俺の特技の基本事項は、みんなを笑顔にすること。 
 最新の特技もそのために身につけたんだし……
 ……だから、そんな顔しないで。
 笑ってくれれば、いーんです。



basis



 彼の背中を見慣れたつもりでいた。
 闘いが終わって一人佇む彼に駆け寄ったことは、もう数知れない。爆風が吹き荒れる中どこかぼうっとしているように感じられるその背中に近寄ると、決まって彼は振り向いて親指を立ててこう言うのだ。
 「一条さん」
 満面の笑顔と共に。



 今、自分の近くには多くの同僚たちがいる。自分同様、第37号を連れ去った雄介を心配して駆け付けた…ようやく出来た、自分以外の彼の理解者たち。いつもと違う雄介の…第四号の闘いぶりに何を思ったのかは分からないが、皆一様に重苦しい雰囲気を纏っている。  
 ……いや、それは自分もか。  
 そう考えて一条は煙る湖畔を見つめた。  
 ぼんやりとだが、雄介が立っているのが確認できる…いつものように、こちらに背を向けて。
 いつもと同じはずのその姿に、だが一条は強い不安を覚えた。この距離なら自分たちが来た車の音だって、閉められたドアの音だって聞こえていたはずだ。  
 なのに、何故振り向かない?  
 ……何故、振り向いて……  
 刹那、彼がゆっくりと一同の方を振り向いた。  
 ようやくにして振り向いた彼の表情は、まだ消えていない湖畔の煙に紛れてよく見えない。誰もがことばを発するのを躊躇う程の沈黙が落ちる。
 そのうちに、いつも通りの声が沈黙を破った。

 「一条さん」

 その声に弾かれたように一条が目を見開く。
 何時の間にか煙は晴れていた。
 「五代…」
 呆然と彼の名を一条は呟く。
 ばしゃばしゃと水の中をゆっくりと歩いてくる彼は。
 当たり前のように、いつも通りに笑っていた。

***

 未だ眠り続ける生田和也の無事を改めて確認すると、雄介は静かにその部屋を出た。なるべく音を立てないように静かにドアを閉める。
 「……どうだった?」
 廊下で待っていた一条が声をかけると、雄介は笑って親指を立てた。
 「よく寝てます。…いい夢見てるなぁ、って感じで」
 「そうか」
 つられて笑みをこぼしながら、一条は雄介を促して歩きだした。
 「で、君はこれからどうする?」
 「んー…することないでしょうし…先に帰って店手伝いに行きますよ」
 今からだとちょうど夕飯どきには間に合いますし。
 一条の後を追って階段を降りながら、雄介はそう言った。
 肩越しに一条が振り返る。
 「…疲れているんじゃないか?少し待てば一緒に戻れるが…」
 都内での移動ならともかく、それなりの距離を運転するのは少々危険ではないか。BTCSなら頼めば搬送してもらうことが可能なはず。
 懸念した一条が言うと雄介は笑って否定した。
 「大丈夫ですって。この間も変身した後に店の手伝い思いっきり出来ましたよ?」
 「……そうか」
 階段を降り切って、二人並んで廊下を歩く。
 そう言われたらそれ以上何も言えず、一条は押し黙った。
 ……初めのうちは変身する度に…そして後には新しい色になるごとに強い疲労感に襲われていた雄介だが、近頃では変身後も平気で動き回れるようになっていた。変身することは当たり前のことだと身体が受けとめてしまったのだろう、と苦い表情で言った椿を一条は思い出す。 そんなときでも雄介は、そんな体力ついたのなら思いっきり山登れますね、などど明るく笑っていたのだが。
 「……本当にいいのか?」
 自分でもしつこいと思いながら、一条は横を歩く雄介を見た。
 雄介はすぐに首を縦に振る。
 「本当に、だいじょぶですって」
 心配性ですねぇ、と言って雄介は苦笑した。
 「…心配してくれるのはありがたいんですけどね」
 一条さん、心配しすぎるから。
 そう言って合わせられた視線を、一条は呆然と受けとめた。
 「……五代……?」
 「…じゃ、すみませんお先に」
 何時の間にか着いていた外で、雄介は迷わずBTCSに跨がりメットを被った。回りにいる警察官に頭を下げてバイクを走らせ去っていくその背中を一条はただただ見送る。
 最後に見た彼の表情が、こころに引っ掛かっていた。
 ひとりに、なりたいんです。
 苦笑の奥で、そう瞳が言っていたように見えた。

***

 目の前の職務を一条は黙々とこなし…瞬く間に、箱根での仕事は終了した。もちろん他の本部員たちの手際の良さも仕事が早く終わったことの原因である。そのことに改めて感謝しながら、一条は慣れた覆面パトカーに乗り込んで東京へと向かう車の列に連なった。
 静かに車を走らせる。何かを聞く気にもなれず、ただ通り過ぎる車の音と自分が走らせている車の音だけが一条が耳にする全てだった。
 自然と今日一日のことを思い出す。
 ……つらい、事件だった。
 生命に貴賎は無いとはいえ、将来を約束された青年たちが悲惨な最期を迎えていくのを見ているだけというのは何時にも増して遣る瀬無い思いが胸を満たす。加えて、数日後には絶対の死を迎えると分かっているのに救ってやれないというもどかしさ…これは自分よりもあの友人の医師の方が強くそれを感じていただろう。
 目の前にある生命を救ってやれない無力感。
 結局足を踏み入れることが出来なかった病室から聞こえてきた断末魔、そして悲鳴。
 何も出来ない自分が腹立たしく……だからこそ、出来るかぎりのことをやろうと事件に立ち向かった。きっと彼も同じことを考えていると思ったのだが。
 ……だから、なのだろうか。
 「……俺、悔しいです」
 本当に悔しそうなあの声の、しかしその表情をきちんと見ることをしなかったのは。
 「どうして、何も出来なかったんだろう…って」
 沈んだ表情をしてはいたものの、こんな事件の最中なのだから無理もない…とそのくらいの認識で自分の思考に埋没してしまった自分を、彼はどう思ったのだろうか。
 消え入るように呟いた、そのことばの奥で考えていたことは自分と同じではなかったのだろうか。
 今はとにかく奴らの犯行を止めることが最優先で…自分を責めることはあっても、それにずっと立ち止まっている訳にはいかない。薄情なようだけれども、そうでもしないと奴らには対抗できないから。つらくて、どうしようもないけれど…その思いを味わう人を最小限にするために、自分たちは。
 ……それなのに、その彼の闘いがいつもと違うと気がついたときには、もう彼の姿は自分の目の前にはなかった。
 急いで駆け寄って見たその背中も、振り向いた表情もいつものものだったけれども…幾度も拳を振り上げる姿と、別れ際に見せた表情は…いくら考えても見たことは無かった。
 一体彼は、何を思っていたのだろうか。
 対抗車線のヘッドライトの群れが目に飛び込んできて、一条は目を細めた。

***

 無事に本部に到着して、書類等をまとめるともう日付が変わろうとしている時刻だった。
 それでも疲れ切った身体を休めるために官舎に向かう。一瞬雄介の店に行こうかとも思ったが、時間も時間な上どうにも踏ん切りがつかなかった。自分たちはもうそんな躊躇いを覚えるような関係では無いはずなのだが、どうにもそういう行動を取るにはまだ照れの方が先に立つ。
 ……照れというよりは、戸惑いと言った方がいいのかもしれない。
 約束もなしに押し掛けるのは迷惑ではないかとか、こんな時間に行くのは非常識ではないかとか。雄介が自分を訪れるときにはそういうことはあまり気にならないが、自分からするとなると話は別だった。
 それに…彼が今、本当にひとりになりたいのなら…自分の存在は邪魔以外のなにものでもないだろうから。
 そう考えて、一条は深いため息をつく。
 ……こういうときに限って、彼に会いたい思う自分がひどく馬鹿に思えた。
 ひどく落ち込んだ気持ちで官舎に辿り着いた一条は疲労感の残る身体を叱咤しながら自分の部屋へ行き鍵を開ける。
 その途端に、ドアが動いて一条の鼻先のすぐ近くで止まる。
 もしかしてと思う間もなく明るい声が部屋の内側から聞こえてきた。
 「お帰りなさい、一条さんっ!」
 「……………」
 ああやっぱり、と小さく安堵する胸を撫で下ろし、ドアをきちんと開けると、
 「……五代」
 いつもと変わらない笑顔で笑う彼がそこに立っていた。
 片手にお玉、片手に見覚えのある鍋つかみ、着けているのはエプロン、後から流れてくるいい香り……とくれば彼が何をしていたのかは明白で。会えて嬉しい、という素直な気持ちを遮って一条の口をついて出たのは、しかし一番気に掛かることだった。
 「……もういいのか?」
 「?何がですか?」
 ぱくぱく、とそれに喋らせるように鍋つかみを動かしながら雄介は首を捻る。
 別に演技しているとかそういう仕草では無かったから、つい一条は顔をほころばせた。
 「いや、あの……」
 「……ただいまは?」
 首を傾げながら、ねえ?と軽く拗ねたように口を尖らせる雄介に苦笑しながら、一条は結局素直にそのことばを口にする。
 「……ただいま」
 ぱたん、と後ろ手でドアを閉めた。

***

 一条がシャワーを浴びている間にテーブルの上には食事の準備が整えられていた。
 夜も更けているということで、あまり胃に負担をかけないような軽いメニューを眺めながらため息をつく。野菜を煮込んだスープに柔らかそうなロールパン、コップには何だかよく分からないものが満たされている。
 水分が飛ばないようにがしがしとタオルで髪を拭いて手で適当に整えてからテーブルの前につく。不思議そうにそのコップを眺めていると、マーガリンやらジャムやらを抱えてきた雄介が笑った。
 「それね、ミックスジュースです」
 「……何のだ?」
 「んー…とにかくいっぱい入れたから忘れちゃいました」
とりあえずリンゴベースかな?
 持ってきたものをテーブルの上に並べると、そう言って自らコップをとって一口飲む。
 すると雄介は笑顔のまま一条の分も手にとって、無言で台所へと戻っていった。
 「……五代?」
 不思議そうにその姿を見ていると、台所から出てきた彼はにこにこしながらまっすぐ洗面所に向かう。
 「………」
 ぱたん、と閉じた戸の向こうから雄介がうがいをする音が聞こえてきて、ようやく一条も事態を飲み込んだ。戻ってきた雄介の心なしか青ざめた顔を見ながら、一条は苦笑する。
 「……失敗するとは珍しいな」
 「や………そうでもないですけどね」
 味見し忘れてました、と言って縮こまる雄介を見て更に笑みがこぼれそうになったが、何とかそれは抑えた。
 いただきます、と言って湯気の立つスープを口に含む。
 それはどうやら成功作のようで、腹が減っていたことを差し引いても美味しいと思った。

***

 明日早いから、と食事の後片付けをするその背中に向かって言うと、分かりました、と返事をされた。
 「んー…朝のメニューもこれでいいですか?」
 ちょっと作りすぎちゃって、と困ったような声が聞こえてくる。
 「ジュースなしでな」
 少し悪戯心を起こしてそう言うと、ヒドイや、と笑いながら雄介が台所から出てきた。
 「リベンジで作ったら駄目ですか?」
 「……成功させてくれよ?」
 ふざけるように会話しながら寝室に向かう。
 ぱち、と電気を点けると綺麗に整頓された部屋が照らされた。…確かこの部屋に戻るのは久しぶりで、最後に見たここはこんなに整ってはいなかったはず。
 おかしいな、と思って一条が雄介を見ると、照れたように笑う視線とぶつかった。
 「……助かった」
 「どういたしまして」
 本当にもう、自分でちゃんとしないと駄目ですよー?
 そう言いながらもちっとも迷惑そうではない雄介。
 そんな彼に一条はすまない、と苦笑した。
 家事全般は嫌いではないのだが、ここ最近はそれをしている時間がないものまた事実。気がつくと小まめに遊びにくるようになった彼が何時の間にかそのほとんどをこなしていてくれた。
 その部屋を見渡して、一条はあることに気がついた。
 窓にかかっているはずのカーテンが、無い。
 「…………」
 もしかして、と思いながら一条は今度は半睨みの視線を雄介に送った。
 視線の先でしまった、と揺れる瞳を見付けてため息をつく。そういえば洗濯機が動いていたことを思い出す…その時にはただ普通の洗濯をしてくれたのかと思ったのだが。
 すたすたと窓辺に一条が歩み寄り窓を開けて外壁を見ると、予想どおりのものがそこにあった。
 ぱっと見には気がつかないが、よくよく見ると…そこには靴のあと。
 「………五代」
 彼の方を見ようと振り向いたそのときに、洗濯機の終了のブザーが聞こえてきた。
 「あ、持ってきますねっ」
 ぱたぱたと雄介は走り去る…途中でどこかにぶつけたのか、物音がしたりして。戻ってきた彼の手には重たそうなカーテンが抱えられていた。
 てきぱきと金具をつけて、レールに戻していく作業を見ながら、一条はため息をついた。
 「……また、壁を登ってきたのか……?」
 「うーん…ちょっとカーテンに靴つけちゃったのが敗因でしたね」
 「何が敗因だ!」
 あれほど壁から来るのはやめろと言ったのに…と言いながら、今更ながら桜子の苦労が分かったと一条は思う。それでも自分の部屋では一度注意したきりやっていなかったのにと一条がまたため息をつくと、作業を終えた雄介が抱きついてきた。
 「こら」
 「いやもう、本当すみません」
 肩口に顔を埋めながらそう謝られても、何ら反省の色は見えない。更に口調が明るかったりするものだから、ますますそのことばは上滑りして一条に届いた。
 「……反省の色が見えないな」
 思ったとおりに口にすると、そんなぁ、と情けない声がくぐもって聞こえてくる。引き離そうと力を込めると、それを上回る力で抱き返された。
 「五代」
 明日早いから、と言っても彼は離れる気配を見せない。
 こうした彼のスキンシップはもう慣れたものであったし、しかももうそろそろ肌寒さを感じるころだから真夏と違って邪険に扱う気もしない。ただちょっと息苦しさを感じて一条は身を捩った。
 「……五代?」
 顔を伏せたままなので彼の顔をうかがい知ることが出来ない。
 そうして黙って自分を抱き締め続ける雄介に、数時間前まで感じていた不安が再び一条を襲った。彼を目の前にしながら、その不安をすっかり忘れていた自分に気がついて一条は呆然とする。
 何気ない会話や触合いが心地よくて、ただそれだけを享受して…それ以上は何も考えなかった。いつの間にかこうして共にいることが心地よくて、二人だけの時間を好むようになっていて…それなりに、それなりの時間も過ごすようになっていた。彼に会うとそれまで感じていた不安や焦燥など、全て消えてしまう…そしてそれに気づくこともなく。
 外界から隔てられた世界で、笑い合っていられるしあわせに身を浸すことに慣れ切っていた。
 ふ、と…そんな自分たちの関係が、ままごとみたいに思えた。
 現実から目を背けて、綺麗事だけが行なわれる小さな世界。
 その中なら自分たちは、いつだって笑っていられる。
 どんなにつらいことがあった日もそれを心の端に繋ぎ止めながらも、笑う。
 ………本当に、それでいいのだろうか。



 「あたたかい……」
 沈んだ思考を浮かばせたのは、沈ませた本人の無邪気な声だった。
 「ごだ…?」
 「もー…近ごろ本当に涼しくなってきましたよねぇ」
 猫が戯れるように顔を一条の胸に押しつけて雄介が笑う。
 動いた拍子に見えた彼は、やっぱり嬉しそうに笑っていて。
 無言で跳ねた髪を梳いてやると、その目が細められた。
 「……こたつでも出そうか?」
 「んー…それはまだ早いでしょ?」
 感じた印象そのままに言うと、雄介はううん、と首を捻った。
 何しろ彼はまだ半袖で…冷えてきたな、と思ってもまた暑い日があったりする最近では、仕方がないのだけれど。それでも深夜となるとさすがに冷える。一条自身もシャワーを浴びた後に着たTシャツとジーンズだけだったので、雄介の体温は心地よいものだった。
 「……寝るぞ?」
 だから明日は早いんだから、とまだしがみついている雄介の頭を軽く小突くと、痛いです、と苦笑された。

***

 自分を抱き締めたまま眠りについた雄介の頭を撫でながら、一条はため息をつく。もう、今夜だけで何回したか分からないそれは、する度に重苦しい気持ちを増やしていくようで…それが嫌でまた息を吐く悪循環を一条は続けていた。明日は早い、と言ってもこんな心情では眠れなく…かといって、ただ無邪気な寝顔をさらしている腕の中の彼を恨める訳もない。
 安心しきった表情で眠りこける雄介の髪をそっと掬い上げる。初めて会ったときより大分のびたそれは、素直に一条の指の間をくぐって滑り落ちた。
 ……初めて、会ったとき。
 そのときに最悪の印象を残したあの彼が今腕の中にいると思うと、何だか不思議な気がする。
 捜査をしていた自分たちの邪魔をしてきて…勝手に現場に上がり込んで。後になってあの行動は何も悪気があってやった訳じゃないと分かったけれども、当時としてはもちろんそんなこと分からない。身勝手な民間人に、ひたすら苛立っていた。
 それが違うのかもしれないと思い始めたのは初めて会った日の翌日。
 燃える教会の中で叫んだ彼に、目を奪われた。
 「…こんな奴らのために!」
 恐ろしい化物に躊躇う事無く立ち向かって。
 「これ以上、誰かの涙は見たくない!!」
 その誰かの涙の方が、目の前の存在と闘うよりもずっと恐ろしいのだと。
 「みんなに笑顔で、いてほしいんです!」
 だから、闘うのだと。
 そうして、拳を突き出すごとに変わっていったあの体が…目の前で眠っている。
 今、彼の拳はただ一条の服を握り締める為だけに存在している。そのことが素直に嬉しくて、一条は笑みを漏らした。眠っているのにその力は弱まる事が無く、むしろ息苦しささえ感じられるけれど…彼があんな風に拳を振り上げる姿を見るよりは、それこそ比べる必要がないほどに、ずっと良い。
 そう思って一条は雄介の背に手を回す。布越しの暖かな感触が心地よかった。
 ……それにしても本当に息苦しく…怪訝に思った一条が雄介を覗き込むと、彼は。
 何時の間にか苦しそうに眉を寄せていた。



 「……五代?」
 どうしたのかと驚いた一条が軽く雄介を揺さ振る。
 きつく抱き締めすぎただろうかとか、それとも自分で抱きついておきながら苦しくなったのだろうかとか考え…そして、何か悪い夢でも見ているのかと考える。
 「……っ…」
 ただ眉を寄せているだけだったのに、うなされるような声が混ざりはじめてそれは確信となる。
 「…五代…五代……!」
 名を呼んで何度か揺さ振るうちに、彼は目を開いた。
 「あ……」
 小さく漏らした声と、軽く荒れた息と…驚愕に見開かれた眼。
 痛々しいそれらが一条の胸に突きささる。
 「……五代……?」
 大丈夫なのかと、一条は彼の目を覗き込む。
 空を見るように焦点のあっていなかったその瞳が、瞬間ぱちりと瞬かれて、
 「……あ、大丈夫です」
 心配かけてすみません、と笑った。
 「……………!」
 「…一条さん?」
 何驚いてるんですか?と雄介が微笑む。
 その笑顔は全くいつもと何も変わらないもので。
 「………?」
 きょとん、と目を丸くした雄介が目の前でことばを無くした一条を不思議そうに見つめて笑う。
 「……五代」
 「はい」
 何ですか?と枕に顔を押しつけるように首を傾げたその頭を、一条は抱き込んだ。
 「わ…」
 驚いた声を上げるのに構わず、自らの態勢を上にしてしっかりと抱える。そして黙ってされるがままになっている雄介の唇を柔らかく塞いだ。
 ただ触れるだけのそれをゆっくりと離して、雄介の目を見据えて一条は言った。
 「……無理して、笑うな」
 それを聞いた雄介の目が再び丸くなった。
 「…無理なんか、してませんよ?」
 「嘘つけ…!」
 「嘘じゃないですって」
 そう言いながら雄介はまた笑みを浮かべた。
 「…嘘に見えたんですか?」
 「……違う、が」
 あまりにも自然に、違和感なく笑うから。
 「……嫌な夢を見ていたんじゃないのか?」
 それなのに、すぐにきれいに笑うから。だからそれが却って気にかかったのだと…
 素直に言うと、雄介はそうですか?と苦笑した。
 そして一条の背に手を回して、彼はううん、と唸る。苦しかったかと身を起こそうとした一条を、しかし雄介は回した手に力を込めて引き止めた。
 「あの、ですね…」
 軽く躊躇うように雄介が口を開く。
 「……辛いときに笑顔でいれるのって、格好いいと思いませんか?」
 「な…」
 一条はまたことばを詰まらせた。
 「……辛い、のか?」
 「そりゃ…まあ」
 これ言ったら格好悪いですかね、と苦笑しながら雄介は言った。
 「……ああいう事件を辛くない、とは言えないです」
 目を閉じて、息を深く吐いた。
 「………そうだな」
 それについては何の異論を挟む余地はない。あんな事件に対面して、辛くないと言ったらそれこそ嘘になるだろう。特に雄介の性格を考えるとその辛さは計り知れないものになる。一条でさえ…警察という組織に身をおいてしばらく経つ立場でさえその辛さに慣れはしないし、慣れるべきではないと思う。
 だが、それとこれとはまた話は別だった。
 目を閉じたままの雄介の頬に手を滑らせる。
 「だからといって、俺の前でまで格好つける必要はないだろう」
 「えっ?ありますよっ」
 一条がそう言った途端に雄介の目が開いて、そんなヒドイですよと抗議してきた。
 「……何があると……」
 戸惑う一条の背に回していた手を雄介は滑らせて後頭部に持っていき、引き寄せる。
 そして今度は雄介から唇を重ねた。
 すぐに離れて、それこそ一条の目と鼻の先で…
 「好きな人の前では、格好つけたくなりません?」
 雄介はそう言って、にっこりと笑った。
 「……そういう、問題なのか?」
 「いや、重要な問題ですよっ!」
 真剣に言う雄介を見ているうちに何だか一気に力が抜けて、一条はぐったりと彼の上に身を投げた。
 「うあ、一条さん重いー」
 「……知るか」
 ふざけるように不満を上げる雄介を睨みながら、一条はわざと体重をかけてやる。
 ぐええ、と蛙のような声を上げながら、雄介は嬉しそうに笑った。
 また笑う、と一条が呟くと雄介はだって、と苦しげな息の中言う。
 「だって…それに、ね」
 「…?」
 「俺が笑うと、一条さんも笑ってくれるし」
 俺一条さんの笑顔好きですから。
 そう言って、しあわせそうに笑った。



 「…………」
 それを見て、無言で一条は雄介からおりて彼に背を向ける形で横になる。
 「一条さーん?」
 こっち向いてくださいよ、と肩を叩かれても一条は振り向かない。
 もしもーし?と言いながら雄介は後から一条を抱き込む。しばらくぬくぬくとその暖かさを味わっていた雄介だったが、一条のあまりの無反応さに軽くすね始めた。
 「……寝ちゃった?」
 雄介が小さく呟くと、ようやく肩越しにながらも一条が振り向いた。
 「……君が、俺の笑顔が好きだと言うように」
 ゆっくりと、呟く。
 「俺も、君の笑顔が好きだ」
 「…そですか?」
 「ああ」
 ごろ、と寝返りをうって、一条は雄介に向き合う。会話の内容にはそぐわない、至極真面目な表情で彼は話を続けた。
 「……でも、いくら好きだと言っても…辛いときの笑顔はこっちも辛くなる…」
 「………」
 す、と雄介の手が一条の背に回される。
 「……だったら」
 考えても分からなかったんだが、と一言おいて一条は言った。
 「…辛くない君の笑顔を見るためには、何ができるんだろう…と」
 「……え?」
 雄介が一条の顔をまじまじと覗き込む。
 真剣に悩んでいるその様子が何だかおかしくて、雄介は思わず吹き出してしまった。
 「……笑うな」
 「え、笑顔が見たいんじゃないんですか…!?」
 ひいひいと苦しそうに笑う雄介を少しむっとしながら見て、一条はまた背を向けようとする。
 それに気がついた雄介が、その寸前で必死に止めた。
 「…人が真剣に考えているときに」
 「すみません…」
 ぎゅ、と抱き締めながら雄介は嬉しそうに笑っている。
 「……だって、答えは簡単ですよ?」
 「………?」
 こつん、と一条と額を合わせて視線を合わせて、雄介は微笑んだ。
 「俺は、みんなの笑顔のために闘ってます」
 「…ああ」
 「だからみんなの笑顔を見られると嬉しいですし…ましてや、」
 「?」
 「それが好きな人の笑顔なら、尚更です」
 「……五代」
 「だから、」
 にこ、と正面で雄介は笑う。
 「一条さんが笑ってくれたら、いーんです」
 それで十分に俺は笑顔になれますよ。
 そう言って笑う彼の笑顔には、欠けらの嘘も不自然さも、違和感も感じなかった。
 「……五代……」
 「………さ、寝ましょう?」
 言われて時計を見ると、もうとっくに寝なくては確実に明日…もはや今日だが…に響く時刻になっていた。
 「もー…本当は今すぐしたいんですけどねー」
 一条を抱き締めたまま、雄介が残念そうに笑う。
 「……我慢してくれ」
 彼に付き合わされたとなっては、明日通常どおりに勤務できる自信は薄い。実際に何度かの経験でもうそれは実証済みだった。それを雄介も分かっているから、無理強いはしない。
 でも、諦めきれないように雄介が一条の髪を梳き上げた。
 「でも…最後にも、一回いーですか?」
 「?」
 「キス」
 そう言って子供のように笑って近付いてくる彼を止める理由など、一条にありはしなかった。



 根本的な解決になっていないことには気がついていた。
 結局彼がどんな夢を見たのかとか、どうして一人になりたがったのかとか。
 いつもと闘い方が違ったのは何故かとか。
 ………でも、自分と彼は似ているから。
 言いたくないことは、いくら問い詰めても言わないし。
 そうすることで却って苦しめることが分かってしまっているから。
 ………だからせめて、自分に出来ることをやって。
 あとは、彼が言うように………笑ってやろう。



***



 「長野に来たら、思い出しちゃいました」
 数歩前を歩く、凛とした後ろ姿から声が届く。
 彼の数年来の友人で…彼のことを、きっと自分よりも理解しているひと。
 「五代くん、みんなの笑顔を守るために闘っているんですよね?」
 ただでさえ静かな大学構内……加えて、彼女のはきはきとした声はよく通った。
 「だから……」
 彼女も自分とは別の立場で、彼のことを心配して……力になろうとしている。
 その彼女が、振り返り、
 「私も五代くんの笑顔のために、頑張ります!」
 澄み切った綺麗な表情で、笑った。
 出来ることをやろうとし、それに真っすぐ立ち向かう意志を固めた強い瞳。
 その瞳を受けとめて、一条はしっかりと首肯いた。



fin.











後書き↓(お読みになる方は反転してください)
 2000年11月に発行した「basis」という本の再録(ほんの少し改稿)です。お持ちの方ごめんなさい。
 35話(ヤマアラシパニック)の後のお話として大暴走ドリームしたものでして、私的には大変懐かしい一品です。あの話は…反則ですよね?いや反則でない話を探す方が難しい訳なんですが。
 今回再録するに当たって他の本の原稿も読み返して一頻り床を転がってみたんですが、どうもこの本がこれ以降発行した本の基準点となっているみたいです。
 笑顔を絶やさない五代君と、笑顔の裏の苦しみに気づきながらどうしようもなくてただ傍にいる一条さん。今一条さんを駄目刑事って書いて慌てて直しました。一条さん大好きですよ?私が書くとどうしても駄目刑事になってしまうんですけど。
 今更ながら、二人のしあわせを願います。

 …まあ私の中ではとっくにしあわせ共同生活始まってるんですが☆ちなみにこのお話ではまだ51です。15への移行期でもあるので、そう言った意味でも思い出深い一品でした。
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