それは、先月末のことだった。
『 ハ ジ マ リ ノ ウ タ 』
「お疲れっしたっ!!」
四月初旬から続くテニス部の練習。
始めのうちはウォームアップのランニングですら息が切れていた一年生たちも、今では部活終了まで何とか持ちこたえられるまでの体力を全員が獲得していた。
徐々に盛り上がっていく筋肉の成長は傍目から見ても確認することができる。
去年の今頃は、手塚の事件もあったために大半の一年生が退部してしまった。
そうでなくとも、大抵、一年生は半数しか残らないのがこの部のセオリー。
だが今年は、一人の脱落者も出ていない。
骨のある新入生たちに、上級生たちはテニス部の未来の見通しの良さを喜んでいた。
だが、去年よりも優秀な結果を出しているとはいえ、練習の厳しさは半端なものではない。
玉拾いを終え、部室へ戻っていく一年生たち。
彼らの背からは疲労の二文字しか感じることができない。
とぼとぼと歩いていく一年生たちと逆行するように乾はコートへと向かっていた。
『一年前は俺もあぁだったなぁ』、と年寄り臭い台詞を飲み込みながら昨日の約束を確認する。
昨日の部活終了後、長々と居残って独自の自主練メニューを終えた乾は部室へと戻る。
当然のように明かりのついていない部室へと入る。
部活終了の時間を考慮すると、夕日が差し込む部室に部員のいる確立は1%にも満たないはずだった。
だが、そこにはすでに帰ったはずの同学年の不二と菊丸が談笑している姿があった。
「あ〜! い〜ぬいっ、遅すぎっ!!」
二人は待ちくたびれたとばかりに背を伸ばし、乾へ爽やかな恨み節を投げつける。
たが、過去をどんなに遡っても、二人と一緒に帰る約束をした覚えは全くない。
どうリアクションをすればいいか判断に悩んでいると、二人の肩が小刻みに震えだした。
「英二、乾が困ってるよ。」
不二が助け船を出してはくれたのだが、その声まで震えていては目的をはたしていない。
むしろ、乾の表情を面白がっているように取れる。
『乾って表情あるんだ』などという言葉が二人の口から飛び出してきそうな雰囲気だ。
「俺は機械やロボットじゃないんだが・・・」
乾が不本意丸出しの声色で吐いた台詞に、二人の肩がさらに激しく震えだす。
同時に二人からくぐもった声が聞こえ始める。
時折、菊丸が苦しそうな顔で机を叩く音が響く。
ずっと考えあぐねていた乾の脳では、事後処理の限界が打ち出され、乾は二人を呆然と傍観することしかできなかった。
しばらくすると、涙目になりながらも菊丸が話始めた。
「明日、練習終わったらコートにプレゼント持って集合だかんねっ!」
それだけ言い放つと、菊丸は挨拶もそこそこに忙いで部室から出て行ってしまった。
嵐のように過ぎ去っていった菊丸に、乾の顔がさらに困惑で染められていく。
理解不能、と察した不二が口を開く。
「明日、大石の誕生日なんだって。」
なるほど。
だからプレゼント。
最も、プレゼントの受け渡しだけではすみそうにないのは明白だが。
「言い出したのは菊丸か?」
「うん、大石には内緒だって。手塚やタカさんも来るみたい。」
どうやら同じことを手塚の前でもやったらしい。
それにしても・・・・・・
「よく雷落ちなかったな。」
普通、菊丸なら手塚の説教で大抵のことは粛清できるはずなのだが。
「落ちる前に逃げちゃった。」
取り残されてフォローが大変だったよ、と苦笑をこぼす不二。
その簡潔な説明は、ものすごく遭遇したくない場面を容易かつ鮮明に想像させる。
傍観するだけでも遠慮する、と簡潔な返答と共に、乾の顔にも同様に苦笑が浮かんでいた。
そして、不条理に突きつけられた約束は、理由が理由なだけに、乾の自主練が急遽変更になったのは言うまでもなかった。
運悪くデータ収集用の機材を新調した直後。
月末ということもあり、昨日の時点で懐具合が最悪だった乾は、足の筋肉強化メニューで手を打つことにした。
もう少し余裕を持って連絡してくれれば、大石にあったメニューができたのだが。
そんな恨み節を言っても、発案者が聞く耳を持っていなければ気晴らしにすらならない。
ささやかな不条理を噛み締めながらコートへと足を進めていくと、小気味よいボールが跳ねる音が聞こえてくる。
大石辺りが打っているのだろうとコートを見ると、コートの脇のベンチに数人集まっているだけでコートの中には誰もいない。
また、その先に設置されている壁打ち用のコートにも人影がない。
だが、ボールを打つ音は途切れることなく続いている。
確か去年、大和部長の提案で校舎での壁打ちが禁止されているはずだ。
ガラス破損による事故の防止のためである。
万が一でも起こる可能性のあることは避けるべきである。
その意思は今年度の部長にも受け継がれ、本年度の部活開始時にも改めて警告されていた。
テニス部の練習終了時刻は常時青学一遅いのは調査済みだ。
他の生徒がいる可能性は限りなく少ない。
部員の誰かが警告を無視しているとしか考えられない。
自主練している2年辺りが妥当だろう。
例えコントロールに自信があったとしても、何かあってからでは遅いのだ。
大石たちには悪いと思いつつ、乾は音のする方へ足を進める。
乾の足が校舎に近づくにつれ、段々と音が鮮明になっていく。
やはり校舎の壁で壁打ちしているのは事実のようだ。
当たってほしくない予想が見事的中し、乾は大きく溜息をつくと、さらに足を進める。
裏庭の方へ足を進めていくと、ボールの音の中から激しい息遣いが徐々に鮮明に聞こえるようになってくる。
角を曲がり、開けた場所に出ると、その音源が姿を現した。
一心不乱にラケットを振る行動は乾の想像通り。
だが、乾の想像はそこまでしか合っていなかった。
ラケットを振っていたのはレギュラーでも二年でもなく、バンダナを頭に巻いた一年生。
多くの一年生たちが部活だけで疲労困憊いるのにも関わらず、彼は嬉々として更なる負荷を課していた。
乾のノートにも将来有望と記載されている一年生の一人だが、まさかここまでとは、さすがの乾も推測することが出来なかった。
確か名前は、と、乾がしばし呆然と眺めていると、一年生の手元が僅かにずれ、跳ね返ったボールが乾へと飛んでくる。
ボールの軌道に二人とも目を見開くが、乾は反射的にボールをキャッチした。
かなりのスピードがついていたために両手で受け止めなければならず、手に持っていたプレゼントやノートが音を立てて地面に激突していった。
「あ、・・・・・・」
打ち損じた一年生は、受け止めた乾に目を見開いて驚きを精一杯あらわす。
どうやら、自分以外の人間が居たこと自体に驚いているらしい。
時間が時間なだけに彼の表情は予想範囲内だ。
「部活後の自主練かい?」
一年生はしばらく目が泳いでいたが、しばらく居心地悪そうに小さく頭を下げる。
それは気あまりに小さすぎてちょっと見ただけでは分からないほどの会釈。
どう良心的な解釈をしても、仕方なく頭を下げているとしか思えない。
『何で怒られているのだろう?』という心情をありありと表現している。
「入部の時に言われなかったかい?『校舎での壁打ち禁止』のこと。」
「・・・・・あっ」
「思い出した?」
「・・・・・・・・・・・・・ス。」
どうやら部長の忠告を綺麗さっぱり忘れていたらしい。
だが、部長は何回も念入りに忠告していたはず。
頭から姿形まで忘れられるような印象の薄いものではなかったはずだ。
引っかかるものを感じ、その時のことを思い出そうとしていた乾の目に少年の頭のバンダナが目に飛び込んでくる。
バンダナ?
もしかすると・・・・・・・
「海堂、だっけ?」
唐突に名前を呼ばれ、海堂は驚いて言葉が出てこない。
だが、何とかこくりと首を縦に振って肯定する。
「確か、入部早々、桃城とケンカしたよね?」
また、無言の肯定。
「その後の部長の話、イライラしすぎてあまりよく聞いてなかったんだね。」
「 ! ・・・・・・スンマセン」
桃城とのケンカは取っ組み合い一歩手前まで発展し、止めるのに一苦労した。
確か、乾一人では対処しきれず、数人がかりで両者を押さえつけて終息させたはず。
何はともあれ威勢のいい新入生が二人も入った、と全員で苦笑したことを思い出した。
多分、盛大なケンカの直後で頭がよく冷えてなかったのだろう。
これでは集中して聞くこともできない。
「ちゃんと聞かなきゃダメだよ。」
禁止事項なんだから、と釘を刺しながらボールを海堂へと差し出す。
「は、ハイ、ありがとございまし・・・あっ!?」
ボールへと伸ばされた手が突然止まり、なぜか乾の足下へと急降下する。
渡されるはずだったボール落としそうになり、慌ててしっかりと持ち直す。
何事か、と足下へと目を向けると、乾がボールを取るために落としてしまったノートやメニュー表をせっせと拾い集める海堂の姿。
「す、すいませんっしたっ!!」
一つ一つ丁寧に土ボコリを叩き落とし、綺麗に整理された紙の束を乾へと差し出す。
後悔と罪悪感からか、差し出している腕が少し震えてる。
すまなそうに歪んだ目元。
そしてわずかに潤んだ瞳。
『入部早々、大騒動を巻き起こした張本人とは思えない』
それが、目の前にいる海堂への乾が出した率直な感想だった。
きつく整えられた顔立ちは、潤んだ瞳のせいで酷く幼く見える。
乾の中にある彼への第一印象を粉々に突き崩すには十分な威力を持っていた。
「あ、ありがとう。」
書類とボールを交換し、乾はまとめられた書類の中に目を通す。
少し土の付いた紙の束はしっかりと四隅が合わさっている。
だが、形だけ綺麗にまとめられただけで、ページなどはバラバラなはず。
抜けているページの確認も兼ねて、中に目を通す。
しかし、ここでも乾の推測は外れてしまう。
大石のプレゼントだけ『書類』としてまとまっていただけで後はただ乾の感性だけで積み上がっていた『紙の山』が、全てが乾の振った番号通りに整列した『書類』として乾の手に存在していた。
はっきり言って、乾が落とす前の方が遙かにバラバラだった。
驚くほどの細やかな心遣いに乾が感心していると、海堂は渡されたボールを地面に置き、素振りをし始める。
規則正しく繰り返す動作は驚くほど機敏で力強い。
他の一年生たちは、ついさっきまで部室でへばっていた。
その中に桃城の姿があったのを思い出す。
彼らほど憔悴しきっていなかったが、すぐに機敏な素振りができるようには見えなかった。
枯れることのない涌き水のような体力が、小さな体のどこに備わっているのだろうか?
乾はすぐにノートに記録を記していく。
近い将来、目の前の少年が乾の前に立ち塞がる壁へと成長する。
この確信は何人たりとも揺るがせることはできない事実となるのだろう。
それは自身の足元を揺るがす厄介な敵の出現を意味することなのに。
なぜか乾の中に期待と好奇心が早急に形作られていく。
脳内麻薬【ドーパミン】が大量に溢れ出して止まらない。
口元が綺麗な弧を保ちながら吊り上げるのを止められない。
自身の身体反応が何に起因するのか、そして何を意味するのか、乾には全く理解できない。
だが、乾の中に『不快』という文字が浮き出してくる余地は全く残されていなかった。
「海堂。」
「 ? 何スか?」
「誕生日、何時?」
「???」
乾の口から不意に零れた言葉。
不意すぎて、乾ですら何故飛び出したのか理解できない。
海堂にとっても理解不能だったのだろう。
手が止まり、乾へと向き直る。
「 ? 海堂?」
「……………」
「おーい、海堂?」
「 ! えっ、あ、あっ、5月11日っス。」
「そっか……じゃあ、もうそろそろだね。」
2週間切ってるね、と詠うように乾が呟く。
思考が追いつかずに意味のない返事を返す海堂の表情がさらに乾の中心を燻らせる。
「今日はもう上がろう。鍛える前に壊れちゃうよ、身体。」
「 ? 」
「今の無理は禁物。」
「は、はぁ……」
「海堂の筋肉の付き具合を考慮すると、鍛えるのは部活と昼休み程度に留めた方が良い。それ以上はオーバーワーク、怪我の元だ。」
「………」
憮然とする顔すら乾の心を波立たせる。
「待ってろ、時期が来たら海堂専用の強化メニュー、作ってあげるよ。」
それまで無茶して身体壊しちゃダメだよ、と釘を刺してからコートへと駆け出す。
困惑している海堂の声が心地良いBGMに流れてくる。
心地良さを噛み締めながら、乾の脳が急速に回転し始める。
即座に構成されたメニューの概要が徐々に脚色され、雪だるまのように成長していくのを乾は満面の笑みを湛えながら菊丸たちの元へ急いで駆けて行った。
自分のメニューだけで本来なら手一杯で他人のメニュー制作ははっきり言って煩わしい。
だが、海堂のは湯水の様にアイデアが溢れ出して止まらない。
一体、どういうことなのだろうか?
考えれば考えるほど乾の中で突如芽生えたこの気持ちの名称を見つけることは困難で。
しかも、それは思いの他心地の良いもので。
答えの出せない問など、不快この上ないはずなのに。
乾の顔から笑みが零れて止まらない。
他人の誕生日のはずなのに、乾の心は生まれて初めて膨大な至福で満たされていた。
5月11日
部活後、海堂の手には大石のときとは比べ物にならないくらい分厚いメニュー表と、ネットに保護されたお守り代わり橙色の天然石が握り締められていた。
END