あなたのその強い心が痛かったことも、未だ触れば血を流す疵が残っていることも。
強くまっすぐなあなた。無垢で綺麗なあなた。
あなたはひとり。
その痛みも喜びも、感じているのは唯ひとり。
代わりはいない。他にはいない。
ああ――あなたの匂いがする。あなたの声がする。あなたがそばにいる。
言わなくちゃ。うんと大事なこと。続きを、言わなくちゃ。
想うだけじゃなくて。それでは足りないから。ちゃんと音に響く言葉で。
赤い髪と金の瞳。頬を駆ける青い龍の墨。
ミカエル。
だから。
告げる。
「――私は、あなたのそばに、いたいと、おもうんですよ」
私は私が誰であってもかまわないのに。
あなたさえそこにいるなら。
「びっくりした……」
目を開けたルシアはぎゅっとミカエルの首にしがみつき、長い長いため息をついた。
「ミカエルさま」
「お……おう」
さっきは気にしなかった、すがりついてくる慣れない柔らかな感触。ミカエルは戸惑ったが、心底彼女が安堵しているのをどうにも無下には出来ず、仕方なく片手を浅い呼吸を繰り返す背中にまわしてなだめるようにさすってやる。
か細い腕に精一杯力を込めて、ミカエルがそこにいるのを確かめるか如く彼の首を抱く彼女。服ごしに触ってとれるからだも段々と温かみを取り戻していくのがわかる。
それにしても。さっきまた言った。『そばにいたい』と。どういう意味なのだろう。
いてもいい。一緒にいると色々疲れもするが、決して彼女のことを嫌いではない。ある種の鬱陶しさにも慣れたし、身の周りの雑務の手伝いは助かる。
そばにいたいなら、いればいい。が、今は書類上彼の預かり物となっている彼女だけれども、その効果は身元判明後までは続かない。意味もなく女を近くにはべらしているのは、ミカエルの立場を振返ってみれば問題になりそうである。
しかし元々破天荒の問題児で知られているミカエルだ。どうしてもそばにおいておくのだと言ってしまえばまかり通らないこともない。
彼女は、それらを承知しているからこそ、そうやって言うのだろうか。
(にしても、なんだってこの女はそんなに俺んトコにいたいんだか)
よっぽど居心地がいいのか。それは、監視つきの施設に居るよりはよっぽどましだろうが。
……どうせ、現在そうやって言っていても、記憶が戻ったらどう変わるかわからないのだ。
「……………………」
ルシアの肩に、こうべをあずけた。
「ミカエルさま?」
何か、堪えた。
「さっきの話」
「?」
「さっきの……女の」
「はい」
海水の匂いに混じって、懐かしい匂いがする。ルシアの匂い。いつ、どこで触れた匂いだっただろう? 思い出せない。気が遠くなるくらい、化石になったものが生まれるずっと昔から、この匂いを知っていた気がする。
「その女、下士官だったんだ。ガキの頃から兄貴と、俺に仕えてた」
ルシアがうなずく。
「一次大戦で、俺と兄貴が戦ったとき、兄貴をかばって死んだ」
何喋ってんだ、俺。
「死んだと、思ってた。……悪魔として生きてたって、知ったのはすげぇ最近――こないだの三次大戦トキで……笑えねーぐれぇ変わってた」
顔を見てながら、声を聞いていながら、記憶に引っかかりもしないほど。
「また俺が殺した」
ルシアは黙って聞いている。
「バルは兄貴が好きだったんだ。だから、必死で、兄貴に振り向いて欲しくて、あんな風になっちまったんだ」
胸がルシアの手に押された。からだがひきはがされた。
突然の拒絶にミカエルが揺らいだとき、両頬が冷たい指に包まれた。目には瞳を閉じたルシアだけが映る。
目を瞑ろうかと思った。が、何故そう思ったのかすらわからずに、ゆっくり数えて二秒半ほど、ルシアの顔を間近に眺めてしまった。
……彼女とキスをしたのだと気づいたのも、触れた温度や甘く溶けるような女の唇を感じたのも、全て彼女の胸に抱きしめられてからだった。
「大丈夫」
力強い、言葉。
「大丈夫」
一体なにがどう大丈夫なのか、一切の説明はなく、また保証するものもなかったが、ミカエルは驚くほど気が緩んで目を閉じた。
男とは違う、やわらかな女の胸。
細く心もとないからだ。強く抱きしめたなら、すぐにも折れてしまいそう。
からだを離して、ルシアの顔を見た。彼女は立てていた膝を曲げて腰を落とし、抱き寄せるミカエルの腕に身をゆだねる。
濡れた金髪に指を差し入れられて、顔を上に向けさせられて、ルシアは瞳を伏せた。
ミカエルはとても静かに、自分の唇を、ルシアに重ねた。
|