海の向こうの国の人
ざざん…と波が打ち寄せる音がする。
目が覚めて目を開けると、痛いぐらいに真っ青な空が目に飛び込んできた。
初めは綺麗過ぎてなかなか慣れなかったそれに、最近ようやく慣れてきて。
一日中、ただ空を見上げていた。
人気の少ない海岸線だけれど、それでも人が全くこない訳じゃない。
ざ、ざ…と砂を踏む音が近付いてくるのを感じた。
少し視界が陰る。
「こんにちは」
この土地のことばでそう言われ、視線を向けると少女が立っていた。
「…こんにちは」
同じことばを返すとその子は嬉しそうに笑ってくれた。
「毎日ここで何してるの?」
ちょこん、と横に腰を下ろしてその子は彼に問い掛ける。
「………空、見てるんだ」
「空?」
明るい色の髪が風にあおられてなびく。
「……楽しい?」
「うん」
迷わず答えると彼女は変なの、と一言呟いた。
「いつだってあるものを眺めて、どこが楽しいの」
「…そうだね」
変だよね、と繰り返す。
それでも彼は横になったまま空を見上げていた。
「…でもさ、空だって毎日同じな訳じゃないよ」
「もっと楽しいことがあるわよ」
「……そうだね」
素気なく言い返されて、彼は困った表情を浮かべた。
ざざん、と波が押し寄せる。
「まあ、辛いこともないでしょうけど」
「……え?」
小さくその子は呟いて、彼に綺麗な笑顔を向けた。
「海の向こうの国の方。空だけ見ていて暮らしていけるのは幸せよ?」
「………だね」
まいったなあ、と思わず日本語で呟いて、彼は身を起こした。
「………働ける場所、知ってる?」
「肉体労働でいいのならいくらでも」
でもお兄さんひ弱そうね、と笑われて、彼は苦笑した。
「鍛えさせてください」
「分かったわ」
くすくす笑いながら少女は立ち上がって服についた白い砂を落とす。
そうして彼に手をのばして立ち上がるのを助けた。
強い、働く人の手だった。
「この人が家で働きたいって」
少女に連れていかれたのは海岸から少し離れた場所に広がる農園だった。
丁度作物の収穫期なのか、多くの人が忙しく立ち働いている。
「さぼってどこに行ったのかと思ったら…」
随分と大きな拾い物だな。と彼女の父親は笑う。
「これも立派なお手伝いでしょ?」
自慢げに胸を張る少女の髪を、父親は無造作に撫でた。
「まあそうだな……でもお兄さん、大丈夫かい?」
周りで立ち働く人々の中で一際浮いている彼を見て、父親は苦笑する。
陽に焼け土に汚れた顔をくしゃりと歪めたその表情を見て、彼もまた苦笑した。
「まー……たぶん」
大丈夫だと思うんですけど。
そう言うと少女は勢い良く彼の背中を叩いた。
「い……っつ」
「来たからにはちゃんと働いてもらうわよ。空が好きなお兄さん?」
「はい…」
こほ、と軽く咳き込んで背中をさすると彼女の父親は少女を見下ろして微笑んだ。
彼が少女の家で働きはじめて数日が経った。
久々の労働に初めは身体がついていけなかったが、元々働くことが嫌いではない彼のこと。
すぐに周りとも打ち解けて忙しく仕事に精を出すようになった。
「でもなあ」
休憩しているときに仲間の労働者が彼を見て呟く。
「もうちょっとこう……」
ぎゅ、と彼の頬を摘んで笑う。
「このしけた面、どうにかならんかね?」
そう言うと周りの仲間たちも同意するように首肯いた。
摘まれた頬を擦りながら彼は困ったように微笑んだ。
「そうかなあ…」
「そうなのよ」
どん、と軽食を運んできた少女が元気よく彼の背にぶつかる。
彼はバランスを崩しかけながらも何とか持ちこたえ彼女を見た。
不思議よね、とつぶやきながら彼女は両の手で彼の頬をひっぱる。
「うーん…こうすれば少しは変わるかしら?」
困ったように見てくる彼の顔を彼女はそうやってしばらく引っ張って遊んでいた。
懸命に働いた後には、それなりの給料が手渡される。
感謝を伝え、彼は少ない荷物をまとめた。
「そうだな。行った方がいい」
少女の父親は別れのあいさつを告げにきた彼にそう言った。
「もっと色んなものを見に行けばいいさ」
そうすりゃそのしけた面もそのうち何とかなるだろう。
幸運を、と言って父親は陽に焼けた顔で誇らしげに微笑んだ。
「空が好きなお兄さん」
ひょい、と少女が顔を出した。
「また空ばっかり見ていたら、ここに引きずってくるからね」
分かった?と聞く彼女に彼はもちろん、と答えて笑った。
少女はきょとん、と目を丸くする。
「……なーんだ」
「え?」
そういう顔もできるんじゃない。
そう言って彼女は彼を見て嬉しそうに笑った。
どれどれ、と父親が彼の表情を覗き込む。
「……ああ、またしけた面だな」
まあまた来ることがあったら見せろや。
豪快に笑い彼の背を叩き、彼らは彼を送り出した。
彼は歩きだし空を見上げる。
「ユースケ!」
名を呼ばれて彼が振り向くと少女は両手で大きくバツ印を作っていた。
「歩いてるときぐらいは許して欲しいなぁ…」
これは前から好きなんだし。
苦笑し、彼は勢い良く前を向くと今度こそまっすぐ正面を見て歩きだす。
それを見て少女は満足気に微笑んだ。
「……まあ、道の正面にだって空は広がっているけどね」
fin.
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