木蓮の涙
>687氏
注:死にネタ有
「大佐、抱いて欲しいんだ」
深夜、ひとりきりで自宅を訪ねてきた少女がそう言い出したとき、疑問を持たなかったわけではなかった。
まだ16にもならぬ少女は、自らの犯した罪を枷として、ずっと『女』であることを拒み続けていた。
肉体を失ってしまった彼女の弟は、ぬくもりを感じることも、やわらかな感触を感じることもできなくなってしまった。
それに対して、片腕と片足を失くしたとはいえ、何不自由ない身体を持っている自分を、ひどく責めているようであった。
だからなのか、彼女は常に少年のような服と仕草と言葉遣いで、普通の少女が望むようなものすべてを──流行の服や、可愛らしい小物や、きれいな色の口紅──そんなものを、すべて拒絶して生きていた。
そのことについて、彼が何かを言ったことはない。
彼女自身がそう決めたことなら彼が口を出すことではないし、旅をするなら性別を男で通した方が有利なこともあるだろう。
ただ、もったいないとは心の中で思っていた。
願掛けのためと伸ばされている彼女の金の髪は鮮やかに光を弾いて、若さに弾ける瑞々しい肌は薄い紅を隠した雪白だ。
たとえばその髪を解き、桜色のやわらかな素材のワンピースでもまとったなら、相当の美しさだっただろう。
少女時代など一瞬だ。
『今』を逃せばもう二度と手に入らないモノもたくさんあるだろう。
それを彼女はすべて捨てて生きようとしている。
時には枷を外して、自らの罪を忘れて、ほんのひとときただの『少女』に戻る時間があったとしてもいいのではないか。
傍で見ている彼はそう思っていたが、それでも彼女は常に『男』であり続けようとしていた。
頑ななほどに。
だから、それは、本当におかしなことだったのだ。
彼女が抱いて欲しいなどと言い出すなど、常には考えられないことだった。
何を言い出すのかと、彼は眉をひそめた。
「……鋼の。何を言っているのか、分かっているのか?」
「分かってるよ、俺だってもうすぐ16だ。そこまで子供じゃない」
「わかっているならなおさら」
「大佐、お願いだから……っ!」
切羽詰ったような高い声が落とされる。
溺れる者が必死にもがいて助けを求めているようなその声音に、ちいさく溜息を吐いた。
「とりあえず、中に入りなさい」
深夜に玄関先で交わすような会話ではない。
屋敷を囲む庭は広いので、近隣の住人にも、前の道路を通る者にも声など届かないだろうが、このまま玄関で押し問答をするつもりはなかった。
居間まで通したものの、この家にまともな来客用の品などない。
もとより寝るためと、研究をするためだけにあるような場所で、彼以外の者がこの家に来ることなどないのだ。
コーヒーくらいは沸かすことができても、それを入れて出すためのカップが存在しない。
ほんの数秒困ったあと、茶を出すことは諦めた。
もとより彼女はお茶を飲みに来たわけでもない。
本題に入ったほうが早いだろう。
「鋼の、」
言いかけた言葉がとまった。
すがりつくように、彼女が抱きついてきたからだ。
「……鋼の」
「大佐……」
それは抱擁と言うよりは、捨てられた子猫が必死に爪を立てて服にしがみついてくる、その姿に似ていて。
だから彼はその身体を引き剥がすことはできずに、そっとその小さな背に腕を回した。
ちいさな、ちいさな背中。
身長が低いというだけではなく、同じ年頃の娘達と比べても、その身体は小さく華奢だ。
ほんの少し力を込めれば、壊すことなど造作もないのだろう。
世間で『鋼の錬金術師』と言えば、その二つ名と、最年少で国家資格を取ったということから、常人離れした天才だと思われている。
実際錬金術に関して彼女は天才なのだろう。
だがその中身は、こんなちいさな子供でしかないのだ。
本来なら、親やまわりの大人達に庇護されて、ただぬくぬくと愛されて育っているべき年齢の少女でしかない。
そのすべて失ってしまったのは自業自得だと、彼女を責めるつもりは毛頭ない。
むしろ、何故彼女ばかりがこんなに責を追うのかと、運命というものがあるなら腹立たしく思う。
それでも、いつも決してくず折れることなく、まっすぐに伸ばされていた背中。
それが今、自分の腕の中で、小さく震えている。
細い腕を精一杯伸ばして、自分にしがみついている。
それを見て、彼に拒絶することは不可能だった。
彼女が何故そんなことを言い出したのか、真意は定かではなかった。
それでも大体推測はついた。
彼女は、自分の中の『女』という部分を押し潰して生きてきた。
性差のあまりない12・3歳の頃はそれでもよかっただろう。
だが、年を重ねるにつれ、男女の違いは大きくなる。
自分の性を偽って生きることは、精神的に大きな負担になるだろう。
それでも、自分自身への戒めや、弟への贖罪や、旅をする上での必要性など、さまざまなものが彼女の中にあり、激しく葛藤し──そして、耐え切れなくなったのだろう。
その逃げ口が彼であり、性行為を求めることになったのだろう。
それならそれでいいと思った。
それで、彼女が少しでも救われるなら。救うことができるなら。
片腕を彼女の膝裏に回して、そのまま抱き上げた。
機械鎧をつけていてもまだ軽い彼女の身体は、やすやすと寝室へ運ばれる。
「……っ」
意図を悟って小さく息を呑む音が聞こえたが無視した。
殺風景な寝室の、ベッドの上に彼女を降ろしてその服に手をかけた。
「優しくするつもりも、途中でやめるつもりもないぞ」
「……うん」
それがその夜まともに交わした最後の言葉で、あとは喘ぎ声と泣き声と互いの名前を呼ぶ声だけになった。
そういえばこの寝室に自分以外の人間を入れたのは初めてだったと彼が気付いたのは、もうずいぶん後になってからのことだった。
彼女にとってそれが捌け口でもよかった。逃げ口でよかった。
そして自分にとってその行為が性欲だったのか、可哀相な少女を救うための慈善事業だったのか、それとも、心の底にあった想いに突き動かされてのことだったのか。
そのどれでもあったように思うし、どれでもなかったようにも思う。
ただはっきり分かるのは。
自分はすべて分かったつもりでいて、けれど彼女の気持ちなど本当は何ひとつ分かっていなくて。
そして──許されないほどに愚かだった。
それから数度ほど、彼女と身体を重ねた。
すべて、彼女から求めてきて、彼がそれに応じてのことだった。
処女であるが故、痛みが勝ってほとんど快楽を得ることができなかった身体も、回を重ねるごとに、艶やかな八重の花びらがほころんでゆくように開かれていった。
心地よいけだるさの残る身体をベッドに横たえ、その上に、彼女のちいさな身体を乗せるようにして抱きしめる。
自分の胸元や首筋にこぼれて流れる金の髪は、なめらかで心地のよい感触だった。
「……大丈夫か?」
「平気」
互いの体格差を考えれば、無理をさせている自覚はあった。
ただでさえ彼女は平均よりも小さく華奢な身体をしている。
大人の男の欲望をすべて受け止めるには、まだその発育は十分とはいえなかった。
それでも、そんな未成熟な身体に溺れかけている自覚もあった。
女にはなりきれていない、この身体のどこがそんなにいいのか、自分でもよく分からずにいた。
それでも惹かれていたことだけは確かだった。
このままこんな穏やかな夜が続けばいいと、思っていた。
「大佐は、あったかいな」
彼の胸元に頬を乗せたまま、彼女は小さくつぶやいた。
子猫が擦り寄るように、ちいさく身じろぐ身体を、ほんの少し力を込めて抱きしめた。
「──でもあいつは、誰かのぬくもりを感じることも、自分のぬくもりを感じることも、できないんだ」
それが誰のことを言っているのかなんて、彼にだってわかりきっていた。
そのことで彼女がどれほど苦しんでいるか、どれほど自分を責めているか。
分かっている、つもりだった。
「……鋼の」
「ごめん、こんなこと、言うつもりじゃなかったのに」
重くなってしまった空気を消すかのように、彼女はすこし顔を上げて微笑んでみせる。
けれどその微笑みも、どこか憂いを含んでいて、見ているこちらの胸が痛みを感じてしまいそうな笑みだった。
だから彼は、彼女をそっと自分の胸元に押し付けるようにしながら優しく囁いた。
「もうおやすみ」
「……うん」
彼女はそれに逆らわず、そっと体の力を抜いて、ゆっくりと眠りの淵に誘われているようだった。
「ごめん、大佐」
眠りに落ちる少し前、ちいさく聞こえた声に、彼はそっと頭を撫でてやることで応えた。
彼女が何に対して謝っているのか、正しく理解もできていなかったのに。
兆候は、いくらでも出ていたのだ。
はじめに彼女が抱いて欲しいと言い出したこと自体もそうであったし、身体を重ねる間にも、何度もそれはあったのだ。
言い換えれば、彼には何度も猶予が与えられていたということだった。
その間に気付くべきだったのだ。
彼女が何を考えていたのか。
彼女が何を望んでいたのか。
そして、彼女が何をしようとしていたのか──。
彼女は声にならない悲鳴をあげて、彼に助けを求めていたのだ。
必死に、彼を呼んでいたのだ。何度も何度も。
だが結局、彼はそれに気付くことはできずに、歯車は動き出してしまった。
彼がようやくそれに気付いたのは、すべてが終わった、赤い部屋を見たときだった。
──赤い、部屋。
息も止まりそうなほどの衝撃というのは、今までの彼の人生の中で二度あった。
一度目は、リゼンブールへ国家錬金術師の勧誘に向かって、そこで血に染まった錬成陣を見たとき。
二度目は、親友であった男が何者かに殺されたとき。
そして三度目が、今彼の目の前にあった。
呆然と、立ちすくむ。
赤い、赤い部屋。立ち込める、むせ返るような血の匂い。
彼女と彼女の弟が、仮の住処として生活していた家の一室。
もとは淡い白灰色であったはずの床は、赤く変わっていた。
部屋の中央の床に描かれた、大きな錬成陣。
その錬成陣が、おびただしい血に染まって。
まるであのときの──リゼンブールの再現のようだった。
そのときと違うのは、錬成陣の中に、
彼女と、そして彼女の弟であった鎧が倒れていることだった。
「……鋼の!」
血溜まりに倒れている少女の下へ駆け寄る。
靴にもズボンの裾にもコートにも赤い飛沫が飛び散ったが、
そんなことには構わなかった。
倒れている身体を抱き起こしても、彼女は目を閉ざしたままぴくりとも反応しなかった。
口元に手をかざして、かろうじてかすかに呼吸をしていることは分かった。
けれど青ざめたままの頬は、このままでは危ないことを如実に語っていた。
彼女は一体何をしたのか。
何をしようとしていたのか。
そんなことは、本当は、分かっていた。
この部屋を見れば分かりきったことだった。
あのときと同じような錬成陣、同じような状況。
倒れる彼女と、転がっている鎧。
すべてがそこで起こったことを的確に語っていた。
「エドワード……!」
声を限りに、叫ぶ。
けれど、血に染まる少女は、目を開かなかった。
「──彼女は、妊娠していたと思われます」
優秀な老医師は、ただ淡々と、何の感情も込めない声音で事実だけを述べた。
怪我を負った彼女を軍属の病院に運ぶわけにはいかず、馴染みの信頼できる老医師のところへ運び込んだ。
長時間に及ぶ手術のあと、老医師は彼女の容態を彼に説明した。
人体錬成の代償に、何がどれだけ必要かなんて知らない。
けれど彼女は、身体のあちこちを持っていかれていた。
外側だけでなく、内臓や神経の一部も持っていかれていた。
機械鎧や人工臓器で補うにも限界がある。
おそらく以前と同じようには生活できないだろうと告げられた。
それでも、彼女が生きているだけでよかった。
そして、その最後に、老医師は言ったのだ。
「──────」
ただ呆然と、言葉を失う。
誰の子かなどと考えるまでもない。
彼の子供だ。
彼女の胎には、彼の子供が宿っていたのだ。
そこまで来て、ようやく彼は、すべての真実に辿り着いた。
すべてのピースは揃い、その姿を現わした。
何故彼女が突然抱いて欲しいなどと言い出したのか。
抱かれながら、何を想っていたのか。
何を望んでいたのか。
分かったつもりでいて、それはすべて『つもり』でしかなかった。
本当は、なにひとつ、分かっていなかった。
今やっと、すべてを知った。
──すべては、遅すぎたけれど。
彼女がただひたすらに望み続けたことは、弟の人体錬成。
鎧の身体になってしまった彼に、もとの肉体を与えること。
けれどすでに一度失敗し、それがどれほど困難なことか、彼女はよく分かっていた。
だからこそ、それを可能にするかもしれない幻の石を求めて、長い間苦しい旅を続けていたのだ。
だが、賢者の石は、彼女の望みを叶えはしなかった。
材料が複数の人間だという石を作れるはずがなかった。
また、賢者の石を使ったとしても、完全な人間を作ることは不可能だった。
『石さえ手に入れば』という望みは絶たれてしまったのだ。
だから彼女は、違う方法を考えた。
彼女の弟は、もとの肉体を失い、今は『鎧』という媒体に魂を定着させている状態だった。
元の身体に戻すには、肉体を錬成し、そこに魂を移せばよかった。
何百年かけても、錬金術で『ヒト』を作り出すことはできていない。
だが、女は、錬金術では成しえないそれを、行うことができるのだ。
────それなら。
最初から、計画されていたことなのだろう。
彼に抱かれたことも、すべてはこのためだったのだ。
弟の『器』となるものを、作り出すために。
そうして彼女は、その身に宿った胎児に、弟の魂を定着させようとしたのだ。
「愚かなことを……」
呆然とつぶやき、けれどすぐにそれを否定する。
いや、愚かなのは彼自身だ。何も気付かずにいた彼だ。
彼女が何も考えずに、安易にこの方法を選ぶわけがない。
それだけ追い詰められていたということに他ならない。
そして、この方法を計画してなお、まだ迷っていたのだろう。
彼女が何故、相手に彼を選んだのか。
知っている人間の中で、一番条件の合う相手を選んだだけなのかもしれない。
本当は、彼女が彼を想っていて、だから選んだのかもしれない。
だがそれよりも何よりも、彼女は自分が行おうとしている愚かな行為をとめて欲しくて、だからこそ、彼を選んだのだろう。
同じ国家錬金術師であり、過去の人体錬成の件を知っている彼だからこそ。
様子のおかしい彼女に気付いて、彼女のやろうとしていることに気付いて、馬鹿なことはやめろと、また同じ過ちを繰り返すつもりかと、そう言って欲しかったのだろう。
そう言われたなら、きっと、やめるつもりでいたのだろう。
賭けのような、それは彼女の救いを求める声だった。
思い返せば、彼女からの信号はいつだって出されていた。
はっきりと言葉には出されずとも、言葉の端々や態度にそれは現われていた。
だが結局、彼は彼女からの救援信号に気付くことができなかった。
その身体に溺れるばかりで、
彼女の気持ちをわかった気になっていただけで、本当は、なにひとつ、分かってなどいなかったのだ。
あんなにもあんなにも、彼女は救いを求めていたのに。
彼女を守るとか救うとか、いい気になって。
ほんの少し考えれば、彼女をちゃんと見ていれば、気が付けたはずなのに。
結局、なにひとつ、できなかった。
だから、多くの大切なものが失われてしまった。
そしてもう、取り戻せはしない。
永遠に、失ってしまったのだ。
なんて、愚かなのだろう。
なんて。なんて。
頬を一筋、涙が伝った。
けれどそれは誰に向けられたものなのか──
愚かな自分にか、可哀相な少女へか、いなくなってしまった彼女の弟か。
あるいは、生まれることさえできなかった我が子へなのか──。
彼には分からなかった。
優しい木漏れ日が落ちる芝生に椅子を出して、そこに座りゆるやかな風を受けながら、彼女は愛しげに自分の腹を撫でる。
「アル」
何度も撫でながら、彼女は優しく呼びかける。
とても穏やかで、しあわせそうな声。
「早く逢いたいな、アル」
何も知らない人が見たなら、しあわせな光景だと思うのだろ。
まだ年若い母親が、やがて生まれてくる子供を待ち望み、愛し慈しんでいるしあわせな姿。
その裏にある罪も禁忌も涙も、今ここには何ひとつ見えはしない。
彼は少し離れたところから、彼女を見つめる。
彼女はしあわせそうに笑っている。
自分への戒めも、弟への贖罪も、犯した罪の意識も、今は何もなく、ただしあわせそうに微笑んでいる。
彼女が愛しげに撫で、語りかける先。
その胎の中には、胎児も、弟の魂もいない。
何もない。
錬成に失敗したのか、弟の魂は鎧にもどこにも残っていなかった。
どこへ消えてしまったのか知る術はない。
もしかしたら、錬成は成功し、うまく胎児に魂を移せていたのかもしれない。
けれど、錬成とリバウンドの衝撃に堪えられずに、胎児は流れてしまった。
禁忌はやはり禁忌で、多くのものを失い、
結局その手に残るものは何ひとつなかった。
愛しげに撫でられる胎。
そこには何もない。
それでも彼女は新しい命が生まれてくる日を待ちながら、しあわせそうにそこに語りかけるのだ。
いつまでたっても膨らまない腹を疑問に思うこともなく、いつまでたっても生まれてこない子供を不思議に思うこともなく。
壊れた螺子巻き人形が、ずっと同じ歌を歌い続けるかのように。
「鋼の」
ゆっくりと彼は彼女に近づく。
「春とはいえ、外はまだ冷える。これを羽織っていなさい」
そっと桜色のショールを彼女の肩にかけてやる。
けれど彼女は、まるで何も起こっていないかのように、何の反応も示さない。
ただずっと、自分の腹に向かい語りかけている。
傍らにいる彼の存在を認識しているのか、していないのか。
たとえ認識していたとしても、それはこの木漏れ日と同じ程度の存在なのだろう。
彼の声は、もう彼女に届かない。
彼女はもう、彼を見ない。
きっとこれは代償なのだろう。
彼女の声に気付かずにいた、彼の愚かさ対する代償。
それでもいいのだ。
すべてを失くした彼女は、今、穏やかでしあわせな日々を過ごしている。
今ここにいて、微笑んでいる。だからいいのだ。
彼はそれを守る──それでいいのだ。それだけで。
彼はそっと、彼女を抱きしめた。
【終】