飛び起きたわけでも、叫び声を上げたわけでもないのだけど。




眠りに及んで


 
「少しお願いがあるのですが…」 
仕事が終わり、各自の部屋で休み始めて数刻が経った頃…不意に、楊ゼンが太公望の部屋を訪ねてきた。 
既に眠りに落ちていた太公望だが、訪いに気付かないほど深い眠りでもなかった。 
誰何の後少々躊躇いながら入ってきた楊ゼンが開口一番口にしたのが先程の言葉である。 
「願いだと?」 
「はい」         
「…それは、今でなくばならぬ…のだな」 
「…はい」 
そうでなければ……例えば明日でもよいことなら、今訪ねてくる訳がない。 
楊ゼンは唐突に意味不明の行動をとることがあるが、それがきちんと考えた上でのことであることは太公望が一番よく知っている。 
寝台の上に起き上がり…つと出そうになったあくびをかみ殺しながら、無言で続きを促した。 
「……馬鹿にしないで、くれますか?」 
声色と表情に哀願をのせ、楊ゼンはそう訴えた。 
日中目にしている蒼い道士服とは異なり、薄手の夜着に身を包んでいる今の彼はどこか頼りないようにも見えた。 
(珍しいこともあるものよ) 
寝起きで上手く働かない頭の中で、ぼんやりと太公望は考える。 
(普段は過ぎるほどに頼りになる奴が…) 
そういう自分も今の姿は昼とはかなり違うのを自覚していない太公望である。 
厚い道士服から薄手の夜着へ…普段はなかなか見られない軽装のままで楊ゼンと対話していた。 
「まあ、事次第だな…。して、何だ?その願いとは?」 
「…一緒に寝ませんか?」 
「はあ?」 
「ですから…同衾して下さい、と」 
一瞬、何を言われたのか理解できず、ぽかんと口を開ける。 
この男がこんな時間にわざわざ訪ねてくるのだからさぞかし深刻な願いだろうと太公望は考えていたのだが…
いざ聞いてみると…なんとも拍子抜けするものであった。 
「…何故だ?」 
訳が解らずに問う太公望。 
「なかなか寝付けなくて…」 
楊ゼンはそう言って軽く頬を掻いた。 
やはりどこか気まずいものがあるらしい。 
……確かに、いい年をした青年の姿をしたものが「眠れない」からといって人のもとへ来るのは情けないものがある。 
ふと、太公望は気付く。 
「…以前言っておった、手をつなぐことの延長…か?」 
「はい」 
こくん、と頷く彼を見て…太公望はちょと深めのため息をつく。 
……何しろ何だかんだと言いながら、手をつなぐことで眠りに落ちたのは他でもない自分である。 
そんな自分が彼の理屈を否定…つまり、そんなことで寝付ける訳がない…とは言いにくい。 
「……仕方がないのう……」 
呟き、寝台の上から手招く。 
「あ、いいのですか?」 
言いつつ近付いてくる楊ゼンを軽く睨みながら、太公望は呆れたように言った。 
「いいも何も…既に諦めるつもりなどないだろう?」 
人間界の時間で、もうかなりの時間を共に過ごしてきた相手である。言葉にされなくても、表情や雰囲気などで考えていることなどだいたい分かってしまう。 
「ええ」 
微笑みながら近くまできた楊ゼンを見上げながら太公望はそう考えていた。




軽く持ち上げられた掛布の中に楊ゼンが滑り込む。 
そのまま居心地が良い場所を探してもぞもぞと動いていたが、気に入った位置を見付けたのか静かになった。 
「…狭いであろう?もう少しこっちによらぬか」 
「すみません……」 
一人で寝るにはゆとりのある寝台だが、二人となると少々狭い。 
太公望の言葉に、素直に楊ゼンは体を寄せた。 
「んー……やっぱり、いいですね」 
しばらくして、楊ゼンが呟いた。 
「何がだ…?」 
一度覚めた頭と、冷めた布団とでまだ眠れそうにもなく、何気なく会話を交わしていく。 
「傍に、誰かが居るっていうのは」 
そう言った楊ゼンの表情までは見れなかったが、声色からは本当にそう思っているように太公望には聞こえた。 
「……そーんなに人恋しいのなら誰ぞ適当な女子でも誘えばよいだろうに…」 
呆れたように言葉を紡ぐ太公望。 
言われて楊ゼンは一瞬考え込むが、すぐに口を開いてこう言った。 
「何かそんな気分でもないんですよねー」 
「おかしな奴め……おぬしなら引く手数多であろうに」 
仕事等で一緒に居るとき、傍を通る女官達が隣の男に向ける視線を知っている。
流石の太公望でも、その視線がどういう意味を持つのか知らないほど世間知らずではない自信はあった。 
首を動かしてちらりと楊ゼンを見やると、未だ考え込む姿が見える。 
「うーん……何故でしょうね…」 
「わしが知るか」 
悩み続ける彼を無視し、眠りに就こうとして太公望は目を閉じた。 
睡魔はおとずれてはいないが、そのうちに眠れそうな予感はする。 
だがしかし。 
「えいっ」 
「ぬお!?」 
少し間の抜けた掛け声を聞いたと思ったら、いきなり暖かな何かに包まれた。 
驚いて目を開けると…目の前には楽しそうな顔。 
太公望を自らの腕の中におさめ、楊ゼンはくすりと笑いを漏らした。
「…思ったより小柄ですね」 
しゃあしゃあと言ってのける男に太公望は少々の怒りを覚える。 
「失礼な……」 
「すみません」 
本当にそう思っているのか疑ってしまいそうな顔で謝られても、太公望としてはいまいち腑に落ちない。 
「うりゃっ」 
「わ…」 
体に回された腕が離れていこうとする瞬間、太公望はお返しとして楊ゼンに勢い良く抱きついてやった。 
しかしすぐにそれを後悔する。 
「ぬぅ……。おぬしは思ったよりしっかりしとるのう。優男な面のくせに」 
回した手から伝わるのは、程々についた筋肉の感触。 
抱き抱えるというよりはしがみつくような格好になってしまい、太公望としてはますます悔しい。 
「顔は関係ないですよ」 
「ふーむ……」 
抱きつかれたまま、楊ゼンは再び太公望に腕を回す。 
「…あたたかいですね、師叔って」 
「おぬしこそあたたかいぞ……」 
普段では考えられないような近い距離で、お互いの鼓動が響く音をしばらく黙って聞いていた。 
日中はにぎやかな城内だが、今ではほとんどのものが寝静まっている。 
聞こえるのは外のかすかな風の音と、互いの生きている音。 
「なつかしいです」 
つと、楊ゼンが口を開いた。 
「何が…?」 
「小さい頃は、よく師匠とこうして寝ましたから…」 
照れたように顔を伏せる楊ゼンを物珍しそうに見ながら、少し意地悪げに太公望は呟いた。 
「……師匠コンプレックスめ」 
「何ですって?」 
「何でもないわ」 
そして太公望は、あのクールな兄弟子がそんなことをしていたのかと想像し、一人笑いを堪えるのであった。 




抱き締め、抱き締められながらまたしばらくのときが経つ。 
目を閉じていた太公望だが、まだ眠気は訪れず…そっと目を開ける。 
体勢のせいで目の前には楊ゼンの胸板。少し顔を上げると伏せられた長く綺麗な睫毛が見えた。 
静かな楊ゼンの呼吸の音が聞こえる。 
「…楊ゼン…もう寝たのか?」 
ふと気になり、太公望は声をかけた。 
「いいえ?」 
返事と共にぱちりと睫毛が瞬かれ、紫の輝きが見える。 
その様をぼうっと見ていたら、楊ゼンが首を傾げた。 
「どうかしたのですか?師叔?」 
「いや……もう寝たのかと思っておったからな。まだ起きてたのか」 
「だってまだ言ってませんよ」 
当たり前のように楊ゼンが答えた。 
…だが太公望には何のことか解らない。 
「…何をだ?」 
「おやすみなさい、です」 
「………」 
ぼふっ…と、太公望は無言で楊ゼンの胸元に頭をぶつけた。 
「師叔?ちょっと何故黙るんですか?」 
「おぬし……」 
「どこかおかしいですか?寝る前には言うものでしょう?」 
不思議そうな声に、何とか顔を上げて応えを返す。 
「いや…正しいよ、それは。寝る前の挨拶としては確かに常識だ。だが……」 
そこまで言って、込み上げる笑いを何とか堪えた。 
「……それも玉鼎に教えられたのか?」 
「そうですが」 
目の前できょとんとした表情で言う楊ゼン。 
耐えきれず、顔を楊ゼンの胸に押しつけて太公望は爆笑を開始した。 
「く、くるし……」 
仕舞いには腹までも痛くなってくる程に笑いが続く。 
「……何でそんなに笑うんですか…」 
この間といい…と楊ゼンがため息を吐いた。 
「ふ、普段のおぬしや玉鼎からは想像もできぬのでな…」 
やっとのことで笑いがおさまり、顔を上げる太公望。 目尻に軽く涙が溜まっている。 
「そんなに可笑しいですか?」 
「うむ…。いやしかし本当におぬしらは親子のようだのう。しつけまでしてもらったとは……」 
「……まあ、そうですね…。師匠は確かに僕にとっては親のような人です」 
「ふうん…」 
肩をすくめ、どこか遠くを見るように言う楊ゼンを見ながら、太公望は彼の話を聞いた。 
「まあ、もちろんそんな単純な単語では表わすことなど出来ませんよ」 
「師でもあり父でもあり……か」 
「ええ。上手く言えないのですが…」 
「そんなものであろう」 
「そうですね」 
そんなうちに、ようやく眠くなったのか、太公望が大きな欠伸をする。 
つられたように楊ゼンも軽く欠伸が出た。 
「ふあ……寝るか。明日も仕事あるしのう」 
「はい…」 
「それでは…」 
こほん、と咳払いをし、またも込み上げる笑いを押さえながら太公望は言う。 
「おやすみ、楊ゼン」 
軽く、楊ゼンが太公望を抱き締める力を強めた。 
「おやすみなさい、太公望師叔」



その瞬間、ふっ…と胸に何かが過る。 
それは暖かくて優しくて幸せな…懐かしい記憶。 
単なる既視感だと分かっているのに…ふいに、それに縋りたくなる。


 
気がつくと、太公望は楊ゼンの髪を一房軽く引っ張っていた。 
「!?…何するんですか師叔?」 
「…………のう………」 
「師叔?」 
「………」 
一度芽生えた思いはなかなか消えず、かといって一度我に返ると気恥ずかしさが先にたつ。 
顔を伏せ、黙り込んだ太公望を不思議そうに楊ゼンは見ていた。 
「……どうか、したんですか?」 
「……いや、その……」 
「何か言いたいことがあるんでしょう?」 
「まあ、そういえばそうだのう……」 
俯いたまま、どもりながら言う太公望。 
「あなたらしくもないですね…。言いたいことがあるならはっきりと仰って下さいよ」 
「う、む…」 
悩む太公望を黙って見守っていた楊ゼンだが、しばらくすると待ちきれなくなってくる。 
くす、と少々意地悪く微笑むと、楊ゼンは太公望の脇腹に手をあててくすぐり始めた。 
「のおおおっ!?なっ何をするかーーっ!!」 
「言わないとこのまま続けますよ?」 
「やめぬかああぁっ!!」 
城内中に響き渡りそうな勢いで叫び、じたばたと暴れるが……楊ゼンにやめるつもりはなさそうだ。 
身をひねってその手から逃れようとしても、もともと抱きついていたこともあってかなわない。 
「ほ、本当に…もう…ひいいっ!」 
くすぐったさのあまり、今度こそ本当に涙が流れそうになってくる太公望であった。 
「素直になったらいかがです?」 
手は止めずに、楊ゼンは問い掛けた。 
「な、何がだ……?」 
苦しい息のなか、太公望が何とか言うと……楊ゼンは今の行動とはかけ離れた表情で言った。 
「先ほどのあなたは、追求して欲しそうにしていましたよ」 
ふいに、太公望の抵抗が止む。 
楊ゼンもくすぐるのを止め…そしてもとのように太公望を腕の中に抱き込んだ。 
「……」 
太公望もまた黙って腕を楊ゼンの背に回す。 
「…違いましたか?」 
「いや……確かにそうかもしれぬな…」 
ふう、とため息を一つ吐く。 
「おぬしにはかなわぬな、楊ゼン」 
「それは僕の台詞です。ですが…たまには、あなたにそう言われるのも悪くはないですね」 
「だあほ」 
軽く笑みを浮かべながら、太公望はまた楊ゼンの髪を引っ張る。 
「痛いですって」 
「…本当に長いのう…」 
そう言って、一房を強く握り締めた。 
「……母上を、思い出すよ」 
「師叔……」 
目を見開いて、楊ゼンは太公望を見た。 
太公望の口から自らの家族のことを聞くのはこれが初めてで、楊ゼンは少なからず驚いた。 
太公望は顔を俯けているために表情までは見えない。 
「………確かに僕は髪が長いですけど…母親というには少し違うでしょうに」 
戸惑いながらも楊ゼンが言う。 
すると太公望はがばりと顔を上げ、楽しそうに口の端を上げた。 
「当たり前だ。髪だけに決まっておる…ただでさえ女装趣味のある奴をこれ以上疑いたくはないからのう」 
その言葉に、がくりとうなだれる楊ゼン。 
「…師叔…誤解ですよ、それは」 
「やかましい。あんなに嬉しそうに妲己変化しおってからに」 
「変化してるときは変化しているものになりきるんです……で、師叔?何を仰りたかったのですか?」 
流れていこうとしている話題を、軌道修正するかのように楊ゼンははっきりと言った。 
…このまま黙って話を続けていると、決して核心には辿り着けないことを分かったらしい。 
「……むう。本当に嫌な奴よのう…」 
「お互い様です。で?何なんですか?」 
軽く項垂れ、ぽつりと呟く。 
「……確かに、お互い様よの」 
「師叔?」 
呟いた言葉に眉をひそめる楊ゼンの髪をまた一房とり、手で玩びながら太公望は言った。 
「わしも…の、おぬしに頼みたいことができたのだ」 
「頼み…ですか?」 
「うむ」 
訝しげに首を傾げる楊ゼン。 
やはり予想もしていなかったのだろう。先ほど楊ゼンが来たときの太公望とよく似た表情をしている。 
「……で、どんな頼みですか?師叔?」 
「……馬鹿に、するでないぞ……」 
髪を指に絡めてさらりと落とす。 
「もちろん…と言いたいところですが、内容しだいですね」 
にこり、と微笑んで先を促され、太公望は素直に望みを口にした。 
蒼い流れを再び手に取りながら。 
「……望、と呼んでくれぬか…今だけ」 
「ぼう……」 
楊ゼンの紫の瞳が驚きに見開かれるのを楽しげに見つつ、太公望は手にした髪ごと手をまた彼の背に回した。 
「幼い頃」 
回した手に力を込める。 
「こうしていられた頃…わしは皆にそう呼ばれておった」 
胸に顔を埋め気持ち良さげに目を細め…遠い日に思いを馳せた。 
ただ幸せだったあの頃を、こうして思いだしたのはすごく久しぶりのような気がした。 
いつも思い出すたび、幸せなことよりもその後の苦しみばかり思い起されていたのに。 
(…ま、感謝せねばなるまいな) 
こうしていると…無理なくその頃を懐かしむことができて、太公望自身驚いていた。 
「………」 
その間楊ゼンはというと、何も言わずただ太公望を抱き締めていた。 
回してくれている手から何となく思いは伝わってくるけれど、長く続いた沈黙に耐え切れなくなる。 
「…うりゃ」 
「痛っ!?」 
また髪を引っ張る…今度は照れ隠しも含んでいるので、少々強めに。 
「何するんですか…」 
「馬鹿にしておっただろうが」 
軽く唇を突き出して不満を訴える太公望。 
…もともと不満などもっていないのは、お互い良く分かっているのだが。 
「馬鹿になんてしてませんよ」 
心得たように弁解の言葉を口にしてはいるものの、表情からは謝罪しているようには見えない楊ゼンからしてそれは明白である。 
「本当か?」 
「本当ですって。そんなことぐらい喜んで」 
「……わしらしくないであろう?」 
ぽつりと太公望が言った言葉に緩く首を振り、楊ゼンは顔を伏せた。 
「それを言うなら、僕だって…」 
続く言葉を、髪を軽く引っ張ることで遮る。 
「…だから痛いですって………望」 
「まあそう言うな、面白いのだこれが」 
そう言って、また引っ張る。 
「……望……」 
呆れたように自分の名を言う楊ゼンをちらりと見、太公望は肩をすくめた。 
「やはり言いにくそうだな」 
「すみません、お役に立てなくて…」 
今度こそ本当にすまなそうに身を縮こませる楊ゼン。 
そんな彼に太公望は軽く微笑む。 
「ま、それが当たり前であろう?おぬしにとってはわしは『太公望師叔』なのだからな…それこそ、出会ったときから…違うか?」 
「それは…そうですけど」 
「だからそう気に病むことはないよ…わしこそ変なことを頼んですまなかったな」 
手を伸ばして楊ゼンの頭を抱え込み、慰めるように自分の肩口に押しつけてやる。 
されるがままの楊ゼンだったが、だんだんと押しつける力が強くなっていく。
…息苦しさに耐え切れずその手を振り払った。 
「っぷはぁ!何するんですか!?」 
息を切らしながら訴える楊ゼンに太公望は涼しい顔で答える。 
「いつまでも辛気臭い顔しとるからだ!」 
「理由になってません…お返しです!!」 
「ぬおおっ!?ぐ…ぬぅ…!」 
今度は楊ゼンが太公望の頭を捕らえ、胸元に押しつける。 
これでもかとばかりの強い力に何とか抗おうとする太公望だが、どうも力では相手に適わない。 
しばらくじたばたと藻掻いていたが、途中で諦めておとなしく身を預けた。 
その反応に気がつき、楊ゼンも加えていた力を緩める。 
くすり、と笑って一言。 
「…僕の勝ちですね」 
「だあほ。こんなのに勝ちも負けもあるか」 
悪態をつきながら、太公望は触れ合ったところに意識を集中させていた。 


 
言葉と共に伝わってくる振動。 
呼吸の度に上下する動き。 
そして規則正しい心音。 
(…まずいのう) 
(涙が出そうな程懐かしいわ) 
そう思っても涙が出ることなどそうそう無いのだが。


 
そのうちにようやく目蓋が重さを訴えてきた。 
軽くぱしぱしと瞬きするも、それくらいではもはや目は覚めそうにない。 
どちらともなく、はふ…と欠伸が出る。 
「…寝るか、いい加減」 
「…そ、ですね…」        
そう言うと、楊ゼンは太公望を抱えなおした。 
もはや抗う気力など、太公望には残されていない。 
「…最後に、もう一回だけ」 
「?」 
眠りの世界に半分以上入っていた太公望に、楊ゼンは静かに囁いた。 
「あなたが言ってほしかったのは、この台詞でしょう…?」 
不自然では無い程度に一呼吸置き、ごく自然な感じで抱えている相手に言う。 
「…おやすみ、望」   
微睡みの中にあった太公望がはっと驚いて目を開けた。 
次の一瞬…太公望は静かに微笑みを浮かべた。 
普段見せることのない、安らかな笑み。 
しかしそれはすぐに消え…寝呆け眼ながらもいつもの調子で愚痴り始めた。 
「…参った。おぬしの勝ちだ」 
「…お役に立てました?」 
嬉しそうに聞き返してくる楊ゼンに、ここぞとばかりに言ってやる。 
本音を本音で包んで、少々皮肉気に。 
「おお、立ちに立ちまくっとるわい…」 
「それは良かった」 
お互いくすくすと笑い合いながら囁き合う。 
「…のう、最後の最後でもう一回…」 
ぽふ、とまた顔を楊ゼンの胸に埋める太公望。 
わかりましたと答えて…楊ゼンは口を開く。 
「おやすみ、望。…いい夢を」 
「ん…おやすみ、楊ゼン…」



 
(いい夢を…か) 
眠りに落ちる前の曖昧な感覚の中で楊ゼンはぼんやりと考えた。 
(きっと、この人と一緒なら) 
ここに来るきっかけになったこと……。 
内容なんてほとんど覚えていない……でも目覚める瞬間にざわりと胸を過った感覚。 
その感覚がずっと胸に残っているのが耐えられなくて。 
非常識だとか、馬鹿げてるとかの自覚はあったけど、気がついたらこの部屋まで来ていた自分がいた。 
…この人ならきっと、何だかんだと言いながらも受け入れてくれると信じていたから。 
(悪い夢なんて見ない) 
少なくとも今、このときだけでもと願っている。




朝日がそろそろと世界を照らし始めてきた。 
鳥達が忙しげに朝の会話を交わしている。 
「ん……」 
少し身じろぎし…ゆっくりと楊ゼンは目を開けた。 
「?」 
一瞬今の状況を考えるが、すぐに思い出し…腕の中で今だに静かに胸を上下させている人を微笑みながら眺める。 
まだ弱い光だが、至近距離の相手の顔を見るには十分だった。 
ちょっとくせのある短い髪が一房彼の目元を覆っている。 
何とはなしにその髪を掻き上げると、太公望が眉を寄せ…ぱしりと瞬きし、碧の瞳が現れた。 
「あ…起こしてしまいましたか…?」 
呼び掛ると、太公望はぼうっとした眼のまま口を開いた。 
「…もう時間?」 
「いえ、まだ寝ていても大丈夫ですよ」 
まだ朝日が出始めたばかりである。仕事をするにも早すぎる。 
そう思って楊ゼンが言うと、太公望はすぐにまた目を閉じた。 
「じゃもう少し寝かせてよ………」 
言葉の最後は、むにゃむにゃと消えていく。 
「?」 
不思議に思って太公望を見ると…健やかに寝息を立てている。 
どうやら再びの眠りに落ちてしまったらしい。 
「……最後に言い掛けたのは……家族の名ですか?」 
起こさないよう、囁くように問う。 
もちろん起きる訳が無い相手を嬉しく見守る。 
果たしてこのことを起きたときの彼に伝えるべきかどうか考え込む。 
(まあ…いい夢見ているみたいだし) 
「良かったとしようかな」 
上手くいけば自分が彼をからかえるかもしれない……そんな儚い望みを胸に抱きながら、楊ゼンは呟いた。 
何も知らずに、太公望は穏やかな眠りの中にいる。






fin.






同人誌として発行したものその二。
……タイトルは発行時とは異なっています。
……どういうタイトルにしていたのか忘れただけです(汗)

何といきなり寝オチその二。
注記しておきますと、この小説内ではお二人は恋仲ではありません。
ただの軍師とその補佐です。
……すいません石投げないでください分かってますおかしいというのは私が一番分かってますから!!(必死)
ただの仕事上の付き合いだけの野郎どもがこんなにべったべたしてていいのか!?
……という突っ込みを今軽く改稿していて何度もしていました……。
……読み返せば読み返すほど仲いいです、ウチのお二人。

更に申し上げておきますと、
私の書く太公望はひたすら楊ゼンの髪を引っ張ります。
……何のことはありません。私の趣味です(きっぱり)





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