暇な時間が欲しいと、久しぶりに思った。
いつか
何故自分は今こうしてカウンター席に腰掛け、アイスコーヒーを飲んでいるのかと一条は自問していた。
捜査の合間を縫って雄介と合い、二三の事項を伝えるだけだったはずなのに…引きずられるようにしてポレポレに連込まれた。
暑いからちゃんと身体休めないととか…それは確かにもっともなことだと思うのだが。
「あれ、コーヒー苦かったかなハンサムさん?」
ひょこ、とおやっさんが首を傾げる。
「あ、いえ…」
考え事をしていたもので、と謝罪しながら一条は良く冷えたコーヒーを一口飲んだ。
ちょうど良い苦みと酸味が、喉を通る。
「お口に合います?」
食器を片付け終わった雄介が、やはり同じように首を傾げた。
「…ああ」
「良かったぁ…五代雄介ブレンド、アイスコーヒー版です!」
にこにこと嬉しそうに笑いながら、雄介は布巾を手に取りカウンターを拭き始めた。
昼のピークは過ぎた頃で、客は一条の他に居なかった。
おやっさんは何かと一条に話し掛けている…冗談なのか、本気なのか良く分からない台詞は以前来たときと変わらない。
だが以前よりは、あまり戸惑わなくなった…ように一条は思う。
どこかテンポのずれたおやっさんの話を、やはり少しずれた台詞で雄介が補う。
そんな二人のやりとりを見ているのは、どこか楽しかった。
カラカラン、とドアベルが鳴る。
「ただいま〜…あ、五代さん!」
「おっかえりー…おお、皆で行ってたんだ」
荷物を抱えた奈々の後から、みのりと桜子も顔を出した。
やはり、少なからず荷物を持っている。
彼女たちはカウンターにいた一条に気が付いて軽く挨拶をすると、客が居ないのをいいことにテーブルに戦利品を広げ始めた。
「皆で、泳ぎに行くことになってるんですよ」
布巾を畳んで仕舞いながら雄介が一条に言う。
「おやっさんと奈々ちゃんが、一応ものを揃えて…後は各自の買物しに行くって」
彼女たちの分のアイスコーヒーを手際良く準備しながら彼は笑った。
「いいですよねー…こう、夏って感じで」
楽しそうに話す雄介に、ふと疑問を感じる。
…こんなときにまで、こんな質問をしなければならない自分が情けないと一条は思った。
「…君は?」
「俺は、お留守番です」
いっつもサボってますからね、こんなときくらい働かないと。
「…そうか」
一条は黙って、アイスコーヒーを飲んだ。
彼がそうだと判断したのなら、自分が口を出すことは無いと思う。
それに…何かがあったときに、すぐに連絡がつく場所にいてもらえた方が助かるという事実は否めなかった。
「…ガムシロ、入れますか?」
「…いや、いい」
雄介は苦笑して、テーブルにアイスコーヒーを運ぶ。
ありがとー、と声があがり、テンポのずれた兄妹の会話が始まるのを聞いて一条はようやく気持ちを緩めた。
どこに泳ぎに行くのかと…奥から戻ってきたおやっさんも加わって賑やかな話し合いが始まる。
「やっぱり海がええんと違う?」
「や、ここは手頃なとこでプールでも」
「…おっちゃん、金無いんか…?」
会話に何となく耳を傾けながら、一条はアイスコーヒーを飲み干した。
「一条さんは、泳ぐの好きですか?」
「え…」
気が付くと、雄介がカウンターに戻って来ている。
「…嫌い、ではないな」
一番最後に泳いでから数年が経つ…一通りの型は泳ぐことが出来るのだから、得意だと言えるかもしれない。
だがそれも学校の授業の中で必要に迫られて覚えてきたようなもので、泳ぐのを完全に楽しむことは少なかった。
それに…
「…ちょっと、苦手かもしれないが」
「そうなんですか…」
拭いたお盆をカタンと置き、また新しくコーヒーを用意する。
「君は?」
何やら先程とは違うものを準備しているのを見ながら、一条は反対に尋ねてみた。
「んー…とりあえず特技にはたくさんカウントされてます」
よいしょ、と冷蔵庫をあけて中からものを取り出す。
「…たくさん?」
「ですから、クロールに平泳ぎに背泳ぎに…って、型ごとで」
ちょっとずるいですが、と苦笑する。
「あと、潜水とか好きですねー」
「潜水…」
「ま、ただひたすら潜るだけなんですけど」
手のひらを上から下に動かし、潜る様を雄介は示す。
「潜って、水の中から水面を見上げるのが好きなんです」
お日さまの光が反射してきらきらしてて、自分の吐いた息が泡になってぶくぶくって。
「プールとか、海って…ちょっと暗くて恐い場所あるじゃないですか。…でも、上見てるとそんなでもないんですよ」
「…確かに、綺麗だろうな」
「見たこと無いですか?」
「いや…」
小さい頃には見たような、あるいはテレビで見たのか…そんな曖昧な記憶しか一条にはなかった。
明るく青い水の中を、透明な水泡が浮かんでいく光景。
「だったら、いつか暇出来たら行きません?」
海でもプールでも、とにかく泳ぎに。
「…暇が、出来たらでいいのなら」
「いいですよー…も、いつまでも待ちますから」
楽しそうに笑って、雄介は親指を立てる。
その仕草を見て、一条は顔を少し綻ばせた。
…薄暗く冷たい印象が強かった水が、彼の話を聞いていると逆に思えてくるのが不思議だった。
明るく暖かな水に抱かれて、光る水面を見上げてみるのは確かに楽しいかもしれない。
トン、と目の前に新しい飲み物が出される。
「五代雄介ブレンド、カフェオレ版です」
砂糖多めにしておきました、と目の前で微笑まれる。
「あ…すまない」
本当はアイスコーヒーだけで辞するつもりだったのに、こうして用意されてしまうと中々断れない。
…何より、その甘そうな飲み物はとても美味しそうに見えた。
そして事実、それは本当に美味しかった。
居心地の良い空間から何とか抜け出て、一条は車に戻る。
突き刺すような日差しに目を細めて、熱を持った車のドアを開けた。
暑い車中の中…つい先程雄介とした会話を思い出す。
…いつか、本当にいつか。
緩く流れる空気を楽しめるときが来ればいい。
そんな暇な時間が欲しいと、久しぶりに思った。
fin.
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