「どうしたんですか?」
降ってきた声に、ジェイドは顔を上げた。
雨上がり。
日のあたるテラスに反射する光に少し目を細める。
見れば小さなテーブル越し、白いティーポットを手に首をかしげる同僚の姿があった。
おかわりを勧めるように差し出されたポットを見るでもなく見ていると、彼はますます訝しげな表情になる。
「あの…何か?」
「いや、別に。」
本当になんでもないような風に答えて、カップに少し残った紅茶を飲み干した。
そのまま無言でカップを差し出すと、彼は腑に落ちないような顔をしたまま、赤い紅茶と小さなため息をそこへ静かに注いだ。
自分のカップにもお茶を注いで、華奢な装飾の椅子に座り直す彼を見ながらため息味のお茶を啜る。
「…渋いな。」
ポツリと漏らすと、彼は不満そうに唇を尖らせた。
「ちょうどいいところで呼んだんですけどね。あなたが返事をしないでいるうちに出過ぎてしまったんですよ。」
文句を言いながら、湯気の立つ紅茶にミルクを足す。
濃過ぎる紅茶にはミルク。それはごくたまにしか見られないが、彼の持論だった。
真似をして少しミルクを注いでみる。
真っ白なそれは紅茶と混ざり合って、どことなく面影を残しながらまったく違う色へと変わってしまった。
何か諦めたような気持ちになりながらその様子を眺めていると、向かいに座った同僚が「へぇ」と意外そうな声をあげた。
「珍しいですね、あなたが紅茶に何か足すなんて。」
顔を上げて、彼をみやる。
「それもミルク。あ、もしかして、私の影響ですか?」
「冗談じゃないね。」
したり顔の彼に鼻を鳴らしても、なぜか楽しそうに笑うばかりで少しも堪えた様子はない。
「酷いですねぇ。ちょっとくらいそう思ってみたっていいじゃないですか。」
「俺がお前になんか影響受けると思ってるのか?」
気に入らなくて、おどけてみせる彼に意地悪な言葉を投げつけてみる。
瞬間、ふっと冷たい笑みが浮かんで、ジェイドはすぐさま後悔を覚えた。
「そんなの…わかってますから言わないでくださいよ。」
底光りする瞳。
望まれたいともがいても、ただなにもできずにいた自分と。
それでも一心にこの背中についてきた、奈落に落ちてからの年月を。
「忘れてなんて、いませんから。」
白い指を組んで、閉ざされた瞳は何を映しているのだろう。
言葉なくただ二人、きし、と空気のきしむ音を聞いている。
優しすぎる時間を過ごしているうちに忘れかけていた、あの心細い痛みが胸を覆いだして。
息苦しさに思わず席を立つと、ジェイドはふと遠方から駈けてくる人影に気づいた。
その人影は、ジェイドがそちらを見ていることに気づくと、大きく手を振り声を張り上げる。
「ジェイドー!サフィー!」
「兄上!そんなに走らなくても誰も逃げたりはしないぞ。」
あきれたように言いながら、もう一人ゆっくりと走ってくる銀色の影。
「お帰りですよ、サフィルス殿。」
参謀の顔に戻ったジェイドが振り返ると、彼も立ち上がり大きく手を振り返す。
「ただいまー、サフィ!」
「アレク様、お帰りなさい!」
声を張り上げことさらに足を速めて駈けてくる金色の少年に、親の顔で答える。
「プラチナ様は無理して走ってはいけませんよ!」
「うるさい、わかっている!」
そしてまた懸命に走ってくる少年たちに降り注ぐやわらかな光を、ともに感じる。
それはきしむ痛みを拭い去り、いつもの温かさで心を満たしてゆく。
「お二人の分も、準備しないといけませんね。」
慣れた手つきでお茶の準備を始める彼を横目に、ジェイドはまだ少しぬかるんだ道に続く二人分の足跡を眺めていた。
自分たちは、こんな風には足跡を残してこなかったというのに。
その足跡と、風が運ぶ土の匂いと、それらにつながる世界のすべてを、心からいとしく思う。
そんな日が。
「こんな日が来るなんて、思っても見ませんでしたよねぇ。」
ふと、呟かれたその言葉に振り返ってみる。
準備の手を止めて、まぶしそうに目を細める彼は。
「本当に不思議ですよ。あんなに嫌だと思っていたこの場所をこんなにも好きだと思えるなんて。
…心に余裕ができたからですかね。物を見るということが、最近少しずつわかってきたような気もします。」
だからね、思うんですとまっすぐに見つめるその瞳は。
「私って、結構あなたのこと好きなんだと思うんですよ。」
「…はっきりしないんだな。」
「だから『気がする』、って言ったじゃないですか。まだ全部わかったわけじゃないですから。」
そんな憎まれ口もたたきながら、それでもその瞳が湛える空の色は腹が立つほど穏やかで。
ああ、そうだ。この色だと、ジェイドは懐かしい感覚を胸のうちに蘇らせていた。
変わったものと、変わらないものと、変えられないものと、変わらざるを得ないもの。
(なんだ…。ここにあるじゃないか。)
煎れたての紅茶の匂いが鼻をくすぐる。
きっとそのせいだ。こんな風に胸の奥に温かい痛みがよぎるのは。
「…どうしたんです?」
普段ならとっくに二言三言憎たらしい言葉も返ってきているだろうに、今はただぼんやりと宙に目をやるジェイドを彼は不信そうに見上げた。
「なんでもない。」
ひょいと肩をすくめて、また景色に目を向ける。
廊下からは、近づく慌しい足音。
「ただいま!」
息せき切ってテラスに駆け込んできた少年を、彼はしっかりと抱きとめた。
「お帰りなさい。どこか怪我しませんでしたか?」
「うん。平気。これ、お土産だよ。」
差し出された手の中には、一輪の野の花。
やわらかな笑みで、彼はそれをそっと受け取る。
「ありがとうございます。…綺麗ですね。」
浮かぶのは泣きたいくらいに幸せな笑み。
そして自分は、白い花を見つめる瞳の揺らめきを胸に留める。
どこまで堕ちても、どれだけ穢れを憶えても、失われずにあったその光を思うその胸に。