うん、と寝返りを一つうつ。
そうしてぼんやりとした頭でああ端に寄らなくてはと思い、それを打ち消す思考で一条は目が覚める。
一度身についた癖は中々なおらないのか、雄介が冒険に行ってから数か月が経つというのに未だに時折迎えてしまう一日の始まりだった。
のぞみのぞむ
一条が長野に戻ってきてから三ヵ月が経った。
一年前とは別の感覚で瞬く間に季節が移り変わっていくのを、彼は仕事の合間に感じ取っていた。
時が経つのを知るきっかけは何も担当する事件の変化やカレンダーの日付が変わっていくことだけではない。
…それを思い出させてくれた当の本人が今どこでどうしているのかは、分からないが。
ぎしりと軋むベッドから起き上がり、あくびをかみ殺した。
今日は通常休暇。
こうして当たり前のようにそれが迎えられるのも、一年前とは異なる情況の一つ。
もう少し寝ていようかとも思ったが、はっきりと目が覚めてしまったために諦めた。
簡単に用意した朝食を食べ、後片付けをして、窓辺にある鉢植えに水をかける。
大きな事件があるときなど放っておかれる鉢植えであるが、今のところはその小さな芽は枯れる様子は見られない。
初めは枯らさないように気をつけるのに精一杯だったのだが…次第に、小さな双葉が成長していくのを見て楽しむ余裕が出てきた。
何時の間にか一条の部屋にぽつんと置かれていたその鉢植えは、カーテンの隙間から差し込む日に気持ち良さげに照らされていた。
溜まっていた洗濯や掃除などを手際よく済ませると、一条は準備を整え部屋を出る。
最近、行こうかどうか迷っている場所があった。
正確には…以前は行くつもりだったのだが、行く理由が消えてしまった。
季節に見合うだけの暑さになるという予報であるし、ここ最近のその暑さにいい加減参ってきてはいるのだが。
「……ずっと迷っているよりは、ましか」
自嘲気味に苦笑し、鍵を閉めた。
「…珍しいな」
三ヵ月ぶりに会った親友は、そう言って彼を出迎えた。
「……珍獣を見るような目で俺を見るな」
ついでに顔を出していこうか、と思って訪れた関東医大病院。
一年前は酷く慣れた診察室だったが、久しぶりに来てみると多少器具が移動していたり…彼のレントゲン写真が無かったり。
「まだ珍獣の方が可愛げがあるんじゃないか?」
それでも軽口を叩いてくる椿だけは何も変わっていないことに、苦笑した。
近況をお互いに伝え合い、気を効かせた看護婦が持ってきてくれた冷茶をすする。
春先よりも強い日差しが窓から差し込むのに、目を細めた。
「……一条」
「?」
呼ばれ、椿を見ると…彼は軽く頬を掻きながら言う。
「…あいつから連絡、あるのか?」
一条は苦笑を浮かべて、首を横に振った。
連絡は一度も無い…ただ、置土産の多さに気付くことが増えていくだけで。
「おい……お前」
「…お前こそ、沢渡さんから連絡もらえているのか」
そう一条が返すと、ぎし、と一瞬椿の動きが止まる。
「遺跡の調査の関係でたまに会うが……」
「………連絡、はしているさ」
ただ、あまりいい返事は貰えないけどな。
不貞腐れたように顔を背ける椿を見て、思わず一条は口元を押さえて笑みをこぼした。
「仕事あるんだろ?さっさと行っちまえ」
椿は野良犬を追い払う仕草で手を振る。
それに一条は首を横に振った。
驚いたように目を見開く椿に苦笑し、一条は言う。
「今回は仕事で来たわけじゃない」
「…………天変地異の、前触れか…………?」
怯えたような表情になる椿に、一条は苦笑を重ねた。
確かに去年の自分だったら、休暇があること自体珍しいことだった。
周りに散々言われ、それでようやく有給を消化してきたようなものだったし。
それに加えて…仕事も無いのに長野から東京まで来るということに、椿は驚いたのだと思う。
服装も普段と何も代わりの無いスーツであるし、これではそう思われても不思議は無い。
いくらそんな自分でもたまにはこういうときだってあるのだと、憮然としていたのだが……
「……ってことは、一体何の用で来たんだ?」
衝撃から復活した椿は、すぐに詰問を開始した。
それを一条は何とかはぐらかす……うまくはぐらかせたかどうかは分からないが。
ようやく追求を諦めた椿が、大げさにため息を吐いてこう言った。
「…ま、大体予想はつくがな」
果たして椿の予想は何だったのだろうか。
その後も世話になった色々な人たちのところに顔を出したが…みな、聞くことは同じだった。
そんなに自分の休暇が珍しいのか、と首を捻りながら一条は目的地へとつく。
夕闇が迫る、薄暗い山奥で車を降りた。
……去年、彼と来た場所。
突然呼び出され、連れてこられたこの場所で見たのは一面の星空だった。
今日も星は綺麗に見えているが…見にきたのはそれだけではない。
車を降りてから少し歩いた場所で立ち止まり、調べてきた方向を見やる。
スモッグでぼやけた夜景の上に、それでも小さく確かに火の花が開くのが見えた。
「……見えたか」
距離があるために、見えないかもしれないと半ば諦めていたのだが…次々と花開いては消えていくのが確認できた。
音は、聞こえない。
来年また見られるだろう、と去年言った。
テレビで花火大会のニュースを見て、一条は自分のそのことばを思い出した。
去年と同じ大会。去年とは違う場所。
変えたのは……その場所に一人で行けるだけの勇気は持ち合わせていなかっただけのこと。
出来るかぎり人気の無いところで、と考えた結果出たのが彼に教えてもらったこの場所だった。
来年、また二人で見たいと思っていた。
その頃にはきっと事件も解決し……きっと、二人とも無事で。
事件とは何も関係の無い立場のもの同士として、ただ共にありたいと。
……そう望んでしまうような、我侭な自分が生まれた頃だった。
一人で見ても意味は無いかもしれない。
それでも、開いては消えていくそれらは確かに綺麗だと思えた。
他に車も通らない静かな場所で、虫の声を聞きながらずっと花火を見た。
その虫の声の中に、じゃり、という足音が混じる。
こんな鄙びたところに他に来る人がいるのか、と思いながら一条はその場所から動かないでいた。
視線も動かさずにただ花火を見続ける。
今までよりも大きく花開いたその花火は去年雄介が好きだと言ったもののように思えた。
足音は次第に近付き、一瞬その音が止む。
不思議に思ったがさして気にも止めずに、一条はただ目の前を見ていた。
きっとその人も同じように目に入った花火を見ているのだろうと。
足音は再び動きだし…そして通り過ぎていった。
いい加減足音が聞こえなくなりかけた頃。
一体どんな人がこんなところまで歩いてくるのかと…何気なくその後ろ姿を見る。
次の瞬間、一条は走りだした。
その音に気付いたのか前を行く人も走りだす。
街灯が所々にしかない暗い山道を、ひたすら走った。
一条は、逃げる人を追い掛けるのは職業柄慣れている。
しかしおそらく前の人は…その気になれば容易く自分から逃げ出せるのだろう。
例えば道路脇の森に入れば、もう一条に追い掛ける術は無い。
もちろん自分はそれでも追い掛けることを止めないし、それを分かっているからきっと彼も危険な場所には逃げ込まない。
次第に縮まる距離の中、一条は叫んだ。
「……五代!」
びく、と彼は走るのを止めた。
それを確かめ、一条も立ち止まり、軽く荒れた息を整えた。
「………五代」
夜風が、小さく彼の髪を揺らした。
「…………通りすがりの、観光客じゃ…駄目ですか」
後ろ姿から、静かな声が聞こえる。
「……観光にしては、場所を間違えていないか」
ゆっくりと近付きながら、一条は言う。
少しのびた髪。変わらない声。
「こんなところで花火見てた人に言われたくないです…」
あーあ、とわざとらしく肩を落とす様が後からも分かる。
「…ここなら、会わずに済むと思ったのに」
街灯から少し離れた場所で立ち止まっていた彼が、ゆらりと振り向く。
逆光で良く見えなかったが、それでも雄介は薄く微笑んでいた。
「五代」
名を呼び、一歩近付くとその分雄介は後ずさる。
「…だから、通りすがりですって」
「……じゃあ……君」
「はい…何でしょう、刑事さん」
どこか面白そうに雄介は答えた。
久しぶりの呼び方に、一条も苦笑する。
そうしてそんな彼に合わせるように意識を変えた。
「…どうして、ここに?」
わざとらしく手帳を取り出して見せると、本格的ですねと雄介は微笑む。
「刑事さんこそ、こんなところにどうして?」
と首を傾げる彼に苦笑して、一条は手帳をしまった。
「そうだな………とりあえず、同行願おうか」
「……そう来ますか」
「ああ」
他に取るべき手段はいくらでもある。
そう真顔でいうと、雄介は軽く両手を上げて降参の意を示し…静かに、一条の方へと近付いた。
「花火、見たかったんです」
去年は誰かさんのおかげで見そびれたので。
二人でゆっくりと先程の場所まで戻りながら、ぽつりと雄介が言った。
「ただ、それだけで……また、行くつもりでした」
さらりと言う彼の瞳に迷いは無い。
横目でちらりとそれを確認し、一条は項垂れた。
「……すまない」
そんな一条を見て笑み、雄介は言う。
「いーんですよ」
「?」
「だって、もし追い掛けてくれなかったら…それはそれでちょっと悲しかったですし」
薄く笑む。
「…わがまま、だな」
「おかげさまで」
お互いに顔を見合わせ、苦笑した。
「……で、どこまで同行すればいいんでしょうか」
やっぱり署まで?と首を傾げる雄介。
「…そうだな」
考え込み、足を止める。
何時の間にか、車を停車させた場所の近くまで来ていた……そこからも、まだまだ大輪の華が開くのが見えていた。
「おー……」
嬉しげに目を細めてそれを見る雄介。
「こんな遠くても、結構見えるもんですね」
遠くを見遣る彼の横顔に、す、と顔を近付ける。
音は、聞こえない。
「…………また、見そびれちゃったじゃないですか……」
静かに顔を離した彼が悔しげに言うのを、一条は真っ正面から見つめて言った。
「また、来年見られるだろう」
「………一条さん………」
呆然と呟く雄介。
そうしてまた顔を近付けようとしたところで、は、と表情を変える。
「だ、駄目ですって!刑事さんなんですから!!」
慌てて身体を離す彼を追い掛けることはせずに、一条は苦笑した。
「…あとちょっとだったのに」
「な、何がですか……」
後ずさる雄介を見つめつつ、一条は口元を押さえて笑みをこぼした。
笑顔を貰ってきます、と言って旅立った彼は確かに旅立つときよりは笑顔を浮かべるようになっていた。
それでも。
「……まだ、足りないのか?」
無言で促し、また歩き始めながら一条は尋ねる。
「……はい………もっと、もっと貰いたくて」
ほら、俺わがままですから。
そう言って微笑む彼を引き止めることは出来ないと、分かっていた。
そうか、と小さく呟き辿り着いた車のドアを開ける。
「……どこに、連行されたい?」
「い……刑事さんの行きたいところでいいです」
もちろん取り調べ室以外ですけど。
自然な動きで助手席のドアを開けて滑り込みながら、雄介は答える。
「…分かった」
一条も車に乗り込み、首肯く。
「…まあ、ある意味取り調べ室かもな」
どこか楽しそうに言う一条を見て、雄介は苦笑した。
「………随分と、遠い取り調べ室ですねえ………」
「…まあ、な」
雄介の荷物が肩に引っ掛けたデイバッグ一つであること。
朝には出発すると言いながら、詳しい予定は決めていないこと。
それらを確認した一条が向かった先は、長野にある自分の部屋だった。
かちゃりと軽い音を立てて開いたドアの前で、立ち尽くす雄介の背中を軽く押す。
は、と我に返ってお邪魔しますと言いながら狭い玄関でいそいそを靴を脱ぎ、中に入った。
先に上がらせた雄介の後を追って一条がリビングの明かりを点けると、雄介はぼんやりと辺りを見回す。
「……どこか、変か?」
とりあえず今朝片付けたんだが…と一条が首を捻ると、雄介はゆるゆると首を横に振った。
「いえ……本当に変わってないな、って……」
「…そうか?」
部屋が変わったから、それなりに雰囲気は変わったと思っていた。
言われてみれば家具のほとんどは使い回しだし…変わっていないと言われれば、それまでかもしれない。
おずおずと歩きだし、雄介がテレビの裏側を覗き込む。
一条は苦笑して近くのテーブルに放り出していたリモコンで電源を入れる。
「……お、テレビが日本語喋ってる」
画面に映し出されたニュースキャスターを見て、雄介は嬉しそうに笑った。
「…見たい番組とか、あるか?」
「いえいえ。ただほら……第一日本語使うのも久々でしたから」
テレビに向かい合うように無造作に置かれたソファにぽす、と腰掛ける。
「だからほら、ちょっと嬉しくて」
そう言って彼は穏やかな表情で、今日のスポーツの結果を報せるキャスターを見つめた。
そんな彼の隣に一条が腰掛けると、自然な動きで雄介は距離を取る。
「……五代」
「だから…通りすがりですってば」
微笑みを浮かべたままでああ明日の天気は晴れですね、と呟く彼を一条は黙って抱き締めた。
「ちょ……!」
「五代」
身を捩り抜け出そうとする雄介を押さえ、肩に顎を載せるようにしてしっかりと抱く。
旅立つ前より確実に痩せたような、そんな腰に手を回した。
「だ、駄目ですってば…」
「何が、駄目なんだ」
「ええと……そう、セクシャルハラスメントですってば」
しどろもどろに言い訳をし、逃れようとじたばたする雄介を巧みに拘束する。
少し身体を離し、そしてじっと睨み付けてくる雄介の目を正面から見返して、一条は言った。
「…合意」
「してませんっ」
ぶんぶんと首を横に振り、動いた髪が一条の顔にかかる。
軽く目を細めて、頭を抱き込むようにして動きを止めさせる。
「むーっ……」
「五代」
「だ、だから…」
跳ねっぱなしの髪を優しく梳く。
「…五代」
「……だか、ら……」
ぴた、と抵抗の動きが止んだ。
だから、と小さく呟きながら雄介はぎこちなく一条の服を掴んだ。
「…だから?」
「……呼ばないで」
「嫌だ」
迷わず答えて、一条は静かに雄介の顎に手を当て軽く上向かせる。
そうしてまた名を呼ぶと、雄介は黙って目を伏せた。
「……いいのか?」
「……だって、合意なんでしょ?」
苦笑してぎゅ、と目を瞑る彼のその目元に一回、唇を落とし。
幾分強ばったその唇に、口付ける。
段々と深くなる口付けの途中で塩辛い味が混じったのには、お互い気付かないふりをした。
うん、と寝返りを一つうつ。
そうしてぼんやりとした頭でああ端に寄らなくてはと思い、それを打ち消す思考で一条は目が覚める……
だが、今朝は更にそれを打ち消す考えが浮かび、ぱ、と目を開けた。
朝日が差し込む部屋の中に照らしだされるものが自分しかいないことに気がついて、一条は一人苦笑する。
随分と、都合のいい夢を見ていたような…そんな気さえする。
しかし昨夜の記憶はあまりに鮮明に脳裏に止められていた。
加えて…明るい部屋の中で改めて周囲を見ると、いくらでもその証拠を見付けられる。
例えば手首にしっかりとついた歯形。
それを一体どうやって誤魔化そうかと考えるが……それすらも何だか心地よかった。
ぎしりと軋むベッドから起き上がり居間に行くと、台所から食欲を誘う香が漂ってくる。
「あ、おはようございます」
ひょい、と台所から顔を覗かせて雄介が微笑んだ。
「勝手に朝食作ってましたけど……いいですよね刑事さん?」
お玉片手に言う雄介に目を細め、一条は首肯き答える。
「ああ……すまないな、五代」
「だからー…」
ぶう、と頬を膨らませて調理に戻る彼を見送って苦笑する。
あくびをかみ殺し、窓際にある鉢植えに水をかけた。
気持ち良さそうに水を受けるその鉢には、ちょこんとリボンがかけられていた。
それじゃあ、と手を振り去っていく雄介を見送り、一条は県警へと向かう。
普段と何一つ変わらないその風景。
それを見ながら彼がのぞむものも、何一つ変わることは無かった。
fin.
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