sky
「太公望師叔?」
楊ゼンが軍師の執務室に顔を見せると、そこはもぬけの殻だった。 「………またサボっているんですね………」 空いた手でこめかみを押さえながら大きなため息を吐く。 とりあえず、持っていた書簡を彼の仕事用の卓に置き……そこに広げてある書簡を見た。 手に取り、近くでよく見る……墨はまだ乾ききっていない。 「……半刻……は、経っていないかな?」 ふむ、と首肯いて書簡を元どおりに戻した。
このところ、太公望はよくサボる。
「……仕方がないな……」 呟いて、楊ゼンは哮天犬を呼び出した。
どうせさほど忙しいときを除いては、この時間には自分の仕事に方がつく。 彼の…太公望の方はといえば、あと少々残っているはずなのだ。 自分にもできない仕事ではないが、黙ってやってやるほどいい性格をしていない自覚はある。 だから、 「さて、今日はどこにいらっしゃるのかな」 見付けだして、引きずってでも仕事させないと。 そう思って、楊ゼンは笑って哮天犬に命を出した。
青い空を白い獣が飛ぶ。 それに騎乗している蒼い姿が、正面からの風に目を細めた。 ふ、とその中に覚えのある仙気を感じる。 「……見付けた」 呟いて、眼下に近付いてくる丘へと降下した。
丘の上には永い年月を感じさせる大木が一本、どっしりと根を構えていた。枝葉は力強く茂り、ときおり吹く風で緩やかに揺れている。 楊ゼンはその根元に降り立つと、真上を見上げた。 葉に覆われた隙間から、陽の光が輝いている。 それに目を奪われながらも、よくよく観察すると…………一瞬の風が吹いたあと、ちらりと見覚えのある衣服が見えた。 くすっと笑って、楊ゼンは意識を集中させた。
うとうとと微睡んでいた太公望は、ふとした香が鼻を擽ったのに気が付く。 「………これは………」 重い目蓋をこじ開けるためにこしこしと手で擦り、身を預けていた丈夫な幹から背を起こした。 人より多少小柄なこともあり、滅多なことでは転げ落ちたりすることは無い。 だが、目の前の光景は寝起きの目には少々刺激が強すぎたようだ。 そこには、こぼれ落ちんばかりの豊満な胸。 「お・は・よ・う、太公望ちゃんv」 そしてスタッカートの効いた甘ったるい声が太公望の頭を一気に覚醒させた。 「ぬおおおおおぉぉぉっっっっっ!?」 叫び声を上げ、仰け反る……その勢いで彼の上半身がぐらりと傾いた。 「おおおぉぉぉっっっっっ!!」 落ちる。 どこか冷静な考えが頭に浮かぶが、体はそれについていかない。 このまま自由落下に身を任せるしか他にない……というその一瞬、 「あらんv危ないわんv」 がしりと腕を捕まれた。 そのままふよふよと空を浮かび、元の枝の上に戻される。 混乱した頭を何とか整頓させ、ゆっくりと前に浮かんでいるものを見据えた。 「……………よおぜん……………」 「やぁねぇん太公望ちゃんったら わらわよ、だ・っ・きv」 そう言って妲己……の姿をした天才道士は、くねっと身をよじらせる。 それを見て眉を釣り上げて太公望は怒鳴った。 「なーにを言うか!!この変態道士!!」 「何が変態よぉん」 ぷう、と軽く頬を膨らませる。 「身をよじるな品をつくるな胸元を強調するなぁ!!」 「こぉ?」 律儀に太公望がわめいた全ての動作をこなす楊ゼン。 それら全てに違和感が無いのはさすがだが、ある意味かなり恐ろしい。 それらを見て太公望は一気に脱力した。 「………頼むから変化を解け………」 「仕方がないわねん……」 ふう、とため息をついたかと思うと、目の前の姿が砂嵐のようにぶれ……宝貝に腰掛けた蒼い姿が目に飛び込んだ。
その姿に開口一番罵声を浴びせようとした太公望をさえぎり、楊ゼンは微笑んだ。 「よくお休みでしたね?太公望師叔?」 「ぐぬう……」 にっこり。 そういう表現が似合う笑みだが、太公望にとってはまさしく蛙を睨んでいる蛇のようだったろう。 意識していやみたらしく聞こえるようにしながら楊ゼンは続ける。 「お仕事もう終わったんですか……早いですね」 さすがは師叔、僕などとは大違い、などなど。 次々と賛美のことばをあげると、太公望は居心地悪そうに頬を掻き……楊ゼンを睨んだ。 「……戻ればよいのであろう!戻ればっ!!」 「解っているなら話は早いですね」 「おお解っておるわい!ちゃっちゃと終わらせて今日は飲んでやる!!」 「今日も、でしょう?」 楊ゼンが助詞を強調するように言うと、太公望はいきなり立ち上がり…
「やかましいっ!!」 「ちょ、ちょっと師叔!!」 勢いをつけて哮天犬へと飛び移った。
「痛た……」 「大丈夫か?」 「……大丈夫だといいんですけどね」 くたっと草に四肢を伸ばして楊ゼンは呻いた。 哮天犬に横座りしているところに飛び込んでこられたため、バランスを崩し……。 「天才も宝貝から落ちる、か?」 見事、自由落下に二人で身を任せたのである。 「……誰のせいですか誰の」 「おぬし」 「………」 それでも太公望を庇って下敷きになっただけ感謝してもらいたい。 いかに小柄な身体とはいえ、落下の負荷がかかると話は別である。 しばらく前に着地してはいるが、やはり思うように身体が動かない。 加えて、 「……重いからどいて欲しいのですが」 「いやだ」 落ちたときの体勢のまま、太公望は楊ゼンの上から退こうとはしなかった。 くすくすと笑って、広がった髪を指に絡めて遊んでいる。 「ちょうどよい……しばらくサボろうではないか」 「………仕方ありませんね……」 ふわ、と風が二人の髪を揺らした。
「全く……あんまり手間かけさせないでくださいよ」 「楽しんでおるだろうに文句言うでない」 「………まあ、そうですけど」
fin.
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