Sion.Mochizuki
シャワールームの扉が開いて、昴治は目を瞠った。
中に人がいたからだ。
それは相手も同じだったようで、服を脱ぎかけたままこちらを見ている。
時間は深夜。
宇宙空間を航行するリヴァイアスにも時間が設定されており、 「夜」には必要最低限以外の証明が落とされる。
そうなると、大抵の者は眠りにつくし、 今のように深夜ともなれば起きているのは夜間シフトの人間くらいしかいない。
もちろん、普段なら昴治だって眠っている時間である。
そもそも、それ以前に今日の作業は午前中で終わりのはずだったのだ。
しかし…。
誰のせいでもないのだから愚痴を言ってもしょうがないと、 昴治は小さく溜息をついた。
それより今どうするかの方が問題なのだ。
開いたドアの前で迷っていたが、そのまま立っているわけにも行かず、 一歩前に踏み出してドアをくぐった。
軽い音を立ててドアが閉まってしまうと、そこは完全に2人きりになった。
沈黙が落ちるが、もちろん相手から話し掛けてくるはずもなく。
黙っているわけにもいかないだろうと思い、昴治は躊躇いつつ声をかけた。
「こんな時間にどうしたんだ、祐希?」
「別に。」
「…そっか。」
せっかく頑張って話し掛けたというのに。
あまりに愛想のない返事にシュンとする。
やはり明日にでもしたほうがいいだろうかと考えて、昴治が戻りかけると
「おい。」
不意に声を掛けられて、昴治ははっと顔を上げた。
「いつまで突っ立ってんだよ!ロッカーはどこだって開いてんだろうが!」
「えっ…う、うん。」
言外の一緒でも構わないという含みに気付いて、昴治は驚きつつ祐希を見た。
「なんだよ。」
その口調に昴治は苦笑しながら、目を眇めて見返す弟の、 一つあけて隣のロッカーに手を掛けた。
ほとんど服を脱ぎ終えていた祐希は、さっさとシャワールームに入っていってしまう。
手早く服を脱いで、昴治も弟の後を追った。
入ると、もうすでに水音が響いていて、 昴治は少し躊躇ってから祐希の隣のブースに入った。
さりげなく立つけれど、昴治は右肩を見せないように、少しだけ気をつけていた。
ガラスで切った傷と、銃で撃たれた傷と。
二つの辛い思い出が、そこに刻まれている。
自分としては、もう気にしていないことなのだし、 かえって己を律するための大切な物になっていたのだが、 祐希やイクミにとってはそうではないのだと、昴治は知っていた。
自分があとほんの少し強かったならと。
こんな時、昴治は少しだけ後悔する。
もう少し強くあったなら、彼等を悲しくさせるような傷を
この体に残したりせずに済んだだろうに。
考えながら、少し熱めに設定してシャワーを浴びた。
熱い湯とともに、疲れと少し後ろ向きな考えが排水口に流されてゆく。
と、ふと何かに思い当たって、昴治は顔を上げた。
「そういえば祐希。」
控えめに話し掛ける。
返事は無いが、いったん手を止め聞いている様子の弟に、少し嬉しさを覚えた。
「リフト艦の方は大丈夫だったか?」
「…ああ。」
考えるような間の後、祐希は短く答えた。
実は、今日昴治がこんなに遅くなった理由がそれだった。
昴治がシフトを終える直前、ゲドゥルトの中を航行していたリヴァイアスに スペースイカが接触したのだ。 にわかに慌しくなったブリッジを放っておいて一人戻ることなど、 昴治に出来るはずもなく。
修理の人員の手配やら、データの収集やらで時間を取られてしまい、 気付けばもう日付が変わってしまっていた。
仕事はまだ残っていたが、あまりに疲れている様子の昴治に周りが見かねたらしく、 漸くブリッジから開放されたのが深夜の1時。
疲れはピークに達していて、 ともすればそのまま倒れて眠ってしまいそうになったが、 どうにか堪えてシャワー室へ向かったのだった。
思えば、その件で作業が増えたのはリフト艦組も同じなはずで。
やはりこんな時間まで掛かったのだろうと、昴治は納得する。
同室のイクミは何も言ってよこさなかったけれど、 それは自分を気遣ってのことなのだろう。
二度目の―今度は漂流ではない―航海に入ってよりこっち、イクミはとみに優しい。
「そっか…。」
大きく息をつきながら言うと、不意に祐希が顔を上げた。
そのまま何を言うでもなくじっと見てくる祐希に、昴治は困った顔で首を傾げた。
「あんたは…。」
しばらくしてようやく開いた唇に瞬間見惚れて、昴治はつと目をそらした。
が、
「大丈夫じゃねぇみてえだな。」
そう言われて思わず視線を戻すと、祐希は皮肉そうに唇の端を持ち上げた。
それでも隠し切れない優しい眼差しに、少しだけ心が痛む。
二度目の航海で、変わったのはイクミだけではなかった。
この弟も、気がなさそうにしながら時折気遣うような様子を見せる。
丸くなったのだと、そう思えばよかったようにも思えるのだが、 昴治には、自分という存在が祐希を縛る枷になっている気がして、 素直に喜ぶ気にはなれなかった。
「顔色悪いぜ、あんた。」
「少し…疲れてるだけだよ。」
「どうせいたって役に立たねぇんだ、とっとと戻って寝りゃいいんだよ。」
「そう…だな。」
目を閉じて頭から熱いシャワーを浴びる。
心は痛むけれど、不器用な気遣いは静かな暖かさで昴治の心を満たしていった。
ふらりと体が傾いて、昴治ははっと意識を戻した。
どうやらシャワーを浴びながら眠りかけたらしい。
「立ったまま寝てんじゃねえよ。」
隣の祐希が呆れた様子で目を眇めた。
「そうだな…もう行くか。」
答えて、昴治はあくびを噛み殺しながらシャワーを止め、体を拭いてブースを出た。
「じゃあ、また明日な。」
さりげなく掛けられた昴治の声を、祐希は振り返らずに聞いていた。
「んー…、ねむ…。」
目を擦りつつロッカーを開けた昴治は、とたんそれに気付いて目をぱちくりさせた。
置いておいたはずの服が、ない。
首を傾げつつ、ロッカーを間違えただろうかと隣その隣と開けてみるが、 やはり何も入ってはいない。
結局祐希の使っている以外のロッカーを全て開けてみたが、 結局昴治の服はどこにもなかった。
思わぬ事態に眠気もすっかり覚めてしまう。
「なんだよ、これ…。」
すっかり困りはてて、その場に立ち尽くしていると、 ようやくシャワールームから出て来た祐希が、 ロッカーを開けてさっさと着替えを始めた。
祐希のはあって、なんで俺のだけ…。
盗まれたのだろうということは、いくら昴治でも想像がつく。
けど。
(なんで服なんて持ってくんだよ…)
深い溜息をつき、しゃがみこんで膝に顔をうずめた。
そうだ。服がないということは、IDカードもないということだ。
部屋に入ることも、誰かに連絡をすることもできない。
「なにしてんだよ、あんた。」
途方にくれていると、頭上から弟の声が降って来て昴治は顔を上げた。
「いつまでも裸でウロウロしてんじゃねーよ!」
「そんなこと言ったって…。」
語気の弱い昴治に祐希が目を眇める。
恨めしそうにそれを見上げる昴治につられるようにしてロッカーを開け、 祐希も昴治の困っている理由に気付いたようだった。
「盗まれたのかよ。」
「多分…。」
「IDは?」
「…ない。」
ボソリと昴治が言うと、祐希の表情が一瞬険しくなった。
が、それもすぐ消えて、結局祐希は肩を大きく揺らして溜息をついたのだった。
俺のせいじゃないだろうと文句の一つも言いかけた昴治だったが、 弟を見上げふと思いついて言葉を変えた。
「なあ。お前のIDからイクミに連絡してよ。服とか持ってきてもらうからさ。」
名案だと表情の明るい昴治に、しかし祐希は少し考えるようにしたあと言った。
「嫌だ。」
「なんでだよ!それしか方法ないだろ!!」
思わずカッとなって叫ぶ。
この状況で他にどうしろと言うのだろう。
「お前が迷惑だって思うのはわかるけど……?」
答えない弟を睨みつけて叫ぶと、 唐突に祐希がずいと近寄ってきて昴治は言葉を止めた。
「?」
首を傾げ弟を見る。
祐希はおもむろに今着たばかりのシャツを脱いで、ふわりと昴治に着せ掛けた。
「…祐希?」
「とりあえず、着てろ。」
「あ…うん…。」
タオル一枚巻いただけの格好で長いこといたせいで体が冷えてしまったらしく、 昴治は小さく体を震わせた。
言われるままに袖を通し、ボタンを留める。
祐希がいつも着ている赤いシャツ。
祐希には丁度よいそれも昴治には少し大きくて。
少し悔しいと思うけれど、 それよりもなんだか包まれているようなその感じがくすぐったくて 昴治はかすかに頬を染めた。
「ありがとう。じゃ、とりあえず部屋に戻ってみるよ。」
取り繕うように笑いかける昴治を、祐希は一瞬唖然とした表情でみつめたあと、
「バカだろ、あんた。」
と、また大きな溜息をついた。
「な…!」
「そんなカッコでその辺うろついたりしたらどうなるか、わかんねぇのかよ。」
「ど…どうって…。」
そんなことを言われても、自覚の無い昴治にはその意味などまるでわからなかった。
わかったのはただ一つ、祐希が苛立っていることだけ。
「でも…そう言っても方法が…。」
怒鳴られるかもしれないと、ほんの少し覚悟して言えば、案の定。
「だからっ…俺が連れてってやるって言ってる!!」
「…え?」
確かに怒鳴られはしたが、 思っていたものと全く異なる内容に昴治はきょとんと弟を見上げた。
ぱちくりと瞬きをすると、小さく舌打ちをして祐希がぐっと近づいてくる。
そのまま反射的に逃げ腰になる昴治を、祐希は勢いで抱き寄せて。
「けど、それには理由がいるな。」
耳元で囁いてから、何が起こったか理解できていない様子の昴治に深く口付けた。
「!!」
驚いて後ずさった昴治は、勢いをそのまま利用されて、 気付けば壁際に追いつめられている。
少し乱暴にベンチに押し倒され、 上から押さえつけられると、もう身動きも取れなくなって。
やみくもに暴れてみても、それはただ口付けが深くなるのにしか役に立たなかった。
息苦しさと混乱と恐怖と… 言いようのない感情がない交ぜになって、知らず瞳に涙が浮かぶ。
ようやく祐希が唇を離すと、 昴治は相当苦しかったのだろう、ごほごほと激しくむせ返った。
目にいっぱい溜まっていた涙が、ポロリとこぼれ落ちた。
「な…何すんだよっ…!!」
顔を真っ赤にして何のつもりだと問う兄に、祐希は涼しい顔で答えた。
「理由が要るだろ?」
「はぁ?」
「あんたがそんなカッコで帰る理由だよ。」
「な…!」
再び覆い被さる弟の言わんとするところを知って、 昴治は真っ赤になって逃げようと暴れだす。
しかしそんなことはとうにわかっていたと言わんばかり、 祐希は暴れる体を軽くあしらって細い首筋に噛み付くように口付けた。
「わっ…ちょっと、やめろって!!」
およそ色っぽいとはいえない昴治の叫びはさらりと無視して、 襟元から見えるか見えないか位のところに、赤い痕を一つつけた。
「痛っ…祐希っ…!!」
非難の声を上げながらも、昴治は体の芯に熱い物が燻り始めるのを感じていた。
これはまずいと、頭のどこかで警鐘が鳴り響く。
しかし、体を這いまわる手のひらと熱く濡れた唇に体は追い立てられて、 押しのけようとしていた両腕も、次第に力なくしがみつくそれに変わってゆく。
もうどうにでもなれと、残っていた理性や常識を手放そうとしたその時。
唐突に、祐希は昴治を追い立てる手を止めてその体を引き離した。
「祐…希……?」
上がりかけた息の間から名を呼ぶと、からかうような弟の視線とぶつかって。
瞬間この状況を認識した昴治は、一瞬で真っ赤になった。
「いいんだぜ、あんたがやる気なら…最後までやったって。」
再び下りてくる弟の体を、昴治は必死で両腕を突っ張って止めた。
ち、と舌打ちをしながら祐希が離れる。
「っ…祐希のバカっ!!俺、もう帰る………あれ?」
怒鳴って立ち上がろうとするが、足に力が入らなくて、 昴治はそのままぺたりと床に座り込んでしまった。
焦る昴治に、薄く笑みを浮かべた祐希がしゃがみ込み耳元で囁く。
「だから俺が連れてってやるって言ってるだろう?」
「っ!!」
したり顔の弟に、ムキになってじたばたと暴れてみるが、 そんなものはものともせず、祐希は兄の体をひょいと抱き上げた。
「祐希!!」
「あんま騒ぐと誰か起きてくるぜ。」
大声を上げる昴治を一言で黙らせて、祐希は悠々とシャワールームを後にした。
両手をポケットに突っ込んで歩きながら、祐希は笑いを堪えることが出来なかった。
兄を部屋に連れて行った時の、イクミのあの驚いた顔。
『こうじく〜ん』なんて、ものすごい笑顔で出迎えたイクミは、 ドアが開いた瞬間ビタリと動きを止めた。
湿った髪、赤く染まった頬、祐希の赤いシャツしか着てはいない上に、 首元にはちらりと赤い痕。
『い…イクミ…あ、あの…これは…その…っ…。』
まさにその後ですと言わんばかりの昴治の姿に、 イクミはガクリと床に崩れ落ちた。
そのまま、 言葉もなく滂沱の涙で床に池を作成中のイクミの横に昴治を置き去りにして、 祐希はそれに背を向け通路を歩き出す。
『ゆ…祐希!ちょっと待てって…!』
背を向けた祐希を必死で引き止める昴治に、ニヤリと笑い返す。
そのまま抱き寄せると、わざと見せつけるような角度で深くその唇に口付けた。
『!!』
真っ赤になって、呆然とする昴治にもう一度キスを落として。
『じゃあな。』
いつになく優しく囁いて、祐希は部屋を後にした…
本当は。
あの時こんな時間に兄と鉢合わせるなんて思っていなかったから、 すこし嬉しかった。
そして、祐希がいたことに気付いても、
迷いはしたけれど結局帰らずにいてくれたことがもっと嬉しかった。
自分がどれだけ兄に執着していたのか、嫌というほど思い知ってしまったから。
声に出して伝えたりは出来ないけれど、兄がそこにいるだけで
祐希にはじゅうぶん過ぎるくらいだった。
なのに。兄が服を盗まれたりするから。
優しくするチャンスだと、考えを巡らせていた横で『イクミに連絡して』なんて
無神経なことをいう兄に。
ついつい、イジワルなこともしたくなってしまう。
自分に意識を向けさせたかった昔の自分のように。
でも、昔とは違うから、イジワルは少しだけ。
昔と違う方法で。
口付けては赤くなり、押さえつければ本気でじたばたもがく兄。
祐希はその時から笑いを堪えるのに大変だった。
力の入らない腕で暴れたってたいした抵抗ではなかったのだが、
本気で怒らせるつもりではなかったので、祐希は黙って体を離したのだ。
本当を言えば抱きたいという気持ちもあるけれど
それよりいちいち返す昴治の反応が面白くて、イタズラも過ぎてしまうというもの。
でも、それだけ愛してるんだからいいだろう?と、一人勝手に納得をして。
今ごろなんといって言い訳をしているのかとか、
さしあたって服を盗んでいった奴をどう懲らしめるかとか、
明日の朝どんな顔で話し掛けてくるのだろうかとか、いろいろたくさん思い描いて。
温かくなる心がくすぐったくて、そしてまた満たされて。
祐希は小さくつぶやいた。
「また、明日…な。」
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