もしもこの想いに始まりがあるのだとしたら、
それはきっとどうしようもなくささやかなこと。
始まりのうた
「あーっ、楽しみだなあ…」
何だかとても嬉しそうに彼が呟いたのが聞こえた。
その声に思わず一条が顔を向けると、雄介は申し訳無さそうに頭を掻く。
「あ、すみません…独り言言っちゃって」
「いや…」
謝ることはない、と答えると、また元の嬉しそうな顔に戻る。
えへへ、と苦笑する姿を見て不思議な奴だと…一条としては好意的に受け取った。
未確認の事件に協力してもらうからには、警察の情報も逐次知っておいてもらった方がいい。
そしてもちろん、一条としても彼の行動を出来る限り把握しておかなければならない。
そう考えてこまめに雄介と連絡を取り始めてから、約二ヵ月……始めは戸惑いを隠せなかった彼の個性に慣れるには、程々の期間だった。
彼が勤める喫茶店が落ち着いた頃を見計らって呼び出し、会話を聞かれる危険の少ない場所で落ち合う。
その結果人気が少ない公園などになるのだが、そこで会う度に彼の行動には驚かされた。
自分では気にもとめない、ささいなことに目を止める。
空や海の色、雲の形、木々の成長、通り過ぎた子供の様子…それらに目を止め何気なく会話に混ぜてくる。
本当に変わった奴だ、との感想はもちろん口には出していない。
いかに彼に慣れてきたとはいえ、そこまでの軽い口を叩くだけの器用さを一条は持っていなかった。
今も隣を歩く彼は、まだ嬉しそうな表情のまま。
不思議に思いながらその横顔を見ていると、視線に気が付いたのかまた照れ臭そうな顔になった。
「やっぱり、顔弛んでます?」
「…弛む、というか…」
フォローしようとことばを探したが、いいことばが出てこない。
「…嬉しそうには、見えるが」
仕方がないので思った通りのことを口に出すと、ますます雄介の笑みが強くなった。
「だって、嬉しいんですもん」
「…そうか」
噛み合ってはいるものの微妙な会話に、一条はあきらめたように歩を進める。
既に用件は終わっていて、後はそれぞれ公園の外に止めた車やバイクに戻るだけ。
事件に関連する話の途中は至極真剣な表情をしていたが、今の彼にその面影は無かった。
耳を澄ますと鼻歌でも聞こえてきそうな、そんな表情…
…と、澄ますでもなく鼻歌が聞こえてきて一条は軽く眉を寄せた。
まさか自分が戦い以外で彼の行動を読めるとは。
「…あれ?どうかしました」
「…いや、何でもない」
渋面に気が付いたのか、雄介は不思議そうに一条を覗き込んでいた。
そうしてそのまま、ふふ、と息を洩らすように笑って、目を細める。
「明日ね、人と会うんです」
一条が黙って聞いていると、歌うように雄介は続けた。
「俺の、すっごく大事な人」
「約束したのはずっと前だから、忘れられてるかもしれないけど」
「でもきっと、待っててくれそうな気がするんです…ま、ただの勘ですけど」
はにかむように笑うその顔は、どこか複雑な色を持っているようにも見えた。
…詳しいことは分からないが、忘れられている可能性が高い約束なのではないか。
もちろんそれは彼自身も分かっていて、それでも楽しみにしている。
「…五代雄介」
「はい」
思わず声をかけると、雄介はぱちりと目を瞬かせて一条を見る。
つい今まで見えていた複雑な色はきれいに消え去っていた。
まっすぐな視線を受けとめながら、一条は考えを巡らす。
「…君の勘は、当たるからな」
そうして選ぶようにして言ったことばに、雄介は嬉しそうに微笑んで親指を立てた。
「はい!もう、絶対に来てくれますって!」
「…そうか」
その後別れるまで鼻歌混じりで上機嫌な彼を見ながら、一条は思った。
明日未確認が出ないようにと、一体何に対して祈れば良いのだろうかと。
…残念なことに、結局彼らは日常と化した非日常へとその身を投げ出すことになるのだけれど。
***
昼間の忙しさが嘘のように静まり返った署内で、一条は一人机に向かっていた。
既に日付は変わろうとしているところで、報告書も出来上がりかけていた。
そんな中、一条の携帯が着信を報せる。
「はい、一条です」
『あ…俺です、五代です。夜分遅くすみません』
遠慮がちな声が耳を擽る。
「いや、大丈夫だが…どうかしたのか?」
『や、一条さん怪我無いかなって思って…ほら、今日の』
囮となったことを言っているのだと分かり、一条は首筋を撫でた。
確かにあれは、心配をかけても仕方の無い状況だったと自分でも思う。
恐ろしいまでの腕力や、間近に迫った奥の見えない瞳など…思い出すとぞっとするが、今こうして生きている。幸運にも、酷い怪我は無かった。
「ああ…あれなら、何ともない。君こそ大丈夫か…?」
身体もそうだが…大事な人に会うとの約束があると言っていた。
未確認を倒して急いで立ち去る彼の後ろ姿を見送ってから、それが気掛かりだった。
『はい!もー…約束もちゃんと果たせました!』
「そうか…」
それなら良かった、と安心する。
彼を巻き込んでしまっている現状が、歯痒くてたまらなかった。
彼自身が納得して受けとめているとしても…それでも、悔しさは変わらない。
だから彼がやりたいことが少しでも出来たのなら、本当に嬉しかった。
一瞬、彼の声が変化する。
『…あの、一条さんはまだ仕事ですか?』
「ああ、そうだが」
『うあー……あんまり無理しないでくださいね……今日はちょっと無茶っぽかったですし』
「…そうだったか?」
『そです。ちょっと俺無線聞いてて焦りましたもん』
「…すまない」
自分に出来ることは…と考えた結果出た最善策だと思ったのだが…彼には不評のようだった。
だが君こそ…と思った一条のこころを読んだかのような声が返される。
『…まあ、お互い様ですけどね』
電話の奥で、彼が苦笑したのが分かった。
『ま、俺も頑張るんで…一条さんも無理しすぎないでくださいね。無茶は駄目ですよ』
「…ああ、分かった」
『じゃ、また』
「ああ」
ぷつ、と通話を終えた。
しばらく携帯の画面を眺め、通話時間の表示を見守る。
わずか数分に満たない通話。
それなのに。
「……不思議な、奴だ」
そのときこころに灯った暖かさを、一条は慣れないままに受けとめた。
fin.
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